多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    カテゴリ:東ヨーロッパ > ポーランド

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    ポーランド語は、チェコ語、スロバキア語と同じ西スラブ系言語となっており、
    第二次世界大戦以降、教育が普及したため、ポーランド語は文語口語とも
    標準語化されたが、地域的な方言は今も残っている。 例えば、シュロンスク
    地方は、ポーランド語とドイツ語の混成語となっている。 カルパート山脈の
    ゴラーレ人も独特の方言を持っている。

    ポーランド人にとって、文学は民族の誇りを表現する重要な手段となっている。
    この国の最初の文学作品は、歌と語りによる叙情詩と叙事詩であった。 国民の
    キリスト教改宗後は教会も民衆も、ラテン語で文学を書くことが多くなった。

    15世紀の中頃までには、ラテン語に代りポーランド語が文学言語となった。
    16世紀の詩人、ヤン・コハノフスキーは、ラテン語とポーランド語と両方を
    使った。 ミコワイ・レイ(1505~1569年)は『ポーランドの父』と呼ばれ、
    ポーランド語だけで詩と散文を書いた。 それ以降も歴史、宗教、詩などの
    分野で重要な作品が多く現れた。



    ポーランド文学は、19世紀になると、ますます重要性を増した。 詩人たちは、
    分割と外国人支配に抵抗して、祖国の文化と愛国心を鼓舞した。 アダム・
    ミツキエヴィッチは、独立の闘志コシチューシコを歌った叙事詩『パン・
    タデウシ』で祖国への深い愛情を表現した。 ヘンリク・シエンキェヴィッチは
    小説『クォ・ヴァディス』で1905年に、チェスワフ・ミウォシュは詩の作品で
    1980年にそれぞれノーベル文学賞を受賞した。

    作家たちの多くは、外国に亡命し、他の国の文化にも重要な貢献をした。
    ヨゼフ・コンラッド・コジェニョフスキは、イギリスへ移住し、ジョゼフ・
    コンラッドのペンネームで多くの海洋小説を書いた。

    ポーランド生まれのアイザック・シンガーは、ユダヤの伝統的な神話や伝説を
    作品化した。 ジャージー・コジンスキも同じくアメリカ合衆国へ移住した
    作家だが、第二次世界大戦中のポーランド人たちの苦難を小説『ペインデット・
    バード』に表した。

    ポーランドの共産主義政権は、権力を握っている間は作家やマスコミに大きな
    制約を課したが、多くの作家たちは、作品を地下で出版し続けた。 現在の
    ポ-ランドは東欧で最も出版業の盛んな国のひとつであり、3000近くの雑誌と
    新聞を発行している。 年間の書籍販売数は、2億部で、この中には共産主義
    時代には入手出来なかった大衆小説も含まれている。

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    ポーランド人が10世紀にキリスト教を信仰するようになって以来、カトリック
    教会は、大きな影響力を持つようになった。 教会への忠誠心によって、
    ポーランド人は19世紀の分裂と外国支配の時期にも、民族としての自覚を保つ
    ことが出来た。 その後、共産主義政府が宗教活動を制限するようになっても、
    一部の教会や神学校は、人々の間で存続した。 教会の指導者たちは反体制
    運動に参加した。 1878年、ポーランド教皇、ヨハネ・パウロ2世となると、
    自分の影響力と人気を活用して、改革を推進させた。

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    クリスマスとイースターは、主要な宗教的祭日である。 8月15日の聖母
    被昇天の祝日には、多くのカトリック教徒がチェンストホヴォにあるヤスナ・
    グラ修道院に行き、『黒の聖マリア』の霊廟に礼拝する。 信仰の厚い人たちは、
    この聖母マリ像が17世紀のスウェーデンの侵略を阻止したと信じ、以来
    『黒の聖母マリア』は、ポーランド民族の象徴となった。

