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    カテゴリ:西ヨーロッパ > イギリス・アイルランド

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    ローマ人が去った後、様々なゲルマン民族、特にアングル族とサクソン族が
    イギリス諸島を侵略し始めた。 ゲルマン民族の活動とケルト文化の復興に
    よって、ローマ文化は大部分ブリタニアから消え去った。

    アングロ・サクソン人の侵略に加え、6世紀半ばに伝染病が流行、ケルト人の
    人口が減り、ゲルマン人は今日のウェールズ、カンブリア、コーンウォール等
    西や北の端へ逃げた。6世紀後半、7人のアングロ・サクソン王がイングランドの
    地に、それぞれ王国を創った。 ケント、ノーサンブリア、東アングリア、
    マーシア、ウェセックス、サセックス、エセックスの7王国である。

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    この後597年、キリスト教の中心地、ローマからイングランドに宣教師が来て、
    アングロ・サクソン人にキリスト教を布教した。 ケントに上陸した宣教師一行の
    指導者が修道士アウグスティヌスで、ケント国王エセルバードを始め、多くの
    ケントの人々に洗礼を施した。

    エセルバードは、アウグスティヌスにカンタベリーの土地を与え、ここから
    キリスト教がイングランドに広まって行く。 やがて、他の6人の王もキリスト教を
    受け入れた。 キリスト教とアングロ・サクソン芸術は次第に融合、7王国の
    中でもノーサンブリアでその芸術は頂点に達した。 リンディスファーン修道院等で
    写本が作られ、ラテン語で書物も書かれた。

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    【マーシア、ウェセックスとバイキング】
    7王国に代わって、8世紀には強力なキリスト教国が力を伸ばした。 757年から
    796年まで勢力を広げたのは、オッファを指導とするマーシア王国(イングランド
    中西部)である。 オッファは、ウェールズとの国境沿いに『オッファの防壁』と
    呼ばれる長い堤を築き、西の国境を守った。 オッファの後を継いだマーシア王達は
    力が弱く、9世紀にはイングランド中央部から南西部に位置したウェセックスが
    最強の王国となる。

    ほぼ同時期に、優れた航海技術と戦闘技術を持ったバイキングと呼ばれる冒険
    好きの民族がイングランドに攻撃を仕掛けた。 この民族は、スカンジナビア
    地方の民族で、973年にリンディスファーンを略奪、また、別の攻撃で、790年代
    には、ウェセックスを襲撃した。

    海賊行為を繰り返した後、デンマークのバイキングはウェセックスを襲った。
    イングランド周辺に定住し、貿易が出来るようにイングランドを征服しようと
    したのだった。 だが、878年の春ウェセックスのアルフレッド王が、
    グートルム王率いるデンマーク軍をエディントンで破り、886年アルフレッド王と
    グートルム王は、それぞれの王国の国境を定め、イングランド北東部の大半が
    デンマーク領となった。

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    イギリス諸島は、元からヨーロッパ大陸とは離れていたと思われていたが、
    4万年前は、地続きであった。 紀元前5000年に最後の氷河期が終わり、氷が
    溶けて水位が上がったため、大ブリテン島とヨーロッパ大陸の間に狭い海峡が
    生まれ、イギリスは島国となった。

    当初、大ブリテン島に住んでいたのは、大陸からやって来た人々であった。
    彼らは、石や骨格製の道具を使って巨大な森林を開き、農耕を営んだ。

    紀元前3000年頃にヨーロッパから新たな人々が移住し始め、紀元前2000年前後
    には、今日のドイツから大集団がやって来た。 彼らは、青銅器を使い、石や
    木でヘンジと呼ばれる円形の祭場を作った。 ストーンヘンジはそのひとつで、
    南イングランド中央部のソールズベリーに現存する。

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    約1500年後には、また新たな人々が移住して来た。 ケルト人と呼ばれる
    好戦的な彼らは、北ヨーロッパ出身で、鉄製武器を使い、やがて大ブリテン島を
    征服した。 ケルト人は、クランと呼ばれる氏族に分かれ、氏族間で権力を争った。
    落ち着くと、農耕を営み、紀元前500~100年には、イングランドは農業国
    となった。 言葉はクランで共通のケルト語を使った。

