多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    マルチリンガル通訳・翻訳者によるブログ。

    英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、
    スペイン語、スウェーデン語他の多言語通訳/翻訳業を行っております (^-^)
    仙台弁、石巻弁、宮城弁、東北弁の方言指導、テープ起こしも致します。
    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    カテゴリ:北ヨーロッパ > フィンランド

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    日本とアメリカの教育は、完全にビジネスで、学生のことなど一切考えてはおらず、
    金儲けのことばかり。 それは、完全に教育に現れており、社会形成にも多大な
    影響を及ぼしている。 この動画に出て来る、『テストで点を取る訓練は教育ではない』、
    『裕福になっても他人の境遇を尊重できる人に』、『問題意識を持って自分で考える
    ように教える』、『自分も他人も尊重できて幸せに生きる方法を教えている』の部分は
    全くその通りで、例えば、日本で、問題提起のためにマイナスが事柄を述べると、一様に
    嫌な顔をされるのだが、ヨーロッパでは、むしろ、社会を変えるための材料を提起して
    くれたと非常にプラスに受け取られる。



    日本社会がいつまで経っても一切何も変わらないのは、一切問題提起が出来ない監視
    社会であるところで、問題の原因部分には一切触れないため、何もかも、泣き寝入りか
    臭いものにフタで終わる。 ヨーロッパ人と日本人の思考回路の最大の違いは、正に
    この点で、政治や社会問題を取り上げる事すら許されない社会に未来はない。

    日本やアメリカの教育は、単なる詰め込み教育で、記憶力さえあれば、誰でも点数を
    取れる。 特に、日本の場合は、応用は一切要求されないため、丸暗記だけでテストは
    乗り切れる。 最近では、ブラック企業ばかりの社会に成り果てたため、一流大学を
    卒業したところで、ブラック企業以外の就職先はないので、日本の大学は卒業するだけ
    時間とお金の無駄。

    その国の礎は、教育であることは、ヨーロッパでは既に実証済み。 金儲けのために
    他人を平気で蹴落として、自分だけのうのうと暮らせる強欲社会はもう終わらせるべき。
    現状、何でもやった者勝ちとなっているため、お金も集まるところにしか集まらず、経済も
    回らなくなった。

    【日本とフィンランドの教育制度の違い】
    finlandchart

    フィンランドに負けず劣らず、オランダの教育も日本の数段上を行っているので、良い
    ものは素直に受け入れて、前に進むべき。 そのような社会を目指している政治家は
    日本には居ないと思うが、そもそも、国民が選挙によって、自分達の社会を自ら選んで
    いる事も学校でしっかりと教えるべき。

    フィンランドでは、子供が生まれると、国から母親全員にベビー服や布団、哺乳びんや
    絵本などのセットが届き、17歳までの子ども全員に月1万3千円が支給される。

    無意味な競争は、子供達から学力と幸福を奪ってしまう。 教育は親の経済力とは関係
    なしに、皆平等に与えられるべき。 フィンランドの学校では、授業料が無料というだけ
    でなく、子供達には通学手段、給食、教科書や学用品が無償で提供される。

    世界一学校に行くのが苦痛な日本と学校が楽しいフィンランドとでは、教育に対する
    根本的な考え方がまるで異なる。 教育の場である学校までをも金儲けの場にしている
    国では、子供達も金儲けのことしか頭にはなくなるのであろう。 

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1600年代初期に、スウェーデン国王グスタヴ2世アドルフの軍事拡張策が成功して、
    スウェーデンはバルト海地方の大国になった。 ドイツとの三十年戦争(1618年~
    1648年)の際、国王は、勇猛な戦士だったフィンランド兵の戦闘の上手さに頼って、
    ドイツに出兵した。 スウェーデンは戦費を調達するために、フィンランド人をはじめ、
    領内の国民全てに過酷な税を課した。

    グスタヴ2世アドルフが1632年に死に、ただ1人の後継者、6歳の王女クリスティーナが
    王位に就いた。クリスティーナが成人になるまで、スウェーデン貴族アレクセル・
    オクセンチャールナは、やはり裕福な貴族で、競争相手の政治家ペール・ブラーヘ公の
    追い落としを図り、新設のフィンランド総督に任命してトゥルクに左遷した。

