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    カテゴリ:西ヨーロッパ > イギリス・アイルランド

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    【ステュアート朝の断絶】
    清教徒革命、名誉革命という2つの市民革命を経て、イギリスの政治体制は
    大きく変わった。 ウィリアム3世とメアリ2世の間には跡継ぎがいなかった
    ため、2人が亡くなった後、メアリ2世の妹のアン女王が即位します。

    アン女王の時代、1707年にイングランドは、スコットランドを併合した。
    また、スペイン継承戦争の戦闘の一つで、北アメリカでイギリスとフランスが
    戦った戦争は、『アン女王戦争』と呼ばれている。 アン女王にも最終的に
    跡継ぎが生まれず、1714年に女王が亡くなると、ステュアート朝が断絶した。  

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    【ハノーバー朝の始まり】
    1701年、議会はイングランドの宗教的な対立を終わらせるための法律を可決した。
    法律は、プロテスタントだけが王、あるいは、王女になれることを定めていた。
    1714年に王位は、ドイツの貴族に引き継がれ、ジョージ1世が即位した。 しかし、
    ジョージ1世は、英語が話せなかった。 前の王に近い親戚は、他にも41人も
    いたが、プロテスタントで一番近い血縁者がジョージ1世だったのだ。 これ以降の
    イギリスの君主は皆、ジョージ1世の血を引いている。

    王が外国人ということで、議会は増々大きな権力を有するようになった。 ジョージ
    1世は、自分に代わって政治を行う首相を任命した。 始めての政党が誕生した。
    議員に立候補したり、選挙で投票したり出来るのは、裕福な地主だけだった。
    殆どのイギリス人は、国の運営について意見を言う権利がなかった。

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    【貿易、産業と大英帝国】

    1800年代には、イギリスは、世界最強の国のひとつになっていた。 1837年
    から1901年のビクトリア女王の治世(イギリス最長の在位年数)に、
    イギリスは貿易によって、莫大な富を得た。 アメリカ独立戦争後の1783年に、
    北アメリカの植民地の一部を失ったものの、今やイギリスは、世界に広がる
    巨大な帝国を築いていた。 大英帝国は、カナダ全土、インド、アフリカ、
    カリブ海の大部分と、太平洋のオーストラリア、ニュージーランドを統治した。

    ビクトリア女王の時代、イギリスでは、当時世界で最先端の工業が発達していた。
    それを可能にしたのは、技術の進歩と十分な原料、安価な労働力だった。
    工場での仕事を求めて、人々が移り住み始め、都市部が急激に発展した。
    19世紀には、法律によって、新興の都市も議会に代表を送ることが出来る
    ようになった。 女性に選挙権が与えられたのは、1919年のことである。

    【困難に満ちた世紀】
    20世紀の前半は、イギリスにとって、挫折の時代だった。 何十万もの兵士が
    第一次世界大戦(1914年~1918年)と第二次世界大戦(1939年~1945年)で
    命を落とした。 第二次世界大戦中に、ドイツ軍の爆撃機がイギリスの都市を
    空爆した時には、多くの市民も死亡した。 イギリスには、もはや、世界に
    広がった大英帝国を支えて行く力がなかった。 殆どの植民地が独立した。

    一方、アイルランドでは、イギリスの支配に対する抗議から、今にも内戦が
    起こりそうだった。 1920年にアイルランドは、2つに分裂した。 南部には、
    1922年にアイルランドとして独立し、北アイルランドは、イギリスに残った。

    1960年代に、北アイルランドは、プロテスタント(イギリスとの統合を主張)と
    カトリック教徒(アイルランドとの統合を主張)との対立で、テロ行為が多発した。
    これは、北アイルランド紛争と呼ばれており、ようやく平和が戻ったのは、
    1990年代になってからだった。

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    エリザベス1世には、子供がなかった。 女王が死ぬと、いとこで
    スコットランド王のジェームズ6世が王位を継ぎ、イングランド王ジェームズ1世
    となった。 これによって、イングランドとスコットランドが初めて統一された。
    しかし、この国は不安定だった。 ヘンリー8世がローマン・カトリック教会を
    離脱したことで、宗教問題が起きていたのだ。

