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    カテゴリ: 中央アジア

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    アルメニアが実効支配するアゼルバイジャン領ナゴルノ・カラバフ地域をめぐる
    紛争で、トルコがアゼルバイジャンへの軍派遣へ動き始めた。 現地では、44日間の
    軍事衝突の末に停戦合意が発効したばかり。 派兵は停戦監視にあたるロシア軍との
    「共同活動」を目的とするが、関係国の警戒心は強い。 支配地の多くを失う
    アルメニアの混乱も続き、和平を見通せなくなっている。

    「停戦合意は重要だが、あいまいさは取り払わなければならない」とフランスの
    ルドリアン外相は11月17日、議会でこう語り、合意を仲介したロシアに対し、
    停戦でトルコが果たす役割について説明を求める考えを強調した。 フランスは
    ロシア、米国と共に1990年代から続く和平競技の共同議長国となっている。

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    停戦合意が発効したのは11月10日。 その翌日、トルコのエルドアン大統領は
    与党の会議で「ロシアと共に停戦監視の役割を担う」と発言した。 停戦合意は
    アルメニアがナゴルノ・カラバフ地域の一部を残し、90年代から支配して来た
    周辺地域をアゼルバイジャンに引き渡すとしている。 ロシア軍が停戦監視を
    担うことも決まっている。

    だが、発表された和平合意の声明にトルコに関する記述はなかった。 関係国に
    疑心が広がったのは、直後にエルドアン氏と共にロシアのプーチン大統領が
    電話協議し、トルコ側が両国による停戦監視のための「共同センター」設置が
    決まったと発表したからだ。



    トルコ議会は11月17日、期限を1年とするアゼルバイジャンへの軍派遣を承認した。
    9月末の衝突開始以来、エルドアン氏はアゼルバイジャンの軍事行動を支援する
    発言を繰り返して来た。 トルコとアルメニアの間には、第一次世界大戦中の
    アルメニア人迫害をめぐる歴史論争があり、アルメニア系住民が暮らすナゴルノ・
    カラバフ付近でトルコ軍が活動すれば、アルメニアを刺激するのは避けられない。

    ロシアもトルコとの「共同センター」設置の合意は認めている。 プーチン氏は
    11月17日夜に国営テレビで「アゼルバイジャンの要請だった」と明かした。
    但し、活動内容については、あいまいで、センターの場所やトルコ軍の派遣規模は
    不明なままとなっている。

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    停戦合意の直前、アゼルバイジャン軍は、ナゴルノ・カラバフ第二の都市シュシャを
    制圧。 事態が緊迫する中、ロシアはアゼルバイジャンを支えるトルコの納得を
    得るため、停戦交渉の枠外で妥協を強いられた可能性がある。

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    2020年9月27日の朝、アゼルバイジャンとアルメニアの係争地となっている
    アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ共和国)を巡り、ナゴルノ・カラバフ
    境界沿いで軍事衝突が勃発した。 アゼルバイジャンとアルメニア双方共に
    相手国が先に攻撃したと主張しているが、この衝突はトルコからの影の支持を
    取り付けたアゼルバイジャンによって開始された可能性が高く、主要攻撃目標は
    山岳地帯の少ないナゴルノ・カラバフ南部とされた。

    アゼルバイジャン側の発表によれば、11月8日にナゴルノ・カラバフ南部要衝の地
    であり、第2の都市であるシュシャが陥落した。 折りしも11月9日は、
    アゼルバイジャン国旗の日であるため、アゼルバイジャン軍が集中的に南部を
    砲撃したと見られる。 下記の停戦合意により、シュシャは、今後は
    アゼルバイジャン領となる。

    【3分割されたナゴルノ・カラバフ】
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    元々この地は、スターリンの時代に、隣国同士を反目させるために、わざと
    中央アジア諸国間の国境線を複雑にした歴史的な経緯があり、長年に渡り、民族間の
    対立や散発的な小競り合いが絶えなかった。 国連や多数の国々がこの軍事衝突を
    強く非難し、停戦交渉を再開するよう双方に求めた一方、アフガニスタン、
    パキスタン、イスラエル、トルコはアゼルバイジャンへの支持を表明した。 また、
    フランスがアルメニアへの支持を表明し、イランもアルメニアを支持したが、
    地域の安定化を求める声を無視しての支持だとして非難されている。 尚、
    サウジアラビアとアラブ首長国連邦は、アルメニアを支援したと考えられている。

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    【停戦合意と平和維持活動】

    欧州安全協力機構ミンスクグループの仲介により、アルメニアと
    アゼルバイジャンは、2020年10月10日正午からの停戦と協議開始で合意したが、
    停戦合意後も戦闘は続き、10月17日には軍事衝突の鎮静化を図るため、10月18日
    0時から2度目の停戦で合意した。 しかし、停戦が履行される気配はなく、
    10月25日にはアメリカ合衆国の仲介によって10月26日8時から3度目の停戦で
    合意したが、合意後も戦闘が続き、4回目の停戦合意はロシアのプーチン大統領の
    仲介により、両当事国が停戦協定に調印、モスクワ時間11月10日午前零時
    (日本時間同日午前6時)に発効した。 今回の紛争の実態は、
    アゼルバイジャン軍の勝利、アルメニア軍の敗北(降伏)となっている。

