多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    カテゴリ:アジア > 台湾

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    台湾人の識字率は、96%以上で、就学人口は、人口の4分の1にあたる。 日本と同じく
    6歳から15歳までの児童に義務教育が課せられ、義務教育期間中の学費は、政府が
    負担する。 低学年では、算数の基礎の他、理科や道徳が重視されている。 中学校や
    職業訓練校では、進学や技術職のための過程が設けられている。

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    大学および大学院の学生は、計約65万人で、人口比では日本よりも多く、受験戦争も
    厳しい。 また、アメリカやイギリスなど海外への留学生も多く、日本へは1,600人余り
    (1998年)画「留学している。

    台湾の大学では、数千人の外国人留学生がおり、中国文化、中国語(北京語)、医学、
    工学などを学んでいる。 台湾で最も古く規模が大きい大学は、日本統治時代の
    台北帝国大学を引き継いだ国立台湾大学である。

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    台湾の主な宗教は、儒教、道教、そして、仏教である。 これら3つの宗教は、数世紀前に
    漢族系移民と共にもたらされた。 大半の台湾人は、ひとつの宗教だけを純粋に実践する
    訳ではなく、これら宗教から、それぞれ一部を取り入れている。

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    儒教は、正確には、宗教的儀式というよいも、倫理規範というべき孔子の教えが発展した
    ものである。 目上に対する尊敬、厳しい道理的修養、先祖を大切にする思想を説いた。
    こうした考えの多くが台湾人の暮らしの中に生きている。

    道教は、宗教というよりも、むしろ哲学的である。 これは、道徳教と呼ばれる書物から
    発展したもので、紀元前3世紀中頃かに体系化されたものと考えられている。 道教の思想
    には、大乗仏教の要素が多く取り入れられており、また、儒教の厳格な教えに対して、儒教
    信者が感じている不満の中から発展したものである。

    道教は、簡素な生活、社会的義務からの解放、食欲と欲望の否定を説いている。 更に、
    道教は、台湾に伝わる多くの民間習俗と融合している。 道教寺院で線香を炊いて、
    神台に祀られた紙を信仰するのも道教のひとつである。

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    仏教は、ゴーダマ・ブッダによる教えが発展したものである。 彼は、紀元前6世紀のインドで
    この宗教の基礎をつくった。 ブッダの説く思想は、急速に広まった。 この宗教が中国に
    伝わると、大乗仏教に発展した。 大乗とは、大きな乗り物という意味で、この宗派は、
    誰でも幸せになる機会があると教えている。 この宗教では思いやり、心の平安、他者への
    いたわりが最も徳の高い行いであるとされ、悟りの境地に達する方法として、瞑想を教えて
    いる。

    台湾の伝統的な宗教行事では、先祖の供養も良く行われる。 親族が紙で出来た車、
    家を燃やし、これkらの品が象徴する財産が、他界した親族の元に届くように祈る。

    また、台湾の各地に見られる廟も地元の民間信仰の現れである。 三国志の関羽を祀る
    関帝廟、海の女神である媽祖廟が多いが、秒には、様々な宗族の神や、地元の神が
    祀られている。

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    2017年現在、台湾の人口は、約2,350万人となっており、1km²あたりの人口人口密度は
    620人と高く、200倍の広い国土を持ったオーストラリアよりも、200万人以上人口が多い。
    そして、台湾人の人口の約半分が都市部に暮らしている。



    【民族と言語】

    台湾に暮らす人々の大半は、300年以上も前に中国南部の福建省や広東省から渡って
    来た漢族系移民の子孫とされるが、先住民との混血の割合も多い。 福建省からの
    移民は漢族の多数派を占め、廈門を中心とした中国南方方言のひとつとされる台湾語を
    話す。

    一方、東からの移民は、客家語を台湾に伝えた。 客家語を母国語とする人々の大半は、
    台湾北部の新竹や苗栗に住む。 今日ふたつのグループの違いは、主に彼らの話す
    言語である。

