多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    マルチリンガル通訳・翻訳者によるブログ。

    英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、
    スペイン語、スウェーデン語他の多言語通訳/翻訳業を行っております (^-^)
    仙台弁、石巻弁、宮城弁、東北弁の方言指導、テープ起こしも致します。
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    カテゴリ: 紛争・戦争

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    硫黄島は、太平洋上の小笠原諸島に浮かぶ島で、東京から南方におよそ1,200 kmに
    位置する太平洋戦争(大東亜戦争)における最大の激戦地。

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    かつては1,000人以上の島民が暮らしており、10以上の集落があり、硫黄の
    採掘の他、漁業、綿の栽培、サトウキビ栽培、コカやデリス、レモングラス等の
    栽培で発展した。

    島内には、学校はもちろん、村役場や派出所、診療所、測候所それに郵便局もあり、
    1907年(明治40年)には、それまで(明治28年~明治40年)内地からの定期船は年1回
    だったものが年6回入港するようになり、4~5日間停泊するその船が島にやって
    来ると人々は皆、海岸に集まり、その様子はお祭りのようだったとも言われている。

    戦後、米国より施政権返還後は、海上自衛隊管理の硫黄島航空基地が設置され、
    島内全域がその基地の敷地とされているため、原則として基地に勤務する自衛隊員
    以外は島に立ち入ることが禁止されている。

     

    【硫黄島の戦略的価値】

    アメリカは、1944年にサイパン島を占領し、2,400キロ離れたその島からB29
    爆撃機を飛ばして、日本の都市への爆撃をするようになる。 しかし、爆撃を
    している最中に日本軍の攻撃を受けることも少なくなく、傷ついた機体で再び
    2,400キロ飛行して基地に戻ることが難しいことも多かった。 結果として
    数多くの機体が海に墜落し、搭乗員ごと失われた。
     
    また、サイパンから往復5,000キロ近くもの距離を飛べる戦闘機も当時は存在せず、
    爆撃機を守るために、戦闘機を同伴させることは出来なかった。 そのため、
    爆撃機は、攻撃を受けて損害をなるべく出さないために高高度からの爆撃をする
    ことが多く、正確な爆撃は難しかった。

    また、高高度を飛行するとB29のエンジンでは燃料消費が激しくなるため、大量の
    燃料を積み込む必要があった。 機体の積載量の問題から大量の燃料を積み込むと、
    搭載する爆弾の量を減らさざるを得ない状況を招き、攻撃能力の低下を招いた。
    そのような事情から、より日本本土に近い位置に飛行場を確保し、爆撃の効率を
    上げたかった。 そうして選ばれたのが硫黄島だった。 

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    1944年6月、大本営からある一人の将軍が派遣されて来た。 その将軍の名は、
    栗林忠道(くりばやし ただみち)陸軍中将。 アメリカとカナダに駐在経験が
    あり、アメリカ人の気質を知り尽くしていた数少ない陸軍将校の一人であった。

    この硫黄島を死守するために島に着任した帝国陸軍小笠原兵団長の栗林忠道中将は、
    地下陣地に立て籠もって地上のアメリカ軍を迎え撃つ作戦を立て、真夏の酷暑の
    時期より全将兵あげての地下要塞づくりが始まった。 交代時間で間断なく24時間の
    突貫工事が進められ、島の中央元山台地を主陣地、南端の摺鉢山を副陣地とする
    全長18キロに及ぶ地下壕を建設して待ち受けた。

    この要塞は地下15~20mの深さに造り、敵の海空からの砲爆撃に耐えうるものとし、
    主要な坑道は高さ1m70、最大幅1m20程だった。 小さな日本兵が、やっと一人
    通れるほどである。 また、主要路には、30mごとに地上への出入り口が造られた。

     

    まともな飲料水もない太平洋の孤島に急遽送りこまれた22,000人の兵士は、余り
    経験のない年配者と少年兵だった。 1945年2月から約1か月に及んだ硫黄島の
    戦いは、旧日本兵約2万1,000人、米兵約7,000人が死亡したとされ、太平洋戦争に
    おいて、その後の戦況を決定付けた戦闘となっている。

    1945年(昭和20年)2月19日午前9時、アメリカ軍は海兵三個師団6万1,000、
    艦船800隻の大兵力を繰り出して大挙硫黄島へ押し寄せた。 当初、大本営は
    硫黄島の価値を重視し、それゆえに2万の兵力を投入したはずだった。 それが、
    まさに米軍上陸近しという時期になって、一転『価値なし』と切り捨てられた
    のである。

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    戦後、硫黄島の戦いによる日本人戦没者の遺骨を収容、本土へ帰還させる課題が
    未だ残されているが、本土へ帰還した遺骨は現時点で約8千柱で、1万3千柱余りの
    遺骨は未だ硫黄島内地下に埋もれ残されたままである。

