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    カテゴリ: 中央アジア

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    旧ソ連構成国であった中央アジアのカザフスタン共和国が国際化を目指して、
    カザフ語のロシア(キリル)文字による表記を止めて、ローマ字に変更する
    ことを決定した。 若者は既に携帯電話のメールをローマ字で送るなど、かなり
    以前からロシア文字離れが加速していた。 2006年に『ローマ字は今日、
    情報通信分野を席巻している』と述べていたヌルスルタン・ナザルバエフ大統領は
    2018年4月、国営紙に論文を発表し、この中で、文字表記変更の具体的な
    スケジュールを提示した上で、2025年にはローマ字に完全移行すると宣言した。

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    カザフスタンでは、カザフ語が国家語、ロシア語は公用語とされているが、多くの
    外国人観光客にとっては、キリル文字は読むことすら難しい。 カザフスタンは
    元々、イスラム教徒が多数派を占めており、旧ソ連からの独立直後は、アラビア
    文字へ変更する運動も行われたが、最終的には定着しなかった。

    カザフスタン国内には、100以上の民族が共存しており、カザフ語とロシア語の
    他にも、先住民族であるウズベク語、タジク語、ウイグル語が教育言語として
    認められている。 旧ソ連邦から独立した1990年代には、カザフ語を強化拡大する
    政策に重点が置かれた。 カザフスタンでは、1997年に『言語法』が定められ、
    高等教育まで一貫して受けられるのは、カザフ語とロシア語だけとなっているため、
    カザフ人とロシア人以外の少数民族は、カザフ語かロシア語でのバイリンガル教育に
    力を入れている。

    現在、カザフスタンでは、ロシア系住民が約2割を占めているが、この先、正式に
    ローマ字を使うことになるため、ロシア系住民の国外脱出の機運が更に高まると
    考えられている。 旧ソ連邦からの独立時、カザフスタンでは、約6割超がロシア系
    住民で占められており、カザフ人は、むしろ、少数派であった。 但し、独立後は、
    カザフ人中心の政策に切り替えられたため、多くのロシア人やウクライナ人たちは、
    カザフスタンから去って行った。

    【カザフ語とロシア語】
    現在、カザフスタンでは、カザフ語とロシア語の2つの言語が公用語となっている
    ものの、政府やビジネスの場面ではロシア語が使用される場面が多い。 しかし、
    カザフ語に対する敬意が高まる中で、近年ではカザフ語がロシア語より使用される
    ようになって来ている。 カザフスタン国内には、117もの異なる言語が共存して
    おり、その中でもロシア語がお互いの意思疎通を図るための共通言語として、最も
    主要な言語となっている。 2009年の調査では、人口の約85%がロシア語を完璧に
    使いこなせると答えたのに対し、カザフ語は人口の約62%に留まるという結果と
    なった。

    カザフ語は、カカザフスタンを中心に、中国新産ウイグル自治区、ロシア、モンゴル
    西部、中央アジア諸国などで使われるチュルク系の言語である。 チュルク諸語の
    中では、キプチヤク語群や北西語群などと分類され、クルグズ語やカラカルパク語、
    バシュコルト語などとよく似た特徴を持っている、 カザフ語は、他のチュルク
    諸語と同様に、人称や時制などを示す要素が名詞や動詞の後に付く膠着語である
    ことや、語順が主語+目的語+述語であること、母音調和や格助詞が存在するため、
    日本語との共通点が多く、日本語使用者にとつては、習得しやすい言語であると
    言える。

    カザフスタンには、1,000万人を超えるカザフ語話者がおり、カザフスタン国外では
    500万人以上のカザフ語話者が居る。 ソ連時代末期の1989年に、カザフ語が国家語
    となることが法的に定められ、独立後のカザフスタンにおける国家語として制定
    された。 カザフスタンでは、帝政ロシア時代やソ連時代を通じて、ロシア語が
    中心的言語として使われて来たが、独立後の現在でも、カザフスタンは、
    ウズベキスタンやトゥルクメニスタンなど、他の中央アジア諸国と比べて、
    ロシア語の使用頻度が非常に高い。 これは、カザフスタンにおけるロシア人の
    比率の高さにも寄るところがあるが、ロシア語は、ロシア人のみならず、この国に
    住むウクライナ人、タタール人、ドイツ人、朝鮮人他、非ロシア人らによっても
    日常的に使われる実質的な共通語となっている。

    カザフスタンでは、人口の約3分の1が非力ザフ人であるため、ロシア語が住民
    同士の重要なコミュニケーションの手段となっている。 都市部では、カザフ語
    よりもロシア語が流暢なカザフ人も少なくなく、カザフ人同士がロシア語で会話を
    する場面も珍しいことではない。 同じカザフ人であっても、カザフ語を母語と
    する者(あるいは、カザフ語を日常会話で使用する者)とロシア語を母語とする者
    との間には、メンタリティ上の違いがあると指摘されることもある。 また、
    自然科学を中心に、カザフスタンにおける科学・学術分野の発展にロシア語が
    大きく寄与し、諸外国の文化はロシア語を通じて紹介されることが多い。

