多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    カテゴリ: 東ヨーロッパ

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    ロシア語 に参加中!

    ロシア語の辞書の見出しになっている動詞の形は、多くが、-ть という語尾を持っている。
    この他にも、わずかながら、- ти、чь という持つものもある。 このように、-ть を語尾に
    持っている動詞の形を不定形と呼ぶ。 不定形とは、時(現在、過去、未来)や人称や数
    (単数、複数)が定まっていない形である。 ロシア語の動詞は、時、人称、数、などに
    よって、以下の通り、それぞれ違った形を取る。



    【動詞の現在変化】

    ロシア語の動詞の現在変化は、数と人称による変化である。 同士の現在変化は、大別
    すると、第一式(e 変化)変化と第二式(и 変化)変化とに大別する事が出来る。 第一式の
    代表として、читать(読む)、第二式の代表として、говорить(話す)を例に取ると、その
    変化は、以下の通りとなる。

    【 читать 】

    я чита-ю
    ты чита-ешь
    он чита-ет
    мы чита-ем
    вы чита-ете
    они чита-ют

    【 говорить 】


    я говор-ю
    ты говор-ишь
    он говор-ит
    мы говор-им
    вы говор-ите
    они говор-ят

    第一式変化の特徴としては、 ты から вы までの語尾が、母音 e を共通にしている事と、
    я とони の語尾の母音が同じになる事。

    第二式変化の特徴としては、 ты から вы までの語尾が、母音 и を共通にしている事と、
    я とони の語尾が異なる事。

    上記の чита-говор-の部分までを、現在語幹と呼ぶ。 現在語幹とは、現在変化の中で
    変化しない部分であり、第一式では不定形から тьを、第二式ではтьとその前の母音を
    除いたものである。

    ロシア語には、上記以外の動詞全てに人称変化があるため、時間を掛けて、全て
    覚えるしか手立てはない。

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    日々の出来事 4 に参加中!

    ブルガール人は、かつて現在のロシアからウクライナに掛けて定住していた
    テュルク系遊牧民で、元々は、モンゴロイド系人種であった。 その後、広い
    地域に分散していた一派が、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に
    侵入し、ブルガリア帝国を建国。 キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住民
    である南スラヴ人に同化されて、現在のブルガリア人の先祖となった。 そのため
    プロト・ブルガリア人とも呼ばれる。

    mq1

    ブルガール人の先祖は、2世紀頃にウラル山脈以西、および、中央アジア西部から
    ヨーロッパ大陸の東部に姿を表し、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で
    遊牧生活をおくるようになった。 一部はこの地域でフン人の西進に加わり、
    東ヨーロッパに移動した。 フン人の西進後、ブルガール人の一派は5世紀頃から、
    アヴァール人の一派と共に度々東ローマ帝国支配下の東ヨーロッパ方面に侵入する
    ようになった。
     
    6世紀の中頃、ブルガール人は、アゾフ海の北岸からヴォルガ川下流域の草原
    地帯において部族連合国家「大ブルガリア」を形成した。 しかし、ブルガール
    部族連合は分裂し、北方にはヴォルガ・ブルガール、西方にはドナウ・ブルガールが
    移住して行った。 原住地に残ったブルガール人たちは、アゾフ海沿岸を支配する
    部族連合国家を維持し、ヴォルガ・ブルガールやドナウ・ブルガールとの対比から、
    大ブルガリアと呼ばれた。 大ブルガリアの本拠地は、現在のアゾフ・ロストフの
    北方の草原にあった。
     
    bulgar-emap

    大ブルガリアは、7世紀頃、モンゴルの支配を脱して西進を開始したカフカス北麓の
    チュルク系遊牧民集団ハザールによって駆逐され、多くの部族民は、ハザール可
    汗国に加わり、次第にハザール人と同化して行ったが、10世紀のハザールの滅亡と
    共に、ほとんど解体した。 一部の部族集団は、ヴォルガ川を遡ってカマ川との合流
    地点に近いヴォルガ川屈曲部(現在のタタルスタン共和国周辺)に定住、農業と
    交易に従事するヴォルガ・ブルガールとなった。

    彼らは、ハザール可汗国の支配下に入るが、のちにアッバース朝と通行を結んで
    イスラム教を受容、ハザールの衰退と共に独立して王国を形成したが、13世紀に
    モンゴル帝国に征服されて滅亡した。 ヴォルガ・ブルガールの人々はジョチ・
    ウルス(キプチャク・ハン国)の領民となり、現在ヴォルガ屈曲部に住む
    テュルク系民族のヴォルガ・タタール人やチュヴァシ人はその後裔であるとされる。
    特にチュヴァシ人の話すチュヴァシ語は、チュルク諸語の中でもブルガール人の
    話していた言語の特徴を保持しているという。
     