    ロシアは、今後5年間、ナゴルノ・カラバフでの平和維持活動に当たり、同国
    西部のウリヤノフスク・ボストーチヌイ空港から、配備に必要な1,960人の
    要員と軍用車両、更に、戦闘ヘリコプターなどを大型輸送機で移送した。
    平和維持軍は、ナゴルノ・カラバフに展開する両軍の最前線と、アルメニアから
    ナゴルノ・カラバフに通じる「ラチン回廊」に沿って監視所を設置する予定で、
    司令部は首都のステパナケルトに置かれる。

    ナゴルノ・カラバフは、アゼルバイジャン西部、ウクライナの国境から50キロ
    程度に位置し、1994年の戦争終結以降、アルメニアが実効支配して来た。
    今回の戦争では、約3,000人が犠牲になったと見られている。 但し、
    アルメニア軍は自軍戦死者数を毎日発表しており、11月9日現在の累計
    戦死者数は1,221人となっているが、アゼルバイジャン軍は戦争開始以来、
    1度も自軍戦死者数を発表していないため、戦死者数が、大幅に上回っている
    可能性も否定出来ない。

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    【ナゴルノ・カラバフ戦争停戦に関する声明文】
    アゼルバイジャン・アリエフ大統領、アルメニア・パシニャン首相、ロシア・
    プーチン大統領

    我々は、ナゴルノ・カラバフ戦争停戦で合意、下記声明を発表する。

    1. ナゴルノ・カラバフ紛争地域における全面的停戦と戦闘行為中止をモスクワ時間
    2020年11月10日午前零時に実施する。 アゼルバイジャン共和国とアルメニア
    共和国、(以後“当事国”)は確保した現在の位置に留まる。

    2. アグダム地区とアルメニア側が確保しているアゼルバイジャン共和国ガザフ
    地区は、2020年11月20日までにアゼルバイジャン側に返還する。

    3. ナゴルノ・カラバフの境界線とラチン回廊沿線に、1,960人のロシア平和
    維持軍が展開する。 平和維持軍の装備は90輌の装甲車、380台の車両と
    特殊機材車とする。

    4. ロシア平和維持軍は、アルメニア軍の撤収と並行して、5年間の期間で駐留する。
    もし、双方が半年前までに反対を表明しない場合、平和維持軍の駐留期間は
    自動的に5年間延長される。

    5. 停戦合意事項の管理を効率的に実施すべく、平和維持センターを設置する。

    6. アルメニア共和国は2020年11月15日までにケルバジャル地区を、12月1日までに
    ラチン地区をアゼルバイジャン共和国に返還する。 但し、ラチン地区に
    関しては、アルメニアとナゴルノ・カラバフを接続する幅5キロの回廊を保証する。

    7. 国内の避難民と難民は国連難民高等弁務官事務所管理の下、ナゴルノ・カラバフ、
    および、その周辺地区に帰還する。

    8. 捕虜、拘束者、遺体の交換を行う。

    9. アルメニア共和国は、アゼルバイジャン西部と(アゼルバイジャンの飛び地)
    ナヒチェヴァン自治共和国を接続する輸送路建設を保証する。 輸送路管理は、
    露連邦保安庁傘下の国境警備隊が行う。

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    2020年10月5日、中央アジア・キルギスの首都ビシケクで議会選の結果に抗議する
    デモが起こり、野党勢力は6日までに政府庁舎を次々と占拠し、首都は騒乱状態と
    なった。 事実上の政変とみられる。 政変の背景には、ジェエンベコフ大統領派と
    汚職で有罪となり投獄されたアタムバエフ前大統領派の強い確執があるとみられる。

    前日に投開票された議会選(1院制、定数120)の不正を訴える野党支持者らが
    数千人規模の抗議活動を行い、治安部隊と衝突したとタス通信などが伝えた。
    保健省の発表では1人が死亡し、約690人が負傷した。 デモ隊は政府庁舎などを
    奪取し、収監中のアタムバエフ前大統領らを解放。 中央選挙管理委員会が
    選挙結果の無効を宣言するなど混乱が続いている。

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    タス通信などによると、4日の議会選には16の政党が参加。 中央選挙管理委員会の
    暫定結果では、議席獲得に必要な得票率7%を超えた政党は4党だけで、このうち
    野党は1党のみで、政権に近い勢力が多数を占める見込みとなった。

    議席を得られない野党勢力は5日、選挙の不正を訴え、首都ビシケクなどで抗議
    活動を始め、排除を試みる治安部隊と衝突した。 一部は大統領府や議会などに
    侵入し、汚職などの罪で有罪判決を受けたアタムバエフ氏ら収監中の政治家を
    相次いで解放するなど、混乱は夜通しで続いた。

