多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    マルチリンガル通訳・翻訳者によるブログ。

    英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、
    スペイン語、スウェーデン語他の多言語通訳/翻訳業を行っております (^-^)
    仙台弁、石巻弁、宮城弁、東北弁の方言指導、テープ起こしも致します。
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    2017年04月

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    東北の人間が、一度は絶対に買ったことがあるものと言えば、こけし。
    お土産屋さんには、様々な種類のこけしが並んでいるが、スタンダードは、
    やはり、鳴子こけし。 ひとつひとつ手作業で製造をしているため、顔の表情が
    全て異なっているいる。 宮城県はこけしの生産高日本一☆

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    仙台の一般家庭の冷蔵庫に必ず入っているものと言えば、かまぼこ。 仙台人に
    とって、かまぼこは必需品♪ 他県に行くと、かまぼこが妙に地味だったり、
    あるいは、売っていなかったりと、実は何かと不便を感じる食品。 実は宮城県は、
    かまぼこの全国生産量の約7割を製造しているかまぼこ超大国☆

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    仙台を代表する家庭料理づんだ餅。 仙台人のソウルフードナンバーワン☆
    大豆をすり鉢でするのは、子供の役目だったりするため、仙台の子供達は、
    家庭内で大豆を結構スリスリしていますw そのすり方も荒めのもの、細かめの
    ものがあり、歯応えは千差万別。

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    仙台を代表する家庭料理しそ巻き。 味噌をしそで巻き、油で揚げたり焼いたり
    したもの。 味付けは甘めのもの、甘辛いもの、辛めのもの、ピーナツ入り、
    梅入り、ゴマ入りなどさまざまである。 おかず以外におつまみやお茶づけにも
    利用されている。

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    仙台を代表する家庭料理おくずがけ。 片栗粉などでとろみを付けた醤油味の汁に、
    温麺や野菜、豆麩、油揚げ等を入れて煮込んだもの。 地域や家庭ごとに味付けや
    具が異なるため、2つとして同じものはない。 家庭料理であるため、お店では
    なかなか食べられない♪

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    東北最大の新聞会社『河北新報』の社名の由来は、『白河以北一山百文』と蔑まれた
    東北の地に新しい新聞会社を作るという意味。 京と江戸の身代わりとなって戦った
    戊辰戦争に敗れた東北は、明治政府に『大逆賊』扱いをされたが、仙台県の名前が
    宮城県へと無理やり代えられたのはその名残。

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    宮城県の食料自給率は80%程度。 仙台市を除く郡部では100%を余裕で超える。
    家庭内には食料が常に備蓄されているため、東日本大震災で他県から数ヶ月間孤立
    したが、餓死する事はなかった。 仙台には、お客様が来ると、持ちきれない
    程の食べ物を持たせてやる風習がある。

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    関東の人間は、単一言語しか操れないモノリンガルだが、仙台では、小学生低学年の
    頃から外では標準語だけ、家庭内では仙台弁で喋っているため、全員標準語と
    仙台弁のバイリンガル。 小学校でも方言は笑われるので、使うなと習っている
    ため、仙台の人間は言葉に非常に厳しい。

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    日本社会が危機的だと痛感するのは、前復興大臣の数々の暴言を見ても分かる通り、
    専門を完全に無視して、ある日突然『鶴の一声』により、何もかも仕事を丸投げ
    されるところ。 元々、経験どころか、興味すらない人間にその仕事が勤まる筈も
    なく、そのような人間ばかりがこの日本社会を支配しているため、当然、労働生産性
    など上がる訳がない。

    問題は、あくまでも他人事で済ませている政治家が多いところで、単に指名された
    からと言って、やっつけ仕事的な感覚で、大臣やら政治家をやってもらっては困る。
    知らない、あるいは、興味がないのであれば、最初から辞退すべき話。 そもそも、
    政治家の給料は税金なので、国民の方を向いていない政治家は必要ない。

    このような国にしてしまったのは、元々は、国民の責任で、ひとりひとりがこの国に
    対して責任を持っているという自覚を持たない限り、この国は何も変わらない。
    誰も一切責任を取らない無責任社会が招いた末路。 そもそも、何も責任を取らない
    のであれば、何も言うべきではないが、バカは自分が何を言っているのかすら分から
    ないらしい。 元々、思ってすらいないことを口にする筈がないため、素養の問題。
    日本は、適材適所に人員を配置するという基本的なことが全く出来てはいない。