    Bulgaria_800ad

    一部の部族集団は、黒海北岸を経てバルカン半島に進入、ドナウ川の下流域に
    定住した。 この集団をドナウ・ブルガールと言う。 彼らは南隣する東ローマ
    帝国と戦い現地のスラヴ人を支配する国家を形成し、680年に第一次ブルガリア
    帝国(ブルガール・ハン国)を建国した。 ブルガール・ハン国のブルガール
    人達は、9世紀頃にキリスト教を受け入れ、次第にコーカソイドに属する
    スラヴ人と同化し、今日のブルガリア人を形成して行った。

    Bulgar_warrior

    【ブルガール語】
    ブルガール人が使用していたとされるブルガール語は、バルカン半島、ヴォルガ川
    中流域、北カフカスなどで話されていたと考えられる言語。 テュルク諸語の中での
    位置付けは不明確であるが、チュヴァシ語と近縁と見られている。 ブルガール語の
    話者は、ヴォルガ・ブルガール、ドナウ・ブルガールを構成する民族集団に含まれて
    いたと考えられている。 現代のチュヴァシ語は、他のテュルク諸語とブルガール語
    との間で見られる音韻上の対立が規則的に現れる事から、現在存在する言語の
    中では、ブルガール語に近縁の唯一の言語であるとみなされている。 尚、現在の
    ヴォルガ・タタール語は、ブルガール語の要素を一部含むものの、キプチャク系
    テュルク言語とブルガール語の混交言語と考えられている。

    【ドナウ・ブルガール語】
    9世紀には、ドナウ・ブルガール人のスラヴ化に伴い、バルカンでの話者は途絶
    したと見られている。 ドナウ・ブルガール語の碑文は、ブルガリア北部の
    プリスカや、ルーマニアのムルファトラルで発見されている。 これらの碑文は
    ギリシア文字や突厥文字(オルホン文字)の古チュルク文字にて書かれており、
    内容は祈祷文や讃辞の他、法廷目録である。
     
    ドナウ・ブルガール語の碑文は、ギリシア語で書かれた同一碑文と共に見つかる
    例があり、スラヴ化が進む前のブルガリア第一帝国の支配者が、ギリシア語を
    公用語として使用していた事が分かる。 尚、現在のブルガリア語は、被支配者で
    あった南スラブ人の言葉であり、支配者の言語が被支配者の言語に吸収されたと
    言う、世界的に見ても、かなり珍らしい言語となっているが、その被支配者で
    あった言語が、スラブ祖語である古代教会スラブ語の基となったのは、かなり
    興味深い。 

    【ヴォルガ・ブルガール語】
    ヴォルガ川中流域では、13世紀から14世紀ごろまで存続したとみられるが、
    モンゴルによるヴォルガ征服に伴い、住民のキプチャク化が進み死語となった。
    ヴォルガ川流域では、アラビア文字や古テュルク文字を使ったヴォルガ・
    ブルガール語の碑文が多数発見されている。

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    これは、日ソ学院、現在の東京ロシア語学院の入学時に提出されられた作文のテーマ。 
    かれこれ25年以上も前の話であるため、当時は当然、ロシアではなく、ソ連であった。
    実は私は、この日ソ学院の最後の卒業生。 日ソ学院3年在学時に、ソ連が崩壊したため、
    卒業と同時に、学院の名前が『東京ロシア語学院』へと変更となった。 よって、
    『日ソ学院』と言う名称の学校は、ソ連と共にこの世からは消え去った。
     


    日本で、ロシア語を学んでいると、『どうして、ロシア語を始めたのですか?』という
    質問を頻繁にされるが、私の場合は、元々、ソ連ではなく、崩壊した旧ユーゴスラビアに
    興味があったため、ロシア語を始めたのだが、それはかれこれ32年も前のお話し。
    その当時に、何か起きたのか、覚えている人は、もう少ないのかも知れないが、84年は、
    サラエボオリンピックと、ロサンザルスオリンピックが開催された年。 その当時は、
    『冷戦』の真っ只中で、政治的にも東西陣営に真っ向対立しており、それが、そのまま
    スポーツの世界にも反映されていた。 その年に旧ユーゴで開催された、サラエボ
    オリンピックは、つつがなく終了したものの、その直後に開催された、ロサンゼルス
    オリンピックでは、東陣営の国々が多数ボイコットした大会となった。