    ポーランド人の95%以上がカトリック教徒である。 残りの大部分はギリシャ
    正教徒、プロテスタント、または、ユダヤ教徒となっている。

    何世紀もの間、ポーランドはユダヤ人たちの信仰と知識と文化の重要な中心
    だった。 しかし、第二次世界大戦中、ユダヤ系住民たちは、ナチスの迫害に
    よって、蹂躙され、この戦争で生き残ったユダヤ人たちの大部分は、ポーランド
    国外に移住して行った。

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    1988年、ワレサは、グダニスクで、更に抗議行動を組織した。 経済問題の
    急激な悪化に直面した政府は『連帯』を合法化し、共産党の一党支配を終わら
    せることを約束した。 1989年6月、非共産党員の候補者たち、その多くは、
    『連帯』のメンバーが選挙に当選して、国会議員となった。 続いて国会は、
    ヤルゼルスキを大統領に選出し、タデウシ・マゾヴィエツキを党首に選んだ。
    マゾヴィエツキは『連帯』の指導者だったが、共産党と、それ以外のいくつかの
    政党を含む連立内閣を組織した。

    1990年1月、ポーランド共産党の指導者たちは、共産党の名称を改めて、ポーランド
    共和国社会民党と名乗った。 共産党の財産の大部分は、新しい政権に移譲され、
    政府は物価と賃金を自由化すると共に、マスコミに対する全ての規制を廃止した。
    政府はまた、国営企業を民間の投資家に売却し始めた。 これは、企業の民営化と
    呼ばれた。 ヨーロッパの中部かと東部の諸国が、次々と共産主義から離れて行く
    過程で、民主化されたばかりのポーランドの企業は、西ヨーロッパでの事業を
    開始した。

    1990年秋、ワレサが大統領選への出馬を表明すると、ヤルゼルスキは、大統領を
    辞任した。 選挙はワレサ、マゾヴィエツキ、ティミニスキの三つ巴の争いと
    なった。 ティミニスキは、ポーランド生まれのカナダの実業家である。 1990年
    12月、ワレサがこの選挙に勝利をおさめると、マゾヴィエツキは首相を辞任した。
    ポーランド農民党の指導者ヴァルデマル・パヴラクが、1993年首相に就任した。

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    1990年代初期を通じて、中央統制経済から、自由市場システムへの移行に伴う、
    深刻な問題がいくつか表れた。 生産量の減少、物価の上昇、失業などである。
    しかし、政府の施策は、外国の投資を誘導したり、国営資産を売却したりする
    点で成功をおさめている。

    西ヨーロッパ諸国との活発的な貿易によって、経済システムの移行は促進され、
    食料と衣類の欠乏は終わりを告げた。 民主的な政府と、経済の改善の
    もたらした利益のお陰で、ポーランドの人たちは現在では、生活の一層の向上を
    期待出来るようになった。

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    1980年、食料と消費物資と電力の不足が深刻になった。 この年の夏、グダニスクの
    レーニン造船所の労働者たちは、講義のストライキを起こした。 他の都市の労働者たちも
    それに習い、3週間続いたストライキで国家機能は麻痺した。 政府は賃金の値上げや、
    労働組合を結成する権利などの要求に同意した。 その結果、全国的な労働組合である
    『連帯』が創設され、造船所の電気技師で、ストライキの組織者でもあったレフ・ワレサが
    議長となった。

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    労働者たちの獲得した各種の権利は、政府への圧力となり、政府は他の面でも改革を
    迫られた。 ギエレクは政治犯を釈放し、新聞や放送に対する統制を緩和した。 しかし、
    ソビエトとポーランドの共産主義指導者たちは、これらの変化に抵抗し、国民は、ソ連の
    軍事と政治、両面に渡る介入を懸念しはじめた。 1981年、ギエレクは辞任し、厳格な
    共産主義者ヴォイチェフ・ヤルゼルスキが第一書記長に就任した。

    ヤルゼルスキは『連帯』を非合法化し、ワレサを逮捕した。 しかし、反政府でもは、尚も
    続き、ワレサは、1983年に釈放されて、再び『連帯』の指導者に返り咲いた。 ポーランドの
    労働運動は、カトリック教会に支持されていた。 教会のトップに立つ教皇ヨハネ・パウロ
    2世は、ポーランド人で、ポーランド政府にさまざまな改革を実行するように呼び掛けて
    いた。

