多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    2016年12月

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    14世紀の終わりに、司祭ヤン・フスに率いられたボヘミアの宗教指導者グループが、
    カトリック教会の権力と富に抗議した。 この活動が広まるのを恐れた教会の
    指導者たちは、フスを捕らえ、1415年に処刑した。

    彼の死は、ボヘミアに宗教的な内戦を引き起こし、フス派と呼ばれたフスの信者が、
    スロバキアにまで入り込んで来た。 15世紀後半に、チェコの貴族ヤン・ジスカは
    西スロバキアに侵入し、フス派の教義を伝えた。

    16世紀はじめのドイツでも、フスの思想はローマ教会のあり方に抗議する考え方を
    目覚めさせ、マルティン・ルターがカトリック教会から離脱して、ルーテル派教会を
    確立した。 プロテスタントとして知られるルーテル派は、スロバキアの貴族や
    都市部の人たちを改宗させた。 彼らの多くは、ハンガリーやドイツ人であった。
    しかし、地方に住むほとんどのスロバキア人は、伝統的な宗教ローマ・カトリックの
    信仰を守った。

    luther500th

    ちょうどその頃、新たな脅威がハンガリーや中央ヨーロッパ全体を襲っていた。
    オスマン・トルコの軍隊が取るこの基地から出発して、ドナウ川流域を進軍し、
    ハンガリーの首府であるブダ目指して侵入して来た。 1526年、ハンガリー国王
    ラヨシュ2世は、ハンガリーの南の町、モハチでトルコ軍と戦った。 トルコ軍は、
    ハンガリー軍を破り、ラヨシュは戦場から脱出の途中に戦死した。

    ラヨシュの死で、トルコ軍はブダを征服し、ドナウ川の北までを占拠した。 東ハンガリー
    地方のトランシルバニアは、ハンガリーから独立した。 トルコの侵略から守るために、
    西ハンガリーの人たちは、オーストリア皇帝フェルディナントを国王に迎えた。 結果、
    強大なハプスブルグ王朝の一員であるフェルディナントは、ハプスブルグの支配を
    スロバキアやボヘミア王国へ広げた。

    1535年にハンガリー議会は、トルコ軍からの侵入に備えて、ブダからブラチスラバへ
    移った。 多数のハンガリー貴族もまた、安全と独利のために、更にトルコのスルタン
    から課せられる重税を逃れるために、ドナウ川の対岸へ移り住んだ。 彼らは、
    トルコの支配から逃れたが、スロバキア人の多くは、奴隷として拘束され、ハンガリー人
    の領地に残った。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ポルトガルは、ヨーロッパ大陸の南西の端、大西洋に面し、大陸を背にしている。
    海洋国家として、漁業に、航海と探検に、幾世紀にも渡る盛衰の歴史を経て来た。
    海岸線が長いため、侵略されやすく、そしてまた、人の往来も盛んで通商も栄えた
    のである。

    ローマ帝国による支配時代は、ルシタニアと呼ばれ、紀元前1世紀から紀元後
    5世紀まで続いた。 その後、ポルトガルの領土は、ゲルマンとアラブの標的に
    され、征服されてしまったが、12世紀になると、ポルトガル北部が独立した王国に
    なった。 そして1世紀後、南部もその王国に加わったのである。

    e227c65

    国内を平和に治めると、王や諸侯たちは、冒険と貿易を求めて海洋に出て行った。
    1400年代から1500年代に掛けて、ポルトガル人は、アフリカ、インド、アジアと遠く
    航海の旅に出て、香料や絹、高価な石を持ち帰っては、ヨーロッパ市場で売り、
    大儲けをしたのである。 貿易が盛んになると、植民地も出き、ポルトガルは、
    南米大陸のブラジルからアジアの中国に至るまで、広大な帝国の一大中心となった。