    所詮、関東や他地域の人間の殆んどは、被災地などには全く関心がないのだが、
    今回の件は、単に自民党の本音が出ただけで、自らの過ちを認めるどころか、それを
    擁護する時点で、自民党の腐り具合が良く分かる。 このまま自民党に政権を任せて
    いると、被災地どころか、国民全員が見殺しにされてしまう。 『自己責任』とは、
    自分では絶対に責任を取らない人間の捨て台詞でしかない。

    前復興大臣が放った、『東北で良かった』という一言は、当然酷いのだが、関東の
    老害のレベルは、大体あんな程度か、それ以下で、不都合な質問をすると、
    たちどころにぶち切れて、周囲が空気を読んで全て前もって対処なければならない。
    そのような事ばかりを日々繰り返しているため、嗜め役がおらず、日本はブラック
    企業ばかりの社会となった。

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    東北の小学校の社会の授業では、『福島の原発は、東電のもので100%関東に送電を
    しているため、福島の住民達は、原発の電力を一切使えず、更に、福島は東北電力の
    管轄なので、宮城県内に原発を造って福島にも送電しなければならない』と教えて
    いるが、関東では『原発はクリーンなエネルギー』としか教えていない。

    約150年前の戊辰戦争での敗北後、福島は関東の電力供給のための植民地に
    されたが、仙台は軍事基地にされた。 戦前の仙台は、日本でも指折りの軍事都市。
    そのお陰で、太平洋戦争でも宮城県は全土に渡り、何度も空爆された。 米軍
    基地は、いつかなくなるかも知れないが、自衛隊は未来永劫なくならない。



    東北・北海道は、日本からは独立すべきで、そうしなければ、東北から関東のための
    原発と送電施設は未来永劫なくならない。 福島に東電とJパワーの発電所が
    集中的にあるのは、関東への被害を最小限にするためのもので、福島以外にも、
    青森の大間、東通、新潟の柏崎刈羽原発も関東に送電するための施設。 関東は、
    今でも福島の火力発電所と水力発電所から送電を受けている。

    このまま劣化した人材の宝庫、東京と一緒に居たところで、利用されるだけ利用
    されて、特に利点はない。 電力の搾取は今に始まった話ではないが、原発が安全
    だと言い張るのであれば、東京都内に原発を造るべき。

    先日初めて首相官邸前デモを見に行ったが、『被災者守れ!』と言っている被災者
    とは、100%福島の原発被災者限定で、津波被災者は一切含まれていない。 自分の
    思想のために、被災地を利用するのは止めるべき。 元々、『脱原発』は、言って
    いる内容が利己的過ぎるため、主張している内容が、全体的におかしい。
    そもそも、自分の主張を受け入れて欲しいのであれば、相手の話も聞くべき。
    物事は、多角的に見てこそ、真実を見極めることが出来るのだが、一方的なもの
    の見方しか出来ない人間に、真実は見極められない。

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    日本は世界で最も雇用者が守られている国、解雇は非常に難しい、という勝手な
    固定概念を持っている人は今でも少なくないのだが、実際のところ、日本は先進国の
    中でも、最も解雇がしやすい国となっている。

    リーマンショック以降、ますます日本の雇用情勢が悪化しているが、首都圏では、
    既に数年ほど前から、実は『即日解雇』が横行している。 『明日から来なくても
    良いです』程度の事であれば、結構普通に言われたりもするため、労働者側も
    気が気ではない。

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    派遣社員に至っては、3ヶ月おきに契約更新(企業側にしてみれば、解雇の機会)が
    あるため、いつでも自由に人材の出し入れが自由となり、雇用状況の悪化に更に
    拍車が掛かった。 期間限定の契約社員の場合は、その契約期間内での契約の解雇は
    非常に難しいが、その契約さえ切れてしまえば、幾らでも解雇し放題。 

    数年前までは、『派遣切り』なる言葉が存在したが、今となっては、既に死語と
    化している。 それに変わって出現したのが、『雇い止め』という言葉。 派遣
    労働法改悪後、それまでの6ヶ月単位での派遣契約を3ヶ月単位に短縮したため、
    企業側はお気に召さない労働者が居た場合、契約満了最後の1ヶ月前までに
    労働者側に通達をすれば済むようになった。 派遣社員の場合は、自分の契約が
    更新されない理由すら一切明かされないまま、暗黙の了解として契約を切られる。

