多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    カテゴリ:アジア > 中国・香港

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    中国は23の省、5の自治区、4つの直轄市、2つの特別行政区に分かれている。
    直轄市は4大都市の北京市、上海市、天津市、重慶市である。 ふたつの特別
    行政区、香港とマカオは、防衛と外交政策を除いて自治を認められている。

    香港は1840年代からイギリスの植民地となっていたが、1997年、中国に返還
    された。 独自の政府と通貨を持つ香港の、ほぼ独立した状態は2047年までか、
    あるいは、それ以降も続くであろう。 1887年から1999年までポルトガルの
    植民地だったマカオも同じような立場にある。

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    【政府の組織】
    中国は、極めて強力で中央集権的な政府によって支配されている。 他の政党も
    存在しているが、政府の実権は中国共産党が握っている。 上級役人の殆んどは、
    選挙ではなく、任命によって決まり、高い地位は殆んど全て中国共産党の党員が
    占めている。 党の総書記はそのまま国家主席となり、最高人民代表大会によって
    任命される。

    【少数民族】
    殆んどの中国人たちは漢民族の出身だが、中国にある5つの自治区、つまり、
    内蒙古、広西壮族、寧夏回族、チベット族、新疆ウイグルには、ウイグル族や
    チベット族など、人口の多い少数民族が暮らしている。 これらの地域は、
    ある程度の自治を行う権利を受けていることに変わりはない。

    少数民族と政府はとの関係は、必ずしも上手く行っているとは限らない。
    1950年にチベットは独立を失った。 チベットの宗教的指導者ダライ・ラマは
    インドに逃れた。 チベット民族の多くが民族の主権を取り戻したいと願って
    いる。

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    1976年に毛沢東が亡くなると、突然、劇的な変化が中国で始まった。 新しい
    指導者、鄧小平は改革の必要を説いた。 彼は、中国の国民に『豊かになることは
    名誉なことだ』と訴えたが、毛沢東なら決してこのような発言はしなかっただろう。

    わずか数年で中国は急激に近代化を進めた。 鄧小平は、いわゆる『改革解放路線』
    で表明した通り、熱心に欧米と交わり、欧米から学ぼうとした。 鄧小平は農地に
    関する規制を緩めた。 国営企業を民営の会社に売り始めた。

    中国政府は深圳、珠海、汕頭、厦門の4ヵ所の経済特区を設立し、そこで外国企業が
    工場を開設して交易を行えるようにした。 経済特区は後に海南島も加わった。
    外国企業を誘致するため、政府は税制上の優遇措置と安価な土地を提供した。
    また、商業に関する規制を緩め、企業の経営をしやすくした。 更に、14都市が
    外国との取引のために解放されたが、これらの都市では、高い税金を納める必要が
    ある。

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    【天安門事件】
    多くの中国人が1980年代の経済特的改革と共に政治的変化も進む筈だと期待して
    いた。 1989年、数千人の学生と市民が天安門に集まり、政府の腐敗に抗議し、
    民主化を要求したのである。 その6週間後、政府は抗議のために集まった群衆を
    解散させるため、軍隊を投入した。

    正確な数は明らかではないが、軍隊は恐らく1,000人以上の非武装の人々を殺害し、
    4,600人を逮捕したと言われている。 人権に関する中国の意識は、まだ遅れて
    いる。 中国の人々は今でも、ストライキや労働条件の改善を求める運動を
    行ったり、政府の政策を批判したりしようとすれば、投獄される危険を覚悟しな
    ければならない。

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    台湾島が中国の一部になったのは、中国人が多くの原住民を追い払って移住した
    17世紀のことで、1949年に中国で内戦が終結すると、敗れた中国国民党は台湾島へ
    逃れ、新しい政府を設立して中華民国を樹立した。 アメリカをはじめとする
    わずかな国々は、この小さな国家が実際には何の力も持たないにも関わらず、
    中華民国を中国全体の正式な政府として承認した。