    野党側は「犯罪的な政権の打倒」を宣言し、新内閣の組閣に向けた調整評議会を
    設置。 地方知事の辞任表明も相次ぎ、ビシケクでは警察が姿を消し、臨時の
    市長が任命されたという。 一方、ジェエンベコフ大統領は6日、「非合法な権力
    奪取の試み」を批判。 事態沈静化に向け、選挙に参加した野党も含む全政党に
    協議を呼びかけているが、混乱が長期化する恐れがある。

    キルギスはソ連崩壊後に独立した中央アジア5カ国のうち「最も民主的」と呼ばれ、
    2005年と10年には野党主導の抗議活動の結果、当時のアカエフ、バキエフ
    両大統領がそれぞれ亡命した。 元首相のジェエンベコフ氏は17年の大統領選で
    初当選。 2019年8月には対立していたアタムバエフ氏を汚職容疑で拘束した。
    最近は新型コロナウイルスの感染拡大により経済状況が悪化し、政権への不満の
    広がりも伝えられていた。

    ジェエンベコフ大統領は「政権奪取の試みがあった」と批判し、対話を呼び掛けた。
    しかし野党側は大統領退陣、新たな政府樹立を要求し、情勢は一気に緊迫した。

    歴代統領一覧
    Flag of the Kyrgyz Soviet Socialist Republic.svg キルギス・ソビエト社会主義共和国
    キルギスの旗 キルギスタン共和国大統領
    大統領所属政党在任期間備考
    11Askar Akaev MoscowRia 08-2016.jpgアスカル・アカエフ
    Аскар Акаевич Акаев
    無所属1990年10月27日
    1991年8月31日
    キルギスの旗 キルギスタン共和国・キルギス共和国大統領
    大統領所属政党在任期間備考
    1-Askar Akaev MoscowRia 08-2016.jpgアスカル・アカエフ
    Аскар Акаевич Акаев
    無所属1991年8月31日
    1991年10月29日
    11991年10月29日
    1995年10月29日
    21995年10月29日
    2000年10月29日
    32000年10月29日
    2005年3月24日
    辞任
    -Replace this image JA.svgイシェンバイ・カドイルベコフ
    Ишенбай Дүйшөнбиевич Кадырбеков
    無所属2005年3月24日
    - 2005年3月25日
    大統領代行
    -Kurmanbek Bakiyev.jpgクルマンベク・バキエフ
    Курманбек Сали уулу Бакиев
    キルギスタン人民運動2005年3月25日
    - 2005年8月14日
    大統領代行
    242005年8月14日
    2007年11月5日
    2アク・ジョル2007年11月5日
    2009年7月23日
    新党結成
    52009年7月23日
    2010年4月7日
    辞任
    -Roza Otunbaeva.jpgローザ・オトゥンバエヴァ
    Роза Исаковна Отунбаева
    キルギス社会民主党2010年4月7日
    - 2010年5月19日
    臨時政府
    2010年5月19日
    - 2010年7月3日
    暫定大統領
    362010年7月3日
    2011年12月1日
    議院内閣制を導入
    472012-03-20 Almazbek Atambayev.jpegアルマズベク・アタンバエフ
    Алмазбек Шаршенович Атамбаев
    キルギス社会民主党2011年12月1日
    2017年11月24日
    58Sooronbay Jeenbekov at the Eurasian Intergovernmental Council meeting, 7 March 2017.jpgソーロンバイ・ジェーンベコフ
    Сооронбай Жээнбеков
    キルギス社会民主党2017年11月24日
    - (現職)
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    アルマアタ(アルマトゥイ)

    アルマアタ(アルマトゥイ)近郊、標高1,700mにあるメデオスタジアム。
    冬はこのスタジアムがスケートリンクになりますが、春のため、氷は張って
    ありませんでした。 この場所は26年前にも1度来ているので、もう1度来て
    見たかった。 ただし、26年ぶりの割には、特に何かが変わったという
    雰囲気はなく、昔のままでした。 当時は、スケートリンクではなく、何かの
    スタジアムだったと思います。

    メデオスタジアム
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    メデオスタジアムから上には、更にシャトルバスで登る事が出来ます。 5月初め
    とは言え、まだまだ雪が残っており、スキーが出来るようになっていました。
    この山を越えると、すぐそこはもうキルギス。 アルマアタは、中国にも
    キルギスにも近過ぎるため遷都されたと言われています。

    シムブラク スキーリゾート

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    メデオスタジアムからこの場所には、シャトルバスの他、ロープウェイでも登る事が
    出来ますが、料金がちょっとお高目のため、帰りもシャトルバスで下りる事に
    しました。 高原リゾート地は、スイスを思わせますが、ここはカザフスタンですw
    中央アジアでは、カザフに限らず、鷲を使った狩りが盛んであったため、今でも
    観光地では、この様な風景を見ることが出来ます。 この日は気温5度と若干
    寒かったものの、屋外でのアクティビティーも色々行われていました。

