多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    マルチリンガル通訳・翻訳者によるブログ。

    英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、
    スペイン語、スウェーデン語他の多言語通訳/翻訳業を行っております (^-^)
    仙台弁、石巻弁、宮城弁、東北弁の方言指導、テープ起こしも致します。
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    カテゴリ:西ヨーロッパ > スイス

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    1815年のウィーン会議で、ナポレオンに占領されていたジュネーヴ、バレー、
    ヌーシャテルの旧同盟州が新たにスイス連邦に加わえられることが決定され、
    22州の連邦が成立する。 この時、スイスの永世中立と独立も承認された。

    ウィーン会議では、スイス憲法の問題は取り上げられなかった。 ナポレオンの
    敗退後、スイス憲法は効力を失い、スイスの領土は殆んど2、3の有力な家に
    よって支配され、半ば独立した州(カントン)のゆるやかな連合体に戻った。

    工場労働者や農民から、政府の民主化に強化する要求が盛んに出され、それに
    連れて再び宗教と社会の対立が激しくなった。 1880年代になると、改革運動が
    強まり、政府が倒される州もあった。

    1834年に、最も自由な都市州において、教会の所有する土地への課税、信仰の
    自由、教会から独立した公立学校制度を要求する運動が高まった。 これに
    反感を抱いた保守的なカトリック派の7州が同盟を結んで、この運動に対抗した。
    連邦政府は、同盟の解散を命じるが、7州が拒絶したため、1847年に、3週間に
    渡って内乱が起きた。 7州の同盟軍は敗北し、翌年、新憲法が制定された。

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    【1848年憲法】

    新憲法は、州と連邦政府間の権限を慎重に分けるものだった。 将来ヨーロッパで
    いかなる紛争が起きても、スイスの中立を守るため、外敵の攻撃に備える軍隊と
    防衛制度を区別する条項が盛り込まれた。 更に、商取引の効率を上げるため、
    慣習と度量衡と通貨にそれぞれ同一の基準が設けられた。

    新憲法によって、スイスが抱えていた最もやっかいな政治上の問題が解決し、
    経済活動に集中出来るようになった。 その結果、19世紀中頃には、景気が著しく
    向上した。 自由貿易政策により貿易が増大し、産業も発展した。 スイスは、
    貿易相手国がスイスからの輸入品に関税を掛けなかった。 スイスは、小国だが、
    自由貿易の政策のお陰で、外国に多くの市場を獲得出来たのである。

    政府の制約を受けないスイスの商業は、瞬く間に発展した。 教育を受けた
    商人階級と政府の力で、政界の産業界と市場の変化にうまく対応することが出来た。

    自国の製品を輸出するため、鉄道と道路網が整えられ、生産性を高めるため
    機械化して、諸外国と有利な通商協定を結んだ。 スイスの繁栄には観光も
    役立った。 アルプスの雄大な自然を求めて、外国から大勢の人々が観光や
    保養にやって来たからである。

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    経済活動が拡大するにつれて、同盟内の社会的対立が増大し、表面に現れて来た。
    ジュネーヴ、ベルン、ルツェルンでは、小作人たちが移住して来て人口が増え、社会は
    極めて不安定な状態となった。

    Malmaison

    富裕な支配層が、新たに増えた自由市民の権利を認めなかったため、市民は参政権を
    与えなければ税金を払わないと抵抗した。 それと同時に、カトリックとプロテスタントの
    間でも、時折、小競り合いが生じていた。 1798年にフランスで革命が起こり、その影響は
    全ヨーロッパに及んだが、特にスイスの受けた影響は大きかった。 革命の後、司令官
    ナポレオンが率いるフランス軍は、スイスを侵略する。 ナポレオンは州の自治体制を
    廃止して、新しい中央政府を樹立させ、スイスをヘルベチア共和国と名付けた。

    フランスが制定した新しいスイス憲法によって、諸侯は、権力を失った。 更に、それまで
    都市諸州を支配していた封建商人の権力も弱まった。 スイス人は、新憲法を支持したが、
    フランスによる占領には強く反対した。