    しかし、1970年代になると、殆んどの国々が、大陸中国の共産党を中国政府として
    認めるようになった。 一方、台湾は、経済的には隣の大国を上回り、貿易を
    通じて富を築いた。 現在、多くの台湾人が独立を保ちたいと考えているが、
    中国を台湾を中国の中の反抗的なひとつの省とみなしている。

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    【文化大革命】
    1966年、毛沢東は、彼の思想に疑問をとなえる人々を攻撃し始めた。 毛沢東は
    若い世代、特に学生たちに、社会の『四旧』、すなわち、古い習慣、伝統、思想、
    文化を打ち破るように呼び掛けたのだ。

    『毛沢東語録』に収められた毛沢東の思想を理想とし、紅衛兵と呼ばれる集団を組織
    した青年たちは、政府の敵を探し出し、追放し始めた。 彼らは年長者を敬う伝統を
    拒否し、教師や学者、そして家族の一員さえ、『誤った考えの持ち主』として
    批判した。

    学校は閉鎖され、何百万人という人々が強制労働に送られた。 中には拷問を
    受けたり殺されたりする人もいた。 文化大革命は中国にとって悲惨な出来事
    だった。

    文化大革命の最中に成長した子供たちは、教育を受けられたかったし、また、工場や
    農地は生産力を低下した。 共産党は党指導者の多くを失ってしまった。

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    中国の人たちは、どんな国を目指すべきなのか、対立していた。 1920年代に、
    中国国民党の指導者となっていた蒋介石は、敵対する軍閥たちと支配権をめぐって
    戦った。

    新しい敵と戦う必要もあった。 共産主義者が1921年に中国共産党を設立した
    のだ。 共産党は1917年にロシアで起きた社会主義革命に刺激を受けていた。
    1930年代に入ると、日本が中国における領有権の拡大を図った。 日本軍は、
    1931年に満州を占領すると、1937年に、当時の中国の首都であった南京に
    向かって侵攻を始めた。

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    中国国民党と共産党は結局は協力して日本と戦ったが、1945年、日本が敗れると、
    再び元のように敵対関係に戻った。 痛ましい内戦の後、最終的に勝利を収め
    たのは、中国共産党だった。 1949年、毛沢東が中華人民共和国の樹立を宣言した。

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    蒋介石は国民党を率いて台湾に逃れ、そこで中華民国を打ち立てて抵抗した。
    毛沢東の指導の下、中国の全ての土地は国家が所有することになった。 人々が
    働く農地も工場も、政府や共同組合が経営することになった。 同じ社会
    主義国のソビエト連邦は、中国の産業の発達を手助けした。

    しかし、中国の人々は、ほとんど自由がなく、政府の決定に疑問を持つことは
    許されなかった。 毛沢東は食料生産に厳しい目標を設けたが、農作物の収穫が
    少なければ、多くの人々が餓死することになった。

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    1279年から1368年の間、中国は元王朝のモンゴル人の皇帝に支配されていた。 
    彼らは、北方の平原から馬に乗り攻め入った。 1215年、モンゴルの指導者、
    チンギス・ハンは、南下して北京を占領した。 1279年には、その孫にあたる
    フビライ・ハンが中国全土を征服する。 中国は、中央アジア全域に広がる
    モンゴル帝国の一部となった。 フビライの王朝である元は、中国をほぼ1世紀に
    渡って支配した。

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    モンゴル人は平和と繁栄をもたらした。 代々の皇帝は交易に熱心で、旅人が
    中国を訪れるようになった。 1275年、ベネチア出身のイタリア人商人、マルコ・
    ポーロは、初めてフビライの宮廷を目にする西洋人のひとりとなった。 彼は、
    17年間を中国で過ごした。 中国文明の様々な面をヨーロッパ社会に伝えた
    『東方見聞録』は、ヨーロッパでベストセラーになった。

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    その後、元王朝から明王朝となり、最後に清王朝となった。 清の支配者は、
    中国北部の満州出身だった。 はじめのうち、清の政治は、上手く行っていたが、
    次第に力は弱くなって行った。 1800年代になると、大規模な洪水や地震が
    中国に深刻な被害をもたらした。 貧しい人々の多くは、中国がこのような災難を
    被るのは満州出身の皇帝のせいだと批判した。

