横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    カテゴリ:西ヨーロッパ > イギリス

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    英ロンドン西部の24階建て高層住宅で14日未明に発生した大規模火災で、近隣
    住民らは、安全性への懸念が以前からあったにもかかわらず、富裕層が住む地域
    ではないため無視されてきたと、憤りをあらわにしている。

    火災が起きたグレンフェル・タワーの入居者団体の元会長、ダミアン・コリンズ氏は
    AFPの取材に対し、住民らは昨年完了した同タワーの大規模改装の対処について
    地元議会に苦情を申し立てていたと説明。「私たちは、実際に悲劇が起きないと
    皆の目は覚めないし、ビル管理者が責任を問われることもないと言っていた」と
    述べた。

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    コリンズ氏によると、入居者らは建物内の火災非常口が足りないことを特に懸念
    していた。 また、暖房と照明システムにも欠陥があり、改善を求める2015年の
    請願書に住民の90%が署名したが、それも無視されたと述べた。

    グレンフェル・タワーは1974年建築のコンクリート製高層ビル。昨年、総額870万
    ポンド(約12億円)の改装を終えたばかりで、住民はこの改装の際に使われた
    新たな外装材が火事を広げた原因となったと批判している。

    近隣住民の男性(46)は、同地域の住民は自力に頼ることが習慣になっている
    と語る。 男性は住民が過去に何度も苦情を申し立てていたことを指摘し、
    「もしこれが(高級地区の)ナイツブリッジ近くで起きていたら、既に解決し、
    問題にはならなかっただろう」と述べた。

    この建物は公営住宅として造られた。大部分が高級地区となっているケンジントン&
    チェルシー王立区内の労働者階級地域に位置するが、同地域は急速に高級化
    している。

    住民団体「グレンフェル・アクション・グループ」のメンバーで、自身も長い間
    苦情を申し入れ続けていたというエディーさん(55)はAFPの取材に対し、
    タワーの基礎構造に特に懸念を抱いていたと説明。この構造により、消防車の
    通行が阻害されたと主張した。

    「これは大量殺人であり、責任者はこのコミュニティーに対する扱いについて、
    裁判にかけられるべきだ」(エディーさん)

    出典: AFP

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    ハイドパークは、ヘンリー8世が鹿狩りのためにウェストミンスター寺院から
    入手したものであり、その最古の一角は、イーバリー卿の荘園跡であった。
    この荘園は、広さが当時の土地の単位で1ハイドであったことから、これが公園の
    名の由来となったと言われている。

    ハイドパークは、ウェスト・キャリッジ・ドライブと呼ばれる道路1本を隔てて
    ケンジントンガーデンはと一続きになって、ロンドンの真ん中に広大な緑地を
    提供している。 ケンジントンガーデンは、元々、ハイドパークの一部であった
    ものを1689年にウィリアム3世と王妃メアリとがケンジントン宮殿に移り住んだ
    際に、ハイドパークから分離して造ったものである。

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    ハイドパークはまた、1851年には万国博覧会が開催された事でも良く知られて
    いるが、とりわけ有名なのは、公園の北東角のマーブルアーチとスピーカーズ
    コーナーである。 現在、マーブルアーチの建っている近くには、18世紀まで
    タイバーンの処刑場があり、見せしめのために残酷な処刑が行われたが、人々は
    あたかも見世物でも見物するかのようにそうし絞首刑を見に行った。

    19世紀半ば頃からハイドパークは、労働者たちの集会の場所となっていたが、
    そのような中デスピーカーズコーナーは自由な演説と集会の保証された場所と
    考えられるようになり、イギリスの言論の自由を体現した象徴的な場所であると
    考えられた。 かつては、マルクスやレーニンといった革命家やジョージ・
    オーウェルなどのジャーナリストなどもスピーカーズコーナーで演説をした事が
    あるが、現在では、日曜日に脚立や木箱を演台にして色々な人が好き勝手な
    話をしており、それを観光客がとりまいて面白がっている光景が見られる。

    Hydepark1

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    英語の歴史は1500年以上にも及ぶ。 5世紀にアングロ・サクソン人たちによって
    イングランドにもたらされた英語は、イングランド全域に定着するだけでも1000年
    以上の歳月を要している。 イギリス諸島を離れて本格的に海外進出を始めたのは
    17世紀初頭になってからのこと。