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    第二次世界大戦末期、大日本帝国海軍の切り札として、航空機を使った
    『特別攻撃隊』が組織されたが、この『特攻隊』とは、生きて帰還出来る望みが
    非常に低い決死の攻撃、あるいは、最初から戦死を前提とする、正に決死の攻撃を
    行う戦術を表していた。 『十死零生』とも呼ばれ、作戦の成功は、すなわち、
    100%死を意味していた。

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    特攻は、基本的に志願制であったものの、実際のところは、特攻への志願を問われた
    場合、その場の雰囲気からして、到底拒否出来るようなものではなく、例え、特攻を
    拒否したとしても、死罪が課せられたため、特攻を受けれても拒否しても、いずれに
    しても、死が待っていたという、非常に過酷な作戦であった。
     
    日本陸軍は日露戦争において、白襷隊といった決死隊を臨時に編成したことは
    あったが、これは決して生還を許さない任務ではなく、決死の覚悟で極めて困難で
    危険な任務を果たすというものであったため、生還の可能性が全くない訳では
    なかった。
     
    日本海軍の航空機による体当たり戦術は、太平洋戦争、および、神風特攻隊の創設
    以前に、日本海軍航空隊の草分けである山本五十六が既に言及していた。 1931年
    (昭和6年)12月1日、城英一郎少佐が、海軍大学校卒業時の作業答案を山本五十六
    少将(海軍航空本部技術部長)に提示したが、この時に2人は『最後の手は、肉弾
    体当たり、操縦者のみにて爆弾搭載射出』として、航空機の体当たり戦術を検討した。
     
    1934年(昭和9年)、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に参加した山本五十六
    少将は、新聞記者に対し『僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する』
    『艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ』と語ったという。
     
    1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争勃発後、ミッドウェー海戦やガダルカナル
    島の戦いを経て戦況は悪化、山本五十六大将(連合艦隊司令長官)も1943年
    (昭和18年)4月18日の海軍甲事件で戦死した。

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    特別攻撃隊の中でも最も有名なのが、神風特攻隊であり、1944年10月20日に最初の
    編成があり、1945年8月15日の終戦まで続けられた。 『しんぷう』が正式な読み方
    であるが、戦後は訓読みの『かみかぜ』が定着している。 アメリカなどでは、
    大日本帝国陸軍航空隊による特攻を含む特攻全般を含めて『カミカゼ』と称される
    こともある。 神風特攻隊は、機体に約2トンの爆弾を搭載しており、機体には
    車輪もまともには付いていなかったため、生還は絶対に許されなかった。

    神風特攻隊の初出撃は、1944年10月21日のフィリピン海戦で、敷島隊・大和隊・
    朝日隊・山桜隊の計24機が出撃したが、同日は悪天候などに阻まれて、ほぼ全機が
    帰還したものの、大和隊隊長・久納好孚中尉が未帰還となった。 そのため、
    『特攻第1号』は敷島隊隊長・関行男ではなく、大和隊隊長・久納中尉を未確認
    ながら第一号とする主張も戦後現れた。

    各隊は出撃を連日繰り返すも全て空振りに終わり、同月23日には大和隊・佐藤馨上
    飛曹が未帰還となる。 そして同月10月25日午前10時49分、敷島隊指揮官の関
    (戦死後中佐)以下6機が護衛空母セント・ローを撃沈し、初戦果を挙げて活路を
    開いたが、この思わぬ大成功が、その後の特攻を更に酷いものにした。



    特攻隊は、当初は確かに戦果を挙げた。 米軍を初めとする連合軍は、爆弾を
    積んだ飛行機が飛行機もろとも自分たちに突っ込んでくる行為が、継続的かつ
    組織的に行われることを予想していなかった。 このため日本軍の特攻への
    対処が遅れ、被害が拡大した。 特攻隊が、敷島隊のような戦果を挙げ続けて
    いたのであれば、第二次世界大戦の流れは変わっていたかも知れない。 しかし、
    現実は異なっていた。
     
    米軍は、特攻の意図を知り、対処を進めた。 特攻機の第一目標は航空母艦で
    あった。 しかし、空母は、レーダーを駆使し、空母群と特攻隊の進路の間に
    護衛機や戦艦なども多数配置していたため、特攻隊は、目標に体当たりする
    どころか、対空砲火により、近づくことさえ困難となった。
     
    特攻隊員は、実際に特攻を行う際に、自分が死ぬ瞬間まで、本当に敵に突撃したか
    どうかを本部へ知らせるため、自分でボタンを押し続けて、モールス信号を発した。
    『ツー』という、モールス信号の音が長ければ、敵艦に突撃したと判断され、
    短ければ、対空砲火で撃墜されたと言う意味。 モールス信号が途切れた瞬間が
    死の瞬間。