    活動を世界に広げて行ったが、国としては、その後数世紀の間、たいした変化もなく、
    国内経済はもっぱら農業に頼っていた。 北部ではブドウを栽培し、小規模ながら、
    家畜を飼った。 南部には大地主たちが居て、広い土地に穀物やオリーブ、コルクを
    作った。 国家収入の大半は、植民地から吸い上げたもので、植民地との輸出入
    貿易がなければ、当時のポルトガルは、なんとも貧しい国だったのである。

    fportugal

    19世紀初頭、ポルトガルの植民地の中で、最も豊かだったブラジルが独立を宣言、
    ポルトガルはアフリカやアジアの植民地に一層頼るようになり、原材料をもらうと
    同時に、作った品物を売りさばいた。 20世紀初めになると、情勢が更に変化し、
    国内の民情不安と政治的混乱から王政は崩壊し、国王による統治に変わって、
    1926年までには独裁政権が誕生した。

    それから50年近くは、アントニオ・デ・オリベイラ・サルザールによる統治時代で、
    検閲が厳しく、政治に反対することは認められなかった。 サルザール政権は、
    農業、工業共開発努力を怠ったため、経済は衰退するばかりだった。 1960年代
    から70年代に掛けては、植民地各地が独立に立ち上がった。 そして、70年代
    半ばになると、ポルトガルの軍部までもが変化を求め、1974年、ついに無血
    クーデターを起こしたのである。

    クーデターから10年、ポルトガルは様々な政治、経済戦略で懸案を解決して行こうと
    した。 例えば、アフリカ、アジアの植民地を切り捨てて、目をヨーロッパに向けて
    投資と指導を求めて行った。 1986年、欧州共同体(EC)に加盟、西ヨーロッパ
    経済体制に仲間入りした。 ECはグループ全体の利益になるような貿易政策を
    取っているからだ。

    ECは、ポルトガルに多額の資本を投入、それによって、EC内で最も貧しい国である
    ポルトガルの農業と工業は近代化されて行くものと期待された。 しかし、
    ポルトガル人の中には、過去のノスタルジアにひたり、ポルトガルのような小国が
    果たして、他のECの豊かな大国と競争して生き残れるのだろうかと疑問に思っている
    人たちも居る。 こうした考え方の違いもあって、ポルトガルの将来はまだ不安が
    残っている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ブルガリアは、ヨーロッパ東南部バルカン半島にある人口約900万人の国である。
    40年以上もの間、ブルガリアは、共産圏ブロックの一国で、ソビエト連邦と密接な
    関係を結んでいた。 ブルガリア共産党は、農業と工業を国有化し、反対党の存在を
    一切認めずに、国を支配していた。 1990年にブルガリア人は共産党政権を終わらせて、
    新しい民主的な共和国を建設した。

    ブルガリアは6世紀から7世紀に掛けてブルガール人が定住して成立した国で、やがて
    バルカン半島で最も強大な国家となったが、14世紀後半になると、オスマン・トルコ帝国が
    この地域一体を征服した。 こうしてブルガリア人はトルコ人の支配化に置かれた。
    19世紀にオスマン帝国は弱体化し始め、1876年、ブルガリアはロシアから軍隊や武器の
    支援を受けて、解放戦争を始めた。 以後、トルコ人は、ヨーロッパから段階的に
    撤退して行き、ブルガリアは1908年に独立を達成した。

    klhg959

    第二次世界大戦の終わった1945年、ソビエト連邦はブルガリアや、その他いくつかの
    ヨーロッパ東部の諸国に共産党政権を押し付けた。 ブルガリア共産党が政権を握って
    からは、ソビエトは、資金や原料を供給して、ブルガリア経済の発展を支援した。
    工業化が進められ、健康管理と教育を改善されて、生活水準は少しずつ向上した。
    ブルガリアは、1950年代から60年代に掛けて、他の東ヨーロッパ諸国が共産党指導者に
    反抗するようになっても、変わらずソビエトの忠実な同盟国であり続けた。

    しかし、経済問題と政治上の不安定が、ついにブルガリアの共産党政権を消滅させた。
    現在の政府は、中央集権型の経済を止めて、自由市場システムへと移行したが、
    2010年のブルガリアのGDPは約448億ドルであり、日本の青森県とほぼ同じ経済規模で
    ある。 ブルガリア経済は1989年から劇的に縮小した。 特にソビエト連邦を中心とした
    東欧の市場を喪失したことは大きな打撃となり、生活水準は1989年以前の約40%にまで
    落ち込んだ。