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    1939年9月1日、ドイツ軍は、ポーランドへの大規模な侵攻を開始し、同時にソビエト軍も
    東から攻撃を始めた。 2日後には、、イギリスとフランスは、ドイツに宣戦を布告したが、
    ドイツ軍どソビエト軍は、ポーランド国土を蹂躙し、国土を再び分割した。 ポーランドの
    指導者たちは、イギリスに逃れて亡命政府をつくった。

    ドイツ軍の爆撃と戦闘によって、グダニスク、ワルシャワ、その他の工業都市は破壊された。
    ナチスはポーランド国内に、アウシュヴィッツ(オシヴィエンツィム)など、いくつもの
    強制収容所をつくり、何百万人ものユダヤ人や政治的因人を虐殺した。 戦争中に
    殺されたポーランド系のユダヤ人は、300万人以上に上っている。

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    1941年、ヒットラーがソビエトと戦争を始めると、ドイツ軍はポーランド全土を占領した。
    しかし、1944年には、ソビエト軍は間もなくポーランド全土を占領し、更に進んでドイツの
    首都ベルリンを陥落させた結果、ナチス政府は、1945年5月についに降伏した。

    戦争中、アメリカとイギリス両国は、ポーランド臨時政府の閣僚たちをポーランドの公的
    指導者として承認した。 しかし、戦争が終わると、ポーランド共産党の支配する人民
    解放委員会は、臨時政府の帰国に反対した。 共産党員たちは、ポーランドを占領して
    いたソビエト軍の支援を受けて、政府の重要なポストを独占した。 臨時政府の閣僚
    たちは、祖国に帰れなくなった。

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    1945年、ソビエト、イギリス、アメリカの3国は、ポーランドの新しい国境線について
    合意した。 ソビエトは、ポーランドの東部地域で18万1,300平方キロメートルの土地を
    併合し、ドイツの領土だった10万3,600平方キロメートルの土地がポーランドに加え
    られた。 国境線の変更によって、800万人ものドイツ人がポーランド北部と西武から
    立ち退いて行った。

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    ポーランドの共産主義者達は、ソビエト連邦の共産党をモデルに、ポーランド共産党
    (統一労働党)を組織した。 この党は、労働組合を創設し、各都市と各州に行政委員会を
    置いた。 1947年、共産党は、選挙干渉を行って、ポーランド国内で共産主義者が多数を
    占めるようにした。 共産主義の指導者達はその後、自分達の国名をポーランド人民
    共和国と改めた。

    ポーランド政府はやがて、全ての民間企業を国営化した。 物価も労働賃金も政府の
    企画担当者が設定した。 農民達は、強制的に集団農場に加盟させられ、集団農場では
    種まきも収穫も農産物の販売も全て国家の管理の下に置かれた。 政府は、教会の
    土地を接収し、政権を批判する人々を逮捕し、いくつかあった反対党を共産主義者の
    管理の下に再編成させた。

    ポーランドは、ヨーロッパ中部に形成された共産主義国家ブロックの一員となった。
    このブロック内では、貿易も産業もソビエト経済と密接に繋がっていた。 ポーランド
    政府は、新しい工場を次々に建設したが、これは大型機械、その他の工業製品を
    ソビエトへ輸出するためだった。 ポーランドの共産主義者の中でも、ソビエトの影響に
    反抗する者は、その地位を失って行った。 1948年、ポーランドの共産主義指導者で
    あるヴァワディスワフ・ゴムウカは、ソビエトの政策に異議を唱えたため、投獄された。

    それでも、ポーランドの学生、芸術家、労働者は、政府に対して抵抗し、1956年、
    反政府暴動がポズナニに発生した。 このため、ポーランド政府はゴムウカを釈放した。
    ゴムウカは、ポーランド共産党第一書記(党首)に就任した。