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    【ローマ時代】
    イングランドは、ヨーロッパ本土とは海で隔てられていたため、イタリアに中心
    勢力を持つローマ帝国の支配力は及んでいなかった。 しかし、紀元前55年には、
    ローマ軍指令官ジュリアス・シーザーがイギリス海峡を渡り、短期間だけだが
    イングランド南東部を襲撃、翌年更に大きな軍隊を率いて来た。

    ケルト人は、必死に抵抗したが、ローマ軍に敗北した。 シーザーは、和平条件を
    示したが、ケルト人はフランスの地で反逆活動を行い抵抗した。 シーザーは、
    イングランド支配を諦め引き上げた。

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    紀元前43年、ローマ皇帝クラウディウスは、軍隊をイングランド南東部に出動
    させた。 ケルト人は、ボアディケア女王を中心に、激しく抵抗したが、奮戦
    むなしく、1世紀末には、島を征服された。 ローマ人は新しい領土をケルトの
    1クラン、ブリトンにちなんで、ブリタニアと名付けた。

    征服者となったローマ人は、イングランドに道路を敷き、砦や都市を築いた。
    紀元後120年代には、ローマ皇帝ハドリアヌスの指揮の下、ローマ人は制圧
    出来なかった大ブリテン島最北の民族がイングランドへ侵入するのを防ぐために、
    『ハドリアヌスの長城』と呼ばれる城壁を築いた。

    ローマ支配が進むにつれて、ラテン語がケルト語に入り込んだ。 3世紀には、
    ローマ人宣教師がキリスト教布教のために来島した。

    文化的には強い影響力を持っていたのだが、ローマ帝国は、4世紀には崩壊し
    始めた。 ローマ軍司司令官や貴族達が権力争いをし、ローマの領地に及ぶ
    支配力が弱まった。 イングランド駐屯のローマ部隊は、帝国の他の地域を
    防衛するためにブリタニアを去った。

    4世紀後半、大陸ではゲルマン人達が反抗していたが、ローマ人は強いて鎮圧し
    ようとはしなかった。 5世紀半ばには、ローマはブリタニア支配を放棄していた。

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    イギリスの首都であるロンドンは、イングランドの首都でもあり、イングランド
    南東部にある。 ロンドン市と郊外を合わせてグレーター・ロンドン
    (大ロンドン)と呼び、人口は約820万人以上となっている。  ロンドンには
    2000年以上も前から人が住んでいた。 古代にはラテン語で、ロンディニウムと
    呼ばれるローマ人の町だった。 5~14世紀まで続いた中世には、活発な貿易都市
    として栄えた。



    ロンドンの現在の中心地は、シティ・オブ・ロンドンまたはシティ)と呼ばれ、
    紀元前1世紀、ローマ人が住み着いたのはここである。 今はイギリスの金融
    機関が軒を並べ、また、近代的なビルの間にセントポール大聖堂やイングランド
    銀行等、由緒ある建築物がある。

    国会議事堂等の政治の中心やショッピング街、歓楽街もロンドンの中心部にある。
    近年、開発によって、海軍造船所があったところ(かつてロンドンの大商業活動の
    中心地)は、印刷工場、商店、レストラン、事務所、高級住宅街等に姿を変えた。
    これkらの地域の他、大ロンドンには、活気ある地域や、歴史的に有名な地域が
    あり、多様性に富んでいる。

    首都ロンドンを取り囲んでいるのが『グリーンベルト』と呼ばれる緑地帯で、
    ロンドンが広がり過ぎないように作られた。 市の住宅課には、グリーンベルトの
    外にあるニュータウンに住宅を確保し、低所得者層をロンドン中心部を取り囲む
    スラム街から移転させた。 だが、ロンドンには多くの都市と同じように、過密、
    犯罪、貧困という問題に直面している。 外国人移住者達の間で暴力事件が起きて
    いる自治区も多い。

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    【イングランドのその他の都市】
    ロンドンはイングランド最大の都市だが、他にも人口の多い都市がある。 多くは
    19世紀の産業革命によって、産業が拡大し、就職口が増え、労働者を引き寄せ、
    人口が急増する形で発展して来た。 このうち6つの都市(バーミンガム、
    マンチェスター、リーズ、リバプール)は、1974年のイングランド地方制度改革
    により、周辺の都市群を含めて特別都市とされ、州と同格になった。