    310026

    さらに、ユーゴスラビアに対しての国連の経済制裁は経済に更なる打撃を与えた。
    1994年には、国内総生産の成長と共にインフレーションを抑制するなど、回復の兆しを
    見せたが、1996年には貧弱な経済改革や、不安定な銀行システムにより再び悪化し、
    金融危機に陥った。 1997年以来政府は、2007年に向けてマクロ経済の安定と、
    国内総生産の毎年4~5%台の成長、欧州連合 (EU) への加盟を表明した。 その後、
    2007年1月1日に、ブルガリアはEUに正式に加盟した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1980年、食料と消費物資と電力の不足が深刻になった。 この年の夏、グダニスクの
    レーニン造船所の労働者たちは、講義のストライキを起こした。 他の都市の労働者たちも
    それに習い、3週間続いたストライキで国家機能は麻痺した。 政府は賃金の値上げや、
    労働組合を結成する権利などの要求に同意した。 その結果、全国的な労働組合である
    『連帯』が創設され、造船所の電気技師で、ストライキの組織者でもあったレフ・ワレサが
    議長となった。

    znaczekwalesa

    労働者たちの獲得した各種の権利は、政府への圧力となり、政府は他の面でも改革を
    迫られた。 ギエレクは政治犯を釈放し、新聞や放送に対する統制を緩和した。 しかし、
    ソビエトとポーランドの共産主義指導者たちは、これらの変化に抵抗し、国民は、ソ連の
    軍事と政治、両面に渡る介入を懸念しはじめた。 1981年、ギエレクは辞任し、厳格な
    共産主義者ヴォイチェフ・ヤルゼルスキが第一書記長に就任した。

    ヤルゼルスキは『連帯』を非合法化し、ワレサを逮捕した。 しかし、反政府でもは、尚も
    続き、ワレサは、1983年に釈放されて、再び『連帯』の指導者に返り咲いた。 ポーランドの
    労働運動は、カトリック教会に支持されていた。 教会のトップに立つ教皇ヨハネ・パウロ
    2世は、ポーランド人で、ポーランド政府にさまざまな改革を実行するように呼び掛けて
    いた。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1740年にマリア・テレジアが帝位を継ぐと、継承権を理由にプロイセンのフリードリヒ
    大王は、ボヘミア王国の伝統的領土のひとつシュレジアを奪った。 ハプスブルグ
    政府は、国力の増強と近代化に力を入れはじめた。 中央主権化が進み、チェコ人も
    オーストリアの近代化政策の恩恵を受けるようになった。

    マリア・テレジアの自由な治世に、教育界のカトリック支配は弱まり、チェコ人の文化は
    息を吹き返しはじめた。 ボヘミアに住む貴族たちは織物、手工芸、ガラス、鉱業などの
    新しい企業に進出するようになった。

    ボヘミア、モラビア、オーストリアは互いに交易を進め、関税同盟を結んで経済力を
    高め、ボヘミアとモラビア地域は、ハプスブルグ帝国の中でも最も進んだ工業地域と
    なった。

    a40ak2

    1780年にマリア・テレジアを継いだヨーゼフ2世は、改革を更に推し進めた。 ボヘミアの
    プロテスタントを除いた他の信仰の自由を認め、法を改定して、チェコ人がチェコ語の
    新聞を発行することを許した。 更に農奴を解放した。 15世紀末以来、はじめて
    チェコの農奴を解放した。 15世紀末以来はじめて、チェコの農民は農地と故郷を
    離れる自由を認められた。

    ボヘミアとモラビアの都市は、急速に発展して、新しく建設された工場での仕事が、
    土地を離れた農民を引き付けた。 1790年代のフランス革命の嵐は、フランス王朝を
    崩壊させた。 革命の指導者たちは、選挙による国会が立憲法を握る、共和政府
    樹立を要求した。 彼らは貴族の財産と教会権力の廃止も主張した。ハプスブルグ家を
    はじめとするヨーロッパの支配者たちは、革命が地震の権力失墜に及ぶことを恐れた。

