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    カテゴリ:アジア > 中国・香港・台湾

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    中国大陸東南沿岸部の沖に浮かぶ島である台湾は、今大きな経済力を持つまでに
    発展し、世界中の市場に加工品を輸出している。 20世紀中頃までは、台湾の主な
    産業は農業であった。 島とは言え、台湾には豊かな歴史と文化がある。 17世紀、
    ポルトガル人から『フォルモサ(美しの島)』と呼ばれたこの島は、一部が
    オランダ、次いで清朝の統治を受けた。 やがて、日本と清朝との間に戦争が
    起こり、1895年には 大日本帝国の領土となる。 そして、1945年には、
    中華民国政府が台湾を統治するようになった。

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    その後、中国大陸で起きた大事件が、台湾に大きな影響を与える。 中華民国の
    国民党軍と中国共産党軍との衝突が、中華民国政府の安全を脅かしたのである。
    1949年、蒋介石を首脳とする中華民国指導部は、中国全土を支配した共産党軍から
    逃れ、蒋介石は台湾に渡り、亡命政府を置いた。 そして、1949年には、
    共産党が、中国大陸に中華人民共和国を樹立する。

    国民党が来てから台湾住民は、新たな混成となった。 最大グループは、台湾人で、
    過去数世紀の間に島に移り住んだ漢族の子孫だけが、多くは先住民との混血が
    見られる。 1949年前後に大陸から来た人々も漢族だが、別のグループとなって
    いる。 そして、最も少数派は、台湾原住民と呼ばれる、この島の先住民の
    子孫である。



    台湾と中国大陸との両政権は共に、台湾は中国の一省であり、中国は統一すべきで
    あるという考えを掲げて来た。 だが、統一実現後の政治体制についての考えには
    大きな隔たりがある。 また、独自の道を歩むべきとの考えも台湾では根強く、
    両者は台湾海峡を挟んで対峙が続いている。

    国際連合は長年、中華民国を中国を代表する政府として支持していたが、1970年代
    には、国連加盟国の多くが、中華人民共和国を承認するようになった。 中華民国は
    国連から脱退し、外交関係を持つ国は30カ国足らずである。

    この挫折にも関わらず、台湾の経済成長は1950年代以来、高水準で続き、1970年代
    後半には、アジア最高水準の人々の生活を実現するのである。 更に、その経済力を
    背景に、台湾の政府は、国際関係で積極的な活動を続けた。 台湾は外交的に
    不遇とは言え、日本等多くの国と経済的、文化的な交流を維持している。

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    1988年1月、父親蒋介石の後を継いだ蒋経国が死去し、副総統だった李登輝が
    台湾出身初の指導者になった。 李登輝は民主化を進め、1996年国民による
    初めての直接選挙で総統に選ばれた。 それに継ぐ2000年の総統選挙では、
    野党の民主進歩党から出馬した陳水扁が総統に選出され、国民党は野党になって、
    平和的な政権交代が実現した。

    陳水扁政権は、台湾本位の政策を進める政権としてスタートする。 しかし、
    中華人民共和国は、軍備の拡大や経済面での締め付け等で統一への圧力を
    高めている。

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    香港では、寿司をはじめとする食文化や、アニメ・ゲーム等の大衆文化を
    中心に、日本文化が広く浸透している。 コンビニには、ファッション雑誌や、
    清涼飲料水等の日本語の書かれた商品が溢れ、地元の広東語番組では、
    『イチバン』や『ダメダメ』等、日本語風の表現が時折聞かれる。

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    香港は、このように日本が感じられる社会であるため、公用語の中文、英語を
    除けば、日本語は学習者の最も多い言語と見られている。 話者数に関する
    公式の統計はないが、国際交流基金によれば、2012年時点での日本語学習者は、
    2万2,555人で、そのうち、76%が日本語学校等、学校教育以外の場で日本語を
    学習しており、大学は13%、初中等教育では11%である。

    また、2012年から始まった香港中等教育筆記試験では、日本語を含む6つの
    外国語が選択科目として導入されたが、2015年の試験で日本語を選択した
    受験者は、199人と2位のフランス語(57名)を大きく引き離している。

    学習動機としては、大衆文化と日本旅行への興味、関心が多く、進学、就職等に
    使える実利面もしばしば挙げられるが、同時に香港人学習者にとっては、漢字を
    使用する日本語が他の外国語に比べて学びやすい要因もあるのであろう。 中文と
    英語の読み書きに加え、広東語、中国語、英語の運用能力が前提付けられた
    『両文三語』と呼ばれる言語政策の下で、特に英語に苦手意識のある学習者が
    日本語を学ぶことで言語学習に対する自身を取り戻そうとする場合もある。