    国教は、プロテスタントだったが、多くの人々は、カトリックのままでいたいと
    思っていた。 また、プロテスタントの中にも、拝礼の方法について、異を
    唱える派があった。

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    その中の有力なグループが、清教徒だった。 彼らは、神以外の全ての影響を
    排除して、宗教を純粋なものにしようとした。 清教徒の中には、信仰の自由を
    求めて、イングランドを離れる人達も居た。 その多くは、オランダやアメリカに
    移住した。

    イングランドでは、宗教の違いによって、王と立法機関である議会との間に争いが
    生じた。 内乱が起き、議会派が勝利した。 1649年に議会の命によって、
    チャールズ1世が打ち首に処せられ、議会が国の実権を握った。 1660年になって
    ようやく、チャールズ1世の息子、チャールズ2世が次の王位に就くよう要請された。

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    410年にローマ人がイギリスから撤退すると、イングランドとウェールズは、
    地方の支配者が統治する幾つもの小さな王国に分裂した。 ピクトランドと
    アイルランドは、一度もローマに征服されることはなかった。 ピクトランド
    には、ピクト人が住んでおり、アイルランドには、スコットランド人が住んで
    いた。 スコットランド人は、ピクトランドを侵略し、自分達の民族の名前を
    とって、スコットランドという名前を付けた。

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    6世紀には、アングル人、サクソン人、ジュート人、と呼ばれるゲルマン人が
    大挙して北ヨーロッパからイギリスへやって来るようになった。 彼らは、
    その後の100年の間に、イングランドのほとんどの地域とスコットランドの
    低地に定住した。 アングル人は、その名を取って、イングランドとし、この時
    から、イングランドに住む人々は、アングロサクソンと呼ばれるようになった。
    元々、イングランドに住んでいたケルト人は、西方のコーンウォールと
    ウェールズへ追いやられた。 6世紀から7世紀には、ヨーロッパから
    宣教師がやって来て、アングロ・サクソン人をキリスト教徒にした。

    アイルランドには、既に432年、聖パトリックがキリスト教をもたらしていた。
    その後の500年代に、聖コルンバがスコットランドとイングランド北部に
    キリスト教を広めた。 一方、イングランド南部には、カトリックの総本山の
    ローマからの聖アウグスティヌスが派遣され、人々をキリスト教に改宗させた。

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    900年代には、バイキングがイギリスの海岸を襲った。 1016年以降は、
    カヌートというデンマークのバイキングがイングランドを治めた。 伝説に
    よると、カヌート王の家来は、王には神のような力があると信じていた。
    そのような力は、持っていないことを示すため、カヌート王は、陸へ打ち
    寄せる波に止まるように命じたという。 もちろん、波は止まらず、水位は
    上昇し続けた。 デンマークによる支配が終わって間もなく、イングランドは、
    別のバイキングに征服された。 1066年、北フランスのノルマン人が侵略した
    のである。

    ノルマンの王たちは、国中に城を築いて権力を示し続けた。 支配者である
    ノルマン人は、フランス語を話し、それが次第にアングロ・サクソン語と
    混じって行き、現在の英語の元となった。

    イングランドを支配下に置いたノルマンの王たちは、1171年にアイルランドを、
    1289年には、ウェールズを征服した。 しかし、かつての支配者だったローマ人
    同様、スコットランドには撃退された。

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    アップ・ヘリー・アーという火祭りは、イギリスの変化に富んだ過去を
    まざまざと思い起こさせるもののひとつだ。 毎年1月にシェトランド諸島の
    ラーウィックで催される。
     
    祭りの最後を飾るのは、炎に包まれる実物大のバイキング船となっており、
    バイキングは、シェトランド諸島の東250キロにあるスカンジナビア半島から
    やって来た海賊である。 彼らは、8世紀からイギリスの沿岸部や島々を襲う
    ようになり、大勢がそのまま定住した。

