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    カテゴリ:東ヨーロッパ > ポーランド・チェコ・スロバキア

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    考古学者の説では、現在のポーランドとなっている地域に人類が住み着いたのは、
    少なくとも20万年前だという。 だが、この最古の住人については、殆ど何も
    分かっていない。 約1万5000年前に、河川の流域に初めて集落が出来た。
    西暦1世紀、スラブ民族が東から、この国の中部にと北部の低地地域に移住した。

    スラブ民族の一派であるポラニエ人(平原の住人)は、ヴァルタ川流域にグロティと
    呼ばれる小さな村落をいくつも建設した。 低地や平原は外敵の攻撃を防ぎにく
    かったので、ポラニエ人は、居住地の周辺に堅固な木の壁を作った。

    ポラニエ人は、壁の外側の土地で穀物を生産し、家畜を飼育した。 グロティの
    住人は、農産物や手工芸品を、中ヨーロッパに住む他のスラブ人グループと
    交換した。

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    何世紀もの間、スラブ人達は、西ヨーロッパの出来事と無縁の生活を続けた。
    ヨーロッパ南部を基盤とするローマ帝国の軍隊は、西暦100年頃までに広大な地域を
    征服し終わっていた。 ポーランドのバルト海沿岸地域は、道路によってローマの
    諸都市と結ばれていたが、ローマ帝国が東ヨーロッパのスラブ人達を征服したことは
    一度もなく、キリスト教の信仰をドイツに広めたカトリック教会の伝道師達も、
    ポラニエ人を改宗させることは出来なかった。

    ポーランド地域の人口が増加するにつれて、スラブ人達は、いくつかのグループに
    分かれた。 西暦200年から500年に掛けて、東スラブ人達は、現在のベラルーシ、
    ウクライナ、ロシアとなった地域に移動した。 ポラニエ人を含む西スラブ人達は、
    将来ポーランド、チェコ、スロバキアと言われる地域に定住した。

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    リトアニア大公国によるキエフ支配は、約2世紀続いたが、リトアニアの支配下に
    入っても、かつでのキエフ公達のような軍事力の抑えはなかったので、キエフが
    安全になった訳ではなかった。 特に、1416年と82年には、クリミア半島に
    本拠地を置くタタール人の軍勢がキエフを襲い、大規模な略奪を行った。 記録に
    残っているだけでも、1450年から1586年の間に、大小86回もの襲撃、略奪を被った
    というから、3年に2回の割合で被害を受けていたことになる。 大平原の真っ只中に
    丸腰で立っているような不安定な時期であった。

    リトアニア大公国がポーランド東部にあるルブリンの町で条約を結び、ポーランド
    王国と同君連合に入ったのは、1569年のことである。 この結果、キエフを含む
    ウクライナは、事実上、ポーランドの支配下に入った。 信仰の点で寛容だった
    リトアニアの公やその代官達とは異なり、カトリックを固く信じるポーランド人が
    政治上の新しい主人として現れたことは、様々な点で大きな影響を及ぼすことと
    なる。

    PolishLithuanianCommonwealth

    それは、まずキエフの住民の上層部がカトリックに改宗するという形で現れた。
    ウクライナの中でも、ポーランドに近い西部の住民達の場合には、正教の
    信仰を持ち、従来の正教風の儀式を行いながら、ロシア正教会の管轄を離れて、
    カトリック教会の傘下に入るという変則的な自体が生じた。 1596年に現在の
    ベラルーシのブレストにポーランド支配下にある教会の司祭達が集まり、ギリシャ
    伝来のビザンチン式典礼を保持したまま、ローマ教皇の首長権を認めることを
    決議した。 これは、教会合同と呼ばれ、これに属する人々が合同派である。
    このグループの処遇を巡っては、現在でも尚、ロシア正教会とカトリック教会との
    対立が続いている。

    モスクワ総主教とローマ教皇の会合が2016年02月13日までなかなか実現しなかった
    理由は、これが原因であると言われている。 キエフのソフィア大聖堂すら、16世紀
    には一時的に教会合同派に属していたことがあった。 このように、ポーランドは、
    宗教上の相剋という複雑な関係を引き起こしたけれども、他方で、それまで正教圏
    には知られていなかった西ヨーロッパ世界の進んだ文化をもたらすという役割を
    演じたのも事実である。

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    第二次世界大戦後の1948年2月、チェコ革命(二月事件)で政権を掌握した
    共産党は、一党支配体制の下で社会主義建設を推し進めたが、1953年に始まる、
    ノボトニー独裁政治は、社会全体の停滞を招いていた。