    1980年に開催されたモスクワオリンピックでは、その前年に起きたソ連軍のアフガニスタン
    侵攻に抗議」という理由により、アメリカが西側諸国にボイコットを呼びかけた結果、
    日本や西ドイツ、韓国など多数の西側諸国が参加しなかった。 その報復として、
    東側諸国は、ロサンゼルス大会をボイコットし、当時の不参加国は、ソ連、東ドイツ、
    ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、
    キューバ、エチオピア、アフガニスタン、アンゴラ、イランなどとなっている。 中国は
    中ソ対立以降、ソ連との関係が悪化してアメリカ側についたため、モスクワオリンピックは
    不参加、逆にロサンゼルスオリンピックには参加している。
     
    soviet

    冷戦、ベルリンの壁崩壊、チェルノブイリ原発事故、ソ連崩壊、北方領土ビザなし交流、
    ロシア通貨危機等々、全てリアルタイムで知っておりますが、最近の自称『ロシア通』達の
    劣化振りには残念を通り越して、ご愁傷様レベル。 単に興味があるのと、専門的な
    知識があるのとでは、全く別物であるため、常にアメリカのステレオタイプに惑わされない
    真実の目が必要。 ロシアを正確に見極めている人材は日本では相当稀であるため、
    ニセモノと本物の区別がありません。 これは、ロシア語に関しても同じ事が言えるため、
    やりたいのと、実際に出来る事は、全くの別物である事が良く分かります。

    尚、前述したサラエボオリンピックは私がロシア語を学び始める切っ掛けとなりましたが、
    その当時に、サラエボオリンピックでメインテーマソングを歌った、旧ユーゴの国民的歌手
    である、ヤドランカ・ストヤコヴィッチは、20年以上も日本に滞在をしていたため、友人と
    なりました。 強く望んでいれば、いつか願いは叶うと言う実例のようなお話。
     


    東西対立の時代、いわゆる、共産圏では、ロシア語とドイツ語が重宝されたのですが、
    時は流れて、今では東西問わずに英語が通じるようになりました。 一昔前までの
    ロシアでは、片言の英単語ですら一切通じなかったが、今では、観光地であれば、
    ある程度の英語が通じます。 特に、この10年間の経済成長は目を見張るものがあり、
    それに伴い、英語も格段に通じるようになりました。 ロシア語とドイツ語をを専門
    とした者としては、何とも寂しい限りですが、逆に、時代の波に取り残された日本の方が
    気になります。

    ロシア語を生業として、今年で丸25年、ロシア語を始めてからは、丸32年が経過し
    ましたが、これからも、ロシアからは目が離せない状況が続きそうです。

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    これは、日ソ学院、現在の東京ロシア語学院の入学時に提出されられた作文のテーマ。 
    かれこれ25年以上も前の話であるため、当時は当然、ロシアではなく、ソ連であった。
    実は私は、この日ソ学院の最後の卒業生。 日ソ学院3年在学時に、ソ連が崩壊したため、
    卒業と同時に、学院の名前が『東京ロシア語学院』へと変更となった。 よって、
    『日ソ学院』と言う名称の学校は、ソ連と共にこの世からは消え去った。
     


    日本で、ロシア語を学んでいると、『どうして、ロシア語を始めたのですか?』という
    質問を頻繁にされるが、私の場合は、元々、ソ連ではなく、崩壊した旧ユーゴスラビアに
    興味があったため、ロシア語を始めたのだが、それはかれこれ32年も前のお話し。
    その当時に、何か起きたのか、覚えている人は、もう少ないのかも知れないが、84年は、
    サラエボオリンピックと、ロサンザルスオリンピックが開催された年。 その当時は、
    『冷戦』の真っ只中で、政治的にも東西陣営に真っ向対立しており、それが、そのまま
    スポーツの世界にも反映されていた。 その年に旧ユーゴで開催された、サラエボ
    オリンピックは、つつがなく終了したものの、その直後に開催された、ロサンゼルス
    オリンピックでは、東陣営の国々が多数ボイコットした大会となった。