    1949年以降に渡って来た人々は、中国大陸の全域からやって来た。 彼らは、台湾の
    全人口の約15%を占める。 20世紀になって台湾に来た彼らは、北京語を中心とした
    北方方言、いわゆる北京語を話す事が出来る。 蒋介石は、北京語を台湾の公用語と
    した。

    北京語は、1950年代以後学校教育で使われ、80年代になると、教育を受けた世代の
    台湾人の間で広く使われるようになった。 こうして、台湾では、漢族の文化が支配的な
    文化となった。 ただ、福建系、客家系、戦後の移住者と、生活上の文化には異なる
    店もある。 この他、台湾の先住民は、異なった系統の文化を伝えている。 こうした
    先住民族は、全部合わせて台湾の総人口の1.5%である。

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    先住民は、大半がマレー・ポリネシア系で、タイヤル、アミ、ブヌン、パイワン、サイシャット
    などの部族がいる。 彼らは、漢族とは異なる身体的な特徴を持つ。 だが、今日では
    先住民達の多くは、生活上はl、周辺の漢族の文化に同化しているように見える。

    先住民は、伝統的には農耕を行い、独自の宗教を持っている。 東海岸に住むアミと、
    南部の緑島に住むヤミを除けば、いずれの部族も山間部の村落に住んでいる。 だが、
    都市部に働きに出た先住民も多い。

    言語学者は、先住民の言語のルーツをみなマレー・ポリネシア語族であるとしているが、
    部族が異なると互いに言葉が通じない。 そこで、共通語として北京語が使われているが、
    一部には日本語がまだ使われている。 マレー・ポリネシア語族は、マレー諸語や
    フィリピン諸語なども含んでいる。



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    中華民国から中華人民共和国へと外交関係を切り替える国が増える中、1980年代は
    台湾にとって不安定な10年になった。 台湾の指導者の地位については、1978年から
    蒋介石の息子、蒋経国が就いていた。 彼は、大陸を取り戻すよりも、経済発展に
    力を入れることを選んだ。

    1985年には、アメリカの大統領レーガンが、民主化を推進するよう台湾に働きかけ、
    これを切っ掛けに台湾では、政治の自由化と民主化が、徐々に進んで行くこととなった。
    1986年には、民主進歩党(民進党)が合法的に成立、いくつかの野党の活動も合法化
    された。 民進党は、台湾を独立国家にすることを主張している。

    1987年には、38年間に渡って敷かれて来た戒厳令が解除された。 戒厳令は、戦争
    などの非常事態の際、軍に特別な権限を与えて厳重に警戒するための命令である。
    歴史上、最も長い戒厳令が解かれて、台湾でもようやく平常時の社会建設を目指す
    こととなった。

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    1988年はじめに蒋経国が死ぬと、当時、副総統だった李登輝が後継者となった。
    台湾人初の中華民国政府の代表の誕生であった。 李登輝は、台湾の人々の民主化を
    求める声を受けて、憲法を5回に渡って改定するなど、政治を改革し、民主化を大きく
    進めた。 代表的な改革のひとつは、政府の代表である総統と副総統を直接選挙で
    選ぶようにしたことである。

    そして、1996年3月、その第一回の総統直接選挙が行われた。 これに対して、
    中華人民共和国は、台湾を重視する李登輝の政治を非難してミサイルで威嚇する
    などしたが、李登輝はかえって多くの人々の支持を受け、初の選挙民が選らんだ
    総統として当選した。

    一方、李登輝への支持は、李登輝率いる国民党への支持とはならなかった。 汚職や
    金権政治などの古い体質に、非難が集まったからである。 そして、2000年3月、
    第二回の総統直接選挙が行われた。

    李登輝は、以前から引退を表明しており、国民党からは、副総統の連戦が出馬した。
    野党第一党の民進党からは、まだ49歳の若さの陳水扁が出た。 そしてもうひとり、
    大陸出身で元国民党の宋楚揄が有力候補だった。 結果は、陳水扁が宋楚揄に
    わずかの差で当選した。 国民党の連戦は惨敗。 50年余り続いた台湾での
    国民党政権に終止符が打たれた。