    これに対して1960年代から党内に台頭した改革の動きは、『人間の顔をした
    社会主義』をスローガンとして、1968年1月にノボトニーを退陣させた。 そして、
    改革派の指導者ドゥプチェクが党第一書記に選ばれ、『検閲の廃止』
    『言論や集会の自由』『市場経済導入の試み』等が、次々打ち砕かれて行く
    のであった。

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    1968年3月、ワルシャワ条約機構首脳会議が招集され、ソ連のブレジネフ書記長を
    中心とする各国指導者はドゥプチェクを激しく批判したが、チェコスロバキアの
    改革は進められ、社会全体に浸透して行った。  市民達は『二千語宣言』を発表
    して民主化への支持を表明し、宣言には、女子体操のチャスラフスカ選手も名を
    連ねていた。 この民主化と自由化への動きは『プラハの春』と呼ばれたが、
    1968年6月になると、ソ連の軍事介入の威嚇が始まる。
     
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    1968年8月20日、ソ連軍と東欧共産主義諸国軍によって構成されるワルシャワ条約
    機構軍がチェコに侵攻。 抵抗する市民の中には兵士達によって射殺された者も
    いた。 また、軍事介入に抗議する学生2人は、プラハ市内で焼身自殺を遂げた。
    チェコにおいて『人間の顔をした社会主義』を指導していたドプチェク第一書記は、
    モスクワに連行され、チェコにおける改革の中止を認める書類に署名を強制された。

    更に、1969年4月17日には、チェコ共産党の第一書記として保守派のフサークが
    選出され、ソ連軍が駐留し、『正常化』の名の下に、チェコにおける自由化の
    動きは完全に押さえ込まれてしまった。

    チェコに本当の春が訪れたのは、1989年であった。

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    ポーランドは、日本にとっては、殆ど馴染みのない国だが、実は、かなりの
    親日国としても有名。 ポーランドでは、現在、剣道などの日本の武道がブームと
    なっており、名門ワルシャワ大学の人気学科は、日本学科となっており、その
    倍率は30倍を超えている。

    【ポーランド祭】


    ポーランドが親日国家となった理由は、諸説あるが、日露戦争により、大国の
    ロシアに勝利したアジアの小国である日本に対して、非常に敬意を払っている
    というのが定説となっているものの、実は、日本とポーランドは、今から100年
    ほど前にも強い絆で結ばれていた。

    1920年、孤児を助けた体験が語り継がれる 第一次世界大戦後、ロシア革命の
    内戦中、多くのポーランド人はシベリアに抑留されていた。 極寒の地で次々と
    命を落とす中、ポーランドは両親を失った子どもたちだけでも救おうと、救命
    嘆願書をアメリカやイギリスへ助けを求める手紙を出した。
     
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    しかしどこからも返事は来ず、唯一返事をしたのが日本だった。 そして、1920年
    から22年にかけて計5回、765人の孤児たちが船で日本へ運ばれ、想像も
    つかないほどの温かいもてなしを受けたのだという。

    到着直後のポーランド孤児たちはチフスを患い、頭にはシラミ、餓死寸前の子もいる
    という最悪の健康状態だったが、日本赤十字の看護師たちが懸命に看護した。
    全国から寄付も集まり、子どもたちは元気を取り戻す。

    2年後、1人も欠けることなくポーランドに戻った孤児たちは、終生その体験を
    語り継いだという。 後に大統領となる「連帯」のワレサ氏は、1981年に
    「ポーランドを第二の日本にしたい」と語り、ポーランドでは誰でも知っている
    名言になっている。

    日本人とポーランド人は、気質も驚くほど似ており、現在、ポーランドに進出
    している日本企業の数は、トヨタやブリジストンをはじめ281社にも上っている。

    ポーランドは、東欧の優等生とも言われており、現在、ユネスコの世界遺産は、
    下記の4つを含めて、12ある。

    【ヴィエリチカ岩塩坑】
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    ヴィエリチカ岩塩坑は、世界遺産として一番最初に登録された12件のうちの1つ。
    国家事業として700年間掘り進められた歴史があり、その総延長は300km、最深部は
    327 mにも及ぶもの。 中はアリの巣のように広がっており、それ意外にも地下に
    教会があったりと見所が多くある。 全て塩で出来ているとは思えない程、幻想的な
    空間となっている。

    【アウシュヴィッツ強制収容所】
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    第二次世界大戦の最中、ヒトラー率いるナチスによる制圧対策が行われた場所で、
    人類の最大の負の遺産とも呼ばれている。 ユダヤ人をはじめ、ポーランド人や
    反ナチス活動家、同性愛者など、罪のない人がここに送られ、多いときには9万人
    もの人が収容されていた。 現在は博物館になっており、世界中から訪れる人が
    後を絶たない。