    英国史上に残る様々な出来事は、英語の伝播においてもターニングポイントと
    なった。 1066年のノルマン征服を境にアングロ・サクソン人による支配が
    終わりを告げ、フランス出身の王たちがイングランドを支配するようになる。
    フランス語およびラテン語が公的な言語となり、標準語として徐々に発達しつつ
    あった英語は、一転して庶民の使う日常語という地位に甘んじることになった。

    しかし英仏百年戦争(1337~1453)によって、フランス語への敵意と、英語が自国語
    であるという意識が芽生えてくる。そして16世紀頃になると宗教改革が起こり、
    格調高いが専門家しか理解できないラテン語の書物よりも、多少拙くとも誰にでも
    わかる土着語による書物が重んじられ始めた。 さらに印刷技術の普及も相まって
    英語の「社会進出」は加速して行く。 

    そんな個々のプロセスから、さらに一歩視点を下げて大きな流れを見て行くと、
    他の言語から取り入れられた「借用語」が英語発展の鍵になっていることがわかる。

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    英語で洗練された文章を書こうとすると、語彙不足のために満足な表現ができない
    ことが度々あったため、表現力不足を解消する1つの方法として作家や翻訳家たちが
    行っていたのが、外国語から語彙を借用することだった。

    フランスからの借用語は政治や宗教、軍事、ファッション、食文化、学問などに
    関するものが多く、ギリシア語は専門的で高度な語が多い。 ラテン語は借用の
    時期によって傾向が全く異なる。 至るところで、おなじみの単語の意外な
    ルーツに出くわす。 語彙の乏しさによる劣等感をバネに、英語が他の言語を
    巻き込みながらうねるように広まっていた様子が分かる。

    国際標準語として不動の地位を確立した英語。 メインの言語として話す
    「母語話者」がいない会話でも使われるほど、その影響力は大きい。だが元を
    辿れば、英語にも北ヨーロッパの片田舎で使われる言語に過ぎなかった時代がある。

    オランダやドイツの一部地域で使われる、フリジア語という言語があるそうだ。
    現在の話者は約50万人で、そのほとんどがオランダ語あるいはドイツ語との
    二言語併用者である。 実は、フリジア語と英語それぞれの元になった言語は、
    隣り合う地域で使われる方言同士だった。 英語史を勉強すると、英語と最も
    系統の近い言語としてフリジア語の名が出されるという。

    地理的にも言語的にも事実上同じところから出発したと言っていいような言語が、
    片や世界的な存在に、片や母語話者もほとんどいない状態になっているのは、
    英語史を紐解く上で、非常に興味深い。

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    【古英語とバイキングの侵入】
     現代英語の元となった古英語は、実は、アングル族が持ち込んで来た言語
    であり、アングロサクソン人が1100年頃まで使っていた言葉である。 つまり、
    系統的には、インド・ヨーロッパ語族の中の西ゲルマン語群に属する言葉と
    なっている。 現代英語の基礎的な単語は、その殆んどが、アングロサクソンの
    言葉であると考えて差し支えない。

    やがて、紀元前597年には聖オーガスティンがケント州からキリスト教の布教を
    開始、イギリスがキリスト教化するに伴って、キリスト教に関連した多くの
    ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語起源の語彙が英語の中に入って来た。

    8世紀に入ると、バイキングと呼ばれる人々がスカンジナビアからイギリスへと
    侵入して来る。 彼らもまた、ゲルマン民族の一派であったが、彼らの言葉は
    同じゲルマン語でも北ゲルマン語群に属していた。 彼らは先住のアングロ
    サクソン人と激しい戦いを繰り広げた後、ローマ人の築いたウォトリング街道の
    北東部に定住することとなった。 その結果、その地域は、デーンロー地域と
    呼ばれ、現在もスカンジナビア起源の地名が残っている。 現代英語の中にも
    900語ほどスカンジナビア起源の語彙が残っている。

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    【フランス語の侵入】

    バイキングは、フランスのノルマンディーに国を建て、彼らは、やがて文化的には
    フランスに融合し、言葉もフランス語を用いるようになって行った。 1066年
    には、ノルマンディー公ウィリアムが、イギリスに侵入し、ヘイスティングスの
    戦いにおいて、ハロルド王を打ち破ってイギリスの王位に就いた。 いわゆる、
    ノルマン征服王朝の成立である。 この時、ウィリアムは、国政と宗教の主な
    ポストには、全てフランスから連れて来た家臣をあてたので、以後数世紀に
    渡って、イギリスの重要なポストには、フランス語を母国語とする人々で占め
    られることとなった。