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    しかし、国民党は、立法院(国会)では何とか多数派の議席を維持していた。 また、
    宋楚揄は新政党親民党を作って、新総裁に対抗することになった。 少数政権党を
    率いる陳水扁は、困難な政権運営を迫られたのである。 更に、経済が振るわず、
    陳政権に批判的な中国との緊張し関係も加わった。

    だが、民主と台湾重視という政治の流れは変わることはなかった。 2001年12月の
    立法院議員選挙では、民進党は議席を大きく伸ばして最多政党となり、国民党は
    党2党、次いで親民党となった。

    民進党の議席は、過半数までは届かなかったが、選挙の2ヵ月半前に結成された
    民進党寄りの台湾団結連盟との連立など、政権は安定への兆しが見えた。
    台湾海峡は、日本への重要な輸出入ルートであり、台湾の安定は、日本にも大いに
    関係している。

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    1950年代から60年代の間、国民党と中華人民共和国は、武力と宣伝活動による戦いを
    繰り広げた。 中華人民共和国は、金門と馬祖に砲撃を加え、中華民国は、軍備を増強し、
    しばしば福建省を空襲した。

    蒋介石は1954年、60年、66年、72年の4期に渡り総統に再選され、在任中の75年に死亡
    した。 死後10年余り、1986年まで本格的な野党の存在は許可されず、国民党以外にも
    補助的な小政党はあったが、実質的な一党独裁体制が続いた。 そんな中でも台湾は、
    高度な経済成長を続け、1970年代までに台湾の人々は、アジアでは日本や香港に次ぐ
    高い水準を手にするようになった。

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    この時期、中華民国は、国連加盟国として国際的な地位を維持し、また、中国の正当な
    政権であると主張していた。 アメリカなど多くの国々もこの主張を認めて支持した。

    しかし、1970年、この図式に変化が起きた。 カナダが貿易改善のため、20年間の
    交渉の末、中華人民共和国との外交関係を樹立した。 イタリアやベルギー、その他の
    国々も、中華人民共和国を正当政府として認める方向に動き出した。 そして、1971年、
    中華人民共和国は国連に復帰し、中華民国は脱退した。

    1972年、日本は中華人民共和国を国交を結び、中華民国とは断交する。 その後、
    中華民国はいくつもの国と断交が続き、1979年1月、中華民国にとって最強の同盟国
    アメリカもまた、中華人民共和国を中国の正当な政府として承認した。 更にアメリカは、
    台湾問題の解決は、中国の国内問題であると主張した。

    しかし、アメリカ議会は、台湾関係法を成立させ、非公式な関係を継続出来るようにした。

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    中国大陸の国民党政府は、日本に次いで共産党との戦いに直面することとなった。
    ふたつの党は、第二次世界大戦中は、日本を倒すため停戦協定を結び、大戦が
    終わると内戦が勃発した。

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    当初、蒋介石は、共産党より軍事的に優勢だった。 しかし、国民党の軍隊は、
    農民から土地を奪ったり、政府の役人は外国からの支援を着服して私腹を肥やしたり
    したため、軍事的な優位性も、蒋介石の人気も崩れて行った。

    毛沢東の指揮する共産党は、蒋介石の人気が凋落する間に北部で軍隊の強化に
    勤め、1949年、国民党軍に対して、強力な巻き返しを始めた。

    蒋介石は、敗戦が近いことを悟り、武器、産業物資、政府の財産をトラックに乗せ、
    台湾に移送するよう命じた。 台湾を拠点に共産党との戦いを続けるつもりだった。

    北京では、1949年10月1日に中華人民共和国が成立。 12月になると蒋介石は、
    台湾に向けて大陸を脱出した。 80万人の兵士と200万人の支持者が彼と共に
    渡った。 この亡命集団は、最初から自分たちこそが中国の正当な政府であると
    自認していた。 彼らは、中国大陸を取り返すという目標を達成するために力を
    注いだ。