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    正社員の数自体も、労働者全体の30%前後と既にかなりの少数派であるため、
    今更残業代なしやボーナスなしなどという話をしても、余り意味がない。
    正社員の数は年々減少しており、業種によっては、既に8~9割方が派遣社員で
    あるため、正規雇用での労働者は、絶滅危惧種に指定して保護した方が良い。

    日本では、一旦企業に入社をすると、まず転職はしないため、一生をその企業で
    過ごすというイメージが余りにも強く、実際のところ、企業側も、転職者を余り
    良くは思ってはいない。 また、転職を希望しない社員が非常に多いことも
    企業側は既にお見通しで、これが、企業側の正規雇用での労働者の募集を大幅に
    減らしている理由となっている。 つまり、労働者の流動性が低いのは、正社員
    の話のみと考えて間違いない。

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    大企業では、労働組合があり、簡単に解雇することは確かに難しいのだが、多くの
    中小企業には、この労働組合が存在しないため、実際のところ、解雇は日常的に
    行われている。 当日解雇に至っては、企業側が、翌月分の給料さえ支払えば、
    労働法上、特に問題にはならないため、これで泣き寝入りを強要される場合も多い。
    個人で加入出来る労働組合、『労働者ユニオン』なるものも存在するが、実際の
    ところ、日本の法律には穴があり過ぎるため、対応を断れらることも多い。

    アメリカでは、労働者を解雇をするためには、相当な裏付け理由が必要となるため、
    雇用の時点で、細かいルールが定められており、それに反した場合は、憲法違反
    となるが、日本の場合は、ブラック企業の社長の気分次第で、どうにでもなる。

    日本は、雇用の流動性が非常に低いと言われているのだが、それは終身年功制が
    浸透している極一部の大企業での話であり、これは、雇用者全体の2割程度に
    満たない。 残りの中小企業に勤務している労働者たちは、企業のブラック化が
    激しいため、実は流動性が高い。 常に同じ求人ばかりを数年間にも渡って掲載
    している企業は、人材の入れ替わりが余りにも激しいため、ものの数ヶ月単位で
    その企業に見切りを付けた社員が去って行く。 人材不足が叫ばれて久しいが、
    それは、サービス業や建設業に限られた話で、それらの殆んどブラック企業で
    あるため、既に日本人は寄り付かず、中国人等の外国人労働者ばかり。

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    バカにばかり優しく、専門家にはとことん手厳しい日本社会に未来はない。 特に、
    アナログな50代以降は、バブル時代に入社しており、特に苦労らしき苦労もなく
    入社を果たしており、金持を持っている割には、お金を余り使わないため、経済が
    回らなくなった。 老後が不安、将来が不安などと言っている人間に限って、お金を
    持っていたりするが、それが日本経済をダメにしている原因。 これは、そっくり
    そのまま、給与にも反映されており、役員ばかりの右肩上がりの給与を支えている
    下っ端社員の場合は、むしろ、収入が下がり続けている。 

    専門性など一切関係のない日本では、誰でも起業しようと思えば、出来るのだが、
    それが、日本がブラック企業だらけになった根本的な原因。 そもそも、何も
    知らない人間が、根性論だけで、気軽に商売をしているため、収拾がつかない。
    アメリカ式の何でもありの金儲け主義は、いい加減終わりにすべき。 

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    ①世界第2位の重税国家
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    ②世界最高の公務員年収(2位の2.5倍)
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    ③世界最低水準の社会扶助
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    ④先進国最悪の家計貯蓄率 
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    労働時間平均と世帯年収平均(日本円換算)

    日本 :2350時間(世帯年収平均:445万円) 
    オランダ :1300時間(世帯年収平均:380万円) 
    アメリカ :1800時間(世帯年収平均:495万円) 
    イギリス :1650時間(世帯年収平均:400万円) 
    イタリア :1550時間(世帯年収平均:310万円) 
    フランス :1400時間(世帯年収平均:350万円) 
    ドイツ :1350時間(世帯年収平均:360万円) 