    1980年に開催されたモスクワオリンピックでは、その前年に起きたソ連軍のアフガニスタン
    侵攻に抗議」という理由により、アメリカが西側諸国にボイコットを呼びかけた結果、
    日本や西ドイツ、韓国など多数の西側諸国が参加しなかった。 その報復として、
    東側諸国は、ロサンゼルス大会をボイコットし、当時の不参加国は、ソ連、東ドイツ、
    ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、
    キューバ、エチオピア、アフガニスタン、アンゴラ、イランなどとなっている。 中国は
    中ソ対立以降、ソ連との関係が悪化してアメリカ側についたため、モスクワオリンピックは
    不参加、逆にロサンゼルスオリンピックには参加している。
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    冷戦、ベルリンの壁崩壊、チェルノブイリ原発事故、ソ連崩壊、北方領土ビザなし交流、
    ロシア通貨危機等々、全てリアルタイムで知っておりますが、最近の自称『ロシア通』達の
    劣化振りには残念を通り越して、ご愁傷様レベル。 単に興味があるのと、専門的な
    知識があるのとでは、全く別物であるため、常にアメリカのステレオタイプに惑わされない
    真実の目が必要。 ロシアを正確に見極めている人材は日本では相当稀であるため、
    ニセモノと本物の区別がありません。 これは、ロシア語に関しても同じ事が言えるため、
    やりたいのと、実際に出来る事は、全くの別物である事が良く分かります。

    尚、前述したサラエボオリンピックは私がロシア語を学び始める切っ掛けとなりましたが、
    その当時に、サラエボオリンピックでメインテーマソングを歌った、旧ユーゴの国民的歌手
    である、ヤドランカ・ストヤコヴィッチは、20年以上も日本に滞在をしていたため、友人と
    なりました。 強く望んでいれば、いつか願いは叶うと言う実例のようなお話。
     


    東西対立の時代、いわゆる、共産圏では、ロシア語とドイツ語が重宝されたのですが、
    時は流れて、今では東西問わずに英語が通じるようになりました。 一昔前までのロシアでは、
    片言の英単語ですら一切通じなかったが、今では、観光地であれば、ある程度の英語が
    通じます。 特に、この10年間の経済成長は目を見張るものがあり、それに伴い、英語も
    格段に通じるようになりました。 ロシア語とドイツ語をを専門とした者としては、
    何とも寂しい限りですが、逆に、時代の波に取り残された日本の方が気になります。

    ロシア語を生業として、今年で丸25年、ロシア語を始めてからは、丸32年が経過しましたが、
    これからも、ロシアからは目が離せない状況が続きそうです。

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    ロシア帝国支配以前のクリミア半島は、『モンゴル・タタールのくびき』と呼ばれる約300年
    にも及ぶタタール人が支配する国、クリミア・ハン国があり、多数のイスラム教徒と少数の
    ギリシャ正教徒、アルメニア正教徒、ユダヤ教徒が混住していた。 タタール人は、元々は、
    モンゴル人で、1223年、チンギス・ハンの時代から始まったルーシ侵攻により、1240年
    には、ルーシ諸国の首都であったキエフ大公国は、名実ともに滅亡した。 その後南進を
    続けたモンゴル軍は、混血を繰り返して、タタール人となり、クリミア半島に留まり、その後
    約300年間に渡ってルーシを支配し続けた。

    20140302105301

    この際、南方のルーシ諸国は、モンゴル軍によって、徹底的に破壊されたため、その
    状態から立ち直る事が出来なかったが、逆に、北方のモスクワ大公国が力を付けて、
    『モンゴル・タタールのくびき』からいち早く抜け出した。 その後、モスクワ大公国は、
    ルーシの正当な末裔である現在のウクライナの地を併合すると、『ルーシ国』と言う
    意味のロシアを名乗り、それまで長きに渡って支配者であったタタール人を逆に血祭りに
    あげた。

    ロシア帝国は、クリミア・ハン国を18世紀末に併合して以来、国策としてスラヴ人
    (ロシア人とウクライナ人)キリスト教徒のクリミア移住を進めて来た。 この政策の結果、
    クリミアはロシア帝国の末期には、既にウクライナ周辺の中でも、特にロシア人の占める
    割合が多い地域となった。

    1921年、ソビエト連邦は、クリミア自治ソビエト社会主義共和国を置いたが、既に人口的に
    少数派になっていたクリミア・タタール人には十分な自治権は与えられず、第二次世界
    大戦中には、クリミア・タタール人追放が行われ、自治共和国は廃止された。 自治
    共和国の廃止により、クリミアは、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のクリミア州と
    なったが、1954年、フルシチョフによって、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと移管
    された。 この移管は、ソ連の解体が想定されていなかったため当時は問題とはなら
    なかったが、40年後のソ連崩壊により、クリミアのロシア人達は再びロシアへの帰属を
    求めるようになった。