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    【蒋介石による台湾統治】

    蒋介石の台湾到着は、台湾の大きな変化の予兆であった。 蒋介石は、政府を
    台湾に移したが、台湾の独立は認めなかった。 中華人民共和国も中華民国も
    台湾が中国の一省であると考えは共通していた。 だが両国は、どちらの政府が
    中国を統治するかという点で対立していた。

    この問題では、世界中の国がふたつに割れた。 アメリカをはじめとする国は、
    中華民国の強い反共政策を支持した。 また、ソビエト連邦をはじめとする国は、
    中華人民共和国の主張を支持した。

    この対立の影に、台湾の主人公であるべき台湾住民がいた。 台湾人(1949年
    以前に大陸から来た漢人系移民とその子孫で、『本省人』とも呼ばれる)と先住民
    である。

    二二八事件以来、台湾人と後で大陸から渡って来た中国人(『外省人』とも呼ばれる)
    との間の摩擦は絶えなかった。 台湾人たちは、中華民国に再統一されるのが、
    自分たちのためになるとは信じていなかった。

    独立運動も起こったが、蒋介石は過酷な弾圧を行った。 台湾独立の思想を広める
    ことは、国家反逆罪とされた。 蒋介石は数人の台湾人を政府の役職に就けることで、
    こうした対立をある程度治めた。 しかし、国民党は、台湾に厳重な統制を敷き、
    厳戒例を出し、台湾人を支配するために軍隊に大きな権限を与えた。

    1951年、日本は、旧連合国とサンフランシスコ講和条約を締結、この条約で日本は
    台湾の領有権を放棄、台湾は正式に日本の領有を離れた。 経済面では、蒋介石は
    食料生産の増加などに一定の成果を収めた。 台湾の工業力が発展しはじめるのは、
    アメリカから受けた膨大な経済的援助が背景にあった。 1951年から1965年の間、
    台湾15億ドルの主に軍事財政に向けられた経済援助と25億ドルの軍事資金を
    受けた。

    1954年、アメリカと結んだ米華相互防衛条約によって、近代化を進める上で必要な
    安全保障が確保された。 その目覚しい工業発展によって、台湾は1965年までに、
    自力で経済発展の資金をまかなえるようになった。

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    1930年年代後半、日本と中国とが交戦状態にあった時、日本の台湾総督府は、台湾
    住民を公民化する運動を開始した。 これは、台湾住民の日本人化を更に進めて、
    戦争の態勢を整えようとするものだった。 神社参拝の強要、新聞の漢文記事の廃止、
    日本語を使うよう進めて行く等の方策が採られた。 1940年代には改姓名といって、
    姓名を日本式にする運動も進められた。 これらに対して、台湾住民は、自ら協力
    する者、反抗の意思を示す者等、様々だった。 

    1940年代までに、日本は台湾を軍事基地化していた。 フィリピンの米軍基地を素早く
    空襲する理想的な基地となり、 そのため、米・英連合軍の激しい爆撃の対象となった。
    多くの日本の工場や発電所は、瓦礫となり、飛行場は破壊され、陸上交通もほとんど
    麻痺した。

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    1945年、日本は、連合軍に降伏する。 やがて、中華民国の国民党政府は、新しい
    台湾行政長官を役人や軍隊と共に送り込んで来た。 しかし、この新参者達は、台湾
    住民の同胞ではなく、支配者のように振舞った。 日本人の残した住宅や産業等を
    摂取し、インフレが急激に進み、大規模な食糧不足が起きた。 そして、台北市内の
    小さないざこざから、台湾人と国民党政府との大きな衝突が起きた。

    1947年2月28日に起きたこの事件は、二二八事件と呼ばれているが、台湾住民の
    政府への不満の大きさから、事件は台湾島全土へと広まった。 国民党政府は、
    軍隊を出動させて鎮圧にあたり、台湾人らに2万人とも3万人とも言われる死者が
    出た。 重大な事態に蒋介石は、行政長官と呼び戻し、新しい長官を任命した。