    【クラクフ歴史地区】
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    欧米では最も人気のある観光都市の1つで、その評判は欧米の旅行雑誌や旅行
    サイトで「世界一すばらしい観光地」の称号を与えられることも多い有名
    観光地となっている。

    【ワルシャワ歴史地区】
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    ワルシャワの歴史地区は、第二次世界大戦によって大きな損害を受け、1度は
    現在の美しい町並みが全壊したが、戦後復活したもの。 現在の町並みは40年
    もの歳月を掛けて市民が戦前の姿で再築したものとなっている。 レンガのひびに
    至るまで丹念に修復され、見事に中世の町並みは復活した旧市街は非常に美しく、
    ポーランド観光の最大のハイライトとなっている。

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    2017年、カナダは建国150周年を迎える。 世界でも指折りの住みやすい国
    としても知られるカナダは、トロント、バンクーバー、カルガリーが常に
    『世界で最も住みやすい都市』のランキングのトップ5にランクインしている。

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    カナダ最大の都市であるトロントでは、それぞれのエスニックコミュニティーが
    ハッキリと分かれているため、路面電車で市内を移動していると、景色が急に、
    イタリアになったり、中国になったり、ウクライナになったり、ポーランドに
    なったり、インドになったり、ギリシャになったり、韓国になったりする。

    「トロント」とは、ネイティブインディアンの言葉で「出会いの場所」という意味。
    市民の大多数が移民1世とその子孫であるため、市民は普段から自国の文化を大切に
    しており、市内だけで世界一周気分を味わえる。 海外からの移民の殆どが、
    このトロントを目指してやって来るが、多様性とマルチカルチャーを国をあげて
    推進しているトロントでは、特に問題は等は起きていない。 カナダでは、人口の
    ほぼ全てが都市部のみで生活をしているが、世界で2番めの広さを誇る国土の中には
    3,500万人程度の人口しか住んでおらず、移民の受け入れには、まだまだ余裕が
    ある。



    共に移民の国であるアメリカとカナダを表現する言葉としては、アメリカの
    『人種のるつぼ』とカナダの「人種のモザイク」があるが、カナダは、現在でも
    年間約25万人の移民を受け入れ続けているため、アメリカと比較すると、移民の
    数が圧倒的に多く、しかも、それぞれの文化を尊重しながら共存しているため、
    どこでも英語だけを強要されるアメリカとは根本的に異なる。

    【毎年開催されているウクライナ人コミュニティーのお祭りの様子】

    トロント市内には、サンフランシスコに次いで世界で2番目の規模の中華街、
    それぞれ世界最大のウクライナ人コミュニティー、ポーランド人コミュニティー、
    韓国人コミュニティー他があるため、ランチやディナーにそれぞれの国の
    本格的な料理を気軽に楽しめるのも嬉しい。

    バンクーバーでは、約2万人の日本人が住んでいるため、日本人コミュニティーさえ
    出なければ、日本語だけでも十分生活する事が出来る。

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    日本では、ポーランドの音楽と言えば、ショパン程度しか知られていないが、
    ポーランドは、クオリティーの高い音楽を供給している国として知られている。
    その中でもオススメなのが、Justyna Steczkowska(ユスティナ・ステチコフスカ)。

    justyna



    毎年5月には、ヨーロッパでは、ユーロビジョン・ソング・コンテストが
    開催されているが、意外な事にポーランドは、これまでに優勝を果たした
    事がない。 日本では、ポーランドをはじめとする東欧系のアーティストの
    CDを入手するのは、かなりの至難の業なのだが、ポーランドを訪れた際には、
    是非ともポーランドの音楽にも耳を傾けて欲しい。



    2000年前までのロシア、ウクライナ、チェコ他の東欧系のポップスは、
    到底聞いていられるレベルではなかったのだが、ポーランドだけは、
    共産党支配の時代から、かなりレベルの高い音楽を流通させていた。
    クラシック音楽でそれなりの結果を出している国の音楽にはハズレは
    ないのかも知れない。



    日本では、まず耳にする事がないポーランド語の響きにも哀愁を感じる
    のでは。 ポーランドは、知る人ぞ知る、東欧では最も親日な国。
    ワルシャワの街を歩いていると、日本から来たのか?と気軽に声を掛け
    られますが、英語がそこまでは通じないため、意思の疎通には、英語、
    ロシア語、ドイツ語を織り交ぜる必要があります。
     