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    初代大統領記念公園

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    メデオスタジアムから地上へと戻り、次の場所へ行く途中で、たまたま通り掛った
    「初代大統領記念公園」。 娘は大統領選で敗れ去りましたが、初代大統領の
    名前は、首都の名前になったり、アルマアタの通りの名前になったりと、今でも
    権力を持っているのが良く分かります。 因みに、デニス・テン選手の自宅が
    あった通りの名前が「ナザルバエフ通り」と改名されました。

    途中から乗り合いタクシーで一緒になったポーランド人が、アルマアタ近郊に
    ある世界で2番目に高い湖である「大アルマアタ湖」に行くと言うので、一緒に
    付いて行くことにしました。 ところが、霧で一寸先は闇w 下界はそこまで霧が
    出ていなかったものの、上に登れば登るほど、霧が行く手を阻みました。。

    湖自体もガチガチに凍っており、仕方がないので、石を投げて氷を破壊して遊び
    ましたw 山頂から少し下ると、霧が晴れて来ました。 途中で、この様な観光客
    向けのユルタがあったため、途中で馬乳酒クムイスと駱駝乳酒シュバットを飲んで
    みたものの、馬乳酒はすっぱ過ぎて、らくだの方がましでした。

    【山頂にある大アルマアタ湖と地下鉄】
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    建設に20年以上もの歳月を要したアルマアタの地下鉄。 建設当時は都市名が
    アルマアタで、国名はカザフ共和国でしたが、完成時には、都市名がアルマトイに、
    国名はカザフスタン共和国へと変更されています。 それプラス、アルマアタは
    遷都されているため、元政府機関の巨大な建物が市内に残骸の様に残っています。

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    ビシケク(フルンゼ)
    ビシケク散策は続きます。 中心部にはソ連時代の建築物が数多く残っているため、
    ソ連を感じたいのであれば、ビシケクはうってつけ。 大型で大げさなデザインは、
    ソ連式共産主義の象徴。 記念碑が妙に多いのもソ連の特徴で、街の至るところに、
    この様な記念碑が建っています。
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    ビシケク中心部を歩いていたところ、大学があったため、中を見に入りました。
    最近は、ロシアの大学とかでも、入り口にゲートが据え付けられており、なかなか
    中まで入るのは難しいものの、この大学には特に何もなかったため、すんなり中へ
    入れました。 地球の歩き方を持たずに適当に散策をしたため、恐らく、キルギス
    国立大学ではないかと思われます。

    ビシケクは緑の多い街で、市中心部でもこんなに緑があります。 晴れているので、
    暖かいように見えますが、この日の気温は5月の初めなのに、何と7度。 ビシケクは
    結構標高が高いため、涼しいを通り越して結構寒い。 よって、ゲストハウスの
    オーナーから、ジャージと傘を借りて出掛けました。

    【ビシケク】
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    楽しかったビシケクともこれでお別れ。 市内から約30キロ離れたビシケク空港に
    向かいます。 キルギスにもYandexタクシーがあるため、オーナーにタクシーを
    呼んで貰いましたが、このゲストハウスでは、色々と話し込んだため、非常に
    お名残り惜しい。 ビシケクに行ったら、またこのゲストハウスに絶対に
    泊まります。

    こちらは、ビシケク空港にあったキルギス土産の数々。 このモンゴルのゲルの様な
    物は、ロシア語では「ユールタ」と言うのだが、学生時代に覚えた単語なのに、
    意外と忘れていませんでした。

    【ビシケク】
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    ビシケク・マナス国際空港から、カザフスタンのエア・アスタナでアルマ・アタへと
    向かいます。 キルギス人に言わせると、カザフスタンは歴史を勝手に書き換えて
    いるそうで、元々は、どちらもキルギスだったとか。 中央アジアの歴史は、
    スターリンによって、かなりの資料を処分されてしまったため、明らかになって
    いない部分が多いものの、中央アジアの第一人者は日本には存在しないため、
    これから中央アジアを研究すれば、誰でも第一人者になれなくもないw マナス
    国際空港の空港コードは、旧名のFRUのまま残っております。

    【ビシケク・マナス国際空港】
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    首都 ビシケク
    ビシケク空港に到着後、そのままタクシーで約30キロ離れたホステル
    Mukarama-Apa へと向かった。 キルギスはカザフスタン程では
    ないものの、国民全員がロシア語を話せるため、旅行が非常に楽♪
    こちらのホステルでは、ロシア在住のキルギス人と2日合わせて合計で
    6時間も延々とお話をしておりました。 ビシケクは、意外と高地に
    位置しているため、外に出ると結構寒いため、ゲストハウスのオーナーから
    トレーナーと傘を借りてビシケクの中心部へと出掛けました。

    ゲストハウス Mukarama-Apa
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    ロシア語圏では、お茶を飲みながら、延々とお話をするのが普通なので、
    ロシア語を話せると非常に便利。 尚、こちらのホステルでは、度々日本人も
    泊まりに来るとのことで、そのお手紙を見せてもらいました。 かなり親日家の
    オーナーで、日本人にもっときて欲しいと申しておりました。