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    ゴムウカは、投獄されていたカトリックの聖職者達を釈放し、集団農場の大部分を
    個人農民に返還した上、西ヨーロッパ諸国との接触を強めた。 しかし、1960年代を
    通じてゴムウカは、ソビエト指導部の設定した政策の大部分に追随した。 国内では、
    共産主義への反抗がなおも続き、1970年に経済状態の悪化を巡って、広範な暴動が
    頻発したため、ゴムウカは退陣した。

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    1917年、ロシアで共産主義者と呼ばれる革命家達が政権を握った。 この政権は、
    第一次世界大戦の戦線から離脱し、ポーランド人が自らの政権を樹立するのを認めた。
    ポーランド臨時政府が成立し、やがて共和国の樹立が宣言された。 ピウスツキは、
    共和国の国家主席になった。

    ヴェルサイユ講和条約の結果、ドイツは武装解除され、ヨーロッパ北部と中部に新しい
    国境線が引かれた。 ポーランドは、ヴィスワ川からバルト海岸に及ぶ細長い地域を
    ドイツから獲得した。 隣接するグダニスク港は、住民の大半がドイツ語を話すため、
    ダンツィヒ自由市となり、結成された国際連盟の管理下に置かれた。

    ピウスツキは、3回に渡るポーランド分割以前に存在した国境を回復しようと考え、
    そのためロシアと紛争を起こした。 当時ロシアでは、共産主義政権が、皇帝の
    支持者たちと戦い続けていた。 1920年から始まった戦争で、ポーランド軍はロシア
    国内の混乱に乗じて、東部国境外の地域を奪い取った。 1921年、ポーランドと
    ロシアは、やっと平和協定を結んだ。

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    ロシアの共産主義者たちは、やがて国内の混乱を鎮圧して、1922年、ソビエト連邦を
    創設した。 同じ年、ポーランド国会は新憲法を制定し、ピウスツキは国家主席の
    地位を辞任した。

    1920年代、再建された下院議会は、教育、労働法、地主制度の改革案を成立させた。
    産業労働者たちは、労働組合を結成し、田園地帯の農民は自分たちの私有地を
    獲得した。 貿易を振興させるために、ポーランド政府は、バルト海岸に、新しく
    グディニア港を建設した。

    ポーランドの指導者たちは、見事にポーランドの再建しつつあったのにも関わらず、
    政党間の激しい争いが政府を弱体化させた。 その上、ウクライナ人、ドイツ人、
    ベラルーシ人などがポーランド人の統治に対して民族的な反感を持ち、また、
    物価が高騰して失業が広まったために、政治的な危機が生じた。 1926年ごろには
    問題が深刻化して、政府の機能は麻痺した。

    国会の失敗に失望したピウスツキは、軍の支持を受けて、1926年、政界に復帰し、
    政府を転覆させた。 ピウスツキは、下院議員の権限を制限し、自分の戦友のを
    総理大臣に任命した。 1920年代後半から30年代前半に掛けて、ピウスツキは
    軍の総司令官になり、1935年に病死するまで独裁者として国を支配した。

    1930年代になると、ドイツでアドルフ・ヒトラーのナチス政権が成立し、急速に
    再軍備を始めた。 1938年、ヒトラーは、チェコスロバキアの大部分を手中に収めた。
    この国は、第一次世界大戦後、ポーランドの南につくられた国家である。 ヒトラーは
    また、ダンツィヒをドイツの支配下に戻すように要求した。

    東では、ソビエトの指導者、ヨシフ・スターリンがポーランド東部はソビエトの領土であると
    主張した。 1919年の夏、ヒトラーとスターリンは、ポーランドを侵略して分割する
    秘密協定に調印した。 ヒトラーはダンツィヒとポーランド西武の領土を要求し、
    ポーランドはそれを拒否した。 イギリスとフランスは、ドイツが攻撃した場合には、
    ポーランドを支援すると誓約した。

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    第三回分割後、ポーランドの軍人や政治家が多数フランスに移住した。
    フランスは、当時革命の最中であり、ポーランドの軍人たちは、フランスで
    戦闘部隊を結成して、祖国を解放しようと考えた。 これらの部隊は、
    フランス軍と協力して、オーストリアやプロイセンと戦った。