    ロシア帝政期カザフの文学は、主にロシア語で書かれており、カザフ文学に
    おいても、ロシア語の存在は小さくない。 カザフ語は、1993年の最初の憲法で
    国家語と規定され、ロシア語は、1995年の憲法で、国家組織や行政機関において、
    『公式にカザフ語と同等に使用される言語』と定められている。 尚、カザフ
    スタン大統領の条件のひとつに国家語、すなわち、カザフ語に堪能である
    ことがある。 現在のカザフスタンでは、ロシア語の知識があれば、カザフ語を
    知らなくても、普通に日常生活をおくることが可能となっている。

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    【表記文字の歴史】
    1930年代、カザフスタンでは、チュルク系のルーン文字からラテン文字へ、
    ラテン文字からキリル文字へと、2度文字が変更された。 カザフ人は独自の文字を
    持たない遊牧民族であり、カザフ語はチュルク系言語に属しているが、イスラム
    文化の流入と共に、アラビア文字で表記されるようになった。 その後、1917年の
    ロシア革命後には、ソヴィエト政権により、ローマ字の使用が奨励された。
    しかし、1938年から1940年の間に、ソヴィエト政権によるロシア文化推進の一環
    として、カザフ語はキリル文字で全て表記することが決定された。 キリル文字に
    転換された結果、カザフスタン国内のカザフ人と国外のカザフ人とが文字の上で
    分断された。

    キリル文字は全部で42文字あり、この中には、カザフ語では発音しない文字も
    含まれているが、今後、新たに導入されるローマ字では、全26文字に加えて、
    カザフ語をより正確に表現するために、アポストロフィとローマ字の組み合わせ
    による9文字が追加される予定となっている。 この文字の変更は、デジタル
    時代に備えるためには必須とも言われており、現在のカザフ語の表記方法では、
    PCのキーボードの数字部分まで使用しなければ文字が足りないが、キリル文字
    からローマ字に移行すると、この問題が解決すると言われている。 また、2000年
    から始まった急速な経済成長に伴い、西洋諸国とのコミュニケーションの必要性が
    高まり、英語を学んでアルファベットを受け入れることが求められるようになった
    という経済的な背景がある。

    ソ連邦崩壊後、近隣国であるウズベキスタンとトルクメニスタンでは、直ちに
    キリル文字からローマ字へと表記方法が変更されたが、カザフスタンはこれらの
    国々とは異なり、1991年の独立以来、政治的な繋がりが強いロシアとの関係を
    最重視して来た。 しかし、その一方で、ナザルバエフ大統領は、ロシア、
    ヨーロッパ諸国や中国との関係を視野に入れつつ、長期に渡る国の近代化を推し
    進める『カザフ化』によって、カザフ語やカザフスタンの伝統文化を強化し、
    国民のアイデンティティを取り戻すための計画を複数実施している。 カザフ
    スタンは、ソ連邦が崩壊した後も、ロシアの強大な影響下にあるが、表記文字を
    変更することにより、石油の輸出のみに頼り切った国内経済から、ソ連邦時代の
    暗い過去を捨て去り、より強力な経済力を持つ国へと成長するための施策的な
    政策として、文字の変更を行う計画となっている。

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    【政治的な影響力】
    カザフスタンは、これまでも、ロシアの文化や政治的な影響力からは一定の距離を
    保って来たが、まず、教育現場や政府内で使用される言語が、ロシア語から
    カザフ語へと変更され、外国語教育の現場では、ロシア語と英語が同等の地位
    として扱われるようになった。 カザフ語の映画やテレビ番組が多く制作され、
    自国の文化がより多く取り上げられて来た。

    カザフスタンは、未だ中央アジアに多大な影響を及ぼしているロシアとは徐々では
    あるが、距離を置いているが、近隣諸国と比較して、これまでロシアに配慮した
    政策を採って来たカザフスタンが、何故、今になって表記方法を変更するのか、
    その理由の裏には、近年のロシアの動きを指摘する声もある。 ロシアは近年対外
    関係において、ウクライナやジョージア、シリアへの介入など、積極的に他国に
    干渉する動きを見せている。 このロシアの国際的な動向に対し、カザフスタンを
    含む旧ソ連下にあった中央アジア諸国は、ロシアの影響が再び強まるのではないか
    と懸念しており、今回の表記変更の裏にもこのような懸念が関係しているのでは
    ないかとも言われている。