    【泣ける】涙なしでは見られない…特攻隊員の想いがたくさんつまった遺書

    大日本帝国では、敗戦まで特攻が続けられたが、特攻による戦死者は、海軍
    2,431人、陸軍1,417人となっており、計3,830人の命が奪われた。 その一方、
    実際に敵艦を撃沈した戦果は以下の通りとなっている。

    正規空母 0
    護衛空母 3
    戦艦 0
    巡洋艦 0
    駆逐艦 撃沈13
    その他(輸送船、上陸艇など)撃沈 31

    敵艦撃沈数は47隻で、1隻沈めるために、81人もの兵士が死ななければなら
    なかった。 但し、この戦果の殆んどは、米軍にとっては、余り影響の少ない
    小艦艇ばかりだった。

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    ロシア第2の都市サンクト・ペテルブルクの地下鉄で起きた爆破テロ事件で、地元
    メディアは実行犯とみられる男がキルギス共和国出身でロシア国籍の男だと報じた。

    実行犯と見られる男は、1995年生まれのキルギス共和国出身、ロシア国籍の
    アクバルジョン・ジャリロフと報じられた。 この爆破テロ事件は、2017年4月3日
    午後2時半頃、サンクト・ペテルブルク中心部を走っていた地下鉄車内で起きた。
    タス通信によると、これまでに14人が死亡、更に49人が現在も入院中であると
    発表した。



    ソ連時代は、民族対立や人種差別が全くと言っていいほどなかったロシアだが、
    最近は、中央アジアや、ウクライナからの移民や難民が増え過ぎた関係で、
    ロシアと中央アジアとの関係が緊迫している。 そういうところに、このような
    中央アジア出身者によるテロ事件が起きると、アジア人やウクライナ人に対する
    差別が目に見えて増えるため、暫くは情勢不安定になると見るのが妥当。

    180を超える超多民族国家のロシアでは、誰が何人とはハッキリと言えない位に、
    色々な民族が入り混じって生活をしているため、一度争いが起きると、歯止めが
    掛からない。 特に、キルギスは、ロシアにとって、カザフスタンと並んで、
    最も仲が良い国なので非常に残念。

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    近年、モスクワなどでも、移民が増え過ぎて、ロシア人でも仕事がなかなか
    見つからないという話を時折耳にする。 キルギス人は、本来、皆真面目で
    温厚な人が多いが、どうして、こうなってしまったのか? ここ数年、
    中央アジア人は、かなり差別をされており、なかなか仕事が見つからないため、
    こうなってしまったのか。。

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    イギリスとアイルランドの間で争われて来た北アイルランド紛争は、2010年に司法、
    警察権がイギリスから北アイルランド自治政府に完全移行したことで、1998年に
    結ばれた和平合意の主目的だった住民自治が完成した。 30年近くに渡る
    プロテスタント系とカトリック系住民同士の対立で、3,500人もの人々がテロの犠牲に
    なった紛争も、これでようやく終章を迎えたことになる。

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    背景には、アメリカで起こった9.11テロ事件で深まったキリスト教対イスラム教という
    『文明の対立』論争が、イギリス、アイルランドの双方に、テロは絶対悪だと思わせる
    効果を生んだことがあるとも言われている。

    北アイルランド紛争は、民族、宗教、領土という3つの要素が絡んでいた。 そもそも、
    イギリスによるアイルランドの植民地化が進んだのは、12世紀にローマ法王が
    イギリスのヘンリー2世にアイルランドの領有権を与えることに始まる。

    時代と共に、プロテスタント系の移民が急増し、アイルランドに古くから住むカトリック系
    住民と対立。 18世紀になると、イギリスに対するアイルランド人の武装蜂起が頻発
    したが、全て鎮圧されてしまう。 19世紀半ばの大飢餓では、人口の60%に当たる
    500万人もが祖国を見限って、アメリカやカナダへ移住して行った。

    第一次世界大戦終了後の1922年、アイルランドは、自治権を獲得したが、プロテスタント系
    の多い北部地域をイギリス領として残したことが火種となった。 1949年、アイルランド
    共和国が誕生したが、この時も北部はイギリス領のままだった。 危機感を抱いたのは
    北部に残された少数派のカトリック系住民だった。 彼らは、イギリス自治権を要求
    したが、これを押し潰そうとする多数派のプロテスタント系住民と衝突した。

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    1969年になると、イギリスが北アイルランドに軍隊を投入、直接統治を始めたことに
    反発したカトリック系住民が『IRA(アイルランド共和国軍)』という武力組織を結成、
    イギリスに対するテロ活動を活発化させた。 IRAは、テロ集団だとするイギリスと、
    イギリス軍が撤退しない限り闘争を止めないとするIRAの間で、一切の妥協はなく、
    犠牲者の数だけ増えて行った。 和平合意がなったとは言え、北アイルランドは紛争
    では、被害者が出なかった家族はないと言われる程癒しがたい傷を残した。 住民達は
    今でも街を流れるフォイル川を挟んで、別々に暮らすなど、対立が生んだ亀裂も深く、
    本当の和解への道のりはまだこれからとなっている。