    ブラーヘ総統は、フィンランド人のために全力を尽くした。 スウェーデン語より
    フィンランド語を使うことを奨励し、聖書のフィンランド語完訳を開始した。 1640年には
    フィンランド最初の大学をトゥルクに創設した。 同じ頃、ブラーヘ総督は、ラーヘ市を
    オストロボスニア地方の西部地区の中心都市に決めた。

    Raateroad

    【紛争と改革】

    ブラーヘ総統が退任した1658年までに、スウェーデンには重大な変革が起きていた。
    摂政オクセンチャールナが死に、クリスティーナ女王が王位を放棄し、継承者の
    カール10世グスタヴは自国の領土拡大とロシアの拡大阻止のため、ポーランドと
    戦争をしていた。 スウェーデン軍がポーランドと交戦中、フィンランド人たちは侵攻
    して来たロシア軍を破った。 スウェーデンとロシアは1660年、フィンランド東部国境を
    設定し、ポーランドの一部とデンマークをスウェーデンの領土にするカルディス条約を
    結んだ。

    1672年、若いスウェーデン国王カール11世は、国王独裁を宣言し、伝統的に官僚と
    分担して来た権限を取り上げた。 また、フィンランドでスウェーデン語を広めて、
    スウェーデン文化との結び付きを強めた。 1686年にカール国王は、スウェーデンの
    ルター派教会をフィンランドのの公式の教会と決め、その監督を任命した。

    スウェーデン国王は、トゥルク教会の監督に、全フィンランドの人に読み書きを教える
    責任を課した。 監督と教区の司祭たちはが真剣に教えた結果、フィンランドは、ほぼ
    全住民が読み書き出来る国のひとつになった。

    読み書き能力の普及を除けば、1600年代末期のフィンランドには、大した進歩が
    なかった。 スウェーデンの支配者たちは、スウェーデンに兵士を提供し、税金を
    支払っているフィンランド人を、ますます省みなくなった。 更に、フィンランドは、
    1696年と1697年の大飢饉で、住民の3分の1が病気で死んだ。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    15世紀と16世紀を通じて、フィンランド人は、スウェーデン国民として統合化して行った。
    フィンランド人は、自分たちをスウェーデン国王支配化の他の民族と同一だとみなしていた。
    この間に、スウェーデン語を話すフィンランド生まれの貴族が台頭し、フィンランド領内で
    権力を持つようになった。 地方の裁判所の判事や、スウェーデン国王のために、
    フィンランド領内の城を管理する役人になるフィンランド人もおり、スウェーデン国王政府に
    最高官吏として積極的に参加した。 フィンランド貴族達には、領内の財政を運用したり
    海軍を再興したりして、スウェーデン王国を補助した者もいる。 大勢のフィンランド人が
    スウェーデンの首都ストックホルムに住み働いた。

    agricola

    15世紀までにトゥルクの司教たちは、フィンランド人にローマカトリック教を布教し、多神教の
    フィンランド人は、次第に一神教のキリスト教に改宗して行った。 まだ大学がなかった
    16世紀には、フィンランドは優秀な子弟をヨーロッパ各地の教育、宗教の中心地に留学
    させた。 例えば、フィンランド人の学者ミカエル・アグリコラ(1510年~1557年) は、
    ドイツのウィッテンベルグの大学で学んでいる。

    アグリコラは、新約聖書をフィンランド語に翻訳し、また、フィンランド人にマルティン・ルターの
    革命的な宗教思想と新信教の宗教改革を紹介した。 この運動は、ローマカトリック教会の
    権威への挑戦だった。 16世紀に北ヨーロッパ各地で、プロテスタントのルター派が
    広まった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    フィンランド語には、母音が8つあり、最初の4つは、日本語のアイウエオとほぼ同じ
    母音となっている。 残りの4つの母音のうち、u は、英語と同じで唇を丸くして発音
    します。 日本語のウとは殆んどの方言では唇を丸くせず、イと同じような平べったい
    唇の形で発音するため、日本語のウでは代用出来ない。 ä はドイツ語の ä よりは
    英語の hand や bag の ӕ に近い。 ö は、ドイツ語の ö のように、オを発音する
    唇の構えでエを発音するとこの音になる。 y は、ドイツ語の ü のように、u の口構えで
    イーを発音するとこの音になる。