    カザフ語の表記方法が変わること自体には、国内から概ね支持が得られている
    ようだが、この変更によって困る人たちも当然存在する。 カザフスタン国内には、
    ロシア系の人々が多数住んでおり、国内ではカザフ系の人々に次いで2番目に大きな
    割合を占めるが、ロシア系住民たちは、カザフ語の表記変更に対して、反対の声を
    上げている。 ウズベキスタンやトルクメニスタン等では、カザフスタンより先に
    自国の言語をローマ字表記に変更したが、国内には同様にロシア系住民を多く
    抱えている。 カザフスタンは、この2ヶ国とは比較にならないぐらいの多くの
    ロシア系住民が住んいるため、今後のカザフスタンの動向が注目される。

    カザフ政府筋は『カザフ語のローマ字化後もロシア語は残る』と反論しており、
    『中高年がローマ字に慣れるのは難しいかも知れない』としている。 文字の
    変更後は、自分の名前すらどう表記すれば良いのか分からなくなってしまう
    といった声や、これまで、ロシア語で書かれて来た過去の文書が廃れて行って
    しまうのではないかという懸念の声もある。

    これに対し、ナザルバエフ大統領は、ローマ字表記に変わるのはカザフ語であり、
    カザフスタンからキリル文字やロシア語が消える訳ではない。 色々な不安の
    声もあるが、自分たちはロシア語で世界の文化について学び、その記憶は消える
    ことはなく、また、近隣国とは常に協力して行くつもりであると述べ、不安の
    声を鎮めようとしているが、今後の先行きは、全く不透明となっている。

    Nazarbayev

    【ローマ字表記による弊害】
    ローマ字でカザフ語の発音表記を行う場合、様々な問題が考えられるが、この
    問題に対して、ナザルバエフ大統領は、ローマ字に組み合わせてアポストロフィを
    多用することで解決しようとしている。 しかし、これに対しては、言語学者等が、
    アポストロフィを多用すると、ややこしくて読み辛くなると指摘している。
    また、アポストロフィを多用すると、ウェブ上で検索出来なくなり、SNS上で
    ハッシュタグが使えなくなるといった問題が生じる。

    アポストロフィには、このような問題点があげられるため、アポストロフィを多用
    する代わりに、トルコ語を真似た表記方法にすれば良いのではないかという言語
    学者もおり、実際に2017年8月に言語学者たちから、トルコ語をモデルとした
    発音記号の作成が提案された。 しかし、ナザルバエフ大統領は、この提案を採用
    しなかった。 ソヴィエト政権からの独立以来、26年間以上も大統領であり続ける
    ナザルバエフが考える政策には、誰も異論を唱えられる状況になく、
    アポストロフィの多用が今後推し進められであろう。 但し、ナザルバエフ
    大統領自身も、自分の考えが固まっていないらしく、カザフ語を表記するために
    アポストロフィを多用するか否かは、まだ最終的な決定に至っていないと近しい
    人物に述べており 、今度、アポストロフィ以外のローマ字を補助する形での表記
    方法が検討されて行く可能性は十分あり得る。

    尚、これまでにロシア文字を捨てて、ローマ字へ移行した国には、ルーマニア、
    モルドバがあり、現在、セルビアがローマ字へ移行中となっているが、今後、
    カザフスタンがどの様な道を模索するのかは、全くの未知数となっている。

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    旧ソ連構成国だった中央アジアのカザフスタンが国際化を目指して、カザフ語の
    ロシア(キリル)文字表記を止めてローマ字に変更することを決定した。 若者は
    既に携帯電話のメールをローマ字で送るなど、かなり以前からロシア文字離れが
    加速していた。

    『ローマ字は今日、情報通信分野を席巻している』。 2006年にこう述べていた
    ナザルバエフ大統領は今年4月、国営紙に論文を発表。 この中で、表記変更の
    具体的なスケジュールを提示した上で、2025年にはローマ字に完全移行すると
    宣言した。

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    カザフスタンでは、カザフ語が国語、ロシア語は公用語とされているが、多くの
    外国人観光客にとっては、ロシア文字は読むことすら難しい。 カザフスタンは
    元々、イスラム教徒が多数派を占めており、旧ソ連からの独立直後は、アラビア
    文字へ変更する運動も行われたが、定着しなかった。

    1930年代、カザフスタンでは、チュルク系のルーン文字からラテン文字へ、ラテン
    文字からロシア文字へと、2度文字が変更された。 ロシア文字に転換された結果、
    国外のカザフ人とカザフスタンのカザフ人が、文字の上で分断された。