    バーミンガム(人口100万人)は、12世紀に既に産業が興り、19世紀には、天然
    資源のうち石炭と鉄鉱石の鉱床があったことで、重要な製造業の中心となり、
    人口が激増した。 第二次世界大戦(1939~1945年)では、大爆撃を受けたが
    再建され、更に発展した。 主な産業は、自動車、電子機器、機械である。

    マンチェスター(人口約49万人)は、19世紀に繊維産業の中心地になった。
    マンチェスターシップ運河によってマージー川と結ばれ、大型貨物船も運航出来る
    ようになった。 また、金融業も盛んで、国際空港もあり、他の都市への鉄道の
    接続も良い。 特に化学製品、衣料、コンピューター、食料、機械、電子機器が
    作られている。

    リーズ(人口約71万人)は、毛織産業の中心地で、イギリスの毛織産業や化学
    繊維の多くは、ここで生産される。 イングランド北部の中心地、エア川沿いに
    あり、エア川は運河でリバプールに繋がっている。 14世紀に毛織産業の要として
    建設されたが、今日では、工業、文化、教育分野のイングランド北部における
    中心地ともなっている。リーズ大学は、イギリス最大の高等教育機関のひとつ
    となっている。

    マンチェスターの西にあるのがリバプール(人口約44万人)で、アイリッシュ海に
    面するイングランドの主要港がある。 しかし、第二次世界大戦で埠頭が大被害を
    受けてからは、寂れている。 失業率は高く、港湾設備は不十分だが、それでも
    リバプールは港による収入に頼るしかない。 他にも、自動車組み立て工場、
    製粉所、精糖所等がある。 1960年には、ポピュラー音楽に革命をもたらした
    ビートルズの本拠地として有名になった。

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    イングランドは、ヨーロッパにあるイギリス(正式名称は『グレートブリテン及び
    北部アイルランド連合王国』)の中の一地域を指す。 グレート(大)ブリテンは、
    イングランド、スコットランド、ウェールズの3地域から成り、北アイルランドは、
    大ブリテンの西にあるアイルランド島の北端の部分を占めている。 イングランドは
    イギリスを構成する4地域の中では、一番広い。

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    この4地域は以前はそれぞれひとつの国であったが、1707年に統一されて連合王国と
    なった。  連合王国の歴史も波乱に満ちているが、4地域それぞれもまた独自の
    歴史を誇っている。 紀元前約500年頃から紀元後1066年の間に、ケルト人、
    ローマ人、アングロ・サクソン人、デーン人、ノルマン人等が断続的に
    イングランドに侵入し、今日まで受け継がれている法律、王室政体、文学、
    言語等を形成した。

    イングランドは、地理的条件が良く、港が多いため貿易が盛んで、1850年代までは
    6つの大陸にまたがる大商業帝国の中心であった。 ところが、20世紀の2回に渡る
    世界大戦と国際競争の激化により、市場の縮小を強いられた。 しかし、
    イングランドは鉄鋼業から電子工業へ、また、織物業からプラスチック工業へ移行
    することで苦境に対応して来た。 この他、経済等の政策において、互いの利益を
    与えるEUの一員として、ヨーロッパの他の国々と協力しながら時刻の発展を
    図っている。

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    とは言え、イングランドの将来には、不安な要素があることも確かだ。 例えば、
    1980年代に繁栄した南イングランドと、逆に衰退した北イングランドとの亀裂が
    広まっており、北イングランドの失業率やインフレが高くなっている。 また、
    2016年6月のEU離脱に関する国民投票においても、EU離脱派が勝利し、現在、
    イギリス国内では、混乱が続いている。

    更に、かつでのイギリス植民地であった国々やEUの住民がイングランドに大量に
    移住して来ており、これらの人々が仕事や社会福祉を奪っていると考えている
    人もいる。 不況の影響を直接受けているところでは、人種差別による暴力事件も
    起きており、最近では、移民の中で最も数が多いとされている、ポーランド系
    移民にその怒りの矛先が向けられた。 更には、EU残留派が勝利している
    スコットランドでは、EU残留を求めて、イギリスからの独立が囁かれている。