    革命から間もなく、フランスの将軍ナポレオンは、ドイツとオーストリアに侵攻した。
    彼は、モラビアの南にあるアウステルリッツ(チェコ名スラヴコフ)の戦いでハプスブルグ軍を
    破った。 ハプスブルグが継いでいた神聖ローマ帝国は1806年に崩壊し、オーストリア
    帝国の名だけが残った。 オーストリア、ボヘミア、モラビア、ハンガリー、ポーランドと
    イタリアの一部がハプスブルグ領地に留まった。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    日本人が『便利さ』という一見良さげな言葉に騙されて忘れ去ってしまったもの、それは、
    その裏側には、それらのサービスを提供する上で、無理難題ばかりを押し付けられる
    サービス業が存在すること。 24時間営業、年中無休、細やかなサービス、それらの
    全てに、その影響が出ています。

    特に問題なのは、大手企業に限って、この無理難題を平気で吹っ掛けて来ることなの
    だが、本来、その無理難題を断るのが、管理職の仕事である筈。 日本の場合は、
    逆に、その無理難題ばかりを現場へと押し付けるためだけに管理職が存在するため、
    単なる奴隷社会に成り果てたとも言える。

    そもそも、労働基準法を管理しているのは、労働基準監督署と厚生労働省だが、
    ハローワークも含めて、その労働条件を監視するべき立場の公的機関が、一切機能
    していないため、このようなブラック企業ばかりの社会に成り果てた。 これだけ転職が
    上手く行かない時代なので、人材が足りないのであれば、幾らでも採用出来る筈だが、
    公的機関や、大手企業に限って、人件費をまともには出したがらないため、人手不足が
    続いているが、その原因を紐解くと、それらの機関や企業では、高収入な正規職員
    ばかりが多過ぎるため、それら職員へのまともな給与を捻出するために、それ以外の
    労働者を踏み台にしているとしか言えない。

    925519

    格差社会が問題になって久しいが、あえて、誰もそのような不都合な事実には目を向け
    ようとはしない。 特に、50代以上の『逃げ切りの世代』の場合は、後数年程度で定年
    退職を無事に迎えられるため、それまでは、あえて、見てみぬ振りがまかり通っているから
    である。 儲け第一主義で、人命や人権すらおろそかにしている社会に未来などない。

    大航海時代は、大いに栄えたであろう、ポルトガルやスペインが、その後没落したのは、
    このようなおごりからで、己の利益しか考えずに、社会に還元しなくなった社会には、
    衰退の道しか残されてはいない。 日本のガンは、大手企業の集まりである経団連で、
    特に、自民党との癒着が甚だしい団体であるものの、公的には禁止されている筈の
    政治献金もおおっぴらにしているのは、ひとえに、国民がそのような不都合な事実に
    フタをしているためとしか言いようがない。

    社会全体が、少しづつ我慢をすれば、このようなブラック社会は解消されるのだが、
    強欲資本主義の下では、『自分に都合良く働かせる』ことばかりが優先されており、心の
    余裕など、持ちようがない。 日本社会が、海外へ留学をした経験を持つ人材を極端に
    嫌うのは、日本社会がおかしいことを知っているため。

    【お勧めの一冊】




    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    9世紀の終わりに、中央アジアからマジャール人が、大挙してヨーロッパに侵入して来た。
    マジャール人は、906年にブラチスラバでスラブ人を破り、大モラビア帝国を滅亡された。
    戦いの後、現代のハンガリー人の先祖であるマジャール人は、スロバキアの都市や
    街を占領した。 一方、ボヘミアとモラビアは、ドイツの諸侯と同盟を結んだ。

    スロバキアの支配者となったハンガリー人は、村や都市を占領し、南の平原の彼方
    から指令を発して支配した。 スロバキアは今や、ハンガリー王国に属し、スロバキアの
    鉱山収入の権利はハンガリーに奪われた。

    大部分のスロバキア人は、法的に自由のない労働者、すなわち、農奴となった。
    マジャール王は、スロバキア人の奴隷を所有財産とみなし、貿易と鉱業で王や貴族は
    富を蓄えた。