    清は変化に逆らって、ヨーロッパとの交易を禁止した。 しかし、ヨーロッパ諸国は
    次第に産業や技術の分野で中国を追い越すようになった。 清の力が弱まるに
    つれて、イギリスの商人たちは、自国で非常に人気のある絹や紅茶、磁器なとを
    自分たちに売るように中国に圧力を掛けるようになった。

    それと引き換えにイギリスは、インドで栽培されるアヘンという麻薬を中国に
    売り込んた。 多くの中国人がアヘン中毒になり、仕事が手につかなくなった。

    清がアヘン貿易を禁止しようとすると、イギリスは無理やり中国に対して2度の
    戦争を起こして、中国を破った。 イギリス中国から強制的に貿易の権利を入手し、
    香港などの領土を奪った。

    最後の皇帝溥儀
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    フランスやドイツ、日本などの国々も、イギリスの動きに便乗して中国内に
    領土と影響力を手に入れた。 清の支配に反対する人々が、中国各地で結集し
    始めた。 1911年、大きな暴動が起こった。 最後の皇帝溥儀は1912年、退位
    させられた。 新しく組織された国民党の孫文は、中国を共和国と宣言し、
    大統領となった。

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    古代中国では、発明が盛んに行われた。 何世紀もの間、中国は科学や技術、
    天文学、数学において、ほとんどの国に抜きん出ていた。 中国の医者は、
    植物から薬を作り、病気の治療をした。 あらゆる種類の日用品が中国で
    生まれている。

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    中国人は、紀元前100年頃に紙を、それから更に100年程経って磁気コンパスを
    発明した。 中国人は運を占い、建物を建てるのに縁起の良い方角を決める目的で
    コンパスを使ったのだ。 進む方向を知るためにコンパスを用いるようになったのは、
    ずっと後になってからである。

    中国人は、500年頃には既に印刷技術を発明していた。 これは、世界の他の場所で
    印刷が行われるようになる1000年近く前のことだ。

    磁器、絹、乗馬用のあぶみ、そして石弓は、それらが西洋に伝わる何世紀も前から
    中国では日常的に使われていたのだった。 中国を訪れた最初の西洋人が特に驚いた
    のは、ふたつの発明品だった。 すなわち、火薬と花火である。

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    【都市計画】
    中国人は、優れた建築家であり、熟練工であった。 7世紀から10世紀まで続いた
    唐王朝の首都として、長安はアジア中の都市の模範とされた。 他の都市が雑然と
    した、無秩序であったのに対し、長安は碁盤目状に配置された都市だった。 皇帝と
    従者、貴族、商人、手工業者、貧民、それぞれが住む地域ははっきりと分けられて
    いた。

    都市づくりと同様に、中国社会には、明確な身分制度があり、皇帝の下に4つの
    階級があった。 最も身分が高かったのは、貴族や地主、学者たちだった。
    次に、中国では、伝統的に敬われている農民、その後に、手工業者が続く。 最下層
    に居るのは、商人となっている。 商人は、卑しい者と見なされていたが、実際には
    非常に裕福になった人々もいた。

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    中国の人々は、自分達の国の長い歴史を誇りにしている。 およそ5,000年前に、
    黄河流域に最初の集落が出来始めた。 人々は敵を寄せ付けないため、村の周りに
    壁を築き、小麦や雑穀、野菜を栽培した。

    およそ4,000年前になると、陶器を作る技術を身に付け、文字を発明した。 また、
    道具や武器にするために、青銅や鉄を作ることを覚えた。

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    【王朝の支配】
    中国初期の王は、現在の中国の極一部を支配していたに過ぎなかった。 紀元前
    221年、秦王の嬴政(えいせい)が幾つかの国々を統一し、中国最初の皇帝と
    なった。 その後の全ての皇帝と同じく、嬴政は、帝位に就くと名前を変え、秦の
    始皇帝と名乗った。 後に続く皇帝たちは、始皇帝から引き継いだものを更に
    拡大し、中国はより大きく強い国になって行った。