    フランスによって樹立された中央政権的な政府は、民族も宗教も文化も州によって大いに
    異なるスイスの国情に合わず、すぐに混乱をきたした。

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    混乱をおさめるため、1803年にナポレオンは、各州の代表をパリに集めて、調停条約を
    結ばせ、憲法を改正させた。 この条約に基づいて、各州に自治権を認める連邦制が
    出来上がった。 連邦政府は、外交や軍事、通貨を定め、戦いと和平を司った。

    この時、新たに6州に自治権が与えられ、合計19州からなる連邦制が成立した。 また、
    条約は、市民は法の前で平等に取り扱われなくてはならないと規定した。 これによって、
    スイスの封建制度は、永久に終わりを告げたのである。

    このようにな改革を実現してくれたことへのお返しとして、スイスは、自国の兵士を
    フランス軍に提供することに同意した。 だが、1815年に、ナポレオンがヨーロッパ
    連合軍に敗北して統率力がなくなると、スイス新憲法は、たちまち効力を失った。

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    16世紀に宗教改革を成し遂げたことによって、スイス同盟の結束は強化され、その
    世紀末には、同盟は13州に増えた。 ヨーロッパの他の国々では、新教と旧教の
    対立が切っ掛けで、三十年戦争(1618年~1648年)になるが、スイスは中立の
    立場をとった。 三十年戦争を終わらせたウェストファリア条約で、スイスの独立と
    中立が法的に認められた。



    やがて、スイス各州の指導者によって、全州をゆるくまとめる政府がつくられ、国会と
    呼ばれる総会が開かれ、各州から2人の代表が送られた。 だが、国会は定期的に
    召集されるものではなく、元々強い権力を与えられていなかったので、各州の重要な
    決定は依然として州政府が行っていた。 更に、宗教も州によって、ローマカトリックか
    プロテスタントに分かれていた。

    住民のほとんどがカトリック信者であった農村州では、住民は『ランツゲマインデ』と
    呼ばれる州民集会に直接参加して、法案などを投票で決めた。 ベルン、フルブール、
    ゾーロツェルン、ルツェルンなどのようなプロテスタントの多い都市州では、富裕な
    地主の一族が州政府を支配していた。

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    チューリヒ、バーゼル、シャウハウゼンの各州も政治の仕組みはこれと同じだったが、
    支配者は地主ではなく、交易で富を築いた商家だった。 スイス同盟は、国家として
    団結が掛かったため、州との間で対立が生じることもあったが、何とか安定を保ち、
    紡織と時計産業の発展に力を注いだ。

    18世紀になると、スイスの産業は繁栄した。 小作人は乳牛を育て、穀物を栽培し、
    町の製造業者に食料を売った。 また、羊を飼い、紡績業が盛んな州に羊毛を供給
    した。

    18世紀末には、チューリヒ、グラールス、バーゼルの繊維産業が活発になる。
    ジュネーヴとジュラ山脈地方の小規模な時計製造業は、国際的な産業に発展した。

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    15世紀と16世紀にヨーロッパ各地で生じた経済活動の変化には、社会と宗教の変化も
    重なっていた。 それまで何百年に渡って、スイスはじめ他の国々は、ローマカトリックの
    忠実な教徒だった。

    だが、僧侶の中には、金持ちになって悪いことをし、互いに権力を張り合うものが出て来る。
    それに対して、他の宗教の指導者達が抗議し、協会の運営について改革を求めた。
    その要求が、宗教改革の始まりとなったのである。

    スイス同盟内で宗教の改革を最も熱心に進めたのは、チューリヒ出身のツウィングリという
    カトリックの僧侶である。 ツウィングリは、ドイツとフランスの改革者と共に、カトリック
    教会の贅沢な儀式を止め、聖書を信仰のもとにするより簡素な宗教、つまり、
    プロテスタントの信仰を目指した。