    JT082

    1217年に、ハンガリー人支配者は、ブラチスラバをハンガリー王家から独立した都市と
    して認める勅令を出した。 ドナウ川の通交税でブラチスラバは潤い、最も豊かな商業の
    中心地となった。 しかし、1241年にドナウ川流域は、東アジアから来たモンゴル遊牧
    民族の残忍な侵入に悩まされた。 モンゴル人は、中央ヨーロッパの街を焼き払い、
    略奪の限りをつくし、翌年撤退した。

    モンゴル人侵略の後、ハンガリー人は東から最侵入を防ぐ決心をした。 多くの地主は、
    中央スロバキアの川に沿った平野に要塞を建設した。 東スロバキアの人口のまばらな
    平野の守りを固めるため、ハンガリー王は、北ドイツからサクソン人を招いて、この地方に
    新しく建設した街に定住するよう求めた。 国王は、コシツェに王発令の営業許可を
    与えた。 同時に24の新しい街と鉱山の街にも認可を授けた。 この許可のお陰で、
    鉱業と手工業から利益を上げる商人や、手工業者、貿易商などの豊かな階層の人たちが
    生まれた。

    a677af24

    ドナウ川沿いの交易は、スロバキアにも、中央ヨーロッパ諸国にも大きな利益をもたらした。
    ボヘミア王国オタカール2世は、兵力をスロバキアに進め、領土を地中海の内科医である
    アドリア海まで広げた。 しかし、1278年、オタカールは、隣国オーストリア公国の
    統治者であるハプスブルグ家のルドルフと戦って死んだ。 戦いの後、ハンガリーは、
    ブラチスラバと西スロバキアの支配権を取り戻した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    現代社会では、『経済格差』が深刻な社会問題になっているが、その格差社会の
    主な原因として、まず、雇用が非常に不安定な派遣規社員やフリーター、いわゆる、
    非正規雇用労働者の数ばかりが年々増大していることをあげることが出きる。

    2015年11月には、非正規で働く人達の割合が、初めて40%を超えたが、これは
    単なる全国平均であり、経団連に参加している主な大手企業に限って言うと、既に
    70%程度が派遣社員ばかりとなっており、正社員は、管理職のみという状況も既に
    全く珍しくはない。 

    sujidemir

    派遣社員や非正規社員は、企業側にとっては、便利で都合の良い社会の歯車で
    しななく、交通費やボーナス、挙句の果てには、昇給すら一切ないため、正社員との
    経済的な格差が広がるばかりである。 また、非正規雇用の身分のままでは、
    年齢が高くなるほど正社員への転換が難しいと言われており、アベノミクスで
    仕事が増えたと言っているのは、実際は、この非正規での雇用のみにほぼ限定
    されている。 

    jYbzvXlg

    この格差社会の問題点とは、所得格差の固定化、セーフティネットのあり方、
    高所得者と低所得者の階層の固定化がある。 派遣社員や非正規社員の給与の
    実態は、月収で20万円を割り込む人が多く、厳しい給与で働いている人ばかりが
    増え続けた結果、消費が落ち込み、経済が回らなくなった。 低所得で生活を
    している場合は、寝る間も惜しんでダブルワークやトリプルワークで務めている人も
    多いため、近年の関東の電車の車内やホームのベンチで、あられもない姿で寝崩れて
    いる人がめっきりと多くなった。

    派遣社員の主なデメリットは、正社員とは違い、働く期間が決まっている事や、
    働く企業の都合で解雇させられてしまう安定感の無さが常に付きまとい、いつ解雇
    させられてしまうのかといった不安が絶えない。 派遣社員と正社員の差は大きく、
    年収はもちろん、雇用の安定性、社員からの扱いも含め、派遣社員を取り巻く環境は
    年々厳しくなっている。

    【正社員とそれ以外の年収の比較】
    20160525134701

    ブラック企業の正社員に比べると、派遣社員は残業や責任も少なく、サービス残業も
    ないため、気楽であるのは確かなのだが、やはり、長期的な目線で考えると、圧倒的に
    派遣社員は不利となっている。 派遣社員は派遣会社にかなりの割合の中間マージンを
    取られており、恒久的な時給アップは事実上不可能。 また、いくらでも代わりがいるため、
    無理に賃金アップを要求すると、即契約打ち切りとなる。