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    初期のイギリスを作り上げたのは、あいつぐ侵略者達であり、バイキングも
    正にそうした一団だった。 その後、イングランドの支配者達が、ウェールズ、
    スコットランド、アイルランドをまとめ、強大なひとつの国イギリスを作り上げた。
    今、世界で最も広く使われている言語が英語であるという事実は、どれほど
    イギリスの勢力が大きかったかを示している。

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    【ローマン・ブリテン】
    初期のイギリス人は、およそ1万年前にやって来たピクト人だった。 紀元前
    8世紀にヨーロッパ大陸からケルト人がやって来て、ピクト人を北方の
    スコットランドへと追いやった。

    西暦43年、ローマ人がイギリスを侵略した。 4年後には、イングランドが
    ローマの領土となり、78年には、ウェールズもローマの手中に落ちた。
    スコットランドのピクト人だけがローマに征服されることなく国を守った。

    ローマ人は、イギリスの沢山の民族を支配した。 彼らは、都市や砦、道路網を
    築いた。 この時に作られた道路には、現在のイギリスの道路網の一部となって
    いるものもある。 ローマの支配下で、イギリスは豊かになって行った。
    そして、ローマ人の持ち込んだ進歩した生活様式を楽しむようになった。
    街には、公衆浴場や下水設備が造られ、田園地帯には、大きな邸宅が建てられた。

    400年になると、ローマ帝国は衰退し始めた。 ローマ人は、イギリスから
    撤退したが、彼らの影響は、様々なところに残された。

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    イギリスには、4つの地域がある。 イングランド、ウェールズ、スコットランド、
    北アイルランド。 イングランドとスコットランドは、王国であり、ウェールズは、
    皇太子の統治する公国、北アイルランドは、行政区として位置づけられている。

    どの地域の人々も皆、イギリス人と呼ぶことが出来るが、彼ら自身は、
    イングランド人とか、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人という
    ように、住んでいるところや、先祖の出身地を表す言い方の方を好む傾向がある。

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    イギリスは、ヨーロッパ大陸北西部の海に浮かぶ幾つもの島からなる島国で、
    大陸側のフランスまで、一番近い場所では、わずか30キロしか離れていない。
    グレート・ブリテン島もひとつの国だと思っている人が多いが、実際には、
    グレート・ブリテン島は、イギリス最大の島で、面積は、アメリカのオレゴン州
    とほぼ同じである。 グレート・ブリテン島には、イングランド、ウェールズ、
    スコットランドがある。 北アイルランドは、グレート・ブリテン島の西にある
    大きな島、アイルランド島の北東部にあたる。 アイルランド島の北アイルランド
    以外の部分は、アイルランドという別の国である。

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    グレート・ブリテン島とアイルランド島と合わせて、イギリス諸島と呼び、
    これには、周りにある沢山の小さな島も含まれる。 ワイト島、ランディ島、
    アングルシー島をはじめ、こうした小さな島々の多くは、イギリスの一部である。

    イギリスで一番島が多いのは、スコットランドである。 ヘブリディーズ諸島、
    オークニー諸島、シェトランド諸島などがある。 シェトランド諸島は、
    イギリスの国土の最北端に位置し、イングランドよりもノルウェーの方が近い。

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    イギリスは、世界の主要国として、3つの領域で重要な役割を担っている。
    まず、1993年以来、ずっとヨーロッパ連合(EU)のメンバーである。 ふたつ目に、
    その殆どが、大英帝国時代の植民地であった53カ国からなるイギリス連邦を
    率いている。 そして、最も親密な同盟国のひとつであるアメリカと特別な
    関係を持っている。

    こうした役割は、この国の発展の歴史に根ざすものだ。 1500年代から1600年代、
    イギリスは、大西洋の海洋貿易で主導的な立場にあった。 1700年代後半には、
    工業の近代化によって、世界をリードする工業大国となり、1900年代末まで
    その勢いは続いた。 そして、大英帝国を築き、最盛期には、世界の3分の1を
    領土とした。