    1807年、プロイセンに勝ったフランス皇帝ナポレオンは、プロイセンに併合
    されていた元のポーランドの一部に、ワルシャワ大公国を創設した。 1812年、
    オーストリアに併合されていた領土の一部も、大公国領域に加えられた。

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    1815年、ナポレオンが没落すると、ワルシャワ大公国は解体された。
    その領土は、プロイセンとオーストリアに返還され、代わりに、ロシアの
    支配下に小さなポーランド王国が創設された。 ロシア皇帝がポーランド王を
    兼ね、王国は新憲法を制定して、産業と教育を振興させた。 しかし、
    ポーランド国民は、完全な独立を望んだ。

    1830年、反乱が起こると、ロシア皇帝は、ポーランド東部をロシア帝国に
    併合した。 ポーランドの憲法と国会は廃止され、経済はロシアに支配された。
    1860年代までに、ポーランド地域での行政と教育に使われる言語は、
    ポーランド語ではなく、ロシア語にされてしまった。 

    ポーランド西部での外国支配は、それ以上に厳しかった。 ドイツ人は、
    ポーランド西部に近代的な鉄道網の建設はしたものの、1870年代になると、
    プロイセンの首相になったビスマルクは、領内に存在するポーランド文化を
    抹殺しようとした。 カトリック系の学校は、閉鎖され、教会の活動は、
    制限された。 ポモルゼやシロンスクに住むポーランド人たちは、ドイツ語の
    使用を強制された。

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    ポーランド人たちは、自分たちの民族性を維持しようと懸命に努めた。
    ロシアの統治に対する激しい反乱は、多くのヨーロッパの指導者たちの間で
    同情を掻き立て、また、ポーランド人たちの愛国心を燃え立たせた。
    ポーランド人の作家、画家、音楽家たちは、消滅した祖国の栄光を讃え、
    ポーランドの民族的伝統を保存して、祖国の文化を活性化させた。

    20世紀初頭、ヨーロッパ諸国は、2つの強力な同盟を結んで、大陸の力の均衡を
    図った。 イギリスは、フランスやロシアと同盟して、ドイツ、オーストリア、
    トルコと対抗した。 ポーランド人の多くは、さまざまな新しい政党に入って、
    それぞれの支持の下に独立を達成しようとした。 政治家ロマン・ドゥモフスキの
    率いる民族民主党は、ロシアと連帯関係を結んだ。 ポーランド社会党と
    その指導者ヨゼフ・ピウスツキは、オーストリアと協力関係を結んだ。

    1914年夏、第一次世界大戦が勃発した。 ポーランドは、オーストリア、ドイツ、
    ロシア各国の軍隊の戦場となった。 敗北を重ねたロシアは、1918年3月、
    ドイツと講和条約を結んだ。 しかし、同じ年の9月、ドイツとオーストリアは
    降伏し、第一次世界大戦は終わった。

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    ソビエスキは、勝利したが、ポーランド国会内部の軋轢は王国を弱体化
    させた。 その後、ドイツのザクセン公がポーランド王アウグストゥス2世
    となったが、この時代には、ポーランドは、強大な隣国によって主権を
    侵され始めた。

    アウグストゥス2世が1733年に死ぬと、ポーランドのある貴族が国王に選ばれ
    かけたが、ロシアの干渉で阻止された。 そして、ロシア皇帝の代理人たちは、
    下院の大きな派閥を買収して、アウグストゥス2世の息子を国王に選出させた。

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    重税のために、ポーランドの農業と貿易は振るわなかった。 軍事力も低下し、
    国王は外国の軍隊に対して、無防備の状態となった。 貴族たちは、敵対する
    派閥を統合する努力を殆どせず、無能と腐敗によって、国家を弱体化させた。
    その上、下院が拒否権制度を導入したため、国会議員が1人でも反対すれば、
    新しい法案は一切成立しなくなった。

    このために政治は大混乱となり、外敵たちは、これを好機にポーランドの領土を
    奪い始めた。 1772年、西のプロイセンと南のオーストリアは、東のロシアと
    協力して、ポーランド領土の3分の1近くを奪ってそれぞれの国の領土に加えた。
    これが第一次ポーランド分割である。