    国王も例外ではなく、ハロルド王以後は、ほぼ300年の間、英語を用いる王は
    居なかった。 そして、この間に、英語は実に多くのフランス語の語彙が入った。
    それは、ちょうど今日の日本語に、本来、日本語にあった大和言葉と漢語と
    呼ばれる中国語が混在している状況と良く似ている。 日本語の中に漢語に
    あたるものが英語ではフランス語やラテン語となっている。

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    【英語の復活から世界支配へ】

    しかし、ウィリアムと共にイギリスへ渡って来た支配階層も、時が経つに連れて、
    土地の女性と結婚し、生まれて来る子供の世話をする乳母にも土地の女性を雇う
    などしているうちに、次第にフランス語を失って行った。 やがて、13世紀に
    入ると、中世英語で書かれた詩なども出て来るようになり、1337年にフランスとの
    間に百年戦争が起こると、英語に対する意識が急激に高まり、1362年には、議会の
    開会宣言が初めて英語で行われた。

    やがて、15~16世紀になると、現在の英語に近い近代英語が成立し、
    シェイクスピアを初めとする英文学史上でも良く知られた人々の活躍が始まる。
    ちょうどこの頃、ヨーロッパでは大航海時代が始まり、コロンブスがアメリカ
    大陸へ到達し、やがて英語を話す人々は、北アメリカ大陸へも移住を始めた。
    こうした歴史を反映して、アメリカの英語の中には、実は、シェイクスピアの
    時代のイギリス英語に近いものが残っていることがある。

    もちろん、近代的なテクノロジーや音楽、映画などの娯楽産業、それに政治、
    経済の先進国であるアメリカで生まれた言葉がイギリスに逆輸入されることも
    多いが、現代アメリカ英語の発音や、日常会話の語彙の中には、イギリスの
    この時代の発音や語彙が残っていることがあり、人々は、それとは知らずに
    使っていることが良くある。

    近代に入ってイギリスが広大な植民地を建設した結果、英語はアメリカ大陸のみ
    ならず、アジアやアフリカからオセアニアまで世界中の広い地域で使われるように
    なった。 そして、現在では、互いに英語を母語としない人々の間でも国際的な
    共通語の言語として使われている。

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    【英語はドイツ語の兄弟】
    今や英語が国際語であることを疑う人はいない。 それどころか、子供を国際人に
    育てると証して、何の疑いもなく小学生から英語教育を行おうとしている。
    しかしながら、English がアングル族の言葉を意味する Englisc を語源とすること
    からも分かるように、英語は、ブリテン島のイングランドとスコットランドの
    低地地方で話される地域的な言葉でしかなかった。

    更に、近世に入るまでは、ラテン語やフランス語に比べて、その地位も低く
    見られており、神の言葉である聖書は、英語には翻訳出来ないという議論まで
    あった程である。 英語が国際語としての現在の地位を確立するまでには、
    その過程で征服や侵略や植民地化の歴史、そして辛く悲しい移民の歴史があった
    のである。

    英語の歴史的研究も、18世紀になって当時イギリスの植民地であったインドに
    駐在していたひとりのイギリス人判事ウィリアム・ジョーンズ卿の講演から
    始まったに過ぎない。

    ウィリアム・ジョーンズ卿は、古いインドの言葉であるサンスクリット語(梵語)を
    研究し、サンスクリット語とラテン語それにギリシャ語の類似性に気が付いた。
    そして、1786年には、『これらの言語は、現在では既に消滅した共通の言語から
    枝分かれしたものである』ことを示唆する講演を行った。

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    これは、現在インドからヨーロッパに掛けての広大な地域で話されている様々な
    言葉は、実は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれるひとつの言語グループに
    分類されうること、そして、そのインド・ヨーロッパ語族には、その元になった
    古い言葉、いわゆる『印欧祖語』と呼ばれる言語が存在したことが想定されうる
    という、驚くべき事実の発見であった。

    英語は勿論このインド・ヨーロッパ語族に属しており、その中でも、ドイツ語、
    オランダ語、フリースランド語などと同じく、ゲルマン語派の中の西ゲルマン語群
    に属している。 つまり、英語は、ドイツ語やオランダ語、それに、オランダの
    北西の沖合いに浮かぶ列島フリースランド地域で現在30万人程の人が話すだけに
    なったフリースランド語などと兄弟の言葉なのである。