    それぞれの王朝、あるいは、支配者の一族は、新しい業績を残している。 漢王朝は
    中国の政治制度を発達させた。 隋と唐の王朝は、芸術と建築の黄金時代を築いた。
    宋王朝は、運河建設に大いに力をいれた。 明の時代は、美しい青白磁の生産で
    名高い。

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    【皇帝の壁】
    中国北西部の秦王国の王であった嬴政は、周辺の敵国を打ち倒し、秦の最初の皇帝、
    秦の始皇帝と名乗った。 英語で中国をChinaと言うのは、秦という国名がChinと
    発音されることから来ると考えられている。 始皇帝は、強力な政府を樹立し、
    度量衡と言語、貨幣を帝国全体で統一した。 彼はまた、モンゴル族の侵入を防ぐ
    ため、中国の北の国境沿いに長大な壁の建設に取り掛かった。 壁には監視所と
    厳重に防衛された門が設けられた。 壁の上部は、馬に乗った兵士たちが敵を
    迎え撃ったり、伝令として通ることが出来る程広かった。

    その後の皇帝たちは、何世紀も掛けて壁をより頑丈に、より長くして行った。
    とうとう壁の長さは約7,300キロにも達し、地球上で最も巨大な人工建築物と
    なった。 この万里の長城には、現在世界中から観光客が訪れる。 万里の長城は
    月からも見ることが出来る。

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    1874年、日本は台湾に出兵した。 台湾に漂着した宮古島の住民69名のうち
    54名が先住民に殺害された牡丹社事件などから、自国民の保護を主張して
    出兵したのである。 清朝政府もこれを認めて、賠償金を支払った。

    この出兵を切っ掛けに、清朝は台湾の統治に積極的に乗り出した。 有能な
    官吏を派遣して、統治制度の改革と開発を行った。 1885年、清朝は台湾を
    中国の正式な一省に格上げし、1892年には、台北が台湾省の行政の中心になった。
    しかし、清朝の台湾統治の改革は、さほどの成果を見せることはなかった。
    1894年、日清戦争が勃発し、訓練と装備で勝る日本軍が勝利した。

    1894年4月、日本と清朝との間に下関条約が結ばれた。 条約には台湾と
    澎湖諸島が日本へ割譲されることが記されていた。 6月、日本軍は台北に入り、
    台湾総督となった海軍大将の樺山資紀が、日本による統治の始まりを宣言した。
    これで、211年続いた清朝による台湾統治は幕を下ろしたが、清朝は依然として
    中国大陸のほぼ全域を統治していた。

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    【日本の統治時代】

    日本人が台湾に入ると、清朝の役人や軍は中国大陸へ逃亡したが、移住民の子孫や
    先住民たちは激しく抵抗し、特に、先住民は、その後も長く、ゲリラ的な抵抗運動を
    散発的に続けた。 日本の台湾領有の目的は、アジアに君臨していた欧米の勢力に
    対抗する、列強国になるためのひとつの手段であった。 まず日本は、台湾を米や
    砂糖などの食料供給地として利用する。

    そのために、自作農を増やすための土地制度の改革、米の品種改良、新たな耕作地の
    開墾、用水路やダムの整備を行った。 これらの結果、米や砂糖などの生産高は、
    日本統治時代を通じて増え続けた。 特に砂糖は、日本の領有以前から台湾の
    輸出品であり、砂糖の生産が増すと、日本の需要を満たすばかりではなく、世界でも
    主要な生産地となった。 また、日本は、鉄道を敷き道路を整備し、港を改修し拡張
    すると共に、郵便や電報、電話といった通信網も整備した。 また、各地に保健所や
    病院も開設するなど、伝染病の予防と公衆衛生にも努めた。

    更に、初等教育から大学までの学校をつくり、教育制度を整えた。 この教育は、
    日本語によるもので、日本語を話せる台湾住民も増えて行った。 そして、日本の
    旧制高校や大学へ留学するなど、高等教育を受ける台湾住民の学生も珍しくは
    なくなった。