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    学習環境は整っており、市中の日本語学校以外にも、現在8つある全ての公立
    大学で日本語が履修出来、日本語、日本文化を専攻出来る大学院、大学、
    コミュニティーカレッジ(短大に相当)も一定数存在する。 このような背景
    により、日本語学習の層も厚く、その中から、香港人日本語教師も数多く輩出
    されている。

    教師養成機関としては、香港中文大学に2006年から2011年まで日本語教師養成を
    主とした修士課程が設けられ(現在は大学院の選択科目として開講)、現在も在留
    邦人や日本留学経験者のある香港人が養成機関を経ずに教師となり実践経験を積む
    ケースも多い。

    学習方法もテクノロジーの発達と共に変化を見せている。 従来は文法、読解は
    出来ても会話が苦手なのが香港人学習者の特徴とされて来たが、インターネットで
    手軽に日本語コンテンツに触れられる環境が整ったことから、近年では、若者層を
    中心に、独学が一般化し、ウェブ上のデジタル教材を活用したり、ソーシャル
    ネットワークで日本語母国語話者と交流したりして、教育機関に通わずに
    コミュニケーションスキルを磨く学習者が増加している。 こうした学習者の
    広がりを受け、大学でも日本語既学習者があえて初級の日本語のクラスを履修し、
    高得点を狙おうとする現象が顕著になった。

    新界付近の住宅地にある日本語学校を例に取ると、新規受講は日本旅行が切っ掛け
    という場合が目立ち、外国語の通じにくい地方へ旅行に行くため、中上級まで
    学習を継続する受講生も少なくない。 2011年の東日本大震災直後は、超円高も
    相まって、日本への渡航が下火になり、受講者が一旦減少したものの、近年円安
    傾向で再び日本旅行にブームが起き、回復傾向にある。 極端な例としては、
    日本で不動産を購入し、年間数ヶ月間を日本で過ごし、日本語力を鍛える強者も
    存在する。

    ここ数年の韓流ブームで韓国文化に関心を持ち、韓国語を学ぶ人が増えたため、
    日本語教育にも若干影響が見られるようになった。 韓国語熱の高まりを受け、
    一部の日本語学校では、韓国語コースも開講しているが、ここ1~2年は、日本旅行
    ブームの恩恵を受けてか、一時期低下傾向にあった日本語学習者数が上昇に転じ、
    横ばい傾向にあった韓国語を尻目に、安定した伸びを見せている。

    また、旅行や大衆文化等で幅広く学習者を引き付ける日本語に対して、韓国語は、
    Kポップや韓流ドラマの女性ファンが中心で学習者の偏りが大きい。

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    香港にとって、日本は間違いなく最も親密な関係を持つ、重要な外国のひとつ
    である。 貿易、投資、企業の駐在等、相互の経済交流は、極めて密接である。
    外務省の海外在留邦人数調査統計によれば、香港総領事館の管轄地域(香港と
    マカオ)の2014年の在留邦人の数は、2万7,146人に達しており、韓国全体
    (3万125人)に匹敵する。 こういった現在の経済関係に限らず、日本は香港の
    歴史、文化、社会に大きく影響を与えてきた国のひとつであり、香港を語る上で、
    日本の存在は欠かせない。

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    日本が最も直接的に香港に関わったのは、第二次世界大戦中の占領であった。
    1941年12月8日、日本は対英米開戦し、真珠湾攻撃と同時に、香港にも攻め
    入った。 12月25日、イギリス香港政庁は日本に降伏し、その後、1945年8月
    15日の敗戦まで、日本は香港を占領した。 降伏の日は『ブラック・クリスマス』
    と呼ばれ、日本の占領期間を指す『3年8ヶ月』は、香港史においては、暗黒
    時代として記録されている。 香港の人口が多過ぎると見た日本軍は、市民の
    香港からの追放や殺害等を行い、人口は占領前の150万人から敗戦時の60万人
    まで減少した。 日本語教育が強制され、経済は著しく混乱して飢える者も
    多かった。

    その中でも、現在まで禍根を残した問題が、軍票問題である。 日本軍は、軍票と
    呼ばれる紙幣を発行し、香港市民に強制的に財産を軍票に換金させたが、日本の
    敗戦によって、軍票は紙くずと化した。 財産を失った被害者達は、戦後賠償を
    求めて日本でも裁判を起こしたが、敗訴している。 彼らは、しばしば香港の
    日本総領事館に対して、抗議活動を行っている。 また、歴史問題に関しても、
    香港の反日感情は弱くなく、しばしば反日デモも発生する。