    母音の数の多さに加え、母音調和と呼ばれる現象があり、これは、a o u と ä ö y が
    別々のグループを作っていて、1つの単語の中に混在しないという現象をこう呼ぶ。
    但し、 e と i は、どちらのグループにの母音とも同じ単語の中で共存出来る。

    母音調和があるために、名詞や動詞の活用語尾も2通りある。 語尾は1つだけでは
    なく、いくつか連続することもあるため、語尾がいくつも連なった長い単語も母音調和の
    対象となる。

    理屈だけで考えると面倒な言語に思えるが、不思議なことに、実際にフィンランド語を
    話す時は、2つのグループの母音を混在させると、非常に発音しにくくなる。 少なくとも
    母語として話す人々にとっては、母音調和は、効率的、かつ、自然な仕組みという
    ことになる。

    0d8e2849

    【フィンランド語の今】

    首都ヘルシンキは、今でこそフィンランド語一色のように見えるが、19世紀に首都として
    建造された頃は、スウェーデン語一色の街であった。 このことは、ヘルシンキという
    街の名前や、市内各地の地名からも明らかで、ヘルシンキで話されるフィンランド語の
    俗語は、スウェーデン語起源の語彙であふれている。 もちろん、ヘルシンキには
    スウェーデン語系の住民も少なからず住んでいる。 ヘルシンキは、現在でも、
    フィンランド語とスウェーデン語の両方を公用語とする自治体で、通りの名前も道路
    標識も2つの言語で書かれている。

    ヘルシンキ大学にフィンランド語学が設置されたのは、1851年だが、初代の教授の
    カストレーンも、次の教授のレンルートも共にフィンランド語が母語なのに、名前は、
    スウェーデン語で、2人共フィンランド語学の講義も論文もスウェーデン語で行っていた。
    フィンランド語で講義をしたり、論文を書いたり出来なかった理由の1つは、学術用語が
    整備されていなかったためであった。



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    西暦800年頃から、スウェーデン人ヴァイキングの艦隊は、東方のカレリア地方へ
    遠征する時、途中のフィンランド本土にもやって来た。 862年にヴァイキングは、
    後のロシア領ノヴゴロドとキエフの両市を交易の拠点にした。

    この商業を通じてカレリア人は、遥か南の、今のトルコにあったビザンチン帝国と
    往来した。 カレリア社会は、ビザンチン文化の影響を受けた。 例えば、数世紀に
    キリスト教がフィンランドに伝えられた時、カレリア人は、ビザンチン帝国と同じ正教派を
    採用した。

    西方では、12世紀までに王国を築いたスウェーデンの商人達が、スカンジナビア文化の
    影響をスオマライセット人とハマライセット人の慣習に与えて行った。 この時期の
    フィンランドは、統一を欠き、主な3つのグループが互いに戦っていたため、スウェーデンの
    結束した力に対抗する事が出来なかった。

    swedishlands

    【スウェーデンの支配】


    1155年にスウェーデンのエーリック国王は、多神教だったフィンランド人にローマ
    カトリックの進行を押し付けた。 また、フィンランド人によるスウェーデン沿岸の
    侵攻を止めさせようとした。 この2つの目的を達成するため、エーリック国王は、
    フィンランド南西部を征服した。 また、トゥルク(スウェーデン語ではオーボー)に
    伝道教区を設立し、イギリス出身のスウェーデンのウプサラ司教へンリーを責任者と
    した。

    13世紀には、スウェーデン人貴族のビルイェル・ヤールは、サルパウスセルカ丘陵の
    戦略地点に、ハメーンリンナ城を築いた。 ここは東西の交易路の中心地だった。
    スウェーデン人が東部フィンランドに支配を広げて行くと、当時既にノヴゴロド
    (現ロシア)を統治し、カレリア地方の領土権を主張するロシア人の反撃にあった。
    ロシア人は、フィンランドで正教の勢力を広めようとしていた。