    このして発展の結果、1930年になると、台湾は工業地域としてもスタートした。
    繊維工場、製油所、製糸工場、肥料工場とはじめとする加工施設も建設された。
    日本の統治は、強い警察力を用いた厳格なものだった。 し かし、その一方で、
    ヨーロッパの列強による植民地には見られない、さまざまな改革が行われて近代化が
    進み、協力する現地住民も増え、その抵抗は、法律での平等を求める運動となった。
    また、その運動に協力したり共感する日本人もおり、日本人と台湾住民との間には、
    対立もあれば、信頼もあるといったさまざまな関係が生まれた。

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    いくつかの点で、台湾の歴史は中国の歴史と切り離すことが出来ない。
    台湾が経験して来た多くの変化は、中国で起こった出来事が原因である。
    とは言え、強い海流、予想のつかない天候変化、台風と言った航海上の危険を
    伴う台湾海峡によって、ふたつの地域の間では、何世紀もの間、大きな人口
    移動が妨げられて来た。

    石器や土器等の考古学的発見によれば、2万年前、台湾には旧石器時代の
    現代人に繋がる人類が住んでいた。 一部の学者は、こうしたヒトは、中国が
    起源だと言う。 また、別の学者は、東南アジアのマレー半島辺りから渡って
    来た最初の移民だと考えられている。 起源は、いずれにせよ、この頃の人々は
    低地一帯だけではなく、深い山林にも住んでいたのは確かである。

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    【初期の歴史】
    台湾に関する中国・唐時代の記録によれば、漢人とは、この島を流求と呼んだ
    と言う。 後に、琉球と字が変わった時には、沖縄の事を表し、台湾は、小琉球と
    呼ばれた。 また、6世紀はじめに隋の皇帝が兵を送っている。 その頃住民は、
    木を切り倒し、それを焼き払って農地を開墾し、イネ、アワ、マメ等の穀物を
    植えていた。 島には階級支配制度があり、1人の指導者と、何人かの副指導者が
    治めていた。 敵の頭を切り落とし、勇気の証拠として飾る首狩りの風習もあった。
    隋の兵は、彼等を数千人も捕虜にして連れ帰り、以後は関係が絶えたと言う。

    960年から1279年まで続いた宋の時代、近くの膨湖諸島へ渡る者もあった。
    宋代の貨幣や陶器のかけらが膨湖諸島で発見されたことから、島へ渡るように
    なったのは、11世紀頃から考えられる。 島の近海で獲れる豊富な魚にひかれて
    漁師が渡ったのかも知れない。 台湾まで探検する者も居たことであろう。

    13世紀、台湾と膨湖諸島への探検は更に盛んに行われるようになった。 この頃、
    中国北部の勇敢な民族であるモンゴル人が南下し、宋王朝を現在の浙江省にある
    杭州にまで追いつめていた。 南シナ海に面する江南に移った宋の政府は、造船
    技術の向上を支援し、南海貿易を奨励した。 また、船乗り達は、磁気針を水に
    浮かべて、方位を測定する方法を用いて、中国大陸と台湾の間の海域をより正確に
    航海出来るようになった。 水針は、後の明の時代に羅針盤に発展する。 こうした
    航海術の向上が海上交通を盛んにしたのである。

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    香港では、寿司をはじめとする食文化や、アニメ・ゲーム等の大衆文化を
    中心に、日本文化が広く浸透している。 コンビニには、ファッション雑誌や、
    清涼飲料水等の日本語の書かれた商品が溢れ、地元の広東語番組では、
    『イチバン』や『ダメダメ』等、日本語風の表現が時折聞かれる。

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    香港は、このように日本が感じられる社会であるため、公用語の中文、英語を
    除けば、日本語は学習者の最も多い言語と見られている。 話者数に関する
    公式の統計はないが、国際交流基金によれば、2012年時点での日本語学習者は、
    2万2,555人で、そのうち、76%が日本語学校等、学校教育以外の場で日本語を
    学習しており、大学は13%、初中等教育では11%である。

    また、2012年から始まった香港中等教育筆記試験では、日本語を含む6つの
    外国語が選択科目として導入されたが、2015年の試験で日本語を選択した
    受験者は、199人と2位のフランス語(57名)を大きく引き離している。