    ツウィングリが唱えたプロテスタントの哲学は、間もなく他のドイツ語圏のスイス都市に
    伝わる。 だが、特に農村のカトリック教徒の多くは、この改革は、自分達の信仰を攻撃
    するものであると考え、ツウィングリとその運動を恐れた。 スイスは、カトリック教徒と
    プロテスタントに二分され、両者は戦いによって、その対立を解決しようとした。

    1531年、カトリック派の農村州ウーリ、シュウィーツ、ウンターワルデン、グラールス、
    ツーク、アペンツェルが結束して軍隊つくり、チューリヒのカッペルでツウィングリの一派
    と戦った。 ツウィングリは戦死するが、後の和平協定により、スイス人に信仰の自由が
    認められた。

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    ツウィングリの死後、もう一人のプロテスタントの改革者であるフランス人のカルバンが、
    自分自身の信仰の教えを更に広めるために、ジュネーヴに移った。 カルバンは、教会と
    政治は密接な繋がりを持つべきだと考えた。 やがてジュネーヴの有力者達は、
    カルバンにその考えを実践する機会を与えた。

    宗教改革に熱心である上に行政の能力もあったカルバンは、ジュネーヴの政治と宗教を
    組織し直した。 これによって、市の政策を決定する権利は教会から独立した市参事会に
    与えられ、市参事会は、改革された教会の教えに従って市を統治することになる。

    法律の制定にも教会の意見が反映されたので、カードゲームやバックガモン(すごろくに
    似たゲーム)、飲酒など、カルバンが罪深いと考えた行為が禁止された。 カルバンは
    また、宗教の学院を創設し、これが後のジュネーヴ大学になった。

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    1300年代にオーストリアを征服し、そこを新しい根拠地にしていたハプスブルグ家の
    狙いは、ウーリ地方南部のサンゴッタルド峠を通るアルプス越えの重要ルートを管理
    する事だった。 1315年に、ハプスブルグ軍は、シュウィーツ地方で、同盟軍と衝突し
    (モルガンテンの戦い)、敗北した。

    14世紀の後半には、ベルン、ルツェルン、ツーク、チューリヒ、グラールスの各州が、
    スイス同盟に加わり、同盟の領域は広がった(いわゆる『8州(カントン)同盟』)。
    軍事力を増強した同盟軍は、1386年、88年と続いてハプスブルグ軍を打ち破る。
    同盟軍はまた、ヨーロッパの他の軍勢を相手に領土をめぐって何度か戦いを交わし、
    そのつど勝利をおさめた。

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    同盟体が拡大するに連れて、州の代表達の間で、勢力範囲についてほぼ同意が
    取り交わされていた。 ところが、1400年代の中頃、チューリヒ州は、境界の東方と
    南方の領地を吸収するため、ハプスブルグ家と再び同盟を結ぶ。 同盟軍は、それに
    対抗し、チューリヒとの間で何度か激しい戦いが交わされた。

    1450年についにチューリヒは敗北を認め、スイス同盟に復帰した。 その後、同盟軍は、
    1470年代に、フランス北東部のバーガンディー公国と戦った。 オーストリアとフランスの
    援軍を得て、同盟軍は、勝利をおさめる。 戦いで、スイス側に付いたフリブールと
    ゾーロツェルンの2地域が、1481年、スイス同盟に加入する。

    1490年代に、オーストリア皇帝マキシミリアン1世は、再び神聖ローマ帝国の支配権を
    握ろうとする。 当時スイス同盟は、少なくとも、名目上は、まだ神聖ローマ帝国に
    属していた。

    オーストリア軍がスイス同盟の東方の地域、グラウビュンデンを攻撃すると、同盟軍は、
    反撃に出る。 同盟軍は、勝利をおさめ、事実上、神聖ローマ帝国からの独立を
    獲得した。

    1500年代に入り、スイス同盟は、オーストリア、フランス、イタリアを相手に、イタリア
    北部の広大で肥沃な平野を獲得する争いに関わる。 1515年、同盟軍は、フランス軍に
    敗北し、8000以上の兵を失った。