    2013年から2014年に掛けて、ウクライナ経済の低迷を切っ掛けに、ウクライナ国内で
    親露派と親欧米派の対立が激化し、2014年2月24日、ヴィクトル・ヤヌコヴィチ政権が
    崩壊し、暫定政権が発足するが、クリミア自治共和国では、暫定政権への移行に反対
    する親ロシア派のデモが拡大し、反ロシア派住民との間に衝突が発生した。

    3月11日に自治共和国議会とセヴァストポリ市議会は、クリミア独立宣言を採択した上で、
    3月16日には、ウクライナ内の自治共和国に留まって自治権を拡大するか、ロシアに編入
    されるかを決める住民投票を実施した。 その結果、ロシアへの編入が賛成多数となり、
    翌17日にはクリミア共和国としてセヴァストポリと共に独立し、主権国家として、ロシア
    連邦と権限分割条約を結び、ロシアの連邦構成主体として編入される事を求める
    決議を採択した。

    ロシアの・プーチン大統領は同日中にクリミアの主権を承認する大統領令に署名し、
    翌3月18日、クリミアのアクショーノフ首相と編入に関する条約に調印した。 プーチン
    大統領、および『クリミア共和国』は条約署名をもってクリミア共和国、および、セヴァス
    トポリ市はロシアに編入され、ロシア連邦の構成主体になったとの見解を示しており、
    一方でクリミアの独立とロシアへの編入を認めないウクライナとの間で論争が続いて
    いる状態となっている。

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    クリミアがロシアへの返還を果たして、早1年。 クリミアは、ロシアが
    一方的に編入したものではなく、正当な住民投票により、圧倒的多数で、
    ウクライナから独立の後、住民の意思に従い、ロシアが編入したもの。

    ウクライナ支配時代のクリミアでのウクライナ人達の乱暴狼藉には一切目も
    向けずに、ロシアや鳩山氏を批判するのは、単なる知識不足であり、
    しっかりとクリミアの歴史を理解していれば、この地が元々ロシアの領土で
    あったと理解出来る筈。 第二次世界大戦の戦後処理を話し合うために
    このクリミアのヤルタで、スターリン、ルーズベルト、チャーチルの
    3者が揃って『ヤルタ会談』を開いたが、当時のクリミアの帰属はロシア。

    krimia

    ロシアがクリミアを一方的に編入したとするのであれば、ソ連時代、
    ウクライナ人のフルシチョフが、何の前触れもなく、一方的にクリミアを
    ウクライナへ編入した事実も正しく伝えるべき。 尚、クリミアの譲渡は、
    当時は、ロシアとウクライナとの『友好の証』とされたが、キエフ政府の
    クリミア支配がどのようなものだったのかも、しっかりと知るべき。
    ロシアへの編入後、クリミアでのウクライナへの返還運動等は起きておらず。



    クリミアは、ロシア系住民の割合が6割以上を占めており、このため前々から
    ウクライナからの独立を目指した運動がありましたが、それを快く思わない
    ウクライナ政府からは、常に冷遇をされて来ました。 それに業を煮やして
    住民が反発をしたのが、今回のクリミア問題です。 韓国は、今回の
    ロシアへの経済制裁を断っているため、日本の選択肢としては、一番最初に
    経済制裁を解除する事が重要。 50数年ぶりにロシアへと帰還を
    果たしたクリミア人の選択を祝福してあげましょう。

    鳩山由紀夫元首相は、宇宙人か馬鹿か天才か

    【お勧めの一冊】


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    相変わらず、ウクライナのテレビ放送は、ロシア語とウクライナ語を
    ちゃんぽんで喋っておりますが、これを変だと感じないウクライナ人の
    感覚には付いていけませぬ。 独立から20年以上を経過しても、
    ウクライナ語は余り浸透しておりませんが、ウクライナ政府は、ロシア語
    話者の権利を守るべきで、ロシア語を外国語扱いするのは、間違っています。

    アニ・ロラクもインタビュアーも全てロシア語だけで話していますが、実際の
    ところ、余りウクライナ語が得意ではないのだと思います。 去年は、
    クリミアでの公演をキャンセルしたアニ・ロラクですが、実際は、かなり辛い
    選択を迫られた模様。 そのまま舞台に立てば、過激派に殺される可能性も
    十分ありましたが、それでも、舞台に立ち続けたのは、平和のため。 ロシアも
    ウクライナもベラルーシも関係ないと言い切っておりますが、全くその通りだと
    思います。