    カザフスタン内には、100以上の民族が暮らしており、カザフ語とロシア語の他に
    先住民族であるウズベク語、タジク語、ウイグル語が教育言語として認められて
    いる。 旧ソ連から独立した1990年代には、カザフ語を強化拡大する政策に重点が
    置かれた。 1997年に言語法が定められ、高等教育まで一貫して受けられるのは、
    カザフ語とロシア語だけとなっているため、カザフ人とロシア人以外の少数民族は、
    カザフ語かロシア語のバイリンガル教育に力を入れている。

    narodovrno

    現在、カザフスタンでは、ロシア系住民が約2割を占めているが、この先、正式に
    ローマ字を使うことになるため、ロシア系住民の国外脱出の機運が更に高まると
    考えられている。 旧ソ連からの独立時、カザフスタンでは、約6割超がロシア系
    住民で占められており、カザフ人は、むしろ、少数派だった。 但し、独立後は、
    カザフ人中心の政策に切り替えられたため、多くのロシア人やウクライナ人たちは、
    カザフからは去って行った。

    カザフ政府筋は『カザフ語のローマ字化後もロシア語は残る』と反論しており、
    『中高年がローマ字に慣れるのは難しいかも知れない』としている。

    尚、これまでにロシア文字を捨てて、ローマ字へ移行した国には、ルーマニア、
    モルドバがあり、現在、セルビアがローマ字へ移行中となっている。

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    キルギスの人口は440万人で、そのうち、キルギス人がそのおよそ半分を
    占めている。 キルギス人は、ウズベク人(人口のおよそ12%)やタタール人と
    同様、トルコ系民族で、イスラム教スンニ派を信仰している。

    それに対して、ロシア人(約25%)やウクライナ人(2.5%)はスラブ系民族
    である。 彼らは、異なる文化を持ち、キルギスの中ではますます異質な
    存在となり、両者の間の対立が今日、強まりつつある。

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    現在のキルギス人の祖先は、トルコ系民族とモンゴル系民族であった。
    キルギス人が一民族としての意識を持つようになったのは、早くとも、18世紀
    以降のことと考えられている。 キルギス人が遊牧してた地域は、19世紀以来、
    コーカンド・ハン国の支配下に置かれていた。 1830年頃には、ロシア人の
    入植が始まり、1876年には、コーカンド・ハン国がロシアに併合され、
    キルギス人は、完全にロシア皇帝政権の支配を受けることになった。

    もっとも、それ以前にも、既に、自身の意思によってロシア皇帝に従っていた
    キルギス人も居た。 それにより、更に多くのロシア人やウクライナ人が入植し、
    キルギス人の牧草地は、彼らのものとなった。 その結果、キルギス人は、
    牧畜のかたわら、耕作も余儀なくされた。

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    【反ロシア抵抗運動から独立へ】
    1916年に起こった反ロシア抵抗運動は、全トルキスタンに広がり、キルギスも
    それに加わった。 1917年の革命後、キルギスは、『トルキスタン自治ソビエト
    社会主義共和国』の一部となり、この共和国は、長い抗争の末、最終的には、
    ボリシェビキが治めることとなった。

    トルキスタンの行政区分は、何度も変えられた。 1926年『キルギス自治共和国』が
    ロシア共和国内に設立され、1936年には、『キルギス・ソビエト社会主義共和国』
    として連邦構成国となった。 その後、住民たちの激しい抵抗にも関わらず、
    農業の集団化が強行された。

    キルギス語は、この時代まで、文字を持っていなかったが、初めにラテン文字、
    そして、1940年からは、キリル文字が取り入れられた。 ロシア以外の全ての
    共和国にとって、ロシアの党幹部は、独裁者以外の何者でもなかった。 1980年代
    後半、ようやく民族運動が実を結び始め、1990年12月15日、キルギスタンとして
    主権を宣言、翌年8月31日には独立を果たした。 そして、同年12月21日には、
    独立国家共同体(CIS)に加盟した。

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    タジキスタンの人口は、およそ520万人であるが、国名の由来であるタジク人の
    占める割合は59%に過ぎない。 隣国のトルクメン人、ウズベク人、キルギス人は
    トルコ系民族である。 しかし、宗教では、隣国民と同様、イスラム教スンニ派を
    信仰している。 タジキスタンの最大の少数民族はウズベク人で、彼らは、人口の
    23%を占めている。 その他にはロシア人10%、タタール人3%が住んでいる。

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    タジク人は、インド・ヨーロッパ語系の言語を使用し、恐らく、紀元前から既に
    中央アジアに定住していた。 時代の移り変わりと共に、彼らの住む地域は、様々な
    民族によって侵略された。

    17世紀以降、タジク人は、ウズベクのブハラ・ハン国によって支配され、その結果、
    タジク人のウズベク化が進んだ。 今日のタジク語に多くのウズベク語の外来語が
    あるのは、この時代の歴史に由来する。 19世紀には、ロシア帝国が中央アジアに
    侵攻した。 この際、現在のタジキスタンの北部は、ロシア帝国のトルキスタン
    総督領に併合された。 また、南部は、ブハラ・ハン国の支配下に留まった。
    このブハラ・ハン国は帝政ロシアの下で、自治的な地位を守った。