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    • 年収300万円未満の世帯 日本人の約30%
    • 年収200万円未満の世帯が17.5%
    • 無貯金世帯23.8% 単身世帯は41.1%
    • 無保険(国保)30万世帯
    • 働いても生活保護以下のワーキングプア 400万世帯(全世帯の1割 )
    • サラ金(消費者金融)利用者 2200万人(平均借入額101万円)
    • 自己破産者数 30万人
    • 自殺者年間 約3万2千人
    • フリーター417万人(国内労働人口の5人に1人 )
    • 完全失業者313万人
    • ニート85万人
    • 不登校 13万8722人(35人に1人)
    • 引きこもり110~150万人(推定)
    • 生活保護受給世帯103万人
    • 日本の貧困率 先進国30ヶ国中 第2位
    • 一人当たりGDP 日本は先進国下位の世界18位
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    2017年4月26日、国際NGOの国境なき記者団(本部パリ)が『報道の自由度
    ランキング』を発表した。 調査対象の180カ国・地域のうち、日本は昨年と同じ
    72位だったが、52位のイタリアに抜かれて主要国7カ国(G7)で最下位と
    なったが、日本は、アジアでも既に香港、台湾、韓国などよりも下位に位置
    している。

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    ランキングは各地で働く記者や専門家へのアンケートをもとに作成。 北欧諸国が
    上位で、中東シリアや北朝鮮が下位に並ぶ傾向は変わっていないが、世界各地で
    『民主主義が後退し、ジャーナリズムの力が弱まっている』と警告している。

    日本は2010年の11位から順位の低下が続く。 安倍政権への辛口キャスターらの
    降板なども踏まえ、『メディア内に自己規制が増えている』『政権側がメディア
    敵視を隠そうとしなくなっている』などと問題視。 特定秘密保護法については、
    国連の特別報告者から疑問が呈されたにも関わらず『政権は議論を拒み続けている』
    とした。

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    43位だった米国については『トランプ大統領がメディアを民衆の敵だと位置付け、
    いくつかのメディアのホワイトハウスへのアクセス制限を試みた』と警戒感を示した。
     
    (カッコ内は前年との比較)
    1 ノルウェー(3)
    2 スウェーデン(8)
    3 フィンランド(1)
    4 デンマーク(4)
    5 オランダ(2)
    16 ドイツ(16)
    22 カナダ(18)
    39 フランス(45)
    40 英国(38)
    43 米国(41)
    52 イタリア(77)
    72 日本(72)
    148 ロシア(148)
    176 中国(176)
    177 シリア(177)
    178 トルクメニスタン(178)
    179 エリトリア(180)
    180 北朝鮮(179) 

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    エストニアとラトビアは、中世を通じて、数世紀に渡ってドイツ騎士団やその他の
    勢力の支配下にあった。 それに対してリトアニアは、14世紀の半ばリトアニア
    大公の下に大公国を形成し、その公国は、バルト海からモスクワ、そして、一時は、
    黒海沿岸にまで広がっていた。

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    1386年に行われた大公の孫ヨガイラとポーランド女王ヘドヴィクの結婚は、大きな
    影響をもたらした。 大公家と共にリトアニア国民もカトリック教徒となり、この時
    成立したリトアニアとポーランドの連合は、その後400年以上も続いた。 数世紀に
    渡り、リトアニア地方は、ポーランドの一州となり、そのして、1795年に第三次
    ポーランド分割の後、ロシアの支配を受けることとなった。

    第一次世界大戦中、リトアニアは、ドイツ軍に占領されたが、1918年に共和国
    として独立した。 その後、ベラルーシとリトアニアの地域に社会主義ソビエト
    共和国が成立したが、ピルスドスキ率いるポーランド軍が、赤軍をリトアニアの
    首都であるビリニュスとその周辺から駆逐した。 この歴史的な街は、その後、
    数々の戦いが繰り返されつつも、1939年までポーランドの支配下に留まった。

    1939年の独ソ不可侵条約における秘密議定書に基づいて、ソ連軍は、リトアニアに
    駐屯し、リトアニア政府の組織を手助けした。 そして、1940年、リトアニアは
    連邦構成共和国となった。

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    【大衆の力で勝ち取ったソ連からの解放】
     ペレストロイカ政策時代、民族自立への歩みを進めるにあたって、この国は、
    非常に好条件に恵まれていた。 それには、多数民族の割合が高いことも
    大きく起因している。 1988年10月、リトアニアの人民戦線『サユジス』
    (ペレストロイカを支持する運動)が創設された。 彼らは当初、ソ連からの
    分離独立を目指していた訳ではなかった。 むしろ、その目標は、リトアニア
    文化とロシア文化を対等なものとして取り扱い、2ヶ国語の使用を認めることと、
    経済的な自立を促進することであった。