    EUからの離脱を巡って、今後もしばらくは世界市場経済では混乱が続くと
    思われるが、例えイングランドがEUから離脱するにしても、残留するにしても、
    国民が納得出来る結果にして欲しい。

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    6月24日の国際金融市場では、英国の国民投票で欧州連合(EU)からの離脱が
    確定したことを受けて、世界経済への悪影響に対する懸念が高まり、株式が
    投げ売りされる一方、安全資産とされる円や国債を買う動きが急速に進んだ。

    日経平均株価の終値は前日比1,286円33銭(7.9%)安の1万4,952円02銭と暴落し、
    約1年8カ月ぶりの安値水準になった。 アジアや欧州の株価も急落し、
    『英国ショック』をきっかけに世界同時株安の様相を呈してきた。

    東京株式市場では、英国のEU離脱を機に欧州の景気が停滞し、世界的に経済
    成長が鈍化するとの見方が広がった。 トヨタ自動車や三菱UFJフィナンシャル・
    グループなど主力株を中心に、東証1部銘柄の99%が下落。 日経平均の下げ幅は
    一時1,300円を超えた。

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    開票が進みEU離脱派優位が鮮明になるにつれて、『予想が外れた投資家が売りを
    急ぐ流れになった』(インターネット証券)。 午後には株価指数の先物取引を
    一時中断する『サーキットブレーカー』が発動されたが、投資家の動揺は収まら
    なかった。
     
    欧州株式市場では、ロンドン時間午前10時ごろの時点で、英FT100種平均株価
    指数が前日終値比5.20%安。 仏CAC40種指数は8.40%安、ドイツ株式主要30銘柄
    指数(DAX)が6.97%安となった。 米国の株式先物市場も大きく売り込まれて
    いる。
     
    東京外国為替市場では、円相場が急騰。 一時約2年7カ月ぶりに1ドル=99円台を
    付けた。 ロンドン時間午前9時現在は102円90銭~103円00銭と、前日午後4時比
    2円75銭の円高・ドル安。
     
    円は対ユーロで同時刻現在、1ユーロ=114円80~90銭と、5円15銭の円高・
    ユーロ安。 対ポンドで1ポンド=140円95銭~141円05銭(前日午後4時ごろは
    156円台)。

    東京債券市場では、長期金利の指標となる新発10年物国債の流通利回りが一時、
    前日比0.070%低下(債券価格は上昇)のマイナス0.215%と、過去最低になった。

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    イギリスは当初、主権を中国に返還しても、行政権をイギリスが持ち続ける
    という方式も考えていた。1982年9月24日、北京の人民大会堂で、マーガレット・
    サッチャーは鄧小平との会談に臨んだ。 フォークランド紛争に勝利して自信に
    満ちたサッチャーは、意気揚々と北京に乗り込んだが、そこで手痛い挫折を
    味わった。

    イギリスが香港を条約によって正式に得たということ、香港の繁栄はイギリスが
    築いたということを堂々と主張するサッチャーに対して、鄧小平は大いに怒り、
    『爆撃しろ』という言葉も吐いたという。

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    サッチャーが香港に関するイギリスの法的な立場を強調したことに、鄧小平は
    一向に関心を示さなかったという。 中国人の目から見れば、イギリスが香港
    統治の根拠としている南京条約・北京条約・新界租借条約は、強制しされた不平等
    条約であり、中国人としては香港を取り戻すことはナショナリズムに触れる問題
    であった。

    この後両国は交渉を重ねるが、結局イギリスは香港統治の継続を断念し、1984年
    12月19日に中英共同声明が正式調印され、イギリスは1997年7月1日に香港を中国に
    返還すること、そして返還後の香港では『一国二制度』が実施されることが約束
    され、香港返還問題は決着を見た。

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    尚、1997年に租借期限を迎えたのは、新界地区のみであり、期限なしで割譲された
    香港島と九龍半島については、理論上この日を期限とする必要はない。 しかし、
    香港の発展はこの三地区を跨いで進められており、道路や地下鉄網だけではなく、
    啓徳空港の滑走路も新界と九龍の双方に跨っているため、新界のみを返還するのは
    事実上不可能であり、全ての香港が一括して返還されることになったのである。