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    【自らの言葉と共に目覚めた民族意識】
    ソビエト政権が確立し、行政組織の様々な変革が行われた後、1924年に『タジク
    自治共和国』が『ウズベク共和国』内に設立された。 1929年には、『タジク・
    ソビエト社会主義共和国』として連邦構成国に昇格した。この時、タジキスタンは、
    その歴史において、初めて独立した国家となった。 しかし、もちろん共産党の
    独裁の下では、自決権を持っていなかった。 しかし、それにも関わらず、
    タジク人の間に国民意識は徐々に芽生えて行った。 それは彼らがタジク語の
    文章語を守り続けたことによっても促進された。 1930年代の粛清の時代には、
    タジク人の知識人たちは、『ナショナリスト』と非難され、迫害された。

    1980年代、旧ソ連全土で見られた諸民族の抵抗運動が、このタジキスタンでも
    起こった。 1990年8月24日、タジキスタンは主権宣言を採択、翌1991年9月9日に
    独立を宣言し、同年12月21日には独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    この国の複雑に入り混じる諸民族の間には、緊張が高まっている。 既に多くの
    ロシア人がこの国を去って行った。 ウズベキスタンとの間にも、国境問題や
    少数民族が存在する、歴史的にも民族的にも非常に近い関係であるイランとの
    繋がりも、今後見直されて行く事であろう。 イスラム原理主義の次第にこの地に
    根を下ろし始めている。

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    ウズベキスタンの人口は、約2070万人で、そのうちの71.4%がウズベク人である。
    彼らは、トルコ系民族(この民族は、以前は中央アジアで遊牧民として生活
    していた)に属し、イスラム教スンニ派を信仰している。

    Uzbekistans

    人口の8.2%を占めるロシア人が最大の少数民族で、以下、タジク人4.7%、
    カザフ人4.1%、タタール人、朝鮮人、キルギス人などが住んでいる。 約2%を
    占めるカラカルパク人の定住地域は、1932年に自治共和国になった。

    ウズベク人の名前は、14世紀に部族を統合支配したキプチャク・ハン国の君主、
    ウズベクの名に由来する。 17世紀には、ブハラ・ハン国(18世紀以降ブハラ
    首長国)、コーカンド・ハン国、ヒバ・ハン国が形成され、今日のウズベクの
    国の基礎が築かれた。

    これらの国は、今世紀初頭まで存在した。 1860年台、1870年代、ロシア人が
    勢力を拡大し、ウズベク人の統治地域は、彼らの支配を受けるようになった。
    コーカンド・ハン国は帝政ロシアに完全に併合されたが、ブハラ・ハン国と
    ヒバ・ハン国は、その保護領となり、ある程度の自治が認められた。 ロシア
    皇帝政権のロシア化政策の結果、早くも1898年には民族の反乱が起こり、
    その後発生した1916年の大蜂起は、トルキスタン全域を巻き込んだ。

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    【20世紀の歩み】
    1917年に権力の座に就いたボリシェビキ派は、長い戦いの後、中央アジアにおいて
    勝利を収めた。 支配体制の再編が繰り返され、1924年に『ウズベク・ソビエト
    社会主義共和国』が設立された。 同国に属していたタジク自治共和国が、1929年
    には『タジク・ソビエト社会主義共和国』として独立し、連邦構成共和国に昇格
    した。 ウズベキスタンのソビエト化は、暴力をも辞さずに遂行された。

    民族運動は弾圧されていたが、1980年代になって盛んになった。 ウズベキスタンは
    1990年8月31日には独立宣言を採択した。 同年12月21日は独立国家共同体
    (CIS)に加盟した。 隣接するキルギスやタジキスタンとは、国境問題や少数民族
    問題のことで対立している。 また、国内の民族抗争も大きな問題となっている。

    1989年には、スターリン時代にグルジアからウズベキスタンに移住して来た、
    メンシェビキ派の人々に対する敵対も起こっている。 このように国内での対立が
    表面化して来たため、ここ数年、10万人ものロシア人とウクライナ人がウズベクの
    地を去っている。

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    カザフスタンの人口は、約1680万人で、そのうち、この国の名に由来するカザフ人
    (チュルク系の言語を話し、イスラム教スンニ派を信仰)の占める割合は、約40%に
    過ぎない。 また、スラブ系民族に属するロシア人は、人口の38%を占めており、
    カザフスタン人とほぼ同じ割合である。

    Kazakhstan

    主な少数民族としては、ドイツ人6%、ウクライナ人5%が挙げられるが、その他にも
    タタール人、ウズベク人、ウイグル人、ベラルーシ人、朝鮮人も住んでいる。
    カザフ人と言うのは、トルコ系とモンゴル系の両民族の血を引いている。
    『カザフ』という言葉が使われるようになったのは、16世紀である。 17世紀に
    なると、カザフ民族は、3つの独立した集団に分離し、互いにしばしば対立し、
    また、モンゴル系の部族とも争いを繰り返した。 彼らは、19世紀まで主に
    遊牧民として生活をしていた。