    フランスの言葉や文化の影響をイギリスに持ち込んだ1066年のノルマン征服が
    なければ、現在のイギリス人は恐らく、オランダ語のような言葉を話していただ
    ろうとまで言われている。

    そもそも、最初にブリテン島に住んだのは、インド・ヨーロッパ語族の中でも、
    ケルト系の言葉を話すブリトン族であった。 その後、ブリテン島を支配して
    いたローマが、5世紀になって、ブリテン島から引き上げると、アングル族、
    サクソン族、ジュート族などのゲルマン民族が現在のデンマークや北海沿岸の
    ドイツからブリテン島へと渡って来た。 この時の様子は、『アングロ・サクソン
    年代記』という古い書物などによって、うかがい知ることが出来る。

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    モスクワ経由のアエロフロート・ロシア国際航空で、ロンドンへ海外出張に行って
    来た。 成田空港から、モスクワまでは、約11時間の空の旅。 ソ連時代からある
    アエロフロートは、最新鋭のエアバスを使用しているため、モニター、USBコネクター、
    WiFi、美人キャビンアテンダント付きとなっております☆

    動物愛護の国であるため、アエロフロートの機内には、大型犬も機内持ち込み可能。
    実際に、猫を機内に持ち込んだことがあるのだが、キャビンアテンダント達も非常に
    親切で、水を持って来て貰ったことがある。 猫をひざの上に乗せていても周囲からも
    全く文句は言われない。

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    アエロフロートは、かつては、エコノミークラスの更に下のY2クラスに分類されていた
    のだが、今ではサービスにおいても、JALやANAを抜き去り、ヨーロッパへの最短
    ルートとなっている。

    途中、機内食は2回出るのだが、キャビンアテンダントに言えば、飲み物は何度でも
    無料で貰える。 WiFi使用料は30ドル。 英語とロシア語のみでその情報が記載
    されているため、何れかの言語を読めない限り、使えない。 機内では、ロシア語と
    英語でもアナウンスしていたが、日本語でのWiFiの案内はなかった。 アエロフロートの
    機内食は、大体、肉か魚を選べる。

    ソ連の時代のアエロフロートは、キャビンアテンダントが国外に勝手に逃げては困る
    という理由により、熊のような体格の女性ばかりがキャビンアテンダントを務めていたが、
    時代は代わり、美人ばかりを取り揃えてサービスを行っている。 尚、ソ連時代の
    アエロフロートは、機内はもちろんの事、シベリア上空を通過する際にも写真撮影禁止
    だった。 機内で撮影しているところを見つかると、フィルムを取り上げられた時代だった。
    機内なのに、雨漏りがするとかも普通で、キャビンアテンダントが、ガムテープで応急
    処置をするという凄まじい時代でもあった。

    成田空港からものの2時間でロシア領内に入り、そこから9時間ロシア国内を飛ぶことと
    なる。 中国領内を迂回して、ハバロフスク上空からロシア領に入るのだが、比較的
    北側を飛ぶため、上空から見える景色は、かなり寒々しいものとなっている。

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    約11時間の空の旅の後、モスクワ・シェレメーチェヴォ空港ターミナルDに到着。 ソ連
    時代は、このターミナルDはシェメーチェボ第二空港という名前だった。 但し、建物は
    その時代とまったく同じ。 トランジットと言えども、空港内から外に出る際には、ビザが
    必須であるため、今回は空港の外には出ずに、ロンドン行きの飛行機を待つことにした。

    ロシアでは、2回用の入国ビザを所持していたため、降りようと思えば降りられたのだが、
    シェレメーチェヴォ空港は、中心部にあるベラルーシ駅まで特急で40分掛かるため、
    帰りにモスクワで降りようと考えていたところ、肝心の帰りの飛行機が3時間以上も遅れた
    ため、結局、この後、モスクワでは降りられないこととなった。 尚、モスクワ・
    シェレメーチェヴォ空港では、英語での表記はかろうじてあるものの、係員は誰も英語を
    喋れない。