    1323年、スウェーデンとロシアは、フィンランドを東西に分割するパハキナサーリ
    (現ロシア領ペトロクレポスト)条約に調印した。 スウェーデンは、カレリア地方の
    東部をロシアに割譲したが、両国の戦争は1351年まで続いた。 この年、両国は、
    スウェーデンにその後2世紀間のフィンランド支配を許す新条約を結んだ。

    平和な時代が来ると、多くのスウェーデン人は、フィンランドの西と南の海岸地帯に
    移住し、自国の法律、行政の制度をフィンランドに導入した。 トゥルクがフィンランドの
    中心地になり、スウェーデン語が特に農民、地方官吏、富裕層の間で話されるように
    なった。

    1300年代には、スウェーデン国王は、世襲制から議会による選出に変わっていた。
    1362年にスウェーデンはフィンランドに、議会に代表を送る権利を与えた。 この
    恩典は、スウェーデン政府がフィンランドを、海外領土ではなく、国内の一地方と
    考えていたことを意味した。



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    考古学者によると、人々が初めてフィンランドにやって来たのは、紀元前7000年頃だった。
    当時はまだこの土地に氷河期の氷が残っており、今のバルト海は淡水湖だった。 一番
    古い居住者達は、歴史学者がラップランド先住民サーミ人の先祖とみなす人々で、
    フィンランド南部の海岸沿いに住んだ。 ムース(ヘラジカ)を射止め、魚を取って食料と
    した。 船を作くり、船首の飾りにムースの頭を彫ったことが、この時代の出土品に示され
    ている。

    fad502c6

    【新移住者の到来】

    紀元前3500年頃、遊牧民の集団が現在のロシアを横切って、バルト海の沿岸地方へ
    移動を始めた。 フィン・ウゴル語族と呼ばれるこの集団は、フィンランド南西部へ
    移って行き、やがて何世紀もの間に北方へ広がって、フィンランドの先住民達を更に
    北へ追いやった。 フィン・ウゴル語族の中には、20世紀まで、共にフィンランド領だった
    カレリア地方やラドガ湖(現ロシア領)地方など、東方に移動した者も居た。 そこに
    定住した者達の土器は、くしの歯に似た文様を刻んだ櫛文土器となっている。

    同じ頃、北ヨーロッパからフィンランドに渡来したゲルマン系の新しい移住者達を、歴史家は
    その磨き上げた石斧の形から、舟形斧人と呼んでいる。  舟形斧人達は、フィンランド
    南西部に広く住み着き、原住民と結婚して行った。

    鉄器時代フィンランドの生活は、19世紀に集められた古い民話に描かれている。 この
    民話によると、鉄器時代のフィンランドの人々は、自分達をスオマライセット人
    (フィンランド人の意味)と呼び、国をスオミと名付けた。 この人々は、今のフィンランド
    南西部に住んで狩猟をした。

    ハマライセット人は、(ハメ地方の人の意味)という別のグループは、現在のラハティ市
    からタンペレ市に至る内陸地方に住み、農業を発展させた。 フィン語族第3の
    グループであるカレリア人は、今のフィンランドの東部国境沿いに住んだ。 各グループ
    の居住地は、広大な原野で互いに隔てられていた。

    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    フィンランドの人口は510万人で、そのやく64%が南部に集中している都市に
    住んでおり、北部は人口が希薄になっている。 多くの中規模の街は、海岸沿いに
    あるが、その重要性は、首都ヘルシンキには及ばない。

    helsink

    【ヘルシンキ】

    ヘルシンキは、ウーシマー州の州会で、フィンランド湾に面したでこぼこな花崗岩の
    半島上にある。 沖合いの多数の島も含め、人口は93万人を超える。 文化活動の
    中心地で、博物館、美術館、各種の教育機関の他、主に造船、機械、陶磁器、繊維など
    大企業の本社がある。