    学習動機としては、大衆文化と日本旅行への興味、関心が多く、進学、就職等に
    使える実利面もしばしば挙げられるが、同時に香港人学習者にとっては、漢字を
    使用する日本語が他の外国語に比べて学びやすい要因もあるのであろう。 中文と
    英語の読み書きに加え、広東語、中国語、英語の運用能力が前提付けられた
    『両文三語』と呼ばれる言語政策の下で、特に英語に苦手意識のある学習者が
    日本語を学ぶことで言語学習に対する自身を取り戻そうとする場合もある。

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    学習環境は整っており、市中の日本語学校以外にも、現在8つある全ての公立
    大学で日本語が履修出来、日本語、日本文化を専攻出来る大学院、大学、
    コミュニティーカレッジ(短大に相当)も一定数存在する。 このような背景
    により、日本語学習の層も厚く、その中から、香港人日本語教師も数多く輩出
    されている。

    教師養成機関としては、香港中文大学に2006年から2011年まで日本語教師養成を
    主とした修士課程が設けられ(現在は大学院の選択科目として開講)、現在も在留
    邦人や日本留学経験者のある香港人が養成機関を経ずに教師となり実践経験を積む
    ケースも多い。

    学習方法もテクノロジーの発達と共に変化を見せている。 従来は文法、読解は
    出来ても会話が苦手なのが香港人学習者の特徴とされて来たが、インターネットで
    手軽に日本語コンテンツに触れられる環境が整ったことから、近年では、若者層を
    中心に、独学が一般化し、ウェブ上のデジタル教材を活用したり、ソーシャル
    ネットワークで日本語母国語話者と交流したりして、教育機関に通わずに
    コミュニケーションスキルを磨く学習者が増加している。 こうした学習者の
    広がりを受け、大学でも日本語既学習者があえて初級の日本語のクラスを履修し、
    高得点を狙おうとする現象が顕著になった。

    新界付近の住宅地にある日本語学校を例に取ると、新規受講は日本旅行が切っ掛け
    という場合が目立ち、外国語の通じにくい地方へ旅行に行くため、中上級まで
    学習を継続する受講生も少なくない。 2011年の東日本大震災直後は、超円高も
    相まって、日本への渡航が下火になり、受講者が一旦減少したものの、近年円安
    傾向で再び日本旅行にブームが起き、回復傾向にある。 極端な例としては、
    日本で不動産を購入し、年間数ヶ月間を日本で過ごし、日本語力を鍛える強者も
    存在する。

    ここ数年の韓流ブームで韓国文化に関心を持ち、韓国語を学ぶ人が増えたため、
    日本語教育にも若干影響が見られるようになった。 韓国語熱の高まりを受け、
    一部の日本語学校では、韓国語コースも開講しているが、ここ1~2年は、日本旅行
    ブームの恩恵を受けてか、一時期低下傾向にあった日本語学習者数が上昇に転じ、
    横ばい傾向にあった韓国語を尻目に、安定した伸びを見せている。

    また、旅行や大衆文化等で幅広く学習者を引き付ける日本語に対して、韓国語は、
    Kポップや韓流ドラマの女性ファンが中心で学習者の偏りが大きい。

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    香港にとって、日本は間違いなく最も親密な関係を持つ、重要な外国のひとつ
    である。 貿易、投資、企業の駐在等、相互の経済交流は、極めて密接である。
    外務省の海外在留邦人数調査統計によれば、香港総領事館の管轄地域(香港と
    マカオ)の2014年の在留邦人の数は、2万7,146人に達しており、韓国全体
    (3万125人)に匹敵する。 こういった現在の経済関係に限らず、日本は香港の
    歴史、文化、社会に大きく影響を与えてきた国のひとつであり、香港を語る上で、
    日本の存在は欠かせない。