    中英両国は、全ての香港の返還に基本合意したが、1984年の共同声明調印から
    1997年の返還までの過渡期と言われる時期の香港政治は波乱万丈であった。 特に
    民主化問題を巡って、両国は対立を繰り返した。 1997年の返還自体は、
    スムーズに行われ、『一国二制度』方式の実践が始まった。

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    香港は、『借りた場所で借りた時間を』過ごしていると言われる。 イギリスが
    1898年に新界を租借した際、その期間は99年間とされた。 すなわち、1997年
    以降、香港の地位がどうなるかについては、長い間議論がなされていなかった。

    1970年代になると、香港の将来問題が本格的に浮上して来た。 1971年着任の
    クロスフォード・マクルホース香港総督が、香港の社会福祉を急速に拡大した
    背景には、1967年の香港暴動に対する反省も言われるが、新界租借期限が迫る
    中で、中国よりもあらゆる面で優れている統治を行い、中国との交渉を有利に
    するためという、イギリスの外交政策の目的のためでもあったという。

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    イギリスは、1997年以降も香港の統治を続けることを希望していたが、中国は、
    香港の回収を目指した。 1971年11月、中華人民共和国は長年の努力の末、台湾の
    中華民国に変わって国連代表権を得た。 すると翌年1972年3月んみ、中国は
    香港について、イギリスに占領された中国の領土であるとの立場を明確化し、
    国連の植民地リストから香港とマカオを削除するよう求めた。 1979年3月、
    マルクホース香港総督は初めての香港総督の公式訪問という形で北京を訪問したが、
    その際、中国の最高指導者であった鄧小平は、イギリスの香港統治の継続を明確に
    受け入れることはせず、香港を回収する可能性をほのめかした。 しかし、
    マルクホースは、香港の動揺を恐れ、香港に戻ると『投資家は安心して良い』
    という鄧小平の伝言のみを発表した。

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    中国はこの頃、台湾問題の解決の手段として、社会主義中国の中で、一部地域に資本
    主義の政治、経済、社会等の体制を残すという『一国二制度』方式の原型を構想し
    初めていた。 1979年元日、中国はアメリカとの国交を正常化した。 これと
    同時に、中国は台湾に対して、『台湾同胞に告げる書』と題する公開書簡を発表し、
    台湾問題の平和解決、現状を重視した現実的な統一政策を提案していた。

    1982年に改正された新憲法では、特別行政区を設置出来るとの条項が追加された。
    台湾の統一問題が進展しない中、中国はまず香港で『一国二制度』を実践し、これを
    モデルケースとして示すことで、台湾を統一に導こうと考えたのである。

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    戦後の香港は、著しい経済発展の時代でもあった。 戦前の香港の主要産業
    であった中国大陸との中継貿易は、共産党政権の誕生によって、大きな打撃を
    受けたが、大陸から香港に来た資本家が工業を興し、難民がこれに労働力を提供し、
    香港はやがて台湾、韓国、シンガポールと共に『アジア四小龍』と称される。
    新興工業経済地域(NIES)に数えられるようになったのである。

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    しかし、庶民の生活は苦しく、植民地支配の下、政府の福祉や弱者対策も不十分
    であった。 このため、1960年代までの香港では、暴動も頻発した。 1956年の
    九龍半島と新界の工業地区での暴動は、戦後初めてのものであり、10月10日の
    中華民国の建国記念日に、公共住宅に中華民国旗を掲げることへ不満を持った
    親国民党の派閥が起こした右派暴動であった。 1966年4月6日には、香港島と
    九龍を結ぶ庶民の足『スターフェリー』の値上げに反対する運動が暴動化した。

    中でも大規模なものは、大陸の文化大革命の影響を受けた左派系の派閥が主導した、
    1967年の暴動であった。 同年5月、九龍の造花工場の労働闘争が、香港政庁批判の
    政治運動と化した。 これを背後で共産党組織、広東省の紅衛組織が支援し、
    暴動化した。 8月には左派は、時限爆弾によるテロを開始し、半年以上の
    混乱の中、政府公表で死者51人、負傷者848人、逮捕者は5,000人以上、秘密裏に
    大陸に追放された者多数という悲劇を産んだ。