    料理を作って貰ったり、お世話をして貰ったのは、こちらの娘さんかと思いきや、
    翌日オーナーから聞いた話では、ロシアからやって来たお客さまで、体調が
    悪いので、手伝ってもらっただけと申しておりました。 旧ソ連邦内では、
    これまで生活が非常に厳しかったため、皆助け合いの精神だけは、絶対に
    忘れていないのである。

    【ビシケク】
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    ビシケクのゲストハウスから歩くこと30分。 市中心部の政府施設が集中している
    場所までやって来た。 キルギス人は人種的に元々はコーカソイドだったのだが、
    現在のロシア領のトゥヴァ付近から大量の移住者がやって来て、完全に
    モンゴロイド化した民族であるため、見た目的に非常に日本人に似ています。
    一説によれば、「肉が好きな者はこの地に残りキルギス人となり、魚が好きな者は
    東に移動して日本人になった」とまで言われている程、キルギス人は、日本に
    対しては親日意識を持っている。

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    ビシケクの中心地では、巨大なキルギスの国旗を守るため、衛兵がその麓で番を
    していた。 恐らく、定時になると、ロシアの衛兵交代と同じく、衛兵が交代する
    のだと思う。 この付近が政府機関が集中している地域で、キルギスの心臓部と
    言える。

    【ビシケク中心部】
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    トルキスタン (Turkestan / Turkistan) とは、チュルク系民族が居住する中央アジアの
    地域を指す歴史的な地域名称であり、現在のカザフスタン、ウズベキスタン、
    キルギス、タジキスタン、トゥルクメニスタンと中国にまたがっている地域を指す。
    人口順では、ウズベキスタン、中国、カザフスタン、タジキスタン、キルギス、
    トゥルクメニスタンの順にトルキスタン人の人口の割合が多くなっており、中国の
    新疆ウイグル自治区を「東トルキスタン」と呼ぶこともある。

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    ビシケクのソ連時代までの旧名は「フルンゼ」であるため、今でもところどころに、
    このフルンゼの文字が残っている。 ミハイル・フルンゼとは、ソビエト連邦の
    政治家で、ロシア革命前後におけるボリシェヴィキの指導者の一人。 ソ連陸海軍
    人民委員および共和国革命軍事会議議長を務めた人物。 旧ソ連では、革命家の
    名前を採った都市名が多かったのだが、ビシケクもその1つ。 ビシケクという
    都市名は、キルギスの国民酒である馬乳酒を作る時の撹拌器の名前に由来する。

    ビシケク中心部にある遊園地でお腹が空いたため、このハンバーガーを食べたが、
    店員が余りロシア語が上手ではなく、60ソムのことを「600ソムです」と言って
    来たため、「60でしょ?」と返したところ、「ああそうだ」と言って来ましたw
    挙句の果てに、おつりが間違っていたので、突っ込みを入れておきましたww

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    タシケントは、旧ソ連邦内でも第4の都市であったのだが、現在のタシケントは
    旧ソ連時代に拡大したエリアが多く、歴史的建築物は多くは残っていない。
    このため、市内には、余り見る物がないため、とりあえず、地下鉄に乗って街の
    北西部にある昔のタシケントの雰囲気が残るエリアにあるバザールを見に行く
    ことにした。 空港そばにあるホステルからタシケント駅までは、約2キロ、
    徒歩30分の距離。 その前に、無料のホステルの朝食堪能♪ カロリー高めの
    日本の食事と比較しても、ウズベキスタンの食事は素朴なのが良く分かる。

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    とりあえず、タシケント鉄道駅に到着。 1年前の地球の歩き方を持って来て
    しまったため、「地下鉄内では撮影禁止」との記載があったのだが、気軽に
    写真をバシャバシャ撮っても特に何も言われないため、おかしいと思っていた
    ところ、撮影禁止は昨年解除されたとか。 例え何か言われたとしても、
    こちらは、ロシア語で色々と言い返してやるので、特に問題はないのだがw

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    【タシケントの地下鉄】
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    地下鉄ウズベキスタン線のチョルスー駅で降りて、旧市街最大のバザールである
    チョルスー・バザールへと向かいます。 このバザールは、中央アジアでも
    最大規模で、バザール内はとにかく広大。 日用品からお土産、家具まで何でも
    揃うのが特徴、バザールが最も賑わうのは午前中なので、なるべく早めに訪れるのが
    おすすめ。 バザール内は、2年ほど前までは撮影禁止であったが、禁止が解除
    された。