    その語の和平条約で、スイスは、領土の南方の広大な土地ティチーノを手に入れる。
    この条約によって、スイスとフランスの間の自由貿易が広がった。

    やがて農村から都市へ移住する人が増え、織物やガラス、木、金属製品の生産に
    従事したため、スイスの産業は発展した。 また、スイス兵は戦いに熟練していたので、
    他の国の兵士として働きに出るようになる。 特に、当時戦力を拡大する必要性が
    あったフランス軍には、大勢のスイス兵士が加わって戦った。

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    11世紀になると、強力な諸侯が皇帝の権力に抵抗し始めた。 帝国は次第にスイス
    地域の支配力を失い、封建制度の下に勢力を増した諸侯が、広大な領地を統治する
    ようになる。 諸侯によって至るところに街が造られ、ヨーロッパの多くの地域との間に
    重要な交易が始まった。 村人達は、街の市場に家畜を連れて行き、スイスとイタリアの
    農村から運ばれて来た穀物と交換した。

    13世紀になる頃には、諸侯の中でも、特に強力なサボイア家、ツェーリンゲン家、
    キイーブルグ家、ハプスブルグ家の4家がスイスの大部分を支配していた。 なかでも、
    ハプスブルグ家が最も勢力を伸ばし、領地を広げて行く。

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    1237年に、ハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝になる。 その頃、
    小作人の中で、領地から逃亡するか、農作物を売って得た金で、自由の身になる者が
    大勢出た。 これらの小作人達は、スイス中部のシュウィーツ、ウーリ、ウンターワルデンの
    3州に移住した。

    神聖ローマ帝国の権力を握っていたハプスブルグ家は、自由と自治を得ていたこの
    3州を侵略し始める。 1291年に、3州の指導者達は、同盟を結んだ。 3州は、
    ハプスブルグ家に対抗して、独立国の建国を目指していたため、互いのタ対立を
    解決し、防衛し合うことを誓約したのである。

    3州は民主的な連合体を形成し、立法制度を打ち立てた。 各地域の住民は、1年に
    一度集会を開き、選挙によって代表を選び、和平や戦いに関する事柄を決めたのである。

    大きい街は、依然としてハプスブルグ家が統治していたので、同盟に加わったのは、
    主に農村部の村の住民だった。 他の地域の人々は、ハプスブルグ家に対抗する
    3州同盟の成り行きをじっと見守っていた。

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    紀元前58年にヘルベチア族は、恐らくゴール地方(現在のフランス)の財宝を求めて
    東方に進出する。 すると、ローマ帝国の軍隊がヘルベチア族を攻撃し、やがて
    ヘルベチア地方を占領した。 一方、ローマ軍は、ジュリアス・シーザー指揮の下、
    ヨーロッパ大陸の他の地域に住む民族を征服して領土を広げて行く。 紀元前15年には、
    ラエチア族も制服された。

    ヘルベチアは、ローマ帝国の支配下に入るが、自治は認められていた。 また、ローマ
    帝国の領土の一部として、ヘルベチアは繁栄する。 牧畜を行い、穀類や果物を栽培し、
    ワインを製造した。 新しい道路が開けて、交易が盛んになり、小さな市場を持つ
    街の人口が増えた。

    german

    紀元前253年に、ライン川の北に定住するゲルマン部族のアラマン族が、ヘルベチア族の
    定住地を次々と侵略する。 ローマ軍は、これに対抗して戦い、ヘルベチアの領土を
    取り返した。 しかし、この戦いに掛かった費用を取り戻すため、ローマの役人は
    ヘルベチア人に高い税金を払わせ、無給で働かせた。

    Charlemagne

    【ゲルマン民族による統治】

    フランク王国の支配下で、スイス地域に住む人々は、段々とキリスト教に改修し、ローマ
    カトリック教会に所属した。 9世紀には、カロリング家のカール王(後のカール大帝)が
    現在のスイス、フランス、オランダ、オーストリア、イタリア、そして東ヨーロッパの殆どの
    地域を含む広大なキリスト教徒の領土を統一し、大帝国が誕生した。 ローマ教皇も
    カール王の力を認め、800年には神聖ローマ帝国の皇帝として王冠を授けた。