    実際、このスラブ国は、切っても切れない血縁関係で結ばれており、全て隣国の
    せいにして相手を憎んでみたところで、離れられません。 今回の内戦も、
    新興財閥オリガルヒから見れば、体のいい金儲けの手段だったのだと思います。
    国単位だけでものを見るのは、他の文化を認めないモノカルチャー世界の宿命で、
    ウクライナ、ロシア、ポーランド、ルーマニア、ハンガリーと多民族共生だった
    筈のウクライナが崩壊し掛けた原因は、正にここにあると思います。



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    【AはBである型の文】

    英語を中学校で初めて習う際に、定番となっている初めての文型は
    「これはペンです」だが、ロシアで外国人向けのロシア語講座を始める際に、
    定番となっていた文型がある。 それは、「モスクワはソ連の首都です」だが、
    それをロシア語で言うと、以下の通りとなる。

    Москва - столица СССР

    ロシア語にも英語のbe動詞に相当する動詞があるが、論文等の形式ばった場合を
    除いて、省略するのが原則となっているため、ここでは使用しない。 更に、
    ロシア語には、冠詞がないため、「私は大学生です」という文は、次のようになる。

    Я студент または、Я студентка
    ※студентは、男子学生、студенткаは、女子大生



    文の最初の文字を大文字で書き、文の最後に終止符を打つ事は、英語と同じ。
    このような文章を平常文と呼ぶ。

    【指示代名詞】

    これは、あれは、それは、というように、代名詞を主語にする場合には、этоを
    使用する。

    Это книга. これは本です。
    Это тетредь. これはノートです。
    Это карандаш. これは、鉛筆です。

    主語と述語がともに名詞の場合には、片方が主語、片方が述語である事をハッキリと
    させるために、通常、2つの単語の間に横線を入れる。

    Киев - город. キエフは都市です。
    Молчание - солото. 沈黙は金なり。
    Отец - профессор. 父は大学教授です。

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    Ее музыкальная карьера началась с этого альбома в 1991 году в Саппоро
    на Хоккайдо. После окончания Новосибирской музыкальной школы, Ольга
    приняла участие в программе проживания в японской семье и она оставалась
    в Саппоро в течение 3 месяцев.

    IMG_8867

    В то время был открыт Снежный фестиваль в Саппоро, и она пела несколько
    песен на сцене, и там она случайно получила возможность выпустить
    ограниченный мини-альбом только в Саппоро.

    IMG_8869

    Ее красивый голос очень понравился токийскому музыкальному продюсеру,
    так что она решила переехать в Токио в 1994 году и она дебютировала и в Токио.



    音楽の贈り物
    青い瞳
    秘められた言葉
    南の夜
    Porokh

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    ロシア語の命とも言うべき、イントネーションには、全部で5つの形があります。 この
    イントネーションを上手く発音しないと、ロシア語に聞こえませんので、初期の段階で、
    このイントネーションを全てマスターする事をお勧めします。 後から、このイントネーション
    だけを直そうと思っても、後の祭りで、実は、全くイントネーションを学んでいないという
    日本人学習者が多いのが実情です。 日本語のイントネーションは、高低アクセントで
    あるため、無意味な場所でイントネーションだけを上げたり下げたりすると、ロシア語では
    通じなくなりますので、注意が必要です。



    このイントネーションの形は、図だけで説明をするのにも限界があり、あくまでも、音で
    あるため、理解し辛く、今回のイントネーションの説明は、代表的なものの紹介だけで、
    簡単に済ませておきますので、実際のロシア語の音を聞いて、自分で耳慣らしをして
    おいて下さい。

    イントネーションの形 その①
    平常文のイントネーション。 文の完結、意味の完結を表し、このため、語尾が下がる。

    イントネーションの形 その②
    疑問詞のある疑問文のイントネーション。 疑問詞の部分が上がり、語尾は下がる。

    イントネーションの形 その③
    疑問詞のない疑問文のイントネーション。 質問してい語のアクセントの部分が上がる。

    イントネーションの形 その④
    「では~は?」という質問の際に用いるイントネーション。 低く始まり、文末で声が高まる。

    イントネーションの形 その⑤
    感嘆文のイントネーション。 文中の感嘆すべき語のアクセントのある母音が高く、長めに
    発音され、その後、高めの恩寵が続き、文の最後の単語で音調が低くなる。

    尚、ロシア語のイントネーションは、英語とは異なり、疑問文だからと言って、語尾が上がる
    訳ではありません。 聞きたい内容のイントネーションがある部分から上がるのが特徴で、
    肯定文と疑問文で語順が同じであるため、この違いは、イントネーションだけで判断する
    事になります。 また、同じ文章でも、聞きたい内容次第では、複数の日本語対訳が考え
    られますので、注意が必要です。

    例: Вы говорите по-русски?