    シェレメーチェヴォ空港では、トランジットとは言え、パスポートと荷物のチェックがあるため、
    黄色い看板に従って進み、全てのチェックをうけなければならない。 一応英語表記も
    あるのだが、昔はロシア語のみの表記であった。 相当適当な成田空港のパスポート
    チェックとは異なり、ロシアのチェックはかなり厳しいため、変な物を持ち込むと、ここで全て
    没収されることとなる。 一昔前までは、手荷物を預けると、出て来ないのが当たり前で
    あったため、空港にはサランラップのお化けのようなものがあったのだが、今では、普通に
    荷物が出て来るようになった。 そもそも、アエロフロートの職員自体が泥棒という、
    やった者勝ちの航空会社だった。 郵便局も同様で、荷物をEMSで送っても届かない
    のが当たり前だった。

    パスポートコントロールを抜けて、モスクワ・シェレメーチェヴォ空港のトランジットラウンジに
    到着。 お土産が色々と販売されているのだが、実は、この価格は、通常の市場の10倍
    ぐらいのぼったくり値段。 この3週間後に、ロシア連邦にあるウドムルト共和国とタタル
    スタン共和国に行ったのだが、シェレメーチェヴォ空港は、完全に0が一個多かった。
    ロシア人の間でも、シェレメーチェヴォ空港は、両替のレートがあり得ないぐらい高いと
    もっぱらの噂になっているので、空港での換金は、必要最低限にしおき、ベラルーシ駅に
    着いてから両替した方が賢い。

    ロシアでは、プーチン氏の人気が非常に高いということで、様々な大統領グッズが販売
    されていた。 ロシア土産の2大名物と言えば、マトリョーシカとシカトゥールカ。
    マトリョーシカは、こけしのような木工細工で、シカトゥールカは、木で作った小箱に装飾を
    施したもの。 ロシア軍のちょっとした軍服のようなものも人気。 また、ロシアでは、
    チェスも非常に人気がある。 日本ではチェスはゲームだが、ロシアではスポーツという
    括りになっているため、ロシア人の誰に訊ねても、チェスはスポーツだと答えるであろう。 

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    モスクワで乗り換え時間約3時間の後、再度、アエロフロートでロンドン・ヒースロー空港へと
    飛び立った。 ヒースロー空港の地下には地下鉄が通っており、ロンドンの中心地まで
    一本で行くことが出来るのだが、この地下鉄が建設から既に100年以上経過しているため、
    あちこちで工事中。 この日は、ロンドン時間の夜の10時過ぎに到着したが、ピカデリー
    ラインの途中駅で全員が地下鉄から降ろされ、バスでセントラルラインの終点駅、
    イーリング・ブロードウェイ駅まで強制的に連れて行かれた。 尚、ロンドンの地下鉄は、
    1駅4.9ポンド、約800円もする。

    ノッティングヒルは、ジュリア・ロバーツ主演の映画『ノッティングヒルの恋人』の舞台だった
    場所で、今でも昼間は、かなりの観光客で込み合っている。 この日の目的地は、
    パディントンベアで有名なパディントン。 ホテルがパディントンにあるため、地下鉄で
    移動したのだが、後で調べたところ、パディントンへは、地下鉄よりも国鉄の方が遥かに
    便利であった。

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    イングランドでは、イギリス国教会が国教となっており、19世紀半ばまでは、
    イギリス国教会信者でない者は、国会議員にはなれず、オックスフォード大学
    には入学出来ず、ケンブリッジ大学では、学位を取る事が出来なかった。 しかし、
    今はこのような差別はない。 イングランドの人々の多くはイギリス国教徒だが、
    今では欠かさず教会に通う程敬虔な人は少ない。

    イギリス国教徒以外の人は、イギリスでは非国教徒と言われる。 中でも、新教に
    属する宗派は、イギリス国教会から分かれたという意味で、分離派と呼ばれ、
    メソディスト派、バプティスト派などがある。 どの派も厳しい迫害の中で発展
    して来た。 ローマ・カトリック教会も、16~19世紀まで受けて来た差別は
    現在はなく、学校や教会を設立する程の力を持っている。

    イングランドには、ヨーロッパでも有数のユダヤ人社会があり、その人口は
    40万人にも昇る。 ユダヤ人の多くは、20世紀前半ドイツ、ソ連、東欧での迫害を
    逃れてやって来た。 ユダヤ人の地域社会では、独自の学校や、高齢者や障害者の
    ための福祉事業が運営されている。