    王国各州に任命された諸侯(貴族階級)は、広大な領土を所有し、外敵の侵入に備えて
    兵を雇った。 諸侯は、領地内での支配権を握っていたが、王には服従した。 王位は、
    世襲で続き、王国に対する諸侯達の忠誠も代々受け継がれた。

    領地には、諸侯の下に家老、職人、小作人がいて、階級制度が出来上がっていた。
    小作人は、農奴と呼ばれ、諸侯のために無報酬で働く代わりに、食料を与えられ、保護を
    受けた。 その身分は、法的に領地に属し、領地を離れることは許されなかった。

    小作主も領主に保護され、その返礼として農園の収穫物の一部を差し出した。
    封建制度と呼ばれるこの政治と社会の仕組みは、その後、数百年間続いた。

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    スイスは、ヨーロッパ大陸の中心に位置するため、大陸内の各地を結ぶ交差点に
    なっている。 その結果、これまで多くの民族がこの国を訪れたり、定住地にしたり、
    征服して来た。 この地域で35万年前の遺跡が発見されていることから、その時期に
    既に人が住んでいたことが証明される。

    それから何千年か経つと、この辺りは巨大な氷河に覆われ、植物が全滅する。
    時折氷河が部分的に後退することがあり、ジュラ山脈とミッテルランドの地帯を狩猟
    民族が移り住んでいた。

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    紀元前13世紀には、氷河はほとんど解け、人が定住し始めた。 チューリヒ湖や
    その他の湖の岸辺に人々は小さな村をつくって住んだ。 家族で畑を耕し、家畜を
    育て、野性の動物を狩り、川や湖で魚を採って生活をしていた。 やがて、石の斧
    などの武器や、銅や錫を細工した装身具も作るようになる。

    紀元前500年頃には、この地域にケルト文明が定着する。 その中心は、
    ヌーシャテル湖周辺のラ・テーヌという土地であった。 ヘルベチア族と呼ばれた
    ケルト系の定住者たちは、かなり発達した形態の宗教を持ち、複雑な習慣に従い、
    手の込んだ金属の工芸品を作っていた。 この宗教は、ヘルベチア教と呼ばれる
    ようになり、それを通じて、ケルト文明はヨーロッパの多くの土地に広がって行く。

    ケルト民族がスイス地域の西部と中央部を支配するようになると、東部山地に
    ラエチア族が定住する。 戦いを好む強力なこの部族は、他の文明とは接触しな
    かった。

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    スイスの人口716万人の3分の2以上は、都市に住んでいて、その大半は、ミッテルランドに
    集中している。 チューリヒが最大の都市で、ベルンとジュネーブは、チューリヒほど人口が
    多くないが、国際的にも商業、文化、産業の中心地となっている。

    スイスは、都市によって独自な人種構成を持ち、話される言語も異なる。 例えば、
    チューリヒ、ベルン、バーゼルでは、ドイツ語が話されているが、ジュネーブで最も良く耳に
    する言葉は、フランス語である。 南部の都市ルガーノの住民はイタリア語を話す。

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    【チューリヒ】

    スイス最大の都市で、人口は33万人、この地域には、早くても紀元前4500年に人が住み
    着き、小麦を作り、牛と豚を育てた。 紀元前1世紀には、ローマ帝国の一部となる。
    12世紀はじめには、絹、麻、羊毛、皮を交易する一大中心地となっていた。

    14世紀に、チューリヒはスイス同盟に加わる。 ドイツの文化と文学の中心ともなり、
    また、繊維、工学技術、金融を中心とする商工業都市としても重要となる。 また、様々な
    活動の中心としてヨーロッパでも最も有名な都市のひとつである。 街の中心を通る
    バーンホフ通りは、13世紀に築かれた城壁の堀の跡である。