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    しかし、19世紀に農業が衰退し始めた。 それに続いて、20世紀には、工業も
    力を失い始めた。 現在は、サービス産業が経済の中心となり、イギリスは、
    主要経済大国としての地位を保っている。 福祉国家であるイギリスでは、
    全ての国民が無料の医療と教育、社会保障を受けられる。 しかし、かつてに
    比べて貧富の差が遥かに広がっている。

    イギリスは、政治的には、イングランド、ウェールズ、スコットランド、
    北アイルランドという4つの国からなる連合王国である。 スコットランド、
    ウェールズ、北アイルランドは、それぞれ独自の議会を設立して、自治権を
    拡大して来た。 イングランドでも各地域で議会が設立されているが、
    そのうち、大ロンドンの議会だけが選挙によって選ばれる。

    地理的に見ると、複雑な地質が変化に富んだ地形を生み出し、様々な動物や
    植物が生息している。 雨が多く、風の強いこの島々には、1万年に渡って
    人が住み、その中で現在のイギリスの景観が作られてきた。 森が切り開かれ、
    沼地や湿原は干拓され、畑や道が作られた。 村が出来、そして、廃れ、
    都市や郊外の住宅地が開発された。

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    イギリス人とは、この地にやって来た支配者と移民によって作られた国民である。
    初期に住み着いたのは、ケルト人、ローマ人、アングロサクソン人、バイキング、
    ノルマン人だった。 産業革命の時代には、アイルランド人がやって来た。
    1950年代から60年代に掛けては、かつての植民地であったカリブ海、アフリカ、
    アジアの国々から移民が、労働力の不足を補った。 その後、難民や亡命を
    求める人達、他のヨーロッパ諸国からの人々もやって来てイギリスの社会は、
    多種多様な文化を持つものとなった。

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    ロンドン塔は、多くの王侯貴族が幽閉されたり、処刑された場所として有名で、
    幽閉と処刑の場であったばかりではなく、それとは反対に、即位した国王が
    戴冠式までの数日をここで過ごしたという喜ばしい習慣もあったらしい。 1547年
    1月31日、ヘンリー8世の死が議会に報告され、その子供であるエドワードの即位が
    宣言されると、エドワードは、ロンドン塔に入った。 大勢の貴族が集まって臣下の
    誓いの儀式が行われた。 そして、ヘンリー8世の葬儀の4日後、2月20日に、
    ウェストミンスター寺院でエドワード6世の戴冠式が行われた。

    エドワード6世が1553年7月6日に亡くなると、その後を継ぐ筈だったジェイソン・
    グレイは、サイオン・ハウス(ロンドン西部にあったダドリー家の屋敷)から
    テムズ川を船で下り、ロンドン塔に入った。 そして、7月10日、イングランド
    王女としての即位が宣言された。 しかし、その9日後の7月19日には、一転して、
    ロンドン塔の因人となり、7ヵ月後の翌年2月12日に斬首となるという運命が
    待っていた。 17歳という若さであった。

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    ヘンリー8世の二人目の王妃であるアン・ブーリン(エリザベス女王の母)も、この
    ロンドン塔で運命の反転を受け入れざるを得なかった。 1532年6月1日の王妃の
    戴冠式に備えて、アン・ブーリンは、当時のグリニッジにあった宮殿から、ヘンリー
    8世と共にロンドン塔に入った。 二人の船に従う船は、4マイルの列をなしたという
    壮大な行列であった。 それが、3年後の1536年5月2日には、グリニッジ宮殿で
    罪状を知らされ、同じルートでグリニッジから船でロンドン塔に入り、ロンドン塔の
    グレート・ホールで裁判が行われ、5月19日に処刑された。