    近年、多くの国から移住して来る人が多いため、イングランドの都市にはシーク
    教徒、ヒンドゥー教徒が主にインド出身であるのに対して、イスラム教徒は
    パキスタン、バングラディッシュ、中東などから来ており、両者共に、宗教的
    伝統を保つため、独自の学校を運営している事が多い。

    hanekgie

    【英語の発展】
    移民には母国語を話している者が多いが、イングランドの公用語は英語である。
    英語はアングロ・サクソン人の言語であったゲルマン語から発展したもので、
    発達の段階によって、時代順に古英語、中英語、近代英語の3つに分けられる。
    アングロ・サクソン年代記など、最も初期の文献に見られる古英語は、およそ
    1100年まで使われた。 ノルマン語の影響を受けている中英語は、1100年から
    1400年後半に掛けて使われた。

    その後は、近代英語の時代だが、この英語は17世紀の『欽定英訳聖書』で使われた。
    この聖書は、後の英語に大きな影響を与えた。 イングランドの人々の話す
    英語には、地方によって方言も多い。 例えば、リヴァプール出身の人は、
    スカウスと呼ばれる方言、ニューカッスル・アポン・タインでは、ジョーディー
    という方言を話す。 ロンドンっ子の中には、コックニーと言われるロンドン
    訛りを使う人もいる。

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    方言は、その土地の人でなければ分かりづらい。 何十年に渡ってラジオや
    テレビで標準とされる英語が流されてはいるが、未だに言葉の違いが階級の
    差を強めている事もある。

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    イングランドでは、5歳から16歳の子供は、義務教育を受けなければならない
    ことになっている。 識字率は、99%で、ほとんどの子供が公立の学校に
    通っている。 これらの学校の中には、イギリス国教会やローマ・カトリック
    教会など、宗教的なつながりを持つものも多い。

    イートン校、ハロウ校、チャーターハウス校など私立の学校に通う者も少数いる。
    これらの学校では、授業料を取り、私立であるが、パブリックスクールと
    呼ばれて来た。

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    初等教育は大体11歳で終わり、中等教育は16歳までである。 中等教育の
    ほとんどは、総合中学校で、生徒達は多くのコースの中から自分に合った
    ものを選ぶことが出来、また、能力によって区別されることはない。

    中等教育修了後は、技術や職業訓練を受ける学校に通うことも出来るし、
    大学に入るための勉強を続けることも出来る。

    イングランドの最も有名な大学は、12世紀に創設されたオックスフォード大学と
    13世紀創設されたケンブリッジ大学である。 最高レベルの教育を誇るこれらの
    大学は、いくつものコレッジ(学寮)から成っている。 1945年以来、政府は
    放送大学などの大学を創設して来た。 放送大学はキャンパスを持たずにテレビ、
    ラジオ、ビデオ、郵便などを通じて授業をする大学である。

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    現在、イギリスに住む人の多くはケルト人、ローマ人、アングロ・サクソン人、
    デーン人、ノルマン人など、かつてイギリスに侵入し、住み着いたヨーロッパ
    民族の子孫である。 イングランドには、ケルト人が刻んだ石灰石の像や、
    ノルマン人が建てた聖堂など、先祖の造った物が残っている。

    18、19世紀に激しかった貧富の差は、2回の世界大戦で縮まった。 社会的
    差別は尚もあるものの、以前ほど厳しいものではない。 例として、1964年
    以降、どの首相も中流ないし、労働者階級の出であることがあげられる。 また、
    若者は、独自の流行や言葉を生み出し、かつては服装や言葉遣いにハッキリ
    見られた階級差は消えた。

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    20世紀にはヨーロッパ、インド、パキスタン、香港、カリブ諸島から難民として、
    あるいは、かつての植民地からよりよい暮らしを求めて、大勢の人がイングランドに
    移住して来た。 1990年代前半には、移民は500万人にも上った。 その多くは、
    都市のスラム街に住んでおり、少数派であるがために、住居や職を探すのに差別を
    受けることがある。

    民族の違いから来る都市生活の不安も、イギリスにおける新しい問題である。
    ロンドン、リバプール、ブリストル、バーミンガムなどでは、黒人や東洋人の
    住んでいる地区で暴動が起きている。 原因は、失業率の高さなどの経済問題や、
    警察と住民の関係の悪さにあると考えている人が多い。