    通常、この文章は、『あなたは、ロシア語を話せますか?』と訳しますが、その
    イントネーションを変える事により、更に、2つの訳し分けが必要です。  尚、先に挙げた
    内容を聞きたい場合は、2番目の『говорите』が上がり、語尾が下がります。 よって、
    あくまでも、話せるかどうかが問題となります。

    次に、『Вы』を上げた場合の意味は、『あなたがロシア語を話す人ですか?』 となり、誰が
    話せるのかが問題となります。

    『по-русски?』を上げた場合は、『あなたが喋るのは、ロシア語ですか?』となり、何語かが
    問題となります。

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    ロシア語のアルファベットは、『キリル文字』と呼ばれ、全部で33文字あります。
    そのうち、母音は、10個あり、硬母音が5つ、軟母音が5つとなっている。

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    【硬母音】
    Аа(アー)
    ы(ウィー) イの口構えのまま、下を後ろに引いて音を出す
    Уу(ウー) 唇をすぼめ、下を後ろに引いて、口の奥の方で音を出す
    Ээ(エー) 
    Oо(オー) 唇を丸め、口の奥の方で音を出す
    ※ыは、文頭には来ないため、大文字がない

    【軟母音】
    Яя(ヤー) = й+я
    Ии(イー)
    Юю(ユー) = й+у
    Ее(ィエー) = й+э
    Ёё(ィオー) = й+о



    【唇音】 Пп(ペー) Бб(ベー) Фф(エフ) Вв(ヴェー) Мм(エム)
    【歯音】 Сс(エス) Зз(ゼー)  Тт(テー) Дд(デー) Ии(イー) Лл(エル) Цц(ツェー)
    【上顎音】 Шш(シャー) Жж(ジェー) Щщ(シシャー) Чч(チェー) 
    【後舌音】 Кк(カー) Гг(ゲー) Хх(ハー)
    【その他】 Рр(エル) Йй(イ・クラトコエ)



    Пп パ行の最初の音。 無声音(声帯を振動させない)。
    Бб バ行の最初の音。 п の有声音(声帯を振動させる)。
    Фф ファ行の最初の音。 上の歯を下唇の内側に軽く当てて発音する。 無声音。
    Вв ヴァ行の最初の音。 фと同じ口構えの有声音。
    Мм マ行の最初の音。 唇を閉じ、息が鼻から抜けるようにする。 有声音。
    Сс サ業の最初の音。 舌の先を下の歯茎に押し付けるようにして発音する。 無声音。
    Зз ザ行の最初の音に近いが、舌の先を上の歯に付けない。 с と同じ口構えの有声音。
    Тт タ行の最初の音。 舌の前の部分を上の歯の裏側にしっかりと押し付けた後に離す。
       舌先は、英語とは異なり、下方を向いている。
    Дд ダ行の最初の音。 тと同じ口構えの有声音。
    Нн ナ行の最初の音。 舌の前部を上の歯の裏側に押し付け、息が鼻から抜けるようにする。
       舌先は、下方を向いている。 有声音。
    Лл 英語のL音。 舌先を上の歯の裏側にあて、舌の両側に息を通す。 有声音。
    Цц 強いツ音。 上述したт+сの音。
    Шш 舌の先を上に向け、下の中央部は下がるが、後部は高くし、息を強く出す。 無声音。
    Жж шの有声音。
    Кк カ行の最初の音。 口の奥で発音する。 無声音。
    Гг ガ行の最初の音。 кの有声音(ングのように鼻に掛かってはならない)。
    Хх カケコを発音するつもりで、ハヘホのような音を出す。 無声音。
    Рр ラ行の音に似ているが、舌の先を上に上げた巻き舌音。 有声音。