    このような処刑が行われたのは、イギリスの宗教改革と英国王位継承の事情が
    あった。 ヘンリー8世は、最初のスペイン国王カタリーナ・デ・アラゴンと
    結婚し、この時も二人は戴冠式の前夜をロンドン塔で過ごした。 10年のうちに
    6人の子供が生まれ、うち二人は王子であった。 しかし、いずれも生後間もなく
    死亡し、一人生き残ったのは、王女メアリーだけであった。 この時、英国王位
    継承を確保するためにどうしても王子が必要であったのは、想像するに難くない。
    これがカタリーナとの離婚につながり、更には、ローマ教会との決別、英国国教会
    設立という、英国特有の宗教改革につながった。

    1547年にヘンリー8世が死んだ時の子供は、カタリーナとの間に生まれたメアリー
    (31歳)、アン・ブーリンとの間に生まれたエリザベス(13歳)、ジェイソン・
    シーモアとの間に生まれたエドワード(9歳)であった。 メアリーと
    エリザベスは、いずれも非嫡出子とされ、王位継承からは外されていたが、
    最終的には、エドワードに続く王位継承者になった。 このエドワードの時代に
    英国国教会は、その土台を着実に築いた。 エドワード6世が15歳の1553年1月、
    重い病気に掛かった時に王位継承の危機が訪れた。

    この当時、40人の顧問官からなる枢密院が最高議会決定機関であり、そのリーダー
    であったノーザンバラトン公ジョン・ダドリーが事実上の政治的実権を握っていた。
    7月6日にエドワード6世が死ぬと、枢密院は、ジェイソン・グレイを王位継承者に
    指名し、7月6日にジェイソ・グレイはロンドン塔へ移され、戴冠式を待つこと
    となった。

    メアリーは、弟の死を知らされてもロンドンには行かず、カトリック支持の実力者が
    第三代ノーフォーク公トマス・ハワードび勢力下にあるイースト・アングリアに
    赴き、支持者を募った。 メアリーがケンブリッジ近くのソーストン・ホールに
    居るという情報を得たジョン・ダドリーが急遽兵を3,000人かき集めてこの館を
    急襲したが、メアリーを捕獲出来なかった。

    しかも、この館は、カトリック教徒の常識として、抜け穴、隠し部屋等の忍者屋敷
    さながらで、メアリーは、乳搾り女に変装して脱出したという。 メアリーのもと
    には、2万の勢力が終結していた。 ロンドンに残っていた枢密院は、ことの
    重大性を知り、先の決定をひるがえして、メアリーを継承者にすることを決定し、
    その旨をメアリーに伝えた。 7月19日のことである。

    このため、ロンドン塔に居たジェイン・グレイは、戴冠式を待つ身から一転して、
    ロンドン塔の因人になってしまった。 枢密院に裏切られたジョン・ダドリーも
    あっさり降伏し、反逆者として処刑される。 かつて王の後見人として実権を握って
    いたエドワード王の叔父エドワード・シーモアを失脚させて葬り去り、実権を
    奪取した男の末路であった。

    ジェイソン・グレイとギルフォード夫婦は、すぐには処刑されなかった。 
    メアリーには、この近親者を処刑する意図はなかった。 しかし、メアリーが
    カトリック宗主国スペインの皇太子フィリペとの結婚を表明すると、プロテスタント
    勢力の間に危機感が広がり、翌1554年1月26日、メアリーの廃位を目的とする
    ワイアットの反乱が起きた。 反乱は鎮圧されて、首謀者は処刑されたが、同じ
    ような反乱が起きることを防ぐために、ジェイソンとギルフォードも2月12日に
    処刑された。

    これが、メアリーによる粛清の始まりとなり、英国民の心に、カトリックに対する
    恐怖と偏見を深く長く刻み付けることとなる。 数年後、メアリーの突然の死に
    よって、悪夢が終わり、エリザベス女王の治世へと移り、再びプロテスタント国
    になると、ジェイソン・グレイは、その殉教者という地位を得ることとなる。