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    日本が最も直接的に香港に関わったのは、第二次世界大戦中の占領であった。
    1941年12月8日、日本は対英米開戦し、真珠湾攻撃と同時に、香港にも攻め
    入った。 12月25日、イギリス香港政庁は日本に降伏し、その後、1945年8月
    15日の敗戦まで、日本は香港を占領した。 降伏の日は『ブラック・クリスマス』
    と呼ばれ、日本の占領期間を指す『3年8ヶ月』は、香港史においては、暗黒
    時代として記録されている。 香港の人口が多過ぎると見た日本軍は、市民の
    香港からの追放や殺害等を行い、人口は占領前の150万人から敗戦時の60万人
    まで減少した。 日本語教育が強制され、経済は著しく混乱して飢える者も
    多かった。

    その中でも、現在まで禍根を残した問題が、軍票問題である。 日本軍は、軍票と
    呼ばれる紙幣を発行し、香港市民に強制的に財産を軍票に換金させたが、日本の
    敗戦によって、軍票は紙くずと化した。 財産を失った被害者達は、戦後賠償を
    求めて日本でも裁判を起こしたが、敗訴している。 彼らは、しばしば香港の
    日本総領事館に対して、抗議活動を行っている。 また、歴史問題に関しても、
    香港の反日感情は弱くなく、しばしば反日デモも発生する。

    また、尖閣諸島の中国による領有を主張する『保釣問題』も存在する。 香港
    での保釣運動は、アメリカが沖縄返還と合わせて尖閣諸島を日本に返還する事を
    決定した事を受けて開始された。 1971年2月28日には、香港では初めての
    日本総領事館へのデモ行進が行われ、その後、大規模な集会等も行われた。
    1996年には、日本の右翼団体が尖閣諸島に灯台を建設した事を切っ掛けに、
    再び保釣問題が盛り上がり、9月26日には、尖閣諸島付近で海上保安庁に阻止
    された『保釣号』に乗っていた活動家が、島への上陸を強行しようとして海に
    飛び込み海上保安庁に阻止され、溺死した。 これを受けて、活動家を追悼する
    集会には、5万人が参加したという。 そして、2012年8月15日には、
    『保釣行動委員会』メンバーが尖閣諸島に上陸し、日本の世論を驚かせた。

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    これらの事柄から、日本でも香港も中国大陸同様に、激しい反日感情を抱いた
    土地であると見る人も多いが、実際には、大陸と香港の反日運動には、相違点も
    多い。 第一に、大陸との『愛国』の温度差である。 保釣行動委員会の
    メンバーは、中央政府と対立する民主派によって構成されており、これらの対日
    抗議運動の他、天安門事件追悼活動等にも深く関与している。 その主要な者の
    多くは、中国政府によって大陸に入ることすら認められず、むしろ、西洋的
    価値観に近い売国奴と非難される側にある。 香港の保釣行動委員会の主張は、
    日本に抗議するという点で大陸と同じでも、毛沢東像を掲げた大陸の反日でもとは
    相容れない。 第二に、反日の質の違いである。 香港でも歴史問題や尖閣諸島に
    関係する反日でもはしばしばあるが、デモは暴力行為を伴わず、日系デパートの
    並ぶ中心街を整然と行進し、日本製品ボイコット運動が盛り上がる事もない。

    暴動化する大陸の反日デモよりも、遥かに冷静なデモが行われる理由としては、
    もちろん大陸と香港の社会の相違という原因も大きいが、同時に重要なのは、
    戦後日本と香港が積み上げて来た、友好的で密接な交流の歴史であろう。
    日本政府観光局の統計では、2014年の香港からの訪日客は、のべ92万5,975人に
    達した。 総人口わずか720万人ながら、台湾、韓国、中国に次いで、訪日客数は、
    世界第4位である。 香港では、ポップカルチャーや食文化、家電や生活用品等を
    中心に、日本文化や製品が大いに支持されており、日系資本のデパートから
    『日本城(ジャパン・ホームセンター)』と称する日用雑貨のチェーン店、地元系の
    小さな日本料理店まで、街頭には日本の影響が至るところに見られる。 日本は
    もはや市民生活の一部になっていると言っても過言ではない。

    また、多くの香港人が日本訪問や日本人との接触を通じて、現在の安全で繁栄する
    清潔な日本、勤勉で正義正しい日本人に好感を持っている。 香港大学民意研究
    プログラムの2015年5~6月の調査では、54.5%の人が日本の人々に好感を
    持っていると答えた。 これは、中国大陸の人々に好感を持つ割合(28.2%)は
    勿論の事、香港の人々自身への高感度(40.7%)をも大幅に上回り、調査対象の
    16カ国、地域中、台湾、シンガポールに次いで3位の高評価であった。