    しかし、最近の総選挙では、東洋系や黒人の下院議員が誕生しており、また、
    少数民族が地域ごとに、自分達自身の力で問題解決の計画を立て、運営するなど、
    明るい動きも見られる。

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    1300年代にオーストリアを征服し、そこを新しい根拠地にしていた
    ハプスブルグ家の狙いは、ウーリ地方南部のサンゴッタルド峠を通るアルプス
    越えの重要ルートを管理する事だった。 1315年に、ハプスブルグ軍は、
    シュウィーツ地方で、同盟軍と衝突し(モルガンテンの戦い)、敗北した。

    14世紀の後半には、ベルン、ルツェルン、ツーク、チューリヒ、グラールスの
    各州が、スイス同盟に加わり、同盟の領域は広がった(いわゆる『8州
    (カントン)同盟』)。 軍事力を増強した同盟軍は、1386年、88年と続いて
    ハプスブルグ軍を打ち破る。同盟軍はまた、ヨーロッパの他の軍勢を相手に
    領土をめぐって何度か戦いを交わし、そのつど勝利をおさめた。

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    同盟体が拡大するに連れて、州の代表達の間で、勢力範囲についてほぼ同意が
    取り交わされていた。 ところが、1400年代の中頃、チューリヒ州は、境界の
    東方と南方の領地を吸収するため、ハプスブルグ家と再び同盟を結ぶ。 同盟軍は、
    それに対抗し、チューリヒとの間で何度か激しい戦いが交わされた。

    1450年についにチューリヒは敗北を認め、スイス同盟に復帰した。 その後、
    同盟軍は、1470年代に、フランス北東部のバーガンディー公国と戦った。
    オーストリアとフランスの援軍を得て、同盟軍は、勝利をおさめる。 戦いで、
    スイス側に付いたフリブールとゾーロツェルンの2地域が、1481年、スイス同盟に
    加入する。

    1490年代に、オーストリア皇帝マキシミリアン1世は、再び神聖ローマ帝国の
    支配権を握ろうとする。 当時スイス同盟は、少なくとも、名目上は、まだ
    神聖ローマ帝国に属していた。

    オーストリア軍がスイス同盟の東方の地域、グラウビュンデンを攻撃すると、
    同盟軍は、反撃に出る。 同盟軍は、勝利をおさめ、事実上、神聖ローマ帝国
    からの独立を獲得した。

    1500年代に入り、スイス同盟は、オーストリア、フランス、イタリアを相手に、
    イタリア北部の広大で肥沃な平野を獲得する争いに関わる。 1515年、同盟軍は、
    フランス軍に敗北し、8000以上の兵を失った。

    その語の和平条約で、スイスは、領土の南方の広大な土地ティチーノを手に入れる。
    この条約によって、スイスとフランスの間の自由貿易が広がった。

    やがて農村から都市へ移住する人が増え、織物やガラス、木、金属製品の生産に
    従事したため、スイスの産業は発展した。 また、スイス兵は戦いに熟練して
    いたので、他の国の兵士として働きに出るようになる。 特に、当時戦力を拡大
    する必要性があったフランス軍には、大勢のスイス兵士が加わって戦った。

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    イギリスとアイルランドの間で争われて来た北アイルランド紛争は、2010年に
    司法、警察権がイギリスから北アイルランド自治政府に完全移行したことで、
    1998年に結ばれた和平合意の主目的だった住民自治が完成した。 30年近くに
    渡るプロテスタント系とカトリック系住民同士の対立で、3,500人もの人々が
    テロの犠牲になった紛争も、これでようやく終章を迎えたことになる。

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    背景には、アメリカで起こった9.11テロ事件で深まったキリスト教対イスラム教
    という『文明の対立』論争が、イギリス、アイルランドの双方に、テロは絶対悪
    だと思わせる効果を生んだことがあるとも言われている。

    北アイルランド紛争は、民族、宗教、領土という3つの要素が絡んでいた。
    そもそも、イギリスによるアイルランドの植民地化が進んだのは、12世紀に
    ローマ法王がイギリスのヘンリー2世にアイルランドの領有権を与えることに
    始まる。

    時代と共に、プロテスタント系の移民が急増し、アイルランドに古くから住む
    カトリック系住民と対立。 18世紀になると、イギリスに対するアイルランド人の
    武装蜂起が頻発したが、全て鎮圧されてしまう。 19世紀半ばの大飢餓では、
    人口の60%に当たる500万人もが祖国を見限って、アメリカやカナダへ移住して
    行った。