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    イギリスにとって、最大の遺産は、英語と観光であると言われている。
    英語は、世界の共通語になりつつあるし、 2010年にロンドンを訪れた
    観光客は1,460万人にも及び、1兆円以上の金をロンドンに落とした
    ことになる。 ロンドンを訪れる観光客の最大の目玉は、華やかな衛兵の
    交代式で知られるバッキンガム宮殿である。

    ロンドンを訪れた観光客は、まず始めにこの宮殿の歴史と衛兵の交代に
    見られる伝統の重さを噛みしめてから、繁華街へと繰り出すこととなる。
    その中心地であるピカカデリー・サーカスに立つと、リージェンス
    ストリートの景観が先ず人々の度肝を抜くこととなる。 この周辺の整然
    とした街並みは、古都ロンドンの威厳を示すと同時に、ロンドン子の誇りの
    象徴でもある。

    この通りを更に進むと、オックスフォード・サーカスを経て広大な
    リージェンツ・パークに至る。 反対側に目を向けると、トラファルガー
    海賊の英雄である、ネルソン提督の記念柱がそびえるトラファルガー広場が
    見える。

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    このロンドン観光の中心をなす部分は、その殆どがひとりの国王の手に
    よって造られた。 その国王とは、ハノーヴァー王朝第4代国王である
    ジョージ4世(在位1820~1830年)で、皇太子時代の名前がリージェント
    王子であるため、その功績を讃えてリージェンツ・パーク、リージェント・
    ストリート、ロワー・リージェント・ストリート等の名前が付けられた。

    国王になってからのジョージ4世はが始めたのは、バッキンガム宮殿の
    大改修であった。 バッキンガム宮殿は、英国王室の代名詞のようになって
    いるが、正式に宮殿になったのは、これより後のヴィクトリア女王が即位
    した1837年のことである。

    英国王のロンドン宮殿は、最初ウェストミンスター宮殿、次いでホワイトホール
    宮殿、セント・ジェイムス宮殿と変遷して来た。 バッキンガム宮殿は、元々
    バッキンガム公であるジョン・シェフィールドが1705年に建てた私邸を王で
    あるジョージ3世が1761年に王妃のために買い取ったもので、15人の子供のうち、
    14人がここで生まれ、クイーンズハウスとも呼ばれていた。

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    ジョージ4世は、建築家であるジョン・ナッシュに命じて、バッキンガム
    ハウスを荘厳な宮殿に建てかえることにした。 バッキンガム宮殿の構想が
    現実に向かって動き出すと、これをバネにして、ロンドン各地で色々な動きが
    始まった。 ジョージ4世は、建築だけではなく、芸術や文化にも理解があり、
    1822年に大英博物館が拡張された時も、その翌年にナショナルギャラリーが
    設立された時にも、そのスポンサーになった。 最後の7年間は、ウィンザー城
    に超一流の飾りや調度品を集め、ヨーロッパで最も素晴らしい宮殿のひとつに
    仕上げた。 トラファルガー広場には、ジョージ4世の騎馬像が建っており、
    ロンドン市民を見守っている。

    このような偉大な功績を残したのにも関わらず、ジョージ4世は国民からは
    かなり嫌われた。 父ジョージ3世の残した借金は桁外れで、1793年当事で
    40万ポンドに達しており、借金を棒引きにするために、従姉妹のキャロライン・
    オブ・ブルンスウィックと結婚した。 2人の間には長女シャーロットが
    誕生したが、その3ヵ月後には一方的に別居を宣言して、昔の愛人とよりを
    戻してしまった。

    その後、キャロラインとの仲はもつれにもつれて、国政を巻き込んでの
    大スキャンダルに発展した。 ジョージ4世が全力を傾けて取り組んだ
    バッキンガム宮殿の大改修だったが、ジョージ4世は、その完成を見る事なく
    1830年にこの世を去った。