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    日本が台湾を統治していた時期、中国大陸では、多くの事件が起こっていた。 1911年、
    蜂起した華人は、満州人の清朝皇帝を退位させ、翌年、中華民国が成立する。 この
    辛亥革命成功の指導者は、孫文だったが、ほどなく政府の実権を軍人達が握った。
    孫文は、次に南部を拠点にし、軍閥と戦うことになった。 その戦いの過程で孫文は、
    自らが理論化した三民主主義を基本とする中国国民党を結成する。 三民主主義は、
    民族、民権、民生という三つの主義をいう政治理論である。

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    1924年、国民党は、中国全土を統一するため、考えの相容れない中国共産党とさえ
    協力することにした。 1925年に孫文が死ぬと、その後継者は、軍人の蒋介石となった。
    1927年、蒋介石は、南部の広州から軍隊を率いて、北京まで遠征し、軍閥政府を
    倒した。 その後間もなく、国民党は、共産党と手を切り、敵対する政権を樹立する。

    中華民国総統となった蒋介石は、国家の近代化に着手した。 道路、鉄道、工場等の
    建設が始まった。 しかし、国民党政府は、地主への借金に苦しむ農民を助けたり、
    都市労働者が組合を組織することを許したりしなかった。 これは、かえって、共産党の
    支持者を増やす事になった。 そして、更に国民党に困難が降りかかる。

    1931年、日本軍が中国の東北地方を占拠、1937年には、東部沿岸地方の一部を
    占領した。 それから、1945年まで、中国は、日本の侵攻に抵抗し続ける事となった。

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    1874年、日本は台湾に出兵した。 台湾に漂着した宮古島の住民69名のうち
    54名が先住民に殺害された牡丹社事件などから、自国民の保護を主張して
    出兵したのである。 清朝政府もこれを認めて、賠償金を支払った。

    この出兵を切っ掛けに、清朝は台湾の統治に積極的に乗り出した。 有能な
    官吏を派遣して、統治制度の改革と開発を行った。 1885年、清朝は台湾を
    中国の正式な一省に格上げし、1892年には、台北が台湾省の行政の中心になった。
    しかし、清朝の台湾統治の改革は、さほどの成果を見せることはなかった。
    1894年、日清戦争が勃発し、訓練と装備で勝る日本軍が勝利した。

    1894年4月、日本と清朝との間に下関条約が結ばれた。 条約には台湾と
    澎湖諸島が日本へ割譲されることが記されていた。 6月、日本軍は台北に入り、
    台湾総督となった海軍大将の樺山資紀が、日本による統治の始まりを宣言した。
    これで、211年続いた清朝による台湾統治は幕を下ろしたが、清朝は依然として
    中国大陸のほぼ全域を統治していた。

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    【日本の統治時代】

    日本人が台湾に入ると、清朝の役人や軍は中国大陸へ逃亡したが、移住民の子孫や
    先住民たちは激しく抵抗し、特に、先住民は、その後も長く、ゲリラ的な抵抗運動を
    散発的に続けた。 日本の台湾領有の目的は、アジアに君臨していた欧米の勢力に
    対抗する、列強国になるためのひとつの手段であった。 まず日本は、台湾を米や
    砂糖などの食料供給地として利用する。

    そのために、自作農を増やすための土地制度の改革、米の品種改良、新たな耕作地の
    開墾、用水路やダムの整備を行った。 これらの結果、米や砂糖などの生産高は、
    日本統治時代を通じて増え続けた。 特に砂糖は、日本の領有以前から台湾の
    輸出品であり、砂糖の生産が増すと、日本の需要を満たすばかりではなく、世界でも
    主要な生産地となった。 また、日本は、鉄道を敷き道路を整備し、港を改修し拡張
    すると共に、郵便や電報、電話といった通信網も整備した。 また、各地に保健所や
    病院も開設するなど、伝染病の予防と公衆衛生にも努めた。

    更に、初等教育から大学までの学校をつくり、教育制度を整えた。 この教育は、
    日本語によるもので、日本語を話せる台湾住民も増えて行った。 そして、日本の
    旧制高校や大学へ留学するなど、高等教育を受ける台湾住民の学生も珍しくは
    なくなった。