    また、尖閣諸島の中国による領有を主張する『保釣問題』も存在する。 香港
    での保釣運動は、アメリカが沖縄返還と合わせて尖閣諸島を日本に返還する事を
    決定した事を受けて開始された。 1971年2月28日には、香港では初めての
    日本総領事館へのデモ行進が行われ、その後、大規模な集会等も行われた。
    1996年には、日本の右翼団体が尖閣諸島に灯台を建設した事を切っ掛けに、
    再び保釣問題が盛り上がり、9月26日には、尖閣諸島付近で海上保安庁に阻止
    された『保釣号』に乗っていた活動家が、島への上陸を強行しようとして海に
    飛び込み海上保安庁に阻止され、溺死した。 これを受けて、活動家を追悼する
    集会には、5万人が参加したという。 そして、2012年8月15日には、
    『保釣行動委員会』メンバーが尖閣諸島に上陸し、日本の世論を驚かせた。

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    これらの事柄から、日本でも香港も中国大陸同様に、激しい反日感情を抱いた
    土地であると見る人も多いが、実際には、大陸と香港の反日運動には、相違点も
    多い。 第一に、大陸との『愛国』の温度差である。 保釣行動委員会の
    メンバーは、中央政府と対立する民主派によって構成されており、これらの対日
    抗議運動の他、天安門事件追悼活動等にも深く関与している。 その主要な者の
    多くは、中国政府によって大陸に入ることすら認められず、むしろ、西洋的
    価値観に近い売国奴と非難される側にある。 香港の保釣行動委員会の主張は、
    日本に抗議するという点で大陸と同じでも、毛沢東像を掲げた大陸の反日でもとは
    相容れない。 第二に、反日の質の違いである。 香港でも歴史問題や尖閣諸島に
    関係する反日でもはしばしばあるが、デモは暴力行為を伴わず、日系デパートの
    並ぶ中心街を整然と行進し、日本製品ボイコット運動が盛り上がる事もない。

    暴動化する大陸の反日デモよりも、遥かに冷静なデモが行われる理由としては、
    もちろん大陸と香港の社会の相違という原因も大きいが、同時に重要なのは、
    戦後日本と香港が積み上げて来た、友好的で密接な交流の歴史であろう。
    日本政府観光局の統計では、2014年の香港からの訪日客は、のべ92万5,975人に
    達した。 総人口わずか720万人ながら、台湾、韓国、中国に次いで、訪日客数は、
    世界第4位である。 香港では、ポップカルチャーや食文化、家電や生活用品等を
    中心に、日本文化や製品が大いに支持されており、日系資本のデパートから
    『日本城(ジャパン・ホームセンター)』と称する日用雑貨のチェーン店、地元系の
    小さな日本料理店まで、街頭には日本の影響が至るところに見られる。 日本は
    もはや市民生活の一部になっていると言っても過言ではない。

    また、多くの香港人が日本訪問や日本人との接触を通じて、現在の安全で繁栄する
    清潔な日本、勤勉で正義正しい日本人に好感を持っている。 香港大学民意研究
    プログラムの2015年5~6月の調査では、54.5%の人が日本の人々に好感を
    持っていると答えた。 これは、中国大陸の人々に好感を持つ割合(28.2%)は
    勿論の事、香港の人々自身への高感度(40.7%)をも大幅に上回り、調査対象の
    16カ国、地域中、台湾、シンガポールに次いで3位の高評価であった。

    一方、同じ16カ国、地域の政府に対する意識を尋ねると、日本政府に好感を持つと
    答えた者は、わずか17.5%と、タイ、ロシアに次いで、同調査では下から3番目で
    あり、反感を持つと答え者は48.4%にも達し、アメリカ(35.7%)を引き離して、
    調査対象中で最も多い。 香港市民の日本政府に対する評価は極めて低い。
    これは編に、歴史問題や領土問題を巡って、日中関係が緊張している事の反映で
    あると言える。

    このように、香港の人々の対日感情は、親日と反日の一言ではとても割り切れない、
    極めて複雑な側面を含んでいる。 現在の日本人が香港の人々との付き合いを
    するにあたり、反日感情を過度に心配する必要はなく、観光客が日本人である
    という理由で理不尽な扱いを受ける事はまずない。 しかし、他方では、両地の
    間に過去不幸な歴史も存在し、被害を被った人や、日本への反感を持っている人が
    かなり居るという事も、決して忘れてはならない事実なのである。

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    香港住民は、自らを何人だと考えているのか。 この問いの答えは、当の
    香港人にとっても自明のものではない。 香港大学の世論調査プログラムでは、
    返還以来、継続的に香港住民が自分を何人と称するかについて調査を行っているが、
    それによると『香港人』という回答は、返還以来減少していたが、2000年代末頃
    から増加に転じ、2012年上半期には、返還後最も高い45.6%を記録している。
    これに対して『中国人』という回答は、ほぼ逆の動きを見せている。