    ジョージ4世の跡を継いで国王となったウィリアム4世は、長年海軍に所属
    しており、派手好きであった兄とは逆に、質素な性格で、バッキンガム宮殿
    には関心を持たなかった。 ウィリアム4世の死後、姪であるヴィクトリアが
    即位し、完成したバッキンガム宮殿に住み始めた。 しかし、最愛の夫である
    アルバート公が1861年に死去すると、ヴィクトリア女王は公の場を避け、
    ワイト島のオズボーンハウスや、ウィンザー城に住むようになったため、
    バッキンガム宮殿は、40年間に渡って、半ば閉鎖されたようになった。

    跡を継いだエドワード7世の時にようやく活気を取り戻し、増改築を繰り返して、
    ジョージ5世、ジョージ6世、エリザベス女王へと引き継がれて来た。 とりわけ、
    ジョージ6世が第二次世界大戦中にドイツ軍の空爆を何度か受けながら、この
    宮殿に踏みとどまって決意の程を見せた話は有名である。

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    カナダの先住民族であるファースト・ネーションズの祖先は、人類の南北アメリカへの
    移動に伴って、カナダへやって来た人々である。 数千年に渡る人類とこの地との
    関わり方は、ファースト・ネーションズの生活にもそのまま反映している。

    indiane

    16世紀にフランス人とイギリス人がカナダへやって来て、住むようになったが、彼らは、
    ファースト・ネーションズと交易をしたり、戦ったりした。 カナダという名前は、この頃に
    出来たもので、イロコイ族の言葉で『村』をを意味する『カナタ』が起源だと言われている。

    18世紀になると、フランスとイギリスが互いに戦うようになった。 イギリスが勝利したが、
    フランスの影響は、今でもカナダに色濃く残っている。 その後、世界各地からやって来た
    移民達も国家建設に貢献して来た。

    歴史学者によれば、最初にカナダにやって来た人達は、1万5,000年から3万年前に
    アジアと北アメリカを繋いでいた陸地を渡ってやって来たという。 それから、彼らは、
    次第にカナダ中に散らばって行った。 西暦1,000年頃に、スカンジナビアから来た
    バイキングが定住してたグリーンランドから、レイフ・エリクソンが、ニューファウンド
    ランドにやって来た。

    彼は、発見した土地を『ヴィーン・ランド』(ワインランド)と名付けた。 恐らく、その
    名前なら他の入植者をも引き付けるだろうと期待したのだ。 しかし、それ以降は、
    わずかな数のバイキングがやって来ただけで、入植は長続きしなかった。

    次にやって来たヨーロッパ人は、イギリス王国に雇われたイタリア人のジョン・カホットで、
    1497年の事であった。 帰国した彼がカナダの海は、豊富だと報告すると、イギリスと
    フランスの漁師は、こぞって漁に出向いた。 ヨーロッパ人は、カナダには、金が沢山
    あると思っていたが、実際に見つけたのは、魚、木材、毛皮といった、別の種類の
    宝物だった。

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    フランス人ハンター達が毛皮を求めて、カナダ内陸部を探検するようになり、カナダに
    『ヌーベル・フランス』という名の植民地を建て、アカディア、ケベック、モントリオールを
    入植地とした。 入植者達は、ヒューロン族や、他の部族と手を結び、強敵イロコイ族と
    戦った。 フランス人宣教師がキリスト教を広め、カナダで最初の教会が作られた。

    フランスがカナダ東部に入植し、ミシシッピ川に沿って、現在のアメリカの方へと南下して
    行く一方で、イギリスは、ハドソン湾周辺を探検していた。 ハドソン湾の名前は、
    1610年に船でここへやって来たヘンリー・ハドソンにちなんだものだ。

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    ヨーロッパで何世紀にも渡って対立して来たフランスとイギリスは、ここでもやはり争う
    事となった。 イギリス人農民とフランス人毛皮商人が土地問題で争いを始め、入植者、
    兵士、ヨーロッパの船員、そして、ファースト・ネイションズまでをも巻き込み、北アメリカの
    統治をめぐり、1689年から1763年までの間に4度の戦争を繰り広げた。 最後の
    戦いとなった七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)は、1763年に終わり、イギリス軍が
    勝利を治めてカナダの統治権を獲得した。

    【お勧めの一冊】


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