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    1991年6月になると、スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアからの独立を宣言した。
    それに反対するセルビア人中心のユーゴスラビア連邦軍は、スロベニアに介入。 だが、
    綿密な計画と戦略、それに国民の9割がスロベニア人だったこともあって、10日間で
    スロベニアは独立を果たす。 しかし、クロアチア紛争は違った。 ユーゴスラビア王国
    当時からの懸案とされていた、セルビア人とクロアチア人の激しい民族対立が再燃した
    のだ。

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    6月25日の独立宣言以降、クロアチアでの戦闘は、クロアチア国内に残留したセルビア人
    との間で続いた。 しかし、9月になってユーゴスラビア連邦軍(実質的にはセルビア人
    中心の軍隊)が、クロアチアの首都ザグレブを襲撃するにおよび、大規模な戦闘に発展、
    民族紛争は、本格化した。 特に、クロアチア人とセルビア人が混住するスラボニア地区
    での戦闘では、死者3000人を数えたが、元々は仲良く暮らしていた隣り同士だった。

    アメリカ、ロシア、EU、国連などが調停を試みたが、双方の憎しみは深く、クロアチア軍は
    何度もセルビア人自治区に攻勢を掛け、略奪、暴行、虐殺の限りをつくした。 この結果、
    セルビア人自治区は全て制圧され、1995年に内戦は終結した。

    クロアチア紛争を契機に、1992年に独立したボスニア・ヘルツェゴビナでも紛争が起きた。
    430万人の人口のうち、33%を占めるセルビア人の反発を無視し、人口比17%の
    クロアチア人と44%のボシュニャク人(イスラム教徒)が、独立を問う住民投票を独断で
    進めた結果の宣言だった。 不満を抱いたセルビアは、大規模な軍事行動を開始。
    内戦は3年以上にもおよんだ。

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    【民族浄化】

    この内戦では、民族浄化と呼ばれる異民族排除の政策がとられた。 民族浄化とは、
    ある地域を民族的に単一なものにすることを目的に、嫌がらせや差別的な待遇、資産の
    強制接収や略奪など、異民族が退去せざるを得ない状況に追いやる方法がとられたり、
    戦闘能力があると見なされた男は、各地で集団殺害や強制収容の対象とされたりした。
    また、家父長的な男権社会の影響が残るボスニア・ヘルツェゴビナの農村部では、
    強制収用された異民族の女性らを組織的に強姦し、妊娠後しばらくしてから解放する
    ことによって、出産せざるを得ない状況に追い込んだ。 女性を強姦によって妊娠させる
    この方法は、更に多くの異民族の自発的な避難を促すことが出来るからだ。

    このような民族浄化を含め、全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万人、難民、
    避難民200万人が発生、第二次世界大戦後のヨーロッパ最悪の紛争となった。

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    『南スラブ人の国』を意味するユーゴスラビアは、1929年から2003年までの間存在した
    国家で、70年余りの間に、ユーゴスラビア王国(1929年)、ユーゴスラビア民主連邦
    (1943年)、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(1963年)など、5回国名が変わり、
    2003年2月に地球上からその国名が消滅した。

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    最も安定した時代は、チトー大統領の時で、チトーは、『労働者にとってだだ1つの
    資本主義国との違いは、ソビエトでは失業が無い、ただそれだけである』と発言、その後も
    スータリンの指導に反し、経営概念を元に資本の所有者は労働者、経営者は労働者が
    求人するとした企業の自主管理と、各共和国に大幅な自治権を与えた独自の自主管理
    社会主義を建設して行った。

    この当時のユーゴスラビアは『7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、
    3つの宗教、2つの文字、1つの国家』と呼ばれた。 1つの国家として、これほど複雑な
    表現を持つ国は他にはなかった。 裏を返せば、統治の難しさを表した言葉でもあった。

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    【連邦制の崩壊と民族対立】

    1980年、チトーの死去とその後の東欧革命の中で、ユーゴスラビアも徐々に崩壊に
    向かう。 1990年に行われた自由選挙では、各共和国に民主主義色の強い政権が
    生まれた。 ユーゴスラビア時代、政治、経済の最大の拠点となったべオグラードを
    首都に持つセルビアでは、民族主義勢力が推すスロボダン・ミロシェビッチが政権が
    生まれた。 クロアチアでは、フラニュ・ツジマンの民族主義政党が議会の3分の2を
    占める。 ボスニア・ヘルツェゴビナではムスリム(イスラム教徒)が多数派となり、
    モンテネグロやコソボ自治州では、ミロシェビッチ派のクーデターでの支配下に入る
    など、モザイク国家だったユーゴスラビアの崩壊は修復不能の状態に陥った。