    サユジスは、それによって多くの国民の支持を得た。 1987年8月23日に起きた、
    ヒトラー・スターリン協定に抗議するデモは、非常に小さな一群によって行われた
    のであったが、それがその後1年程の期間を経るうちに、20万人から30万人もの
    人々が参加する大衆デモへと成長して行った。 独立への気運はますます高まり、
    1990年3月リトアニアは独立宣言を行った。

    リトアニアの連邦離脱宣言に対し、ゴルバチョフは、初め戸惑いを見せていたが、
    その後、資源輸出の停止という対抗処置を取った。 1990年7月、モスクワ政府との
    交渉の間、リトアニアは独立宣言を一旦引き下げ、それによって経済制裁は停止
    された。 モスクワにおけるクーデターの失敗後の1991年9月6日、ソビエト国家
    評議会によって、リトアニアの独立は遂に承認された。

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    ウクライナという国名は『辺境地帯』を意味する。 この名前は、13世紀に
    モンゴル人の侵攻を受けた後の時代に使われるようになった。 しかし、この地域は
    元々、辺境どころか、東スラブ地域で初の国家が形成される舞台となった重要な
    地域であった。

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    今日のウクライナの首都キエフで、9世紀にキエフ公国が成立した。 この国家は、
    後のロシア帝国の起源とみなすことが出来る。 これが、『キエフはロシアの全ての
    ロシアの都市の母』と言われる由縁である。

    1240年、この国は、モンゴル人によって破壊された。 その後、政治的な
    中心地は、北東のウラジミール、スズダリ、そして、最後にモスクワへと移って
    行った。モンゴル人やタタール人の騎馬兵に襲撃され続け、ますます住民の
    減っていたウクライナは、これらの地域から見ると、正に辺境と化したのである。

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    【民族的アイデンティティーを求めての戦い】
    その後の数世紀間、ウクライナは、ポーランドとリトアニアの支配を受けることと
    なった。 その間、脱走した農奴たちがコサックと呼ばれる集団を形成し、
    ポーランドの支配に抵抗し始めた。 コサックの首長であったフメリニツキは、
    1654年にウクライナをモスクワのロシア皇帝の保護下に据えた。

    しかし、ロシア皇帝は当初、ウクライナ全体のうち、ドニエプル川以西の地域しか
    その支配を主張することが出来なかった。 ロシア帝国が事実上ウクライナ全域
    (オーストリアの支配を受けたガリツィア地方を除く)を支配するようになるのは、
    18世紀になってからのことである。

    この時代、ウクライナ独自の文章語が次第に形成されて行った。 しかし、ロシア
    政府はこれをロシア語の一方言(小ロシア語)として位置付け、公の場での使用を
    禁じた。 19世紀になると、ウクライナの民族意識が高揚し、民族運動が展開される
    ようになった。 この時点では、自分たちの文化的独自性の保存を求めるに留まって
    いた。 しかし、20世紀になると、国家としての独立を求める声が高まって行った。

    1917年のロシア革命の直後、民族運動の高まりによって、1918年初頭に
    ウクライナは独立を宣言した。 ロシア・ソビエト共和国は、ブレスト・
    リトフスクの和約を結んでこれを認めなければならなかった。 しかし、その後の
    内乱で、ボリシェビキが勝利を収め、1919年『ウクライナ・ソビエト社会主義
    共和国』が設立された。

    共和国は、1922年ソ連に加盟した。 ソ連の指導者は、初めの数年は、彼らの
    民族的利権、とりわけ、文化面における独自性を考慮した政策をとっていた。
    しかし、スターリンが政権を握るようになって以来、1920年代を中心に民族
    主義的な主張を行う者に対して、激しい迫害がなされた。 農業などの集団化を
    強制的に進める中で、あるいは、意図的に引き起こされたとも考えられる飢餓に
    よって、ウクライナ人の間に100万人規模の犠牲が出た。

    【独立国家共同体創設の主唱国】
    改革路線の時代が到来すると、1980年代後半を中心に、ウクライナの民族運動にも
    新たな展開が繰り広げられた。 1990年夏、ウクライナは、主権を宣言し、1991年
    8月には独立宣言は発せられた。 当初、ウクライナは、連邦制の維持を目的とした
    新連邦条約に関する協議に参加していたが、その後、態度を変え、新たな中央集権
    構造の設立に強く抵抗し、完全独立を主張するようになった。 独立国家共同体の
    創設に主唱国の1つとして参与した際にも、彼らは、独自の軍隊を編成し、黒海に
    おける旧ソビエト連合艦隊の指揮権を保持することを求めた。 これによって、
    ロシアとの間に対立が生じている。 ウクライナは、旧ソ連の国連における3つの
    議席の1つを占めていた。