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    第一次分割以後、政治を改革しようとする動きが国会内で強まった。 1791年、
    多くの貴族の反対を押し切って、国会は新憲法を採択した。 この憲法は、
    拒否権制度を廃止し、国王の選挙制を止めて相続制とし、下院の力を弱めた。
    新憲法はまた、全ての市民の人権を保障した。 しかし、ロシアの女帝
    エカテリーナ2世は、臣下のロシア国民が、ポーランド人たちと同じ改革を
    するのを恐れた。

    1793年、一部のポーランド貴族の協力で、エカテリーナは、軍隊をポーランド
    東部に進め、領土の一部を奪い取った。 それと同時にプロイセンもまた、
    ポーランド西部の一部とグダニスク港を併合した。

    ポーランドの第二次分割に憤激して反乱が起こり、愛国者タデウシ・
    コシュチューシコがその指導者となった。 1494年、コシュチューシコは、
    ワルシャワでロシア軍を撃破した。

    だが、ロシアとプロイセンが、力を合わせて攻め込んで来たため、ポーランド
    愛国軍は、数の上で圧倒された。 翌年、ロシア、プロイセン、オーストリアの
    3国は、コシュチューシコの反乱を鎮圧して、ポーランド国王を退位させた。

    これらの3国は、残っていたポーランドの領土を自分たちの間で分割し、
    ポーランド王国は消滅した。

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    カジミェシュ3世が跡継ぎのないまま1370年に死ぬと、甥のハンガリー王
    ラヨシュがポーランド王を兼ねた。 ラヨシュの娘ヤドヴィガが1382年に
    ポーランドの女王となり、4年後、リトアニア公ヨガイラと結婚した。

    ドイツ騎士団との戦いでリトアニアの援助を必要としていたポーランドの
    貴族達は、ヨガイラを1386年ポーランド国王に選び、彼はヴワディスワフ2世
    ヤギェウォと称した。 ポーランドとリトアニアはまだ別個の政府を持ち
    ながらも、同じヤギェウォ王家の支配を受けることになった。

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    こうして大きな勢力を持つようになったポーランドは、リトアニアと連合し、
    1410年、その連合軍はタンネンベルグの戦いでドイツ騎士団を打ち破った。
    ヴワディスワフ2世の後継者のカジミェシュ4世も、その後何度かドイツ騎士団を
    破ったので、ついに騎士団はトルニの和議を結んで、プロイセンをポーランドに
    割譲した。

    トルニの和議の成立後、ポーランドは、中ヨーロッパ最強の国となり、経済と
    文化の面でも大きく発展した。 新しい大学が出来、学者達は、それまで
    ヨーロッパの宗教と学問で伝統的だったラテン語の代わりに、ポーランド語を
    使い始めた。 1520年頃、最初のポーランド語の書籍が印刷された。 ラテン名の
    コペルニクスで知られる天文学者ミコワイ・コペルニクは近代天文学の基礎を
    築いた。

    これら変化の進行中、キリスト教信仰は混乱状態に陥っていた。 ドイツでは
    マルティン・ルターの教えで宗教改革が始まり、カトリック教会に対する反乱が
    起こった。 教皇の権威を認めないプロテスタントの教会が、スウェーデンを
    含むヨーロッパ北部の幾つかの国で作られた。 ポーランドはカトリック国家の
    ままだったが、他の宗教にも自由な崇拝を認めた。 ポーランドは、ユダヤ人
    共同体は世界最大規模のひとつとなった。

    【ポーランド国会】

    カジミェシュ4世の統治時代、シュラフタと呼ばれる、軍人と地主を中心と
    する階級が勢いを増し、土地や農民を支配し始めた。 農民達には高い租税が
    課せられ、多くは農奴に転落して、地主の土地に縛り付けられた。 1493年、
    上流階級だけの国会が出来た。 国会は、裕福な貴族で構成される上院と、
    地主で構成されるセイム、つまり下院から成っていた。 1505年、国会は最初の
    憲法を制定した。