    これにより、香港の左派は、大きく信用を失ったが、同時に香港政庁もこれまでの
    高圧的な統治への反省を迫れらた。 1970年代になると、『中文公用語化運動』や
    『保釣運動(尖閣諸島の防衛)』など、地元意識の高まりを象徴する学生運動が
    多発した。 イギリスの労働党政権も、香港の福祉の充実を香港政庁に対して
    求めた。

    政庁と市民は、それまで政庁が政権を独占し、地元市民の生活は、半ば放置された
    ような状態にあったが、経済、社会の発展に伴い、相互に要求を伝えたり、民意を
    聴衆したりする必要性を認識した。 民主化は行われなかったが、香港政庁は、
    詰問などの仕組みを通じて、民意を汲み取ることに努めた。

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    冷戦下での大陸の共産党政権と台湾の国民党政権の対立を前に、香港では、
    その政治的影響を食い止めるための様々な処置が採られた。 1949年5月には、
    社団条例が制定され、香港で活動する全ての社会団体に登録を義務付け、
    政治活動と香港以外の団体の香港支部の活動を禁止した。 これによって、
    香港では、共産党、国民党共に非合法ということになった。 社団条例に
    基づき、1949年11月には、38の共産党系の合唱団、劇団、学会等が解散を
    命じられた。

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    また、戦前の自由往来から転じて、中英国境は封鎖された。 1949年1月の人民
    入境統制条例は、大陸からの反乱を扇動したり、公共の安寧を乱したりする疑いの
    ある者を入境させることを禁じた。 1950年5月1日以降、香港政庁は、大陸から
    香港に入る中国人に対し、香港政庁発給の『旅行証明書』の取得を義務付けた。
    このように、戦後大陸と香港の相互往来は厳しく制限され、両地の分断状態が
    出現した。

    大陸は社会主義大国の、香港は資本主義の植民地統治の下に置かれ、それぞれ
    全く異なる政治、経済、社会の構造を築き上げて行った。 台湾と同様に、
    香港でも、香港・マカオ以外の共産党政権下の中国全土を『中国大陸』や
    『大陸』と呼称して、自身とは区別するようになった。

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    それでも、分断の有無に関わらず、大陸から香港への人口流入は戦後ずっと
    続いた。 終戦時には、60万人であった人口は、良く1946年には100万人を
    回復し、1950年末には、200万人に迫り、その後も、およそ10万人のペースで
    増加が長く続いた。 香港政庁の難民政策は、比較的寛容で、1980年までは、
    市街地にたどり着いた不法入境者は、強制送還しない政策が採られた。 このため、
    合法的な移民のみならず、戦後すぐには共産党と国民党の内戦、中華人民共和国の
    建国後は、大躍進運動や文化大革命等に代表される大陸の政治的混乱から逃れて、
    多くの中国人が難民となって、密航等の海陸の困難なルートを通って香港にやって
    来た。

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    1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して、連合国に無条件降伏した。
    戦後香港を中華民国が統治すべきか、イギリスが植民地支配を再開すべきを
    めぐっては、両国の間に意見の相違があった。 中華民国の蒋介石は、1943年の
    カイロ会議で、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領から、戦後
    中華民国が香港を統治することへの同意を取り付けていたが、イギリスの
    ウィンストン・チャーチル首相は、イギリスが統治を回復すべきだと考えていた。
    この考えは、ルーズベルトの後を受けたハリー・トルーマン大統領に支持された。
    結局、9月16日、イギリス政府が日本軍の降伏を受ける形となり、イギリスの
    香港統治が再開された。

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    中国大陸の内戦は、徐々に共産党に有利に展開し、1949年10月1日には、共産党は、
    中華人民共和国の成立を宣言した。 南下して来た共産党軍は、10月17日には
    香港との境界である深圳に達した。 共産党は香港を軍事的に攻略する能力を
    備えていたとされるが、結局、香港に侵入する事はなかった。 中国は周恩来が
    提起した『長期的に考え、充分利用する』との方針に基づき、即時に領有する
    ことは目指さず、イギリスに香港統治を続けさせ、外貨の供給源や貿易の窓口
    として、香港を活用しようとしたのである。

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    こうして、戦後もイギリスは香港を統治し続けることになったが、中国によって
    香港が軍事『解放』されるようなことがないために、イギリスは中国を刺激する
    ことを避けざるを得ず、このとは、ロンドンや香港政庁の政策の幅を制限した。
    イギリスは、1950年、西側主要国としてはいち早くから中華人民共和国を
    承認した。