    1822年以来、カザフ人の住む地域は、ロシアに占領されていた。 1873年に併合
    された後、1880年代を中心に、ロシア人の入植が始まった。 1916年には、皇帝
    支配に抵抗して、暴動が起こったが、流血のうちに鎮圧された。 1917年のロシア
    革命後の数年間、カザフスタンは、内乱の舞台となったが、ボリシェビキの勝利に
    終わった。

    1920年、キルギス自治共和国がロシア共和国内の自治共和国として設立された。
    当時、キルギスという言葉は、カザフと混同して使われた。 1926年には、カザフ
    自治共和国と改称し、更に、1936年には、ソ連構成の一共和国に昇格した。

    その中でソビエト化や集団化の政策は暴力をも辞さずに推進された。 1941年には
    数十万人のロシアに住むドイツ人が、強制的にカザフスタンに移住させられた。
    1954年、新しく開拓地を広げる運動が起こったが、結果的には、ますます多くの
    ロシア人入植者をもたらしただけであった。

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    1985年からの、ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)の気運の中、1986年に
    反ロシア抵抗運動が初めて起こった。 1990年10月25日にカザフスタンは、主権
    宣言を採択し、翌1991年12月16日に独立宣言を採択した。 同年12月21日は、
    独立国家共同体(CIS)に加盟。 この国家連合は、まだ創立後間もなく、形態が
    定まっていなかったのだが、その加盟国の中でカザフスタンは、際立った存在で
    ある。

    非スラブ系の共和国の中で、核兵器を所有するのは、カザフスタンのみで、国内
    では、カザフ民族とカザフ以外の多民族の間の緊張が高まっている。 また、
    ロシアとの国境問題もある。

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    1993年当時、カザフスタンの首都であった、アルマ・アタ(現在の首都は
    アスタナ)は、『緑の街』の別名を持っている通り、緑豊かな中央アジアの
    大都市で、旧ソ連邦の中では、かなり南に位置しているため、果物や野菜も
    豊富だった。 当時のノボシビルスクは、ロシア第3の都市とは言うものの、
    外国から最も遠い位置にあるため、ロシア国内でも物資が最も足りていない
    場所であった。

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    カザフスタンにあって、ロシアにはないものを挙げるとすると、馬乳酒の
    クムイスと餃子のお化けのような食べ物マンティを思い浮かべることが出来る。
    クムイスは、若干すっぱく、少々癖のある味で、かなり苦手な味がしたため
    それ以来、一切飲んではいない。

    マンティは、時々、カザフ人の友人宅でご馳走になっていたので、結構馴染みが
    あった。 旧ソ連の中では南国の部類に入るのだが、実際の緯度は札幌と同じ
    程度であるため、冬はかなり寒い。
     
    実は、このアルマ・アタ滞在中に、天山山脈を越えて、中国のウルムチへ行き
    たかったのだが、残念ながら、ロシア側の学生ビザが下りなかったため、断念
    した。 後日ドイツのベルリンにも行こうとしたのだが、こちらも許可され
    なかった。 許可が下りなかった理由は、『学生には必要ないから』という、
    非常に理不尽なものであった。

    当時のロシアのビザには、写真2枚が必要で、そのうち、一枚は、ロシア入国時に
    提出させられ、ビザの中には、滞在都市の記載があったのだが、そこに記載されて
    ある都市以外へ行くことは当時は禁止されていた。 よって、このアルマ・
    アタへの旅行は、ロシアの出入国と滞在都市以外へ行ったという、2重のリスクを
    犯しての旅であった。

    但し、電車に乗る際に、たまたま駅で出会ったカザフ人の友人の知り合いが
    一緒の電車に乗ることになったため、万事事なきを得たが、周囲が全員カザフ語で
    喋っていたため、全く気付かなかったのだが、実際には、車掌に何度もお金を
    要求されたとその知り合いから教えて貰った。

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    ビザが下りなかったため、ウルムチに行くのは諦めたが、せめて、キルギスの
    首都であるビシケク(ソ連時代はフルンゼという名前だった)にだけは行きた
    かったのだが、時間的にこちらも無理だった。 その後、キルギスの担当をして
    いたため、毎日キルギスには電話をしていたが、今でもキルギスには行った
    ことがない。

    尚、アルマ・アタからは、天山山脈がハッキリと肉眼でも見えており、その山脈を
    越えると、そこは中国の新疆ウイグル自治区となっている。 カザフスタンの北の
    端には、世界最大の核実験場であったセミパラチンスクが、また、この新疆ウイグル
    自治区も中国の核実験場として有名な場所となっている。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②