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    『香港人』という意識は、一般に、1960~70年代の香港の社会的、文化的変容の
    中で原形が生まれ、返還後の1980年~90年代には、『香港人』は『中国人』とは
    異なるという意識が顕著になって行ったとされる。 改革、開放当初、発展を
    始めたばかりの中国大陸は、戦後の高度成長を経て、国際金融センターとしての
    地位を確立していた香港から見れば、『貧しくて遅れた』存在であり、大陸側から
    来る新移民に対して、テレビドラマ等を通じて『ダサい、怠慢、公的道徳に欠けた』
    等、ネガティブなイメージが共有されて行った。

    とは言え、一方で、香港在住民の対部分は、中国大陸から移って来た難民、移民、
    および、その子孫であり、民族的、文化的起源が中国にあることは否定し難い。

    こうした中で、香港住民は、非民主的で遅れた中国大陸と対比されたり、中国共産党
    政権の脅威を訴える局面では『香港人』となり、一方で伝統文化や中国人スポーツ
    選手の活躍を誇りに思う時は『中国人』となるというように、両者を使い分け、
    あるいは、両者の間を揺れて来た。 帰属意識の矛先が、20年も経たない短期間の
    うちに二転三転しているということ自体、この交錯した心理を良く物語っている。

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    2014年12月23日、RFI中国語版によると、香港で行われた世論調査で、『香港人』
    としてのアイデンティティーが『中国人』としてのアイデンティティーを大きく
    上回った。  香港大学民意研究計画センターは香港市民のアイデンティティーに
    関する世論調査を実施した。 12月10日から16日に掛け、1,016人を対象に電話
    調査が行われた。『香港人』と回答したのは42%。 『中国人』との回答は18%
    となった。 

    また、『香港人』『アジア人』『中華民族の一部』『世界市民』『中国人』
    『中華人民共和国公民』というそれぞれの項目に対して、どれほどの帰属感を
    感じるかを0〜100点で表現してもらったところ、『香港人』の平均得点は約80点と
    前回調査を2点上回った。 その他、『アジア人』69.8点、『中華民族の一部』
    65.9点、『世界市民』63.7点、『中国人』62点。『中華人民共和国国民』
    54.4点となった。 

    『中国人』『中華人民共和国国民』の平均点は、2008年の調査開始以来、過去最低
    となった。

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    マカオ(澳門)は、東アジアで最も古いヨーロッパと中国明代の面影が残る
    小さな街。 2015年現在、人口64万人、面積30平方キロメートル、東京都
    府中市とほぼ同じ大きさで、板橋区よりも少し小さい。 最初に街が開かれた
    のは、マカオ半島、タイパ島、コロアネ島の3部分から成っていたが、両島を
    繋ぐ橋の両側に広大な埋立地コタイが造られ、面積が大きくなった。

    中国の歴史的商業都市、広州に連なる珠江の東シナ海の河口の西南部に位置して
    いるのがマカオとなっており、北東部に位置しているのが香港となっている。
    両地域の移動は、高速フェリーで1時間だが、建設中の港珠澳大橋が開通すれば、
    車で30分となる。 両地は近くなる上、似た歴史を持つが、マカオは決して
    リトル香港ではない。

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    15世紀以降、ヨーロッパで最も大規模な航海に出たポルトガルが、アフリカ西岸を
    南下し、喜望峰を超え、イスラム圏を東に進み、インドを超え、東南アジアを抜け、
    中国南部へと至る。 16世紀はじめに中国に到達し、1557年頃マカオに居留地を
    得て、19世紀に統治権を得た。

    第二次世界大戦後は、ポルトガル本国の力が弱く、1960年代の中国の文化大革命の
    影響を受けて、マカオで起こった中国人による暴動(12.3事件)をポルトガル側が
    単独で鎮圧出来なかったため、マカオでは、中国の影響が強まったと言われている。

    更にポルトガル本国では、1974年に民主革命があり、共産主義の影響を受けた
    軍人によって、独裁政権が倒され、海外領や、かつての海外の植民地が解放されて
    行く。 マカオについても、中国への返還に抵抗が見られず、香港の返還が決定
    した後で、すんなりとマカオの返還が決まり、1999年12月20日に中国の特別行政区
    となった。

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    マカオの返還前の住民社会構造は、4層から成っていた。 本国派遣のポルトガル人、
    最も多い中国(広東)人、その中間に位置するマカエンセ、中国や東南アジアからの
    出稼ぎ労働者である。 マカエンセは、中国とポルトガル、ないし、その他の地域の
    混血グループである。 世界に数万、マカオには、数千人居ると見られている。
    中ポ両言語を話し、独自の文化、コミュニティー、ネットワークを持つ。 伝統
    マカオ社会、行政や初期香港において、仲介以上の役割を果たして来た。