    このして発展の結果、1930年になると、台湾は工業地域としてもスタートした。
    繊維工場、製油所、製糸工場、肥料工場とはじめとする加工施設も建設された。
    日本の統治は、強い警察力を用いた厳格なものだった。 し かし、その一方で、
    ヨーロッパの列強による植民地には見られない、さまざまな改革が行われて近代化が
    進み、協力する現地住民も増え、その抵抗は、法律での平等を求める運動となった。
    また、その運動に協力したり共感する日本人もおり、日本人と台湾住民との間には、
    対立もあれば、信頼もあるといったさまざまな関係が生まれた。

    【お勧めの一冊】



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    1684年、清朝は台湾を福建省の管轄下に置き、統治を開始した。 しかし、
    その統治は軍事的に重要な澎湖諸島の安全保障と、台湾が将来、海賊や反乱者の
    拠点とならないようにするため、という消極的なものであった。 そして、
    その統治区域は、台湾全土には及んではいなかった。

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    オランダと鄭経が労働力と課税人口を増やそうと努力し、何十万人にも達して
    いた漢人の移住民を清朝は減らそうとさえした。 妻子のない移住民は、
    強制的に故郷へと戻し、新たな移民には厳しい制限を設けた。 しかし、
    中国大陸から次々に移民が渡って来た。

    殆どは中国南部の農村地帯からの人々であった。 そこは人口が過剰ぎみで、
    自分の農地を求めて密航の危険を犯して、台湾へ渡って来たのである。 彼ら
    農民たちは、島に渡るとすぐに土地を耕し始め、未開地は耕作地へと変わって
    行った。 1684年から1735年の間、農民たちは北西沿岸沿いの広い地域と
    南部の広大な土地を開墾して作物を植えた。

    しかし、この新田によって先住民たちは土地を奪われ、沿岸地域から内陸部へと
    押しやられた。 その反面、移住民と通婚するなどして一族諸共漢人化して行く
    先住民もあった。 一方、清朝の役人たちは、島の開発には興味がなかった。
    3年間の任期中、不法な手口を使ってでも自分の財産を増やすことに精を出し
    たのだ。 官僚の汚職がはびこり、台湾は無法地帯となって強盗や社会不安が
    日常化した。



    農業生産高の向上やサトウキビ、茶の輸出などで経済は次第に発展したが、
    利益は役人と商人に吸い取られ、一般の住民はますます不満感を高めた。
    1700年代から1800年代半ばまでに15回もの大きな反乱が起こり、小さな暴動は
    もっと頻繁に発生した。

    発展と混乱の続く1800年代中頃、貿易の拠点など台湾の商業的価値に目を
    付けたイギリスとアメリカは、台湾の占領を狙ったが、実現はしなかった。

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    16世紀になると、多くのヨーロッパ人達がアジアへ来るようになった。
    16世紀半ば、台湾の沿岸を航海していたポルトガル人は、『イラ・フォルモサ!』
    と叫んだと言う。 『麗しの島』という意味である。 そして、その後の
    数世紀の間、ヨーロッパ人達は台湾をフォルモサと呼んだ。

    17世紀になると、東インド会社を設立したオランダも、中国や日本との貿易の
    ために拠点づくりに乗り出した。 1624年に台湾南西部の安平(今の台南付近)に
    上陸。 その地に数年掛りでゼーランジャ城を完成させたのである。



    安平を拠点としたオランダは、台湾での貿易を独占しようと、まず日本の商人を
    締め出した。 これに対して、1626年、武装した日本の商人がゼーランジャ城に
    攻め入る等、激しく対立した。 しかし、やがて日本は鎖国し、海外貿易の多くを
    オランダに委ねて行く。