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    スペイン自治州のひとつであるバスクは、フランスとの国境ピレネー山脈の西側に位置し、
    北は大西洋ビスケー湾に面している州である。 一般にバスクと呼ばれる地域は、現存
    する他の言語と明確な関係性を持たない、いわゆる孤立した言語とされるバスク語を
    話し、かつ固有な文化を持つ民族が住んでいるという意味で、スペイン自治州だけでは
    なく、国境を挟んだフランス側を含めて指す。

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    バスク人は、ヨーロッパ言語やインド言語を話す民族がヨーロッパ大陸に進出する以前
    から 、この地方に住んでいた。 ことに民族衣装の一部として使われ、第二次世界大戦頃
    からは、軍部に普及し、今では、世界各国の軍隊において広く用いられるようになった
    ベレー帽は、このバスクが発祥の地である。

    19世紀の産業革命以降、この地で産出される鉄鉱石により、バスク地方のビルバオは
    早い時期から重工業地帯として発展した。 これは、同時に雇用の拡大を促したが、
    バスク人以外の民族が大量に流入することで、バスク固有の文化や伝統が破壊される
    ことを恐れるバスク人の民族運動に火を付けることにもなった。

    固有の言語、固有の文化を持って来たバスクに自治政府が生まれたのは、1936年に
    起こったスペイン内乱が切っ掛けだった。 だが、ナチス、ドイツ、イタリアに支持された
    フランコを指導者とする反乱軍に破れ、自治権獲得どころか、地方議会第一党だった
    穏健政党の国民党の解体、更には、バスク語までもが禁止されるなど、厳しい弾圧を
    受けた。

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    斧にとぐろを巻くへびをシンボルにしたバスク分離独立派の組織ETA(バスク祖国と自由)
    は、1959年にこのような弾圧の中から生まれた。 彼らは、バスク国民党から分かれた
    武装過激派組織で、スペインやフランスからの分離独立を目的とする。 1973年には、
    マドリードで、フランコの継承者であり、当時の首相だったルイス・カレロ・ブランコの
    車を爆破し殺害するなど、テロ組織として成長を始めた。 以来彼らは、分離独立に
    反対する政府関係者や軍、警察関係者、ジャーナリスト、知識人などへのテロ行為は
    やむを得ないとした。

    ETAの資金源は、誘拐、強盗、ゆすり、武器取引、それに、強制的な税の徴収である。
    特に、『革命税』は、有名人や企業、商店から徴収するもので、従わない企業には、
    爆破テロや社員誘拐で対抗するなど、相当荒っぽいものとなっている。 1960年代
    からこれまで標的とされ、殺害された人は、800人を超す。

    独特の文化を背景にバスクの独立を求める動きに対する同情や理解は、フランコ独裁が
    続いた1975年頃まではあった。 しかし、それ以降は、無差別テロを繰り返すETAに
    対して反対デモが全土に広がった。 孤立化したETAは、1998年には、一旦無期限
    停戦を宣言したものの、翌1999年には、一方的にこれを破棄、政治家、軍人、
    ジャーナリストなどを標的にしたテロ活動を再開して、40人以上を殺害した。

    21世紀に入っても、2006年には、マドリードのバラハス国際空港での爆破テロ事件、
    2007年には、フランスで、スペイン治安部隊員を射殺、2009年には、マジョルカ島で
    車を爆発させ、警備隊員2人を死亡させるなどの事件を起こしている。

    2010年9月、ETAはビデオで声明を出し、武装闘争の停止を決めたと発表した。
    声明によると、スペイン政府と和平交渉再開の用意があると述べたとされる。
    スペイン政府の当局者は、事態打開への一歩前進だが、恒久的な武装解除が示されて
    いないとして、慎重な姿勢を崩さないという。 ETAがテロ活動に完全に終止符を
    打つのは難しいだろうという懐疑的な意見がまだ多い。

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    ウズベキスタンは、ソビエト時代の民族別国境画定(1924年~1925年)によって、
    人為的に国境が定められて来た。 フェルガナ盆地の東端がウズベキスタンと
    キルギスに分割され、更に1929年には、ウズベキスタンの一自治州だった
    タジキスタンが連邦構成国へと昇格したことで、現在の国境線が画定された。
    ソビエト連邦崩壊後、かつての共和国が民族や宗教、それに領土をめぐって
    憎しみ合ったり、紛争に至ったりする原因は、ウズベキスタンも同じだ。

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    1999年8月、JICA(国際協力機構)から派遣された日本人技師4人が拉致された
    事件で、犯行声明を出したのは、『ウズベキスタン・イスラム運動(IMU)』と呼ばれる
    イスラム原始主義をうたったテロ組織だった。

    IMUは、1998年に組織され、創設者は、原理主義者のタヒル・ユルダシェフとソ連の
    落下傘部隊出身のジュマ・ナマンガニ。 彼らは、ウズベキスタンのカリモフ政権
    打倒を掲げていたが、本音はウズベキスタン、タジキスタン、キルギスの3国に
    またがるフェルガナ盆地に、イスラム国家を樹立することだった。