    出稼ぎ労働者は、主に工場、商店、家事労働なとに従事する期限付きの輸入労働力で
    ある。 返還の頃は1万人前後であったが、ここ数年間で急増し、2014年には、
    17万人近い規模となった。 そのうち、11万人が中国からで、中国の労働力輸出
    としても注目するところとなった。

    この社会構造は、エスニシティーによる役割分担である。 ローカル住民の中では、
    マカエンセは優位にあり、例えば、勤勉でなくとも、高位に就いた。 マカオの
    中国人にとっては、中国の政治力や経済力に期待を寄せる所以となった。 共産
    主義の中国の外に住む中国人の中で、最も中国への親近感が高いのが、マカオで
    あろう。

    ポルトガルの影響は、今後も文化や宗教の分野を中心に、色濃く残って行くだろう。
    文化を重んじる細やかな感性は、マカオの地に根付いており、マカオの中国人からも
    感じ取ることが出来る。

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    マカオをポルトガル大航海の終点と見る時、マカエンセ、マカオ料理、マカオの
    建築物や風景等は、旧ポルトガル領の他地域の特徴が融合し、その情緒がマカオ
    そのものと言えるのかも知れない。

    マカオ経済に関しては、特殊な産業構造、賭博産業と観光業が突出している。
    2014年の雇用者数を見ると、賭博関係が27.5%、ホテルやレストラン関係が16%を
    占めている。 マカオの公営賭博は、19世紀頃以来の歴史を持つ。 返還後、カジノ
    投資が自由化され、海外資本の大規模開発が行われ、中国からの客が押し寄せた
    結果、2006年には、カジノの売り上げが世界最高となった。 現在の売り上げ
    規模は、ラスベガスの7倍となっている。 それによって、マカオ全体の収入が
    急増した。

    2014年の一人当たりのGDPは、約8万9千米ドル(約1千70万円)で世界トップ
    クラス、返還当時の5倍以上にあたる。 だが、これらの数字は、中国に左右され、
    近年の中国幹部の汚職摘発の影響で、カジノの売り上げ、GDP共に、減少した。

    賭博が基幹産業となっている社会には、特殊性があり、ギャンブル依存の問題が必ず
    生じうる上、換金や性的サービスの分野も増長する。 そのため、子供や公務員の
    賭博場への出入りは禁止され、『カジノ社会学』という研究分野もある。 日本では、
    ギャンブル依存が放置されたまま、カジノ解禁が提案されている。 マカオの経験
    から日本が学ぶところは多いであろう。

    中国の対外的な窓口であったマカオは、香港の成立以降、その甘みを奪われた。
    地理的にも珠江が運ぶ砂が港としてのマカオを不利にしたという。 しかし、
    返還後は、中国の川砂ではなく、中国人の欲望をかき集め、繁栄に至った。 
    マカオは、今後も独自の戦略によって、大変貌するであろう。

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    イギリスは当初、主権を中国に返還しても、行政権をイギリスが持ち続ける
    という方式も考えていた。1982年9月24日、北京の人民大会堂で、マーガレット・
    サッチャーは鄧小平との会談に臨んだ。 フォークランド紛争に勝利して自信に
    満ちたサッチャーは、意気揚々と北京に乗り込んだが、そこで手痛い挫折を
    味わった。

    イギリスが香港を条約によって正式に得たということ、香港の繁栄はイギリスが
    築いたということを堂々と主張するサッチャーに対して、鄧小平は大いに怒り、
    『爆撃しろ』という言葉も吐いたという。

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    サッチャーが香港に関するイギリスの法的な立場を強調したことに、鄧小平は
    一向に関心を示さなかったという。 中国人の目から見れば、イギリスが香港
    統治の根拠としている南京条約・北京条約・新界租借条約は、強制しされた不平等
    条約であり、中国人としては香港を取り戻すことはナショナリズムに触れる問題
    であった。

    この後両国は交渉を重ねるが、結局イギリスは香港統治の継続を断念し、1984年
    12月19日に中英共同声明が正式調印され、イギリスは1997年7月1日に香港を中国に
    返還すること、そして返還後の香港では『一国二制度』が実施されることが約束
    され、香港返還問題は決着を見た。

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    尚、1997年に租借期限を迎えたのは、新界地区のみであり、期限なしで割譲された
    香港島と九龍半島については、理論上この日を期限とする必要はない。 しかし、
    香港の発展はこの三地区を跨いで進められており、道路や地下鉄網だけではなく、
    啓徳空港の滑走路も新界と九龍の双方に跨っているため、新界のみを返還するのは
    事実上不可能であり、全ての香港が一括して返還されることになったのである。