    ヘルシンキの歴史は長く複雑で、隣国のスウェーデンとロシアとの関係が深い。
    両国は異なった時代にそれぞれフィンランドを支配した。 1808年の火災で、初期の
    定住地区が破壊した。 政府は1816年、ドイツ人建築家C.L.エンゲルを雇い市を
    再建した。 エンゲルは広い道路、大きな公園、高く白いビルの建つゆったりとした
    都市を建設した。 後年になって、首都の内部だけではなく、周辺にも住宅地区を
    沢山建設したが、地下鉄が都心部と郊外を結び、市内の交通混雑の緩和に
    役立っている。

    【その他の都市】


    タンペレ(人口17万6千)は、フィンランド第二の都市で、南部のハメ州の中心都市と
    なっている。 北側のナシ湖から南側のピュハ湖に注ぐ急流で、2地区に分断されている。
    1779年に都市の基盤が出来ると、1800年代には重要な工業都市に成長した。
    現在は、履物、皮革製品、繊維、金物類、紙を生産している。 大学と技術カレッジが
    それぞれ1校づつある。

    フィンランド最古の都市トゥルク(人口16万人)は、フィンランド第三の都市で、ボスニア湾の
    アウラ川の河口にあり、南西部の重要な港となっている。 製造業の中心地でもある。
    1800年代までフィンランドの首都であったトゥルクは、スウェーデンに非常に近いため、
    住民の約5%は主としてスウェーデン語を用いている。

    他にボスニア湾に面した重要な都市は、工業の中心地であるオウル(人口10万4千)、
    古い商業の街ポリ(人口7万6千)、ヴァーサ(人口5万5千)がある。 ヴァーサ市民の
    約3分の1は、第一言語がスウェーデン語となっている。

    スポーツ行事で有名なのが、バイヤンネ湖の南端にあるラハティ(人口9万4千)で、3月に
    冬のスポーツ大会が開かれ、国内外の人達が大勢集まる。 バイヤンネ湖の北端にある
    ユヴァスキュラ(人口7万2千)は、フィンランド中央部の森林地帯に近く、林業の中心地
    となっている。

    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    フィンランド語でスオミと呼ばれるフィンランド共和国は、スカンジナビア半島とロシア
    連邦に挟まれた北ヨーロッパの国で、このような地理のため、フィンランドは領土を
    拡張しようとする近隣の大国から侵略されて来た。 フィンランドは、長い歴史の中で
    多くの戦争を経験し、国境は何度も変えられた。

    mapfinland

    国境を接するスウェーデンは、フィンランドを自分の国に組み入れて、13世紀半ばから
    1808年まで統治した。 1808年には、ロシア軍がフィンランドを征服したが、ロシア皇帝は、
    スウェーデンが制定した法律や行政制度は、そのままフィンランドに残した。

    フィンランドで文芸が栄えた19世紀に、フィンランド人の民族意識と文化を誇る気持ちが
    高まった。 民族主義運動を支えとしてフィンランド人は、ロシアの祖国完全併合の
    企てに抵抗した。 1917年に革命家達が、ソ連をつくる第一歩としてロシア帝政を倒すと、
    フィンランドは、ロシアの支配からの独立を宣言した。

    独立国となったフィンランドは、国境紛争、特にソ連との紛争に巻き込まれるのを避け
    ようと努力した。 だがフィンランドは、1939年にソ連に侵略されてしまい、中立政策を
    放棄しなければならなくなった。 それから1944年まで、ソ連はフィンランドに莫大な
    金と物資の賠償支払いを求め続けた。

    bced98d0

    それにも関わらず、フィンランド人たちは、第二次世界大戦後に産業を復興し近代化した。
    また、1950年代初めまでに、フィンランドはソ連に対する賠償支払いを完了した。 それ
    以来、フィンランドは近隣諸国と友好関係を維持することを最優先とした。 同時に
    フィンランドは、西ヨーロッパ諸国との通商上の協定も発展させた。 これらの努力に
    よって、1990年代半ばまでに経済は健全化し、フィンランド人の生活水準は非常に良く
    なった。

    政府は、国民所得の多くを教育や福祉にあてている。 1人あたりの所得も高く、
    このような数多くの利点を、フィンランド人はこれらも改善し守って行こうとして働いている。

    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