    憲法には、ポーランド王は国会の同意がなければ、いかなる法律も成立させる
    ことが出来ないと明記されていた。 下院はまた、国王の即位を投票によって
    承認する権限を与えられていた。

    1569年、ポーランドとリトアニアは、ポーランドの主権の下に、正式に
    合併された。 この統合によって、ポーランド王国はドイツ人、ポーランド人、
    リトアニア人、ウクライナ人を治める巨大な領土を支配することになった。
    ヤギェウォ王朝の最後の国王ジグムト2世は、この統合から間もない1572年に
    死んだ。

    Polski

    【外国人君主のポーランド統治】
    ジグムント2世の死後、貴族達はますます勢力を増して、国王を選挙する
    権限を握った。 激しい王位争奪戦が起こり、それを鎮めるために、国会は
    外国の王族や公族をポーランドの王位に就けた。 1575年、国会は
    ハンガリーの公子ステファン・バトリを国王に選んだ。 バトリは優れた
    軍指導者で、ロシア皇帝イワン4世の命を受けた侵略軍を打ち破った。

    1586年、スウェーデン王子ジグムント3世ヴァーサが、バトリに次いで国王と
    なった。 これは、以後3代続いたスウェーデン系ポーランド国王の初代である。
    これが原因でプロテスタント国家スウェーデンと、カトリック国家ポーランド
    との間に宗教紛争が起きた。 スウェーデン軍は、1655年ポーランドに侵入して、
    都市や農場を焼いたり略奪したりした。

    侵略はやがて阻止されたが、戦乱と経済不況が続いた。 この前から、
    ウクライナやロシアから、コサックという自由農民のグループが、ポーランド
    領内に定住していた。 コサックは外部の権威を全く認めず、ポーランドの
    統治に反感を持つ多くのウクライナ農民を仲間にした。 国家の権威が衰えるに
    連れ、ロシア帝国はポーランド東部に侵略の手を伸ばして来た。

    この頃、小アジアを根拠地とするオスマン・トルコが、コンスタンティノープルや
    ヨーロッパ東南部の大きな部分を征服していた。 1683年、トルコ軍は
    オーストリアの首府ウィーンを囲んだ。 その9年後にポーランド王となった
    ヤン3世はソビエスキは、ポーランド軍を率いてトルコ軍を撃退した。 これに
    よって、中ヨーロッパへのトルコの侵略は阻止された。

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    1025年、ボレスワフ1世が死ぬと、ポーランドには激しい内戦が起こった。
    ボレスワフ1世の曾孫ボレスワフ2世は、貴族達と争い、クラクフのカトリック
    司教は貴族側に味方した。 1079年、ボレスワフ2世が司教の殺害を命じた
    ことで教皇はポーランド全土に制裁を科した。 1100年代初期、ボレスワフ2世の
    甥ボレスワウ3世は、ポーランド北西部のポモルゼの領有を巡って神聖ローマ
    帝国の軍隊と戦った。 彼は王国を何人も居る息子達に平等に分割するよう
    遺言したので、ポーランドの力は弱まった。

    続く2世紀の間、この分割相続制度によって、多数の小さな半独立の公国が出来た。
    ポーランド貴族と小さな公国の貴族達は、互いに争いを繰り返し、ポーランドの
    民衆は無秩序で無力な状態に陥って、この国の長い国境線を防衛することが
    出来なくなった。

    王国内の混乱に乗じて、カトリックの宗教戦士の集団、ドイツ騎士団が北から
    攻撃して来た。 北東のバルト海沿いにあるリトアニア国家もまた、この国の
    領土を侵略した。 1240年、東アジアのモンゴル人の大軍は、ポーランドと
    東ヨーロッパの多くの地域を荒廃させた。 モンゴル人がヨーロッパから撤退
    すると、ポーランドは、次第に国力を回復し始めた。

    ドイツから職人や商人達が招かれて、ポーランドの都市や港湾に定住した。
    ポーランドはまた、ヨーロッパの他の国々での迫害を逃れた大量のユダヤ人を
    喜んで受け入れた。 クラクフやグダニスクは、北ヨーロッパ諸都市の商業
    連合体であるハンザ同盟に加盟し、その結果、この2つの都市や王国内の他の
    都市では、商業貿易が繁栄した。