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    ガリツィヤ地方とは?
    現ウクライナ領のガリツィヤ地方は、元々ポーランド領としての歴史の方が
    長く、今後、ポーランドからの領土返還運動が起きる可能性が高いが、
    ウクライナ国内で、ウクライナ語を日常的に使用しているのは、このガツィヤ
    地方ぐらいであるため、今後、本格的な帰属問題が起きる可能性が高い。
    第二次大戦後、ポーランドは、その領土を国ごとドイツ側、つまり、西側に
    ずらされたが、そのウクライナ側で西側にずらされた地域がこのガリツィヤ地方。

    Halychyna

    広義でのウクライナは、当然このガリツィヤが含まれるが、元々ウクライナ人が
    居住していた地域は、キエフ寄りの地域であるため、狭義でのウクライナは、
    ガリツィヤが含まれない。 ウクライナ語で、『ウクライナ』とは、『国』や
    『内国』という意味であるが、元々のスラブ語では、『クライ』が『地方』や
    『僻地』を指すため、ロシア語話者に、ウクライナは、『田舎』と誤解される
    事が多い。 このため、ウクライナ人は、ウクライナに対する前置詞として、
    на ではなく、必ず в を使用するのだが、ロシア語としては、明らかな間違い。

    ロシア語とウクライナ語の関係
    スラブ語の中では、ロシア語とウクライナ語が最も似ていないが、それは、
    この周辺地域から、わざわざ人工的にウクライナ語を復活させたため。
    それ以前のウクライナ語は、長年に渡って使用が禁止されていたため、ほぼ死語で
    あった。 旧ソ連邦の崩壊と共に、国家の象徴として急遽にウクライナ語が
    引っ張り出されたのだが、ソ連崩壊以前にウクライナ語を使用していたのは、
    かなりの高齢者であるため、実際にウクライナ語をネイティブとして使用
    出来るのは、20代と80代以上、並びに、よほど田舎の方に住んでいた人たち
    ではないかと思われる。

    それ以外の世代は、元々全員ロシア語がネイティブ言語であるため、方言程度の
    差しかないウクライナ語を習得するのは、かなり容易となっている。 現在の
    ガリツィヤの中心都市は、リボフであるが、ウクライナ語では、リビウと
    呼ばれている。 リボフの人たちも当然、ロシア語で話す事は出来るが、かなり
    ウクライナ語訛りが入っているのが特徴。 
     Львова

    キエフ・ルーシ
    ルーシ人とは、現在のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人を指すが、
    大ロシア人がロシア人、小ロシア人がウクライナ人と分類されており、モンゴル軍
    襲来後に、モンゴルに支配されたか否かで、分かれた民族。 ベラルーシは、
    旧ソ連崩壊前までは、『白ロシア』と呼ばれていたが、その理由は、黄色民族で
    あるモンゴルに支配されていない『白人のルーシ』という意味。

    現在のロシアは、元々は、『モスクワ公国』が起源であるが、ルーシの後継者
    である、現在のウクライナを手に入れた時から、『ルーシ国』という意味の
    ロシアを名乗るようになった。 尚、モスクワの地名の起源は、市内を流れる
    『モスクワ川』から取ったもの。
     
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    ルーシの都であったキエフは、その当時、ヨーロッパでは、ロンドンに次ぐ大都市で
    あったが、モンゴル・タタール軍により、徹底的に破壊しつくされたため、その後、
    数百年間に渡たり、復活する事が出来なかったため、北方にあるモスクワが台頭し、
    その後、ウクライナがポーランドからの一時的な独立を果たした際には、同じ
    正教徒のモスクワの力を借りて独立したもの。

    これは、ブルガリアも同様で、約500年間にも渡ってオスマン・トルコに支配されて
    いたが、露土戦争でロシアが勝利を収めたため、独立を勝ち取ったもの。 よって、
    その後、ブルガリアは、一貫して親露路線を歩んだ。

    第二次大戦後
    ドイツは、東西統一を果たした際に、ゴルバチョフ氏から、今後永久に領土の
    要求をしない事を約束させられているため、ドイツからの領土要求はないものと
    思われるが、ポーランドはどうなるのか分らない。 ポーランドは、歴史上、
    3分割されて、国が滅んだ悲劇の国として語られる事が多いが、実際のところは、
    モンゴル・タタール軍に攻め滅ぼされたルーシ(現在のウクライナ)を約300年
    以上にも渡って支配していたため、同じような事を別の国にやられただけ。

    ウクライナでは、この他にも、旧ハンガリー領のカルパチア、旧ルーマニア領の
    ブコビナ、並びに、ベッサラビアがあるため、東部での内戦を上手く処理出来ない
    場合は、西部地域にまで、その火の子が飛び火する事となる。

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