    チョルスー・バザール
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    【チョルスー・バザール】
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    再度、タシケント鉄道駅からタシケント空港そばにあるホステルまで徒歩で移動し、
    荷物を持って、再度徒歩でタシケント空港まで移動しました。 タクシーで
    移動してもさほど料金は高くはないのだが、ホステルのおばさんに空港までは
    歩いても15分程度であるため、タクシーを呼ぶよりも、歩いた方が早いと言われた
    ため、景色を楽しみながら、歩いて行くことにした。 ホステル内では、全員
    ロシア語が通じたが、1名だけ、なぜか英語で話したがる従業員がいたため、
    その人とだけは英語で話した。

    次の目的地は、カザフスタンのアルマトイ経由でキルギスのビシケクを目指します。

    【タシケント空港】

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    サマルカンド観光のハイライトは、中心部にあるレギスタン広場だけではなく、
    実は、シャーヒ・ズィンダ廟群も見所となっている。 この廟群は、11世紀から
    19世紀までの9世紀の間に建造され、現在では20以上の建造物の集合体と
    なっている。

    シャーヒ・ズィンダ廟群
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    シャーヒ・ズィンダ廟群
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    シャーヒ・ズィンダ廟群は建物の建つ位置の高さから大きく3つのグループに
    分かれており、これらの建築物はチャルタクと呼ばれる、4つのアーチ状をした
    ドーム型の通路で結ばれている。 当時の建築物の基礎部分や墓石などの主な部分は
    現代まで残っており、建物の大部分は14~15世紀に建設された。 16~19世紀に
    再建築がなされたが、建物の構成や外観は変化していない。

    シャーヒズィンダ廟群に入る際に、入り口に2台あったバンコマート(ATM)で
    現金を引き出そうとしたところ、2台共故障していたため、お金が全く引き出せず、
    係りの人に相談したところ、クレジットカードでも大丈夫と言われたため、窓口で
    カードを渡したところ、そのクレジットカードのターミナルも壊れていたため、
    タダで入って良しと言われましたw

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    サマルカンドは、「青の町」と言われるだけあって、建物は基本的に青が多い。
    手作りで焼かれた陶器を組み合わせて作られた建物は、非常に美しい。 基本的に
    霊廟であるため、ところどころにお墓があり、歴史の深さが感じられた。

    シャーヒ・ズィンダ廟群内部は、どこまでも青く、霊廟の内部はこのような構造に
    なっていのだが、数世紀に渡り増築を繰り返したたため、お墓がむき出しの
    ままとなっている。

    青いタイルの模様を1つづつ見て行くと、こんな感じとなる。
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    市場とシャーヒ・ズィンダ廟群の間には、前ウズベキスタン大統領のカリモフ氏の
    廟所であるハズラティ・ヒズル・モスクがあり、常に参拝者が絶えない。

    ハズラティ・ヒズル・モスク
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    サマルカンドを後にして、タシケントへと向かいます。 例によって、列車の
    チケットが取れないため、タクシーでの移動。 サマルカンド→タシケントの
    距離は約350kmで、移動時間約5時間、30ユーロ。 今回は、途中でタクシーを
    乗り換えることなく、全て同じタクシーでの移動となりましたが、サマルカンドの
    ホテルに2つ荷物を置いて来てしまったため、その旨をタクシーの運転手に話した
    ところ、速攻で電話を掛けて、後続のタクシーでその荷物を持って来て貰える
    ことになりました♪ 翌朝の早朝に、タシケントのホステルにその荷物が届いて
    おりました。 ウズベキスタンでは、お金で解決出来ない問題はない。
    Byタクシー運転手談w

    サマルカンド駅
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    タシケントは旧ソ連邦の中では、第4の都市であったため、このサマルカンドでも
    バンコマートのATMがそこら中にあるのかと思いきや、なかなかの独裁国家で
    あるため、バンコマートがほとんどない。 よって、お金を引き出すためだけに、
    タクシーに乗る必要性があり、尚且つ、かなり大手の銀行に行かない限りは、
    米ドルの引き出しが出来ない。 最初に行った銀行では、パスポートと仮住所
    登録票が必須であるため、更にタクシーに乗って、大手の銀行に行って下さいと
    言われたため、お金を引き出すのだけでも、3時間程度の時間を要したため、
    ウズベキスタンへ行く際には、現金を必ず用意しましょう。

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    ウズベキスタンの古都サマルカンドは、シルクロードの要衝として栄えながら、
    13世紀にモンゴル軍の侵攻によって廃墟と化した。 この地を甦えらせたのが、
    一代で大帝国を築き上げた英雄ティムールであった。 ティムールは世界の
    どこにもない美しい都市を目指し建設しようと、各地の遠征先から優れた技術者や
    芸術家たちを連れ帰った。 建物を飾る「サマルカンド・ブルー」と呼ばれる
    鮮やかな青色タイルは、中国の陶磁器とペルシアの顔料が出合って誕生したもの。
    まさに「文化交差路」のサマルカンドは2001年、世界遺産に登録された。

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    サマルカンド旧市街にあるレギスタン広場の寺院の中は、現在では、お土産屋と
    なっているものの、これらの建物は、元々は学校で、イスラム建築の粋を結集し、
    この様な豪華絢爛な内装となっている。