    チューリヒの古い地域には、歴史的な建物が多い。 リマト川の両岸には、
    グロースニュンスター寺院とフラウミュンスター寺院が向かい合って建っている。 この川
    沿いには、ザンクト・ペーター教会や、ギルド時代の建物も残っている。 チューリヒは、
    優れた博物館や美術館があることでも有名である。 スイス国立博物館には、先史
    時代から現代までのスイス文化に関する様々な展示品が陳列されている。

    チューリヒ美術館には、スイス出身の国際的に有名な近代画家と彫刻家の作品が集め
    られている。 連邦工科大学としては、世界的に有名であり、チューリヒ大学は、スイス
    最大の大学である。

    この文化、および、経済都市にも近年、麻薬取引とエイズに関連する問題が増えている。
    チューリヒ当局は、犯罪と麻薬の乱用を厳重に取り締まっている。

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    【その他の都市】

    首都ベルンは、人口約18万人で、アーレ川を見下ろす位置にある。 12世紀には、
    ゲルマン民族の一部族アレマン族の政治の中心地だった。 1405年の大家事で街の
    中心部は全焼したが、その後再建され、その大部分が現在も当時の姿のまま残って
    いる。 1848年にスイス同盟の首都となった。 街には、手の込んだ建物や石の彫刻の
    付いた美しい噴水、中世の建物等があちこちに見られる。

    その他、1530年に建てられた仕掛け時計のある時計塔、連邦議会議事堂、クマ公園も
    ベルンの名所である。 クマは古くからこの街のシンボルで、ベルンという名前は、
    クマを意味するドイツ語から名付けられたと伝えられている。

    ジュネーブは、人口約17万人で、国際機関が集まる国際都市である。 代表的なのは、
    第一次世界大戦後に、国際連盟本部として建てられた現在の国連ヨーロッパ本部、
    国際赤十字、国際労働機関、世界保健機関、世界教会協議会である。

    街は、ローヌ川を挟んで、旧市街と新市街に分かれる。 旧市街には、サン・ピエール
    大聖堂など、歴史的建物が目立ち、900年代に建設された当時の面影を残している。
    ジュネーブ大学と市庁舎は、1500年代に建てられた。 新市街は、ローヌ川の右岸に
    あり、多くの国際企業や代理店が入る近代的建物が並んでいる。

    バーゼルは、人口約17万人で、古くから宗教の中心地であり、1501年にスイス同盟に
    加わった。 現在は、金融業と工業の中心地として重要な役割を果たして、また、化学
    工業も盛んである。 1460年に建設されたバーゼル大学は、スイス最古の大学で、
    優れた研究機関として海外でも評価が高い。

    スイス南部の都市ルガーノは、人口約9万人で、イタリア語圏のティチーノ州最大の
    都市である。 ここには、2300年前から人が定住していた。 何世紀にも渡って、
    ローマとイタリアに支配されていたが、1500年代にスイス同盟に吸収された。

    1803年に成立したスイス連邦には、ティチーノ州が参加した際、ルガーノは、同州の
    一部となった。 都市の主な経済活動は、観光と金融となっている。 製造業では、
    チョコレートとたばこが有名である。

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    スイスは、中央ヨーロッパの山の多い国である。 歴史も人種も近隣の国々と共通する
    部分が多い。 はじめは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国に統治されていたが、15世紀に
    なると、3つの自治州(スイスではカントンと呼ばれている)がゆるい同盟を結び、連邦を
    形成した。

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    しかし、神聖ローマ帝国から完全に独立して訳ではなく、政治、宗教の面で帝国との間に
    争いが続いていた。 当時、神聖ローマ帝国とオーストリアを統治していたハプスブルグ
    家は、このスイス連邦を再び完全に支配しようとしたが、うまく行かなかった。

    ハプスブルグ家との戦いは、1500年代まで続く。 その頃、ローマカトリック教会に属して
    いたヨーロッパの多くの国々が、重大な宗教上の問題を解決するために、宗教を改革する
    運動に乗り出した。