    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    ウズベキスタンは、ソビエト時代の民族別国境画定(1924年~1925年)によって、
    人為的に国境が定められて来た。 フェルガナ盆地の東端がウズベキスタンと
    キルギスに分割され、更に1929年には、ウズベキスタンの一自治州だった
    タジキスタンが連邦構成国へと昇格したことで、現在の国境線が画定された。
    ソビエト連邦崩壊後、かつての共和国が民族や宗教、それに領土をめぐって
    憎しみ合ったり、紛争に至ったりする原因は、ウズベキスタンも同じだ。

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    1999年8月、JICA(国際協力機構)から派遣された日本人技師4人が拉致された
    事件で、犯行声明を出したのは、『ウズベキスタン・イスラム運動(IMU)』と
    呼ばれるイスラム原始主義をうたったテロ組織だった。

    IMUは、1998年に組織され、創設者は、原理主義者のタヒル・ユルダシェフとソ連の
    落下傘部隊出身のジュマ・ナマンガニ。 彼らは、ウズベキスタンのカリモフ政権
    打倒を掲げていたが、本音はウズベキスタン、タジキスタン、キルギスの3国に
    またがるフェルガナ盆地に、イスラム国家を樹立することだった。

    IMUがその名前を知られるようになったのは、1992年、隣国タジキスタン共和党系
    政府と、イスラム系野党勢力タジキスタン・イスラム復興党の間で起きた内戦で、
    野党の信任を得て参加したことだった。 そしてこの時、パキスタンのペシャワルで
    オサマ・ビンラディンと繋がったという。 その後IMUは、タジキスタンやタリバン
    支配下のアフガニスタンをベースに、武装闘争を宣言、1999年から2000年には、
    ウズベキスタン政府軍への攻撃を続けていた。

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    創設者の1人、ナマンガニは、2001年10月に『テロとの戦争』 を遂行する北部同盟
    および、アメリカ軍との戦闘で戦死。 ユルダシェフは、2009年にパキスタンの
    部族地域のひとつ、ワジリスタンでアメリカ空軍の攻撃を受け死亡した。

    アメリカのアフガニスタン侵攻後、ウズベキスタンやタジキスタンのイスラム武装
    組織の力は弱体化したと言われている。 しかし、IMUは、以前アフガニスタン
    との国境地帯で活動中であり、タジキスタンの反政府勢力も、首都ドゥシャンベ
    市内で2007年~2009年に7件の爆弾テロ事件を起こすなど、以前不安定な状況
    にある。

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    ロシア連邦、中国、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンと国境を接し、
    カスピ海にも面したカザフスタンは、国土の大部分が砂漠やステップ地帯である。
    人が住める場所は限られていて、人口の大半は、首都のアスタナやアルマトイ
    といった一部の地域に住む。

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    ソビエト連邦が崩壊した後は、カザフスタン共和国として独立したが、ロシアを
    中心とする独立国家共同体(CIS)に加盟、ロシアとは良好な関係を結んでいる。
    国民の6割近くがカザフ人で、残り3割をロシア人が占め、その他にも、
    ウクライナ人やウズベク人も住んでいる。 宗教もイスラム教とロシア正教が
    中心となっている。

    ソビエト連邦を構成していた他の共和国とは異なり、大統領のヌルスタン・
    ナザルバエフはソ連時代から今日までずっと大統領職にあり、強力なリーダー
    シップを発揮している。 一見、安定した国家のように見えるが、アルマトイでは、
    反ナザルバエフ派の市長が殺されたり、2006年には、野党連合の共同議長が射殺
    死体となって発見されるなど、事件が続き、この時は、容疑者として、国家保安
    委員会のメンバー5人が逮捕されている。

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    日本の7倍もある国土は長大で、全ての国境を警備することは不可能に近い。
    特に、2001年の9.11テロ以降は、テロ組織アルカイダや外国の反政府組織の
    メンバーらが潜伏するのに好都合とばかりに、出入りしている事実もあり、
    中でもウズベキスタンとの国境は、厳重な警備が敷かれている。

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    共に中央アジアに位置するアゼルバイジャンとアルメニア。 黒海と
    カスピ海に挟まれたカフカス山脈の南に隣り合う両国は、アゼルバイジャン
    にあるナゴルノ・カラバフ自治州をめぐって泥沼の争いを続けて来た。
    根底には、民族と宗教が絡んでいる。

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    トルコと友好関係にあるアゼルバイジャンは、元々は、イスラム教の国で、
    国民の95%がイスラム教徒となっている。 一方、ロシアとは強固な関係を
    築いて来たアルメニアは、キリスト教の国。 ソビエト時代には、連邦内の
    民族自決を弱めるために、宗教や民族間の分断を狙ったスターリンの政策で、
    キリスト教とであるアルメニア人が多数を占めるナゴルノ・カラバフは、
    アゼルバイジャンの自治州に組み込まれていた。