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    13世紀の初め以来、ドイツ騎士団がラトビアを植民地化し、彼らはポーランドと
    手を組んでロシアに対抗した。 リボニアは、ポーランド・リトアニア連合国家、
    後のスウェーデンの手に渡ったが、一方ドビナ川南側の地域は、クールランド
    (クルリャンド)公国とゼムガレ公国として領土が保障された。

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    ピョートル大帝の時代にロシアは、リボニア騎士団の征服に成功し、エカテリーナ
    2世がポーランドを分割によってその支配権を確実にした。 1772年の第一次
    ポーランド分割によって、ラトガレ地方がロシアの手に落ち、間もなくラトビア
    全土がロシアの支配下に置かれた。

    しかし、度重なる支配者の交代にも関わらず、ラトビアの人たちは、19世紀に
    入っても尚、ドイツ・バルト騎士領の領主の下で農奴として生活していた。
    そのため、都市にもドイツの影響が色濃く残っている。 19世紀末に工業化が
    始まると、ラトビアの都市住民の存在が大きな意味を持つようになった。

    ラトビア人は、ロシア皇帝政権によって、抑圧を受け、また、ドイツ・バルトの
    大地主たちからも社会的に冷遇されて来た。 そのため、1905年にロシアに
    革命が起きた時には、革命派の側に付く者もいた。

    ロシア皇帝政権の崩壊後、ラトビア人は、民族の独立を目指して新たに戦いを
    始めた。 1920年、長い闘争の末、ようやく独立を勝ち得たが、それも長くは
    続かなかった。 1939年の独ソ不可侵条約における秘密議定書によって、
    ラトビアはソ連に編入された。

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    【毟り散られる自国の富】
    1945年以来、ラトビアの経済構造は大きく変化し、以前は農業を主体とした
    地域であったのが、ソ連の近代的な工業地帯へと様変わりした。 例えば、
    工業化や交通整備の度合い、経済発展の速度や経済効率は、ソ連の平均的な
    水準を遥かに超えている。

    しかしながら、ラトビアは、自国の富の恩恵を受けていなかった。 と言うのは、
    ソ連の計画経済に沿って、製品の大部分を他の連邦共和国に輸出しなければ
    ならなかったからである。

    【民族独立への突破口】
     1980年代末、ゴルバチョフ政権のペレストロイカの下で、ラトビアの民族運動の
    再開がようやく可能となった。 1989年以来、独立への闘争が強まるに連れて、
    モスクワとあつれきが生じることになった。 モスクワで保守派のクーデターが
    失敗した直後、1991年8月21日に独立を宣言し、同1991年9月6日、ソビエト国家
    評議会によって、承認された。

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    13世紀、エストニアは、ドイツ騎士団の支配下に置かれた。 19世紀まで、
    都市部ではドイツ貴族が、地方では、ドイツの地主が、上層階級として支配
    していた。 彼らは、言語は違うが、父権主義的な社会を形成していた。
    宗教改革以来、プロテスタント信仰が彼らとエストニアの農民たちを結び
    付けていたのである。

    estoni

    1710年にエストニアは、スウェーデンとの北方戦争に勝利を収めたピョートル
    大帝によって征服され、他のバルト諸国同様、第一次世界大戦までロシアの
    一部であった。 その後1920年、帝政の崩壊の時代にエストニアは独立した。
    1939年のヒットラー・スターリン会談では、2人の独裁者の利害によって、
    東部中央ヨーロッパにおける国境問題が話し合われ、その結果、エストニアは、
    ソ連の勢力範囲に入れられ、それを受けて、この地域は、1940年に赤軍の手に
    渡った。

    その後、外部から差し向けられた政府が、憲法と選挙権に反した『選挙』を
    指導し、8月6日には、ソ連に併合された。 その後、工業施設や農業用地が
    収用され、6万人近くのエストニア人が追放された。 1941年にドイツ軍が
    進撃して来た際には、少なからずの人々がソ連への隷属から解放してくれたと
    感じた。

    1944年以降、エストニアは、再びソ連の支配下に戻り、その経済構造や社会
    秩序はソビエト化された。 経済の構造は、農業の集団化と、それと平行して
    行われた工業の国営化によって、根本的に変わった。 また、多くのロシア人が、
    工業開発の人材要員として、また、幹部などの上層階級として次々と移住して
    来た。