    この運動が高まり、スイスにプロテスタントと呼ばれる新しい形のキリスト教が誕生した。
    プロテスタントは、カトリックから分離したため、2つの宗教の間で、幾度も宗教戦争が
    繰り広げられた。

    やがて、スイスは、ローマカトリック教会との対立を解決するが、その後も、国外から
    度々脅かされた。 17世紀末には、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの支配下に
    入る。 ナポレオンは、スイス連邦をまとめて中央集権国家を建設させ、スイス憲法を
    制定させる。

    その後、ナポレオンは、ヨーロッパ連合に敗れ、スイスの独立が連合軍により承認された。
    この時、同時にスイスは国際間の対立には一切関与せず、永久に中立を維持するという
    政策を認められたのである。 しかし、スイスは、ヨーロッパの出来事には全く関わらな
    かった訳ではない。 例えば、第一次、第二次世界大戦の間には、難民を受け入れ、
    医療を提供した。

    Swissmap

    スイスは、多くの民族から成る国であるため、その点でも様々な問題があった。
    公用語には、ドイツ語、フランス語、イタリア語の3言語があるという事実を見ても、多民族
    国家である事が分かる。

    スイス憲法は、様々な民族に公平な利益を与えるため、各州に大幅な自治を認めている。
    国際的に中立を守り、各州には連邦政府が持つ以外の権利を与える事により、長年
    かなり平和な状態を維持して来た。

    政治が安定しているため、昔は貧しい国であったスイスは、めざましく産業が発展した。
    その結果、機械と時計の製造では、世界有数の生産国となり、スイスの銀行は世界最大の
    利益をあげている。 経済が発展しているお陰で、スイス人の生活水準は、世界最高の
    部類に入る。

    それでも、スイスの将来には色々な難しい問題がある。 移民政策、ヨーロッパ諸国との
    連合、犯罪の増加、医療問題等について、国民の間で様々な議論が交わされている。
    だが、多人種多言語の国民が調和して暮らし、繁栄しているという意味で、恐らく、スイスは
    世界の最も良いお手本であろう。

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    スイスでは、全成人国民に対して、無条件で月額2,500スイスフラン(約30万円)を
    支給する『ベーシックインカム』制度の導入を求める運動が続いており、2013年
    には、12万人以上の署名が集まっている。 これまでに、オランダやフィンランド
    でもこのベーシックインカムの是非を問う動きはあったが、世界で最も早く、
    2016年6月にベーシックインカムに関する国民投票を行う国は、スイスとなる事が
    明らかになった。

    018dac70ac6da


    この国民投票が可決されれば、成人国民に月額2,500スイスフラン(約30万円)、
    未成年者には月額625スイスフラン(約7万5000円)の最低所得保障が支給される
    事となる。 リサーチ会社『デモスコープ』の世論調査によると、大多数の
    スイス人が、もし同制度が採択された場合でも、仕事を続ける意向である事が
    分かった。 逆に、仕事を辞めると答えた国民は、わずか2%だった。

    09102301

    スイスでは、これまでにも世界でも類を見ない手厚い保障の『ベーシックインカム
    制度を実現させようとする活動が行われており、10万人以上の署名を集めた
    『国民発議』に関しては、憲法改正を要求する事が可能となっている。

    この制度に必要な費用の大半は、税金によってまかなわれる予定となっているが、
    制度導入に伴って、既存の社会保障制度の一部の打ち切り、所得保障制度を一本化
    する予定となっている。 所得保障制度で掛かる費用の約4分の1分は、廃止と
    なる既存の社会保障制度費用から捻出する計画となっており、複雑な社会保障制度を
    シンプルな所得保障制度に一本化する事で、行政コストを削減出来る効果も期待
    されている。

    ベーシックインカムが承認された場合、スイス政府は、年間2,080億スイスフランを
    支給する事となるが、そのうち、1,500億スイスフランは、国の税収入から、550億
    スイスフランは、社会保険基金から拠出される見込みとなっている。

    【お勧めの一冊】


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