    シルクロードの重要交易地であったサマルカンドは、長らくこの地の首都であった
    ため、様々な文化を吸収して、独自の文化となった。 サマルカンドは、元々は
    イスラム文化圏ではなかったそうで、西遊記の元となる「大唐西域記」を記した
    玄奘三蔵(三蔵法師)も実際にこの地を訪れたとか。

    中央アジアでは、ウズベキスタンに限らず、このおじいさんの焼き物が至る
    ところにあるのだが、これは、ユーモアのシンボルだそうで、手に持っている物も
    パン、すいか、弦楽器など、中央アジアを代表する物ばかり。

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    サマルカンドで見るべき物は、レギスタン広場だけではなく、その他にも色々と
    見る物があります。 サマルカンドは、紀元前から栄える歴史の古い町であるため、
    街全体が世界遺産に指定されている。

    ヒビニハムモスクは、中央アジア最大のモスクで、たった5年でこの巨大なモスクを
    建設しのだとか。 建設を急ぎ過ぎたため、ところどころ、建物が崩壊しているのが
    難点。。

    ヒビニハムモスク
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    中央アジア最大級のモスク、ヒビニハムモスクの真向かいにあるのは、ティムールが
    愛した妻の霊廟。 ヒビニハムモスクの巨大な正面玄関を入ると、西側には
    大モスク、南と北には小モスクがあり、四方にはミナレットが建っている。

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    青の都 サマルカンド
    サマルカンドは、街全体が世界遺産に指定されています。 その中心部にある
    レギスタン広場は、イスラム文化の総力を上げて建設された正にイスラムの中心地。
    こちらの入場料は、ウズベク人、CIS国民、外国人のそれぞれの料金体系に分かれて
    おり、ウズベク人が3,000ソム、CIS国民が3万ソム、外国人が4万ソムであった
    ため、当初4万ソムを請求されたが、ロシア語で「ここに3,000ソムと書かれて
    いるのに、何で4万ソムなのか?と訊ねたところ、CIS国民は3万ソムです」と
    言われたため、3万ソムで入場しましたw 旧ソ連圏は、ロシア語が話せると、
    どこに行ってもお得♪

    【レギスタン広場】
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    レギスタン広場は、「砂の場所」という意味を持っており、広場内には、マドラサ
    神学校が三棟建っている。 向かって左側にはウルグ・ベク・マドラサ、右側に
    シェル・ドル・マドラサ、更に、中央にはティリャー・コリーモスクマドラサが
    建っているが、の内部は現在では全てお土産屋になっており、高い入場料を支払わ
    なければならない割には、博物館はないという矛盾を抱えている。

    この日は、どうもお祭りらしく、レギスタン広場では、学生らによる演奏が行われて
    いました。 レギスタン広場にあるモスクは、現在ではお土産屋として使用されて
    おり、中に入ると、様々なお土産が売られています。 日本人観光客が多いため、
    あちらこちらから「チョットミルダケ」の呼び込みをされますが、これは、
    ウズベク語では、「ソコノカモネギサン オミヤゲイッパイウリツケルワヨ」と
    言う意味なので、無視した方が良いです。

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    ウズベキスタンに限らず、この焼き物のおじいさんは、中央アジア全体で
    見られるお土産で、ユーモアの象徴なのだとか。 独特の青の装飾も美しく、
    このおじいさんの焼き物と、いかにもアラブのお土産っぽい雰囲気の物を
    1品づつ購入しました。

    【サマルカンド土産】
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    【サマルカンドの歴史】
    ティムールの孫ウルグ・ベクの時代に天文台が築かれて、その当時の建物を含めて
    文化交差点としてユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。 1868年に
    中央アジア一帯はロシア軍に占領され、ロシア領トルキスタンに編入された。
    サマルカンドは、元々ブハラと同様イラン系であるペルシア語話者、すなわち、
    タジク人の多い都市であったが、ソビエト連邦時代の1924年、民族的境界画定に
    よりウズベク・ソビエト社会主義共和国に区分され、1930年までサマルカンドが
    その首都であった。

    サマルカンドは、紀元前10世紀こ頃からイラン系民族のオアシス都市として
    発展し、ギリシャ史料では紀元前4世紀にソグド人の都市「マラカンダ」は、
    アレクサンドロス3世率いるマケドニア王国遠征軍に近郊の "Sogdian Rock"で
    最後まで抵抗した。

    【サマルカンド】
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    712年にクタイバ・イブン・ムスリムによってウマイヤ朝のアラブ連合軍に
    征服され、サマルカンドでのイスラム化が始まった。 イスラム時代を通じて、
    ブハラと並びマーラワーアンナフルの中心都市として発展した。 751年の
    タラス河畔の戦いで捕虜となった製紙職人によって、759年にイスラム世界で
    最初の製紙工場が営まれたのもサマルカンドと伝えられている。

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    イスラム教では、偶像崇拝を禁じているのだが、建物の上部に虎の絵があります。
    これは、この建物の建築を指示した皇帝が自分の力を誇示するために書かれた物で、
    現在では、サマルカンドのシンボルとなっています。