    一方、同じ16カ国、地域の政府に対する意識を尋ねると、日本政府に好感を持つと
    答えた者は、わずか17.5%と、タイ、ロシアに次いで、同調査では下から3番目で
    あり、反感を持つと答え者は48.4%にも達し、アメリカ(35.7%)を引き離して、
    調査対象中で最も多い。 香港市民の日本政府に対する評価は極めて低い。
    これは編に、歴史問題や領土問題を巡って、日中関係が緊張している事の反映で
    あると言える。

    このように、香港の人々の対日感情は、親日と反日の一言ではとても割り切れない、
    極めて複雑な側面を含んでいる。 現在の日本人が香港の人々との付き合いを
    するにあたり、反日感情を過度に心配する必要はなく、観光客が日本人である
    という理由で理不尽な扱いを受ける事はまずない。 しかし、他方では、両地の
    間に過去不幸な歴史も存在し、被害を被った人や、日本への反感を持っている人が
    かなり居るという事も、決して忘れてはならない事実なのである。

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    香港住民は、自らを何人だと考えているのか。 この問いの答えは、当の
    香港人にとっても自明のものではない。 香港大学の世論調査プログラムでは、
    返還以来、継続的に香港住民が自分を何人と称するかについて調査を行っているが、
    それによると『香港人』という回答は、返還以来減少していたが、2000年代末頃
    から増加に転じ、2012年上半期には、返還後最も高い45.6%を記録している。
    これに対して『中国人』という回答は、ほぼ逆の動きを見せている。

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    『香港人』という意識は、一般に、1960~70年代の香港の社会的、文化的変容の
    中で原形が生まれ、返還後の1980年~90年代には、『香港人』は『中国人』とは
    異なるという意識が顕著になって行ったとされる。 改革、開放当初、発展を
    始めたばかりの中国大陸は、戦後の高度成長を経て、国際金融センターとしての
    地位を確立していた香港から見れば、『貧しくて遅れた』存在であり、大陸側から
    来る新移民に対して、テレビドラマ等を通じて『ダサい、怠慢、公的道徳に欠けた』
    等、ネガティブなイメージが共有されて行った。

    とは言え、一方で、香港在住民の対部分は、中国大陸から移って来た難民、移民、
    および、その子孫であり、民族的、文化的起源が中国にあることは否定し難い。

    こうした中で、香港住民は、非民主的で遅れた中国大陸と対比されたり、中国共産党
    政権の脅威を訴える局面では『香港人』となり、一方で伝統文化や中国人スポーツ
    選手の活躍を誇りに思う時は『中国人』となるというように、両者を使い分け、
    あるいは、両者の間を揺れて来た。 帰属意識の矛先が、20年も経たない短期間の
    うちに二転三転しているということ自体、この交錯した心理を良く物語っている。

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    2014年12月23日、RFI中国語版によると、香港で行われた世論調査で、『香港人』
    としてのアイデンティティーが『中国人』としてのアイデンティティーを大きく
    上回った。  香港大学民意研究計画センターは香港市民のアイデンティティーに
    関する世論調査を実施した。 12月10日から16日に掛け、1,016人を対象に電話
    調査が行われた。『香港人』と回答したのは42%。 『中国人』との回答は18%
    となった。 

    また、『香港人』『アジア人』『中華民族の一部』『世界市民』『中国人』
    『中華人民共和国公民』というそれぞれの項目に対して、どれほどの帰属感を
    感じるかを0〜100点で表現してもらったところ、『香港人』の平均得点は約80点と
    前回調査を2点上回った。 その他、『アジア人』69.8点、『中華民族の一部』
    65.9点、『世界市民』63.7点、『中国人』62点。『中華人民共和国国民』
    54.4点となった。 

    『中国人』『中華人民共和国国民』の平均点は、2008年の調査開始以来、過去最低
    となった。

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