    1988年、同自治州の人口の8割を占めるアルメニア人はが、アルメニアへの
    帰属を求めたところ、アゼルバイジャンは要求を拒否しただけではなく、
    自治州まで廃止し、直轄統治という強引な措置に出たため、火種はくすぶり出した。

    1991年のソビエト崩壊に伴って、両国が独立を果たすと、アルメニア人の
    アルメニアへの帰属を求める民族意識は一気に燃え上がった。 紛争の勃発は
    1992年、ナゴルノ・カラバフが一方的に独立を宣言したことにある。
    アゼルバイジャンは経済封鎖などで対抗したが、アルメニアは、当然ながら
    戦闘状態に突入した。

    1994年、ロシアとフランスの仲介により、停戦が成立したが、停戦案の中身は、
    戦闘でアルメニアが占拠したアゼルバイジャンの領土は返還しなければならない、
    ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンに帰属し、自治共和国として昇格する
    などと定められたことから、アルメニア側は反発、今も解決の目処が立って
    いないが、実質上は、アルメニアの支配下にある。

    更に、2009年、アルメニアは、 宿敵トルコとの間で国交正常化が実現したが、
    ここでもナゴルノ・カラバフ紛争をめぐる文言にアルメニア側が反発、正常化は
    ほど遠い現状となっている。

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    ロシアやフランス、トルコを始め、欧米などの仲介が上手く行かない背景には、
    バクー油田など豊富な天然資源がアゼルバイジャンの経済を支えて来た現状があり、
    更に、ヨーロッパ向け原油パイプラインに対する欧米の直接投資や原油高に伴う
    収益が、国内経済成長を後押ししているという現状に、仲介側が配慮せざるを得な
    かったという事情がある。

    その影で、この紛争では、2万人の犠牲者と100万人以上の難民が発生した。

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    ロシアの中古車輸出市場に変化が出ている。 これまでは、日本からの中古車の
    輸出先は、ロシアが例年トップを占めていたのだが、ルーブル安と経済制裁に
    よって、日本からの輸出台数が激減りし、2015年度上半期は、前年度と比較すると
    38.3%と大幅にダウンし、何とか8位をキープしたものの、2016年度上半期は、
    前年度と比較すると59.8%と15位に沈んだ。

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    2015年1月から、右ハンドル車の輸入を全面的に禁止したキルギスでは、
    それまで月に1万台近くの中古車が日本から輸出されていたのだが、禁止後は
    月に数十台程度と、ほぼ壊滅的となった。

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    【キルギスへの中古車輸出台数】
    2015年  1月  2月  3月  4月
    110台 24台 37台 171台
    2014年  1月  2月  3月  4月
    2,754台 4,089台 4,074台 10,917台

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    ブログネタ
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    旧ソ連邦から独立を果たしたキルギスは、親日な人達が多い国として知られている。
    キルギスでは、『大昔、日本人とキルギス人は兄弟で、肉が好きな者はキルギス人と
    なり、魚が好きな者は、東へと渡り、日本人となった』とまことしやかに語られている。
    このため、日本人が、キルギスへ行くと、どこでも大歓迎をされる。

     

    この熱狂的な親日感情は、恐らく、日本人と容姿が非常に似ている事と、隣国との
    複雑な関係からこうなったものと予想出来るが、元々、キルギス人は、人種的に
    欧米系のいわゆる、コーカソイドであり、その後、旧モンゴル領であり、現在では
    ロシア領となっているトゥバ共和国周辺から大量の移住者が押し寄せて、その後
    日本人と同じモンゴロイドへと容姿が変化した民族である。

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    確かに、キルギス人は、日本人と並んで座っていても、全く違和感を感じないぐらいに
    似ている。 中国人や韓国人は、見ただけで何となく日本人ではないと分かるが、
    中央アジアのキルギス人やカザフ人は、喋らなければ、見た目は日本人と全く同じ
    人達が多い。



    キルギスでは、日本に対する関心が非常に高く、日本語教育も盛んに行われている。
    よって、第一外国語として、日本語を選択する人も多い。 これだけ日本から離れた
    国で、日本語が熱心に学ばれている現状は、日本人としてはありがたいばかりで
    あるが、逆に日本人が、このような親日国の事を全く知らない事が残念でならない。

    また、キルギスでは、韓国人男性とのトラブルが多発したため、韓国人との結婚を
    禁止している。 よって、非常に嫌韓国としても知られている。

    キルギスでは、仲間を連れた若い男が嫌がる女性を自宅に連れていき、一族総出で
    説得し、無理やり結婚させる、キルギス語で『アラ・カチュー』と呼ばれる『誘拐結婚』が
    行われている。 現在は、当然違法とされている行為だが、キルギスでは、これが
    伝統とされ、今でも誘拐結婚を行っている人達が後を絶たない。

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