    中英両国は、全ての香港の返還に基本合意したが、1984年の共同声明調印から
    1997年の返還までの過渡期と言われる時期の香港政治は波乱万丈であった。 特に
    民主化問題を巡って、両国は対立を繰り返した。 1997年の返還自体は、
    スムーズに行われ、『一国二制度』方式の実践が始まった。

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    香港は、『借りた場所で借りた時間を』過ごしていると言われる。 イギリスが
    1898年に新界を租借した際、その期間は99年間とされた。 すなわち、1997年
    以降、香港の地位がどうなるかについては、長い間議論がなされていなかった。

    1970年代になると、香港の将来問題が本格的に浮上して来た。 1971年着任の
    クロスフォード・マクルホース香港総督が、香港の社会福祉を急速に拡大した
    背景には、1967年の香港暴動に対する反省も言われるが、新界租借期限が迫る
    中で、中国よりもあらゆる面で優れている統治を行い、中国との交渉を有利に
    するためという、イギリスの外交政策の目的のためでもあったという。

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    イギリスは、1997年以降も香港の統治を続けることを希望していたが、中国は、
    香港の回収を目指した。 1971年11月、中華人民共和国は長年の努力の末、台湾の
    中華民国に変わって国連代表権を得た。 すると翌年1972年3月んみ、中国は
    香港について、イギリスに占領された中国の領土であるとの立場を明確化し、
    国連の植民地リストから香港とマカオを削除するよう求めた。 1979年3月、
    マルクホース香港総督は初めての香港総督の公式訪問という形で北京を訪問したが、
    その際、中国の最高指導者であった鄧小平は、イギリスの香港統治の継続を明確に
    受け入れることはせず、香港を回収する可能性をほのめかした。 しかし、
    マルクホースは、香港の動揺を恐れ、香港に戻ると『投資家は安心して良い』
    という鄧小平の伝言のみを発表した。

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    中国はこの頃、台湾問題の解決の手段として、社会主義中国の中で、一部地域に資本
    主義の政治、経済、社会等の体制を残すという『一国二制度』方式の原型を構想し
    初めていた。 1979年元日、中国はアメリカとの国交を正常化した。 これと
    同時に、中国は台湾に対して、『台湾同胞に告げる書』と題する公開書簡を発表し、
    台湾問題の平和解決、現状を重視した現実的な統一政策を提案していた。

    1982年に改正された新憲法では、特別行政区を設置出来るとの条項が追加された。
    台湾の統一問題が進展しない中、中国はまず香港で『一国二制度』を実践し、これを
    モデルケースとして示すことで、台湾を統一に導こうと考えたのである。

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    戦後の香港は、著しい経済発展の時代でもあった。 戦前の香港の主要産業
    であった中国大陸との中継貿易は、共産党政権の誕生によって、大きな打撃を
    受けたが、大陸から香港に来た資本家が工業を興し、難民がこれに労働力を提供し、
    香港はやがて台湾、韓国、シンガポールと共に『アジア四小龍』と称される。
    新興工業経済地域(NIES)に数えられるようになったのである。

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    しかし、庶民の生活は苦しく、植民地支配の下、政府の福祉や弱者対策も不十分
    であった。 このため、1960年代までの香港では、暴動も頻発した。 1956年の
    九龍半島と新界の工業地区での暴動は、戦後初めてのものであり、10月10日の
    中華民国の建国記念日に、公共住宅に中華民国旗を掲げることへ不満を持った
    親国民党の派閥が起こした右派暴動であった。 1966年4月6日には、香港島と
    九龍を結ぶ庶民の足『スターフェリー』の値上げに反対する運動が暴動化した。

    中でも大規模なものは、大陸の文化大革命の影響を受けた左派系の派閥が主導した、
    1967年の暴動であった。 同年5月、九龍の造花工場の労働闘争が、香港政庁批判の
    政治運動と化した。 これを背後で共産党組織、広東省の紅衛組織が支援し、
    暴動化した。 8月には左派は、時限爆弾によるテロを開始し、半年以上の
    混乱の中、政府公表で死者51人、負傷者848人、逮捕者は5,000人以上、秘密裏に
    大陸に追放された者多数という悲劇を産んだ。

    これにより、香港の左派は、大きく信用を失ったが、同時に香港政庁もこれまでの
    高圧的な統治への反省を迫れらた。 1970年代になると、『中文公用語化運動』や
    『保釣運動(尖閣諸島の防衛)』など、地元意識の高まりを象徴する学生運動が
    多発した。 イギリスの労働党政権も、香港の福祉の充実を香港政庁に対して
    求めた。