    一方、スペインも台湾北東部に拠点を置くことを目指し、1626年に上陸、ふたつの
    要塞を築いた。 だが、15年ほどすると、彼らはアジアに持っていた他の植民地の
    混乱平定に力を振り向けざるをえなくなった。 この機に乗じたオランダは、
    ライバル、スペインをこの島から追い出した。 1642年には、台湾に居る
    ヨーロッパ人は、オランダ人だけとなった。

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    【オランダ統治時代】

    オランダは、台湾が植民地としても有望だと考えていた。 サトウキビの栽培を
    奨励し、島に多いクスノキから、アルコール等の原料となる樟脳を採取する方法を
    先住民や移民達に伝えた。 そしてオランダは、ヨーロッパや日本等アジア地域の
    国々を相手にして中国製品を取引する一大貿易地として、台湾を成長させた
    のである。

    オランダ東インド会社は、北西部にある桃園に交易場を設け、現地で取れた鹿皮、
    砂糖、籐を中国や日本から来た商人に売った。 ヨーロッパ人はここで中国製
    陶磁器を仕入れ、中国はヨーロッパやその植民地からの胡椒、亜麻布、錫、
    習慣性のある麻薬、アヘンを買った。



    より多くの労働力を手に入れるために、オランダは中国大陸から台湾への移民を
    奨励した。 新しい農産物や家畜を用いて、農業のやり方を改善させた。
    オランダから来た宣教師は、先住民の一部をキリスト教に改宗させ、新しい
    信仰を先住民に教えるために学校を建てた。

    オランダは、先住民の伝統的な風習をヨーロッパ式に変えさせ、労働者に過酷な
    税を課して働かせた。 そして、先住民と漢人の移民を鎮圧するため、時に暴力や
    武力を用いた。 これには漢人らが強く抵抗し、その最大のものが1652年の
    反乱である。 約1万5,000人の台湾に住む漢人がオランダ人の住居等を襲撃
    したのだ。 しかし、棒切れ程度の武器しかない反乱者達は、2週間足らずで
    敗北する。 戦死とその後の虐殺で、反乱者の3分の1程度が死亡した。

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    宋王朝は最終的に、モンゴル帝国を築いたフビライ・ハーンによって滅ぼされた。
    1279年フビライ・ハーンは、元王朝を建て、1292年と1297年に、台湾の住民を
    従えようと遠征軍を送ったが、成功しなかった。 これ以後、澎湖諸島に住み着く
    漢人も増え、やがて漢人の官僚が統治することになった。 澎湖諸島は、元王朝の
    辺境の地となったが、先住民と交易するだけで、島には定住しなかった。

    16世紀ともなると、福建の漁民や貿易商人は、漁場や交易の地としての台湾の
    価値に目を向けるようになっていた。 しかし、1368年、元に代わって中国
    大陸を支配した明王朝は、台湾島を中国の一部とはみなしていなかった。

    SpanishTaiwan

    【倭寇と移民】
    15世紀、澎湖諸島の他の台湾島に拠点を置く貿易商人も居た。 次第に海賊と
    化した武装商人団もあって、16世紀になると、海賊事件が増えた。 商船の
    船荷を奪ったり、中国大陸の沿岸や朝鮮半島南端を襲撃したのである。 漢人が
    中心だが、日本人や朝鮮人も居た。 14世紀半ばから15世紀に掛けての日本人を
    中心とした海賊が倭寇と呼ばれたのにならって、やはり、倭寇と呼ばれた。
    漢人の海賊の中では、林道乾と林鳳が最も有名である。 彼らは、16世紀中頃に
    暴れ回った海賊で、いずれも台湾に拠点を作った。

    海賊が出没する一方で、貿易も盛んで、商人は陶磁器、布、塩等の積荷を、
    台湾で鹿皮や魚等と交換した。 鹿皮は、日本へも運ばれた。 日本の戦国
    武将が身に付けた鹿皮の陣羽織は、台湾の皮で作ったものである。 また、
    貿易での利益を当て込んで、福建省から台湾への移民も増えた。 当時、日本も
    台湾との貿易には関心を持っており、日本の商船が出たり、豊臣秀吉が1593年には
    台湾の『高山国』に宛てて書簡を出したりしている。

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