    第一次世界大戦終了後の1922年、アイルランドは、自治権を獲得したが、
    プロテスタント系の多い北部地域をイギリス領として残したことが火種となった。
    1949年、アイルランド共和国が誕生したが、この時も北部はイギリス領のまま
    だった。 危機感を抱いたのは北部に残された少数派のカトリック系住民だった。
    彼らは、イギリス自治権を要求したが、これを押し潰そうとする多数派の
    プロテスタント系住民と衝突した。

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    1969年になると、イギリスが北アイルランドに軍隊を投入、直接統治を始めた
    ことに反発したカトリック系住民が『IRA(アイルランド共和国軍)』という
    武力組織を結成、イギリスに対するテロ活動を活発化させた。 IRAは、テロ集団
    だとするイギリスと、イギリス軍が撤退しない限り闘争を止めないとするIRAの
    間で、一切の妥協はなく、犠牲者の数だけ増えて行った。 和平合意がなった
    とは言え、北アイルランドは紛争では、被害者が出なかった家族はないと言われる
    程癒しがたい傷を残した。

    住民達は今でも街を流れるフォイル川を挟んで、別々に暮らすなど、対立が生んだ
    亀裂も深く、本当の和解への道のりはまだこれからとなっている。

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    労働党から政権の座を引き継いだのは、マーガレット・サッチャーを
    党首とする保守党であった。 サッチャーは、イギリス連合王国初の女性
    首相となった。 サッチャーが目指したのは、国有化されていた企業を
    私有化し、労働組合の力を弱め、社会福祉への支出を減らすことなどだった。
    これらの政策で、インフレは抑えられたが、失業率は上がり、ストライキも
    止まらなかった。

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    ところが、1982年、一時的にではあるが、イギリス国民が経済上の不安を
    忘れる事件が起きた。 イギリス・アルゼンチン紛争である。 南アメリカ
    大陸近くの小さな島が集まったフォークランド諸島の所有権を主張して、
    イギリスとアルゼンチンが争ったのだ。 イギリスは、1万人の兵士から成る
    特別部隊を送り、アルゼンチン軍を撃破した。 フォークランド紛争の
    勝利により、サッチャー首相の人気は急上昇した。

    サッチャーは、人気の高まりを利用して、1983年の総選挙で保守党が再び
    多数党となり、政権を握った。 また、1987年の総選挙でサッチャーは、
    首相として史上初の連続3選を果たした。 勝利原因は、労働党内部の統一が
    取れなかったこと、つまり、労働党内の不満グループが新党、社会民主党を
    結成したことである。

    サッチャー政府は、政府支出の削減や、国有企業の私的法人への売却を図った。
    だが、1990年には、激しいインフレと高い失業率などが原因で、保守党支持は
    弱まった。 人頭税と呼ばれる地方税の導入計画も、保守党政府の不人気の
    元となった。 1990年4月、ロンドンでこの税に反対する市民の怒りが爆発、
    暴動となった。 サッチャーは、人気が落ち、12月に保守党の仲間から党首を
    辞めるよう要請された。 保守党は大蔵大臣だったジョン・メージャーを党首に
    選び、メージャーが新首相となった。

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    1992年4月の総選挙で再び保守党が議会の多数を占め、メージャーが首相を
    続けた。 メージャーの考えは、サッチャーと共通なものが多いが、ECと
    協力して行くことにサッチャーほど反対していない。

    1992年にはEC加盟国はヨーロッパの更なる統合を目指して、マーストリヒト
    条約(欧州連合条約)に調印、1993年からEU(欧州連合)として、ひとつの
    貿易圏を形成している。 1994年には、イギリスとフランスを結ぶ海峡横断
    トンネル(ユーロトンネル)が開通し、両国が結ばれるようになった。

    しかし、このような動きがあったにも関わらず、イングランドの人々は、
    自分達はヨーロッパ大陸の人々とは別だと考え、イングランドの長い歴史や
    文化を誇りに思っている。

    イングランド自身、北部と南部に分裂しようとしていると言う人もある。
    保守党の拠点であるイングランド南部は、サッチャー、メージャーの下で
    繁栄して来た。 北部は、失業者も増え、経済も衰えた。 大きな都市は、
    今尚労働党支持が多い。 イングランドの将来は、これらの経済、および、
    社会問題の解決にかかっている。

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