    政庁と市民は、それまで政庁が政権を独占し、地元市民の生活は、半ば放置された
    ような状態にあったが、経済、社会の発展に伴い、相互に要求を伝えたり、民意を
    聴衆したりする必要性を認識した。 民主化は行われなかったが、香港政庁は、
    詰問などの仕組みを通じて、民意を汲み取ることに努めた。

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    冷戦下での大陸の共産党政権と台湾の国民党政権の対立を前に、香港では、
    その政治的影響を食い止めるための様々な処置が採られた。 1949年5月には、
    社団条例が制定され、香港で活動する全ての社会団体に登録を義務付け、
    政治活動と香港以外の団体の香港支部の活動を禁止した。 これによって、
    香港では、共産党、国民党共に非合法ということになった。 社団条例に
    基づき、1949年11月には、38の共産党系の合唱団、劇団、学会等が解散を
    命じられた。

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    また、戦前の自由往来から転じて、中英国境は封鎖された。 1949年1月の人民
    入境統制条例は、大陸からの反乱を扇動したり、公共の安寧を乱したりする疑いの
    ある者を入境させることを禁じた。 1950年5月1日以降、香港政庁は、大陸から
    香港に入る中国人に対し、香港政庁発給の『旅行証明書』の取得を義務付けた。
    このように、戦後大陸と香港の相互往来は厳しく制限され、両地の分断状態が
    出現した。

    大陸は社会主義大国の、香港は資本主義の植民地統治の下に置かれ、それぞれ
    全く異なる政治、経済、社会の構造を築き上げて行った。 台湾と同様に、
    香港でも、香港・マカオ以外の共産党政権下の中国全土を『中国大陸』や
    『大陸』と呼称して、自身とは区別するようになった。

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    それでも、分断の有無に関わらず、大陸から香港への人口流入は戦後ずっと
    続いた。 終戦時には、60万人であった人口は、良く1946年には100万人を
    回復し、1950年末には、200万人に迫り、その後も、およそ10万人のペースで
    増加が長く続いた。 香港政庁の難民政策は、比較的寛容で、1980年までは、
    市街地にたどり着いた不法入境者は、強制送還しない政策が採られた。 このため、
    合法的な移民のみならず、戦後すぐには共産党と国民党の内戦、中華人民共和国の
    建国後は、大躍進運動や文化大革命等に代表される大陸の政治的混乱から逃れて、
    多くの中国人が難民となって、密航等の海陸の困難なルートを通って香港にやって
    来た。

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    1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して、連合国に無条件降伏した。
    戦後香港を中華民国が統治すべきか、イギリスが植民地支配を再開すべきを
    めぐっては、両国の間に意見の相違があった。 中華民国の蒋介石は、1943年の
    カイロ会議で、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領から、戦後
    中華民国が香港を統治することへの同意を取り付けていたが、イギリスの
    ウィンストン・チャーチル首相は、イギリスが統治を回復すべきだと考えていた。
    この考えは、ルーズベルトの後を受けたハリー・トルーマン大統領に支持された。
    結局、9月16日、イギリス政府が日本軍の降伏を受ける形となり、イギリスの
    香港統治が再開された。

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    中国大陸の内戦は、徐々に共産党に有利に展開し、1949年10月1日には、共産党は、
    中華人民共和国の成立を宣言した。 南下して来た共産党軍は、10月17日には
    香港との境界である深圳に達した。 共産党は香港を軍事的に攻略する能力を
    備えていたとされるが、結局、香港に侵入する事はなかった。 中国は周恩来が
    提起した『長期的に考え、充分利用する』との方針に基づき、即時に領有する
    ことは目指さず、イギリスに香港統治を続けさせ、外貨の供給源や貿易の窓口
    として、香港を活用しようとしたのである。

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    こうして、戦後もイギリスは香港を統治し続けることになったが、中国によって
    香港が軍事『解放』されるようなことがないために、イギリスは中国を刺激する
    ことを避けざるを得ず、このとは、ロンドンや香港政庁の政策の幅を制限した。
    イギリスは、1950年、西側主要国としてはいち早くから中華人民共和国を
    承認した。

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    占領前の香港には、大陸での戦火や、日本軍による統治を避けて、大量の避難民が
    押し寄せており、占領直後の人口は、およそ150万人にもなっていた。 日本軍は、
    円滑な統治のために人口を適正規模にまで減らすことを目指し、華人の同郷組織を
    動員したり、広州の日本軍当局と協力して無料船を用意したりして、半強制的に
    人々を香港から疎散させた。

    占領開始から1943年末までにおよそ100万人が香港を離れている。 また、
    総督部は、日本軍が占領していた海南島への労働者の徴用も行い、記録によれば、
    1942年2月から1943年7月の間だけでも2万人余りが海南島へ渡った。 中には誘拐
    同然に連れ去られるケースもあったという。