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    【目覚めた民族意識と翻る国旗】
    1989年秋、エストニアのソビエト最高会議は、これ以降、エストニアの法律は、
    ソ連の法律に優先し、連邦の法律は、エストニア議会の承認、あるいは、修正を
    経て初めて効力を発すると宣言した。

    段階的に進められて来たエストニア独立は、1990年に独立宣言を採択したことで
    決定的になった。 モスクワでゴルバチョフの改革に反対したクーデターが失敗
    した直後の1991年8月21日、エストニアは、最終的に独立を宣言した。 そして、
    それは同年9月6日、ソビエト国家評議会によって承認された。

    この日、エストニアは独立への長い道のりのクライマックスを迎え、首都タリン
    では、独立国家エストニアの国旗である、青、黒、白の旗が高々と掲げられた。

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    キルギスの人口は440万人で、そのうち、キルギス人がそのおよそ半分を
    占めている。 キルギス人は、ウズベク人(人口のおよそ12%)やタタール人と
    同様、トルコ系民族で、イスラム教スンニ派を信仰している。

    それに対して、ロシア人(約25%)やウクライナ人(2.5%)はスラブ系民族
    である。 彼らは、異なる文化を持ち、キルギスの中ではますます異質な
    存在となり、両者の間の対立が今日、強まりつつある。

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    現在のキルギス人の祖先は、トルコ系民族とモンゴル系民族であった。
    キルギス人が一民族としての意識を持つようになったのは、早くとも、18世紀
    以降のことと考えられている。 キルギス人が遊牧してた地域は、19世紀以来、
    コーカンド・ハン国の支配下に置かれていた。 1830年頃には、ロシア人の
    入植が始まり、1876年には、コーカンド・ハン国がロシアに併合され、
    キルギス人は、完全にロシア皇帝政権の支配を受けることになった。

    もっとも、それ以前にも、既に、自身の意思によってロシア皇帝に従っていた
    キルギス人も居た。 それにより、更に多くのロシア人やウクライナ人が入植し、
    キルギス人の牧草地は、彼らのものとなった。 その結果、キルギス人は、
    牧畜のかたわら、耕作も余儀なくされた。

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    【反ロシア抵抗運動から独立へ】
    1916年に起こった反ロシア抵抗運動は、全トルキスタンに広がり、キルギスも
    それに加わった。 1917年の革命後、キルギスは、『トルキスタン自治ソビエト
    社会主義共和国』の一部となり、この共和国は、長い抗争の末、最終的には、
    ボリシェビキが治めることとなった。

    トルキスタンの行政区分は、何度も変えられた。 1926年『キルギス自治共和国』が
    ロシア共和国内に設立され、1936年には、『キルギス・ソビエト社会主義共和国』
    として連邦構成国となった。 その後、住民たちの激しい抵抗にも関わらず、
    農業の集団化が強行された。

    キルギス語は、この時代まで、文字を持っていなかったが、初めにラテン文字、
    そして、1940年からは、キリル文字が取り入れられた。 ロシア以外の全ての
    共和国にとって、ロシアの党幹部は、独裁者以外の何者でもなった。 1980年代
    後半、ようやく民族運動が実を結び始め、1990年12月15日、キルギスタンとして
    主権を宣言、翌年8月31日には独立を果たした。 そして、同年12月21日には、
    独立国家共同体(CIS)に加盟した。

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    タジキスタンの人口は、およそ520万人であるが、国名の由来であるタジク人の
    占める割合は59%に過ぎない。 隣国のトルクメン人、ウズベク人、キルギス人は
    トルコ系民族である。 しかし、宗教では、隣国民と同様、イスラム教スンニ派を
    信仰している。 タジキスタンの最大の少数民族はウズベク人で、彼らは、人口の
    23%を占めている。 その他にはロシア人10%、タタール人3%が住んでいる。

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    タジク人は、インド・ヨーロッパ語系の言語を使用し、恐らく、紀元前から既に
    中央アジアに定住していた。 時代の移り変わりと共に、彼らの住む地域は、様々な
    民族によって侵略された。