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    ウズベキスタンの移動手段は、タクシーが早くて便利
    ウズベキスタンの観光シーズンは、事前に鉄道のチケットを予約をしておかいないと
    座席がなかなか取れないため、タシケントからタクシーをかっ飛ばして、約600キロ
    離れたブハラまで移動し、3時間ほど観光をした後、更にタクシーで約300キロ
    離れたサマルカンドへと移動しました。 よって、この日1日のタクシーによる
    総移動距離は、900キロを越えました。

    タシケント南駅
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    【ブハラ】
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    シルクロードの交易地 ブハラ
    ブハラは、シルクロードの交易地として繁栄を極めた悠久の都であり、
    旧市街には、今でもそのたたずまいがそのままの状態で残っています。
    完全にイスラムの世界であるため、1日に数回程、お祈りのために全ての
    業務が止まります。

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    カラーン・ミナレット
    ブハラ観光のハイライト、カラーン・ミナレット。 1127年に建てられた
    カラーン・ミナレットの高さは48mもあり、当時のイスラム建築技術の粋を
    集めて建造されました。  このカラーン・ミナレットは、地球の歩き方の
    表紙にもなっているほど有名な観光地であり、「ミナレット」は「塔」という
    意味。 かつては塔の上に明かりが灯され、砂漠を渡る隊商の道標になって
    いたと伝えられている。 また、戦争の際には敵を発見するための見張り台
    としても使われていた。 カラーン・ミナレットは戦争や地震によって何度か
    破損されたが、その都度修復作業が行われた。 19世紀後半までは罪人を生きた
    まま袋に入れて塔の上から投げ落とす刑が行われていたため、「死の塔」の
    別名でも知られるようになった。

    【カラーン・ミナレット】
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    タクシーでの移動
    たった3時間のブハラ観光を終え、ここから更に300キロ離れたサマルカンドを
    目指します。 サマルカンドはブハラからは、乗り合いタクシーで約3時間、
    交渉の結果30ユーロで、バスターミナルが最後のブハラの地となりました。
    ウズベキスタンの白タク運転手は、横の連携が凄いらしく、乗り込んだ車1台で
    サマルカンドまで行くのかと思いきや、途中で2回他のタクシーに乗り換え
    されられました。 その度に、目の前でお金の受け渡しが行われるため、
    人身売買かと思いましたw  最終的に、サマルカンドへ到着したのは、
    午後10時半過ぎであったが、到着時、サマルカンドでは、一部地域で停電が
    発生していたため、ホテルに到着してからは、電気が使えず、そのまま
    就寝しました。。

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    翌朝、テレビを付けたところ、ウズベキスタンでは、何故か熊本と沖縄の
    特集を放送していた。 旧ソ連邦諸国では、日本語の教育が盛んで、
    ウズベキスタンでも小学校から日本語を選択することが出来る程の親日国。
    この日は、サマルカンドの中心部にあるレギスタン広場では、イベントが
    開催されており、色々なアーティストがステージで演奏を行っていました。

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    首都ドゥシャンベ
    地球の歩き方にドゥシャンベは、「歩いて回れるコンパクトな街」との
    記載があったため、街を歩いて見ることにした。 ドシャンベのメイン
    ストリートは、個人商店が中心であるため、それなりに活気がある。
    タジキスタンの首都と言っても、人口は68万人程度しかないため、
    歩いて街を全て見て回ることが出来る。

    ドゥシャンベ駅
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    【ドゥシャンベ】
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    タジキスタンでは、持参したWiFiルーターの対応国だったのだが、電波が全く
    入らず、しかも、SNSは全てブロックされているため、日本であらかじめ
    インストールしていたVPNを初めて使うこととなった。

    ドゥシャンベは、実はスーツを着た人が多いため、非常にビジネスチックな
    街であった。 海外からのビジネス客も、中国人ばかりで、日本人は1人たり
    とも見掛けなかった。 緑の多いドゥシャンベの街並みは、この場所で
    内戦があったことなど一切感じさせない程穏やかであった。

    ソ連の面影
    旧ソ連内では、自動販売機「ガゾィローフカ」が当たり前の様にあったのだが、
    この自販機は、コップを洗って使い回すというスタイルであるため、通常は、
    マイコップを持ち歩いて使うのだが、ロシアでは、既に完全に姿を消した
    この自販機がタジキスタンでは、まだ現役である事自体、驚きであった。
    タジキスタンでは、この他にも、アイスクリームの「スタカンチク」も普通に
    販売している。

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    ドゥシャンベの街は、想像していたよりも暗い感じはなく、かなり開放的。
    但し、中央アジアは、どこも独裁色が強く、タジキスタンでも、至るところに
    大統領の肖像画が飾られてた。 中心街は、重厚なソ連式の建物が連なって
    いるため、旧ソ連邦内で最もソ連を感じさせる国かも知れない。

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