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    軍票流通政策も早くから準備されており、占領直後の1941年12月30日には九龍に、
    翌42年1月5日には、香港島に軍票交換所が設置されている。 香港上海銀行を
    はじめとする英米系の敵性銀行の接取と精算も同時に進められた。 1942年
    7月には、それまでの軍票1に対して香港ドル2だった交換比率が4に改変され、
    更に、1943年4月には、香港ドルの併用が禁止されて軍票に一本化された。

    香港市民は、手持ちの香港ドルを軍票に変えざるを得なくなるが、この交換に
    よって、大幅に自己資産を減らされることにもなったのである。一方、日本軍
    政府は、『華を似て華を制する』の政策の下、戦前から香港で活躍をしていた
    華人の要人を動員して、華民代表会と華民各界協議会を組織し、総督の詰問
    機関とした。

    日本占領下で再開を許可されたのは、小学校27校と中学校15校のみで、学校では、
    日本語の授業が正課として導入された。 日本語学校も16校開校され、日本語
    検定も導入された他、1943年4月には、師範教育や事務員養成を行う高等科を
    擁する『香港東亜学院』が開校されている。 この他、主要道路の日本名への
    変更や、香港神社、および、虚構橋事件以来の中国南方戦線での戦死者を祀る
    『忠霊塔』の建設等も行われた。

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    生活の面では、食料や日用品、燃料の薪等が順次配給となったが、1943年後半
    以降は、インフレが加速し、配給価格も上昇して市民生活への打撃となった。
    また、区による地方行政を通じて厳しく戸口管理が行われ、更に経済活動から
    宗教活動に至るまで、総督部の管理下に置かれたため、市民は移動の自由、生活の
    自由を著しく奪われた。

    その後、1944年4月には、米の配給は軍政協力者だけに限られるようになり、
    更に、同年12月には直接的な軍政協力者のみにしか配給されなくなる。 また、
    連合軍の空襲も激しさを増して行き、日本占領期も末期になると、人々の生活は
    維持が難しいほどに困窮して行った。 人口疎散と生活苦の末、人口は60万人まで
    減少している。

    日本のポツダム宣言受諾と無条件降伏により、日本軍による香港統治も終わりを
    告げた。 香港は再びイギリス領となり、道路名も元に戻り、神社も忠霊塔も撤去
    された。 現在目に見える形で残る日本占領期の名残は、日本時代に増改築された
    行政長官公邸の外観と、爆破されて小さくなってしまった宋王台の碑ぐらいかも
    知れない。 しかし、その一方で、現在にまで禍根を残している問題として、軍票
    問題がある。 戦後、連合国が日本発行の軍票に対する支払い請求を放棄したため、
    香港市民の手元に残っていた軍票は紙屑同然となってしまったのである。 財産を
    失った被害者たちは、戦後賠償を求めて日本で裁判も起こしたが、敗訴している。

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    日本軍による香港占領時代がちょうど1941年12月25日だったことから、この日は
    香港では、『ブラック・クリスマス』と呼ばれてきた。 そして、これに続く
    占領期間は、しばしば『3年8ヶ月の苦悩』と形容される。 日本占領期の
    イメージは、総じて暗く、重い。

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    香港を占領した日本軍第二十三軍は、1941年12月29日には軍政庁を開設して香港
    統治に着手したが、その後、香港は大本営直轄となり、1942年2月20日に香港
    占領地総督府が成立、初代総督に磯谷廉介中将が就任する。

    統治機構としては、総督の下に総務長官と参謀部が置かれ、更に、詰問期間として、
    華民代表会と華民各界協議会が設置された。 総務長官の下には、民治部、財政部、
    交通部、経済部、報道部、管理部、外事部の7部門が置かれ、統治に関わるあらゆる
    問題に対処した。 また、日本占領期には、香港島と九龍半島を計18の区に分け、
    地方行政の単位としたが、その区事務所と区会は、民事部の下に置かれた。 一方、
    参謀部の下に香港保衛隊、香港憲兵隊、香港警察が置かれた。

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    特に、憲兵隊については、多くの研究書や回顧録で彼らの非道な行為に言及されて
    おり、香港市民がしばしば暴行を含む過酷な扱いを受けていた事を明らかに
    している。 軍政庁、および、総監部の下で実施された主な政策は、人口疎散、
    軍票の発行、華人の要人の統治への利用等であった。 尚、日本軍政府により
    発行された軍票は、日本の敗戦に伴い、イギリス軍の命令により無価値とされ、
    現在も日本に経済的補償を要求する香港人も存在している。

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