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    イギリス人は、香港を自由貿易港とし、一切関税を掛けなかったため、香港は
    アヘン貿易の中継地としての役割を果たすようになり、それまで広州、マカオで
    中国との交易に従事していた多くの商社が香港に拠点を構えた。 更に中国大陸
    からも、沿岸部を荒らしまわっていた海賊や、アヘン戦争の際にイギリス軍へ
    食料を提供したために、清朝側から敵視された人々等、多くの人達が香港へと
    移り住んだ。 このように、イギリスへの割譲初期の香港は、にわか作りの
    移民社会といった様相を呈していた。

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    1850年代に入ると、香港社会は、中国内外の新しい動向に大きな影響を受ける
    ようになる。 当時、中国国内では大勢の人達が、太平天国による戦乱を避ける
    ために住み慣れた土地から離れることを余儀なくされていた。 一方、アメリカ
    西海岸やオーストラリアでは、ゴールドラッシュにより、鉱山経営者が安価な
    労働力を大量に求めていた。 こうした事情が重なり、中国から香港を経由して
    アメリカやオーストラリアへ移住する人が急増した。

    移民の大半は、男性の肉体労働者であり、欧米の商社が運行する輸送船で渡航先
    まで運ばれて行った。 こうした移民の中には、斡旋業者によって騙された者も
    多く、輸送中の死亡率も高かったことから、香港政庁は1860年代に入ると、
    移民船への監視体制を強化したが、実情はなかなか改善しなかった。

    香港を通じた移民の流れは、1870年代後半以降、北米やオーストラリアにおける
    排華運動の高まりや、華人の移民に対する規制の強化に伴い、当時欧米列強の
    植民地開発が進行していた東南アジアへと向かうようになる。 そして、華人の
    活動範囲が広がるにつれて、香港は北米、および、東南アジア各地と中国との
    間の人、物、金の流れを結ぶ結節点としての役割を果たすようになった。

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    1930年代には、日中間の武力衝突が香港社会にも影響を与えるようになり、
    とりわけ、1937年に始まった日中戦争の拡大は、中国大陸から香港へ避難する
    人々の数を増加させた。 太平洋戦争が勃発すると、日本軍は香港にも侵攻し、
    同地を1941年12月25日に陥落させた。 以後3年8ヶ月に渡り、香港は、日本軍の
    統治下に置かれた。

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    18世紀後半から、広州で交易を行うようになっていたイギリス東インド会社は、
    やがてインド産アヘンを中国に密貿易するようになり、三角貿易が行われる
    ようになった。 1810年代には、中国沿岸にイギリスの貿易拠点となる地を獲得
    するべきだとする声がイギリス東インド会社の中から上げるようになった。
    同時に、1830年代までには、香港島と九龍半島の間の海峡は、天然の良港を
    推する外国商船の格好の停泊地として承認されるようになる。

    以後、イギリスの貿易拠点ないし、植民地としては、他の島々の名前も取り沙汰
    されるが、1830年代には、広州で貿易に携わる商人達の間で、香港島の獲得を
    望む声が高まっていた。 そして、清朝によるアヘン戦争の最中、イギリス軍は、
    香港島を占領するのである。 ここから、香港としての歴史が始まる事となる。

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    香港島に初めてイギリスの旗が翻ったのは、アヘン戦争の最中である1841年の事で
    あるが、翌年に締結された南京条約により、香港はイギリスへ割譲される事が
    決まり、1943年には、イギリスの直轄植民地となった。 この時にイギリスの
    植民地となったのは、実は、香港島のみで、九龍半島が先端部の割譲は、第二次
    アヘン戦争後に英中間で北京条約が結ばれた1860年の事であった。

    但し、この時点で、香港特別行政区の過半を構成する新界と香港島周辺は、まだ
    清朝の統治下にあった。 これらの領域がイギリス領に編入され、現在の香港が
    形成されたのは、1898年の事であった。

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    香港島、および、九龍半島先端部とは異なり、イギリスは、新界、および、香港島
    周辺の島々を清朝から99年間に渡り租借しただけだった。 よって、その99年後の
    1997年に香港は、イギリスから中国へと返還された。

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