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    【カジミェシュ大王】
    1295年、ポーランド王プレシュミスワフ2世が暗殺されると、王位の継承を
    巡って争いが起こり、プレシュミスワフの娘婿チェコ王ヴァーツラフ2世が王位を
    要求してポーランドに攻め込んだ。 1305年、ヴァーツラフが死ぬと、ピアスト
    王家の一員が教皇の支持で、1320年に国王ヴワディスワフ1世として、クラクフで
    戴冠式を行った。 ヴワディスワフは戴冠式行ったクラクフをポーランドの
    首都と定めた。

    ヴワディスワフの息子カジミェシュ3世が1333年に国王になった時には、
    ポーランドはまだ弱体な分裂国家だった。 カジミェシュは、国王の権力を強化
    して、国内の紛争を終わらせ、国家を再統一した。 カジミェシュはまた国境の
    安全をはかるため、リトアニアと同盟し、南方の強大国ハンガリーとも同盟を
    結んだ。

    カジミェシュは、多くの国内改革を行った。 農民の権利を保護する法律を作り、
    法体系や行政制度を組織し直した。 また、教育にも力を入れ、1364年、
    クラクフにこの国最初の大学を創設した。 カジュミェシュ3世は、その功績に
    よって、後世の人に大王と呼ばれるようになった。

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    ポラニエ人は最初、およそ20の共同体を作って定住していたが、やがて
    ヴィスワ川とオドラ川流域の盆地に新しい都市を幾つも作った。 そのうち、
    南のクラクフと西のポズナニ近くに、比較的大きなポラニエ人国家が建設された。

    バルト海沿いには、交易の中心地も出現した。 ポラニエ人達は、堅固な城を
    築いて、ドイツのカトリック系十字軍からの攻撃を防いだ。 十字軍は、
    宗教戦士の集団で、スラブ人を力ずくでカトリック教に改宗させようとしていた。

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    この侵略に対抗して、ポラニエ人達は、9世紀半ばにピアストの下に集結した。
    ピアストは、ポーランドの民話や伝説に登場する民族の英雄である。 10世紀
    までにピアストの一族は、平原部や湖沼地域、それにバルト海沿岸に掛けての
    地域の人々を支配下に治めた。 966年、ミエシュコ1世は、初代の
    ポーランド公として、ポズナニに近いグニエズノを国家の首府と定めた。

    ミエシュコは、ドイツ系十字軍からの攻撃を止めさせるため、現在のドイツに
    あった神聖ローマ帝国と同盟を結んだ。 ミエシュコは、また南方のスラブ人
    国家チェコとも同盟して、そこの王女と結婚した。 そして、新妻の宗教である
    キリスト教に改宗して、伝道師をポーランドに招いた。

    1025年、カトリック教会の指導者であるローマ教皇は、ミエシュコの息子で
    後継者のボレスワフ1世に王冠を授け、ポーランドが主権国家であることを
    公式に認めた。 ポーランド人達は、カトリック教会で使われているラテン文字を
    取り入れて、自分達の話しているスラブ系のポーランド語を記録し始めた。

    BorderPoland

    ボレスワフ1世は、勇敢で野心的な支配者で、ドイツに攻め入り、また、王国の
    領域を東のドニエプル川流域まで広めた。 この川は、南のウクライナに流れて
    黒海に注ぐ。 こうして、ドニエプル川を通じてポーランドは、黒海の諸港と
    交易が出来るようになり、王国はますます繁栄した。

    同じ頃、教会の指導者間の争いが基で、ヨーロッパのキリスト教世界は、2つに
    分裂した。 11世紀には、東ヨーロッパにギリシャ正教会が創設され、
    コンスタンティノープルが中心地となった。 ヨーロッパ東部のスラブ人達の
    多くは、ギリシャ正教徒となったが、ポーランドとチェコは、ローマ教皇と
    結んで、カトリック教会内に留まった。

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