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    ユーゴスラビアは、南東ヨーロッパのバルカン半島地域にかつて存在した、
    南スラブ人を主体とした国家。 かつては、東欧で最も進んだ開放路線を
    歩んでいた筈のユーゴスラビアは、かつての支配国である、オーストリアと
    トルコの2大帝国の置き土産とも言うべき、宗教、並びに、民族間の対立へと
    発展し、その後、各民族間で、血で血を洗う泥沼の内戦へと突入。 進み
    過ぎていたがために、他の東欧諸国とは一切歩調を合わせる事無く、連邦は
    あえなく崩壊した。 『ユーゴスラビア』の国名の由来は、南スラヴ人の
    独立と統一を求めるユーゴスラヴ運動に由来しており、『南スラブ国』
    という意味。



    かつて、ユーゴスラビア連邦をひとつにまとめるためのスローガンが実は
    存在していたが、それは、『7つの国境』『6つの共和国』『5つの民族』
    『4つの言葉』『3つの宗教』『2つの文字』『1つの国家』というものであった。
    現在は、その6つの構成共和国が全て独立し、スロベニア、クロアチア、
    ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアとなって
    おり、それぞれが独立国家となっている。 また、セルビアの自治州で
    あったコソボは、2008年に独立を宣言したものの、コソボを承認している
    国は少数に留まっており、セルビアをはじめとするコソボの独立を承認して
    いない国々からは、依然、コソボはセルビアの自治州とされている。

    5つの民族の定義も現在では曖昧で、まず、イスラム教徒のムスリム人を
    別民族とし、かつ、アルバニア系のコソボ人、ハンガリー系のボイボディナ人が
    セルビア内に混在しているため、かつての連邦内での民族の数の定義は、
    あくまでも、プロパガンダ用に過ぎなかった。

    4つの言葉も、言語学的に、セルビア語とクロアチア語は、同一言語とされ
    ていた共産党時代とは打って変わって、以前までは、同一言語であった、
    セルボ・クロアチア語は、政治的、民族的な対立によって、現在では、
    セルビア語、クロアチア語、ボスニア語がそれぞれ別言語として独立しており、
    更に、セルビア内には、アルバニア語話者、並びに、ハンガリー語話者も
    多いため、こちらもかなり懐疑的。 

    yugoslavi

    3つの宗教に関しては、現在でも、正教、カトリック、イスラム教で変わらず。
    2つの文字に関しては、以前までは、セルビア、並びに、ボスニアでは、
    ロシア語と同じキリル文字が主に使用されていたものの、2000年以降は、
    順次ローマ字への移行が進められて、現在では、セルビアやボスニアでも、
    キリル文字ではなく、ローマ字が主に使われるようになったため、2つの
    文字の定義も完全に崩壊した。

    国名として『ユーゴスラビア』を名乗っていたのは、1929年から2003年
    までの間で、実質的な枠組みとしては、1918年に建国されたセルビア人・
    クロアチア人・スロベニア人王国が始まり。 その後、1929年に
    『ユーゴスラビア王国』へと改名された。 1945年からは、社会主義体勢が
    確立され、『ユーゴスラビア連邦人民共和国』と改称され、1991年の
    ユーゴスラビア紛争までは、この体制が維持されたが、スロベニアと
    クロアチアを中心とする、工業先進地域が、連邦からの独立を要求し、
    セルビアを中心とする連邦政府と対立、その後、泥沼の内戦へと陥ったものの、
    スロベニアとクロアチアは、内戦も最小限に留める事に成功したため、
    そのまま連邦からは独立。 その後、多少遅れて、ボスニア・ヘルツェゴビナと
    マケドニアも独立を宣言したため、特に、セルビア人とクロアチア人、並びに、
    ムスリム人が混在していたボスニアでは、内戦が激しく、数年間に渡り激しい
    戦いが繰り広げられた。

    その後も連邦に留まったのは、同じセルビア人を中心とするセルビア共和国と
    モンテネグロ共和国のみで、1992年にはこの2国間で『ユーゴスラビア連邦
    共和国』が結成されたものの、2003年には緩やかな国家連合へと移行し、
    国名を『セルビア・モンテネグロ』と改称したため、ユーゴスラビアの名を
    冠する国家は無くなった。 更に、2006年には、モンテネグロが独立したため、
    国家連合自体も解消され、ユーゴスラビアは、完全消滅となった。
     
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    ユーゴスラビアの首都は、終始一貫して、現在のセルビアの首都である
    ベオグラードであった。 よって、ユーゴスラビアは、セルビア人が中心の
    国家であった。 これに反発したクロアチア人とスロベニア人も、同じ
    南スラブ人ではあるものの、宗教の違いは超えられず、それが、怨念へと発展し、
    今でも、ボスニアでは、セルビア人共和国とクロアチア人共和国の激しい
    対立へと繋がっている。

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