    IMUがその名前を知られるようになったのは、1992年、隣国タジキスタン共和党系
    政府と、イスラム系野党勢力タジキスタン・イスラム復興党の間で起きた内戦で、
    野党の信任を得て参加したことだった。 そしてこの時、パキスタンのペシャワルで
    オサマ・ビンラディンと繋がったという。 その後IMUは、タジキスタンやタリバン
    支配下のアフガニスタンをベースに、武装闘争を宣言、1999年から2000年には、
    ウズベキスタン政府軍への攻撃を続けていた。

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    創設者の1人、ナマンガニは、2001年10月に『テロとの戦争』 を遂行する北部同盟
    および、アメリカ軍との戦闘で戦死。 ユルダシェフは、2009年にパキスタンの
    部族地域のひとつ、ワジリスタンでアメリカ空軍の攻撃を受け死亡した。

    アメリカのアフガニスタン侵攻後、ウズベキスタンやタジキスタンのイスラム武装組織の
    力は弱体化したと言われている。 しかし、IMUは、以前アフガニスタンとの国境
    地帯で活動中であり、タジキスタンの反政府勢力も、首都ドゥシャンベ市内で2007年~
    2009年に7件の爆弾テロ事件を起こすなど、以前不安定な状況にある。

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    ロシア連邦、中国、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンと国境を接し、カスピ海
    にも面したカザフスタンは、国土の大部分が砂漠やステップ地帯である。 人が住める
    場所は限られていて、人口の大半は、首都のアスタナやアルマトイといった一部の地域に
    住む。

    kazakhstan

    ソビエト連邦が崩壊した後は、カザフスタン共和国として独立したが、ロシアを中心とする
    独立国家共同体(CIS)に加盟、ロシアとは良好な関係を結んでいる。 国民の6割近くが
    カザフ人で、残り3割をロシア人が占め、その他にも、ウクライナ人やウズベク人も住んで
    いる。 宗教もイスラム教とロシア正教が中心となっている。

    ソビエト連邦を構成していた他の共和国とは異なり、大統領のヌルスタン・ナザルバエフは
    ソ連時代から今日までずっと大統領職にあり、強力なリーダーシップを発揮している。
    一見、安定した国家のように見えるが、アルマトイでは、反ナザルバエフ派の市長が
    殺されたり、2006年には、野党連合の共同議長が射殺死体となって発見されるなど、
    事件が続き、この時は、容疑者として、国家保安委員会のメンバー5人が逮捕されている。

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    日本の7倍もある国土は長大で、全ての国境を警備することは不可能に近い。 特に、
    2001年の9.11テロ以降は、テロ組織アルカイダや外国の反政府組織のメンバーらが
    潜伏するのに好都合とばかりに、出入りしている事実もあり、中でもウズベキスタンとの
    国境は、厳重な警備が敷かれている。

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    北にロシア、西に黒海、南にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンに囲まれたグルジアは、
    ソビエト時代には、連邦構成国のひとつだった。 1985年にミハイル・グルバチョフが
    ソ連の指導者になって以降、ソ連からの独立を宣言する共和国が続出、グルジアも
    1990年末に国名をグルジア共和国と改名し、翌1991年4月に独立を宣言したが、
    ソ連の崩壊で独立は完全なものとなった。

    独立後もグルジアは、強固なグルジア民主主義の下、欧米との関係強化を打ち出し、
    その後、日本語での国名をジョージアと改名した。 ロシアとは一貫して距離を置いたが、
    皮肉にも、この民族主義は、親ロシア路線を取る南オセチアのオセット人や、イスラム
    教徒であるアブハジア人など、国内に住む少数民族の民族主義にも火を付けた。

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    グルジアからの分離を要求して、1989年に一度独立を宣言したものの、この時は、
    グルジア軍によって武力で押さえつけされた南オセチアでは、分離独立を求める運動が
    再燃、グルジア軍は、再び銃で対抗するなど、国内は安定せず、初代大統領となった
    ズビアド・ガムサフルディアの強権政治がもたらした政情不安や治安の悪化で、国内は
    内戦状態に陥った。

    1992年1月、ガムサフルディアがクーデターによって追放されると、エドゥアルド・
    シュワルナゼが政権の座に就いた。 シェワルナゼは、ソ連最後のゴルバチョフ政権で
    外務大臣を務めた人物だった。

    シェワルナゼ政権の下で、11月には南オセチアとの間に停戦が成立。 南オセチア、
    グルジア、南オセチアの3者による平和維持軍が置かれ、事実上独立国状態となった。
    2004年には、新しく野党のミハイル・サアカシュヴィリがグルジアの大統領に選ばれた。