    17世紀以降、タジク人は、ウズベクのブハラ・ハン国によって支配され、その結果、
    タジク人のウズベク化が進んだ。 今日のタジク語に多くのウズベク語の外来語が
    あるのは、この時代の歴史に由来する。 19世紀には、ロシア帝国が中央アジアに
    侵攻した。 この際、現在のタジキスタンの北部は、ロシア帝国のトルキスタン
    総督領に併合された。 また、南部は、ブハラ・ハン国の支配下に留まった。
    このブハラ・ハン国は帝政ロシアの下で、自治的な地位を守った。

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    【自らの言葉と共に目覚めた民族意識】
    ソビエト政権が確立し、行政組織の様々な変革が行われた後、1924年に『タジク
    自治共和国』が『ウズベク共和国』内に設立された。 1929年には、『タジク・
    ソビエト社会主義共和国』として連邦構成国に昇格した。この時、タジキスタンは、
    その歴史において、初めて独立した国家となった。 しかし、もちろん共産党の
    独裁の下では、自決権を持っていなかった。 しかし、それにも関わらず、
    タジク人の間に国民意識は徐々に芽生えて行った。 それは彼らがタジク語の
    文章語を守り続けたことによっても促進された。 1930年代の粛清の時代には、
    タジク人の知識人たちは、『ナショナリスト』と非難され、迫害された。

    1980年代、旧ソ連全土で見られた諸民族の抵抗運動が、このタジキスタンでも
    起こった。 1990年8月24日、タジキスタンは主権宣言を採択、翌1991年9月9日に
    独立を宣言し、同年12月21日には独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    この国の複雑に入り混じる諸民族の間には、緊張が高まっている。 既に多くの
    ロシア人がこの国を去って行った。 ウズベキスタンとの間にも、国境問題や
    少数民族が存在する、歴史的にも民族的にも非常に近い関係であるイランとの
    繋がりも、今後見直されて行く事であろう。 イスラム原理主義の次第にこの地に
    根を下ろし始めている。

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    ウズベキスタンの人口は、約2070万人で、そのうちの71.4%がウズベク人である。
    彼らは、トルコ系民族(この民族は、以前は中央アジアで遊牧民として生活
    していた)に属し、イスラム教スンニ派を信仰している。

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    人口の8.2%を占めるロシア人が最大の少数民族で、以下、タジク人4.7%、
    カザフ人4.1%、タタール人、朝鮮人、キルギス人などが住んでいる。 約2%を
    占めるカラカルパク人の定住地域は、1932年に自治共和国になった。

    ウズベク人の名前は、14世紀に部族を統合支配したキプチャク・ハン国の君主、
    ウズベクの名に由来する。 17世紀には、ブハラ・ハン国(18世紀以降ブハラ
    首長国)、コーカンド・ハン国、ヒバ・ハン国が形成され、今日のウズベクの
    国の基礎が築かれた。

    これらの国は、今世紀初頭まで存在した。 1860年台、1870年代、ロシア人が
    勢力を拡大し、ウズベク人の統治地域は、彼らの支配を受けるようになった。
    コーカンド・ハン国は帝政ロシアに完全に併合されたが、ブハラ・ハン国と
    ヒバ・ハン国は、その保護領となり、ある程度の自治が認められた。 ロシア
    皇帝政権のロシア化政策の結果、早くも1898年には民族の反乱が起こり、
    その後発生した1916年の大蜂起は、トルキスタン全域を巻き込んだ。

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    【20世紀の歩み】
    1917年に権力の座に就いたボリシェビキ派は、長い戦いの後、中央アジアにおいて
    勝利を収めた。 支配体制の再編が繰り返され、1924年に『ウズベク・ソビエト
    社会主義共和国』が設立された。 同国に属していたタジク自治共和国が、1929年
    には『タジク・ソビエト社会主義共和国』として独立し、連邦構成共和国に昇格
    した。 ウズベキスタンのソビエト化は、暴力をも辞さずに遂行された。

    民族運動は弾圧されていたが、1980年代になって盛んになった。 ウズベキスタンは
    1990年8月31日には独立宣言を採択した。 同年12月21日は独立国家共同体
    (CIS)に加盟した。 隣接するキルギスやタジキスタンとは、国境問題や少数民族
    問題のことで対立している。 また、国内の民族抗争も大きな問題となっている。

    1989年には、スターリン時代にグルジアからウズベキスタンに移住して来た、
    メンシェビキ派の人々に対する敵対も起こっている。 このように国内での対立が
    表面化して来たため、ここ数年、10万人ものロシア人とウクライナ人がウズベクの
    地を去っている。

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