    親欧米、反ロシア色は、サアカシュヴィリ政権下で更に鮮明になり、2006年3月には、
    ロシア政府がグルジア産のワインの輸入禁止措置を取ったことに反発。 9月には、
    グルジア軍の治安当局が、ロシア将校ら10数名をスパイ行為で逮捕。 2008年には、
    ロシア軍が平和維持軍として駐留し、事実上独立状態にあった南オセチアにグルジア軍が
    侵攻、ロシア軍と戦闘状態に突入した。

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    2008年8月7日、グルジアの陸海軍が突如南オセチアの首都ツヒンバリへの軍事行動を
    開始した。 これに対し、ロシア軍は、南オセチアに軍港進攻させて、グルジア軍との
    戦闘に入った。 5日間の激しい戦闘の末、グルジア軍は、南オセチアから撤退。
    8月15日には、フランスの仲介で、グルジアは、ロシアとの休戦協定に調印した。
    同26日は、ロシアは、アブハジアと共に南オセチアの独立を承認、国際社会の同意を
    得たロシア軍は、10月にはグルジア領内から完全に撤退した。

    紛争の直接的な原因は、南オセチアの分離独立だが、ロシアにとってグルジアは、
    カスピ海産原油のパイプライン敷設など、南の玄関口である黒海に繋がる要の位置に
    ある重要な国でもある。

    紛争の背景には、表の顔(分離独立)の他にもうひとつ、大国の思惑(原油などの地下
    資源確保)がある。 グルジアでの1週間にも満たない戦闘で、南オセチア側では、
    2,000人以上、グルジア側でも200人を超す民間人が犠牲となった。 また、双方
    合わせて23万人余りが難民となった。

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    共に中央アジアに位置するアゼルバイジャンとアルメニア。 黒海とカスピ海に
    挟まれたカフカス山脈の南に隣り合う両国は、アゼルバイジャンにある
    ナゴルノ・カラバフ自治州をめぐって泥沼の争いを続けて来た。 根底には、
    民族と宗教が絡んでいる。

    nagkab

    トルコと友好関係にあるアゼルバイジャンは、元々は、イスラム教の国で、国民の
    95%がイスラム教徒となっている。 一方、ロシアとは強固な関係を築いて来た
    アルメニアは、キリスト教の国。 ソビエト時代には、連邦内の民族自決を弱める
    ために、宗教や民族間の分断を狙ったスターリンの政策で、キリスト教とである
    アルメニア人が多数を占めるナゴルノ・カラバフは、アゼルバイジャンの自治州に
    組み込まれていた。

    1988年、同自治州の人口の8割を占めるアルメニア人はが、アルメニアへの帰属を
    求めたところ、アゼルバイジャンは要求を拒否しただけではなく、自治州まで廃止し、
    直轄統治という強引な措置に出たため、火種はくすぶり出した。

    1991年のソビエト崩壊に伴って、両国が独立を果たすと、アルメニア人のアルメニアへの
    帰属を求める民族意識は一気に燃え上がった。 紛争の勃発は1992年、ナゴルノ・
    カラバフが一方的に独立を宣言したことにある。 アゼルバイジャンは経済封鎖などで
    対抗したが、アルメニアは、当然ながら戦闘状態に突入した。

    1994年、ロシアとフランスの仲介により、停戦が成立したが、停戦案の中身は、戦闘で
    アルメニアが占拠したアゼルバイジャンの領土は返還しなければならない、ナゴルノ・
    カラバフはアゼルバイジャンに帰属し、自治共和国として昇格するなどと定められた
    ことから、アルメニア側は反発、今も解決の目処が立っていないが、実質上は、
    アルメニアの支配下にある。

    更に、2009年、アルメニアは、 宿敵トルコとの間で国交正常化が実現したが、ここでも
    ナゴルノ・カラバフ紛争をめぐる文言にアルメニア側が反発、正常化はほど遠い現状と
    なっている。

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    ロシアやフランス、トルコを始め、欧米などの仲介が上手く行かない背景には、バクー
    油田など豊富な天然資源がアゼルバイジャンの経済を支えて来た現状があり、
    更に、ヨーロッパ向け原油パイプラインに対する欧米の直接投資や原油高に伴う
    収益が、国内経済成長を後押ししているという現状に、仲介側が配慮せざるを得な
    かったという事情がある。

    その影で、この紛争では、2万人の犠牲者と100万人以上の難民が発生した。

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    【16世紀に始まったロシア帝国の侵略】


    ロシア連邦チェチェン共和国は、モスクワの南1500キロの場所にに位置し、面積は、
    日本の四国よりも少し狭い約1万7000平方キロメートルである。 このあたりの一体は
    北コーカサス地方と呼ばれ、寒いロシア連邦の中では、温暖で豊かな地域である。

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    北コーカサスには、多くの少数民族が住むが、チェチェン人は約6000年前から暮らして
    いたと言われ、チェチェン語はロシア語とは全く異なる言語で、現在では住民の殆どが
    イスラム教徒となっている。

    帝政ロシアは18世紀から、コーカサス地方の征服を始めるが、チェチェン人らは、これに
    抵抗して来た。 エカテリーナ2世の時代に戦争が本格化し、1785年にチェチェンで
    大規模な反乱が起こった。 それ以降戦争が続き、1859年に抵抗の指導者シャミーリが
    ロシア帝国に降伏。 その5年後にチェチェンはロシア帝国に併合された。

    1917年に起きたロシアの十月革命は、チェチェン人らコーカサスの諸民族が独立を
    勝ち取る希望ととらえられた。 翌1918年には、コーカサス諸民族が集まり『山岳共和国』
    の成立を宣言した。

    しかし、革命政権『ボリシェビキ』、革命に反対する白軍、地元コーカサス諸民族が3つ巴の
    戦争状態となり、1924年には山岳共和国は廃止されて、チェチェンやその他の民族は、
    ソビエト連邦の領土として支配された。 つまり、帝政ロシアが革命で倒れた民族独立が
    達成されるかと期待されたが、新たにソビエト革命政権に組み込まれてしまったのだ。

    第二次世界大戦末期の1944年2月、ソ連政権はチェチェン人がナチスドイツに協力を
    したとして、チェチェン民族を全員貨車などに押し込めて中央アジアのカザフスタンに
    強制移住させた。 貨車での移動中に大量の人々が死に、強制移住先での病気や
    餓死などで、民族の半分を失った。

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    【独立宣言と2つのチェチェン戦争】


    ソビエト連邦崩壊直前の1991年11月、チェチェン共和国は独立を宣言した。 ソ連に
    代わったロシアは、特殊部隊などを派遣して独立運動の弾圧を試みたが失敗し、ついに
    1994年12月にロシア軍が全面侵攻し、第一次チェチェン戦争が始まった。

    ロシア軍は非武装の住民をも攻撃し、また、独立派ゲリラを探し出すために大量の
    住民を逮捕して『選別収容所』に送った。 このため、国際的にも非難の声が高まった。
    1996年8月、8万人以上の犠牲者を出しながら、独立問題は棚上げをしたまま停戦協定が
    結ばれて、戦闘は終わった。

    その後、中東などからイスラム急進主義者達がチェチェン領内に流入するようになったが、
    ロシア当局は、それを見逃していた。 1999年8月、チェチェンのイスラム武装勢力が
    隣国のダゲスタン共和国に侵攻する。

    また同月から9月に掛けて、ロシア各地でアパート爆破テロが連続し、合計300人が死亡
    した。 ロシア政府は、チェチェン独立派勢力のテロだと断定し、9月にはチェチェン攻撃を
    再開した。 この第二次チェチェン戦争は、2009年4月16日に国家対テロ委員会が
    独立派の掃討が完了したとして、対テロ作戦地域からの除外を発表、10年の長きに
    渡った紛争が終結したものの、連続爆弾テロに関しては、多くの謎と疑問が指摘された
    ままで、未だに解明されていない。

    第二次チェチェン戦争では、前回を上回る激しい攻撃により、2000年春までにロシア軍が
    チェチェンの主要部分を占領した。 2003年にはチェチェン共和国で大統領選挙を
    行い、ロシアの全面支援を受けたカディーロフ政権が正式に樹立され、今もチェチェンを
    統治している。

    人口100万人の地域で、20万人の犠牲者を出す残虐な戦争だった。 戦闘が終息に
    向かっても、ロシア軍やロシアに援助された傀儡政権による住民連行は後を絶たず、
    人権上大きな問題となっている。 国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチの
    モスクワ支部によると、2000年から2004年までの間だけでも、約1万8000人の
    行方不明者を出しており、未だ解決されていない問題となっている。

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    【第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム】

    2002年
    モスクワ劇場占拠事件 - 169人死亡
    首都グロズヌイの政府庁舎爆破 - 72人死亡

    2003年
    共和国北西部の行政庁舎爆破 - 60人以上死亡
    モスクワ野外コンサート会場爆破 - 15人死亡

    2004年
    モスクワ地下鉄爆破 - 41人死亡
    グロズヌイの対独戦勝記念式典を爆破
    親ロシア派のチェチェン共和国大統領アフマド・カディロフなど30人死亡
    イングーシ共和国内務省などを襲撃 - 約90人死亡
    モスクワ発旅客機同時爆破 - 80人以上死亡
    モスクワ地下鉄駅付近爆破 - 約10人死亡
    北オセチア共和国ベスラン学校占拠事件 - 322人死亡

    2005年
    カバルジノ・バルカル共和国首都ナリチク同時襲撃事件

    2006年
    イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致しチェチェン共和国からの
    ロシア部隊撤退を同国政府に要求。要求が拒否されたため外交官を殺害。
    アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件

    2007年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    【紛争終結宣言以降の第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム】

    2009年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    2010年
    モスクワ地下鉄爆破事件

    2011年
    ドモジェドヴォ空港爆破事件

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