    派遣社員から正社員になれるケースは、極々稀な場合にのみ限られ、実際には、ほぼ
    その可能性はないと言って間違いはない。 派遣社員を正社員にするためには、
    派遣会社に雇用料金を払わなければならず、それであれば、新入社員を雇った方が
    安上がりということになるため、非正規での派遣労働には余り期待をするだけ無駄だと
    言えるのかも知れない。 尚、派遣社員として働いている人の約40%程度が、正社員に
    なれないため、派遣として働いていると回答している。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    人間とは、非常に都合の良い生き物で、自分にとって不都合な真実は、なかなか
    受け入れようとはしない。 あえて茨の道を突き進むのであれば、心地の良い嘘を
    選択するのが人間の心理とも言えるのだが、そのような人間ばかりが増え過ぎた
    結果、真実と嘘の境界線がなくなってしまった。 嘘も大勢で押し通せば、真実に
    されてしまい、更にその嘘がマスコミに拾われてしまい、爆発的に広がると、もう
    既に手の施しようがない。
     
    人の噂も49日とは良く言ったもので、情報過多な現代社会においては、下手に抵抗
    して波風を立てるよりは、その場はじっとこらえて、嵐が過ぎ去るのを待った方が
    賢い選択とも言える。 SNS等、気軽に誰でも情報を発信出来るようになったのは
    良いが、その情報全てが正しいとは言えず、特に有料の雑誌、新聞、ブログ等に
    至っては、常にセンショーショナルな話題を振りまかないと、誰も見向きもしなくなる
    ため、例え事実にそぐわない内容であったとしても、読者の心をつかむような記事を
    書く以外に金儲けの術はない。
     
    20150402top
     
    普段から自分の頭を使って、色々と判断をする訓練をしていれば、多少の嘘ぐらいで
    あれば、簡単に見抜けるものなのだが、現代社会においては、特に何も考えずに、
    SNS上で平気で嘘をシェアしたりしているため、嘘の拡散の速度が年々加速している。
    嘘を計画的にばら撒いている人間は、最初から言語道断なのは言うまでもないが、
    それを何の責任もなしに気軽に世間に拡散しているのは、嘘を発信している人間と
    ほぼ同罪としか言いようがない。
    民主主義とは、そもそも、人民が権力を所有し、行使する政治のこと。 国民主権・
    基本的人権・法の支配・権力の分立などが重要とされる。 現代社会では、政治形態
    だけでなく、広く一般に、人間の自由と平等を尊重する立場を言うが、民主主義とは、
    無責任な発言を放置、容認するという意味では断じてない。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ドイツの首都ベルリンでクリスマス・マーケットにトラックが突っ込み、これまでに
    12人が死亡し、48人が重軽傷を負った。 ベルリン警察は、トラックが意図的に
    突っ込んだ事件だと断定し、現在調査を行っている。

    事件があったのは2016年12月19日午後8時頃で、クリスマスを控えて最も
    にぎわう時間帯だった。 地元メディアなどによると、トラックは人ごみの中を時速
    60キロ以上で突き進んだという。



    警察はトラックを運転していたとみられる男の身柄を拘束して取り調べている。
    地元メディアによると、男はパキスタン国籍の男とみられている。 ドイツの南部を
    経由して今年の2月に入国した難民とみられ、その後、微罪を犯した履歴が残って
    いるという。 警察は男が難民登録をしていたとみられる収容施設を20日朝から
    捜索しているという。

    更に、このトラックの助手席からは、1人の遺体が発見された。 地元メディアによると、
    遺体はポーランド人で、トラックに付けられていたのも、ポーランドナンバーで、
    運送会社は、『ベルリンに資材を運ぶ予定だったが、運転手と連絡が取れない』
    という。

    948941

    ドイツのメルケル首相は、この事件をテロ攻撃と見なして、各当局が作業を進めていると
    明らかにし、加害者に裁きを受けさせるため法を全面的に行使すると宣言した。
    メルケル首相はベルリンで全国向けのテレビ演説を行い、19日夜に発生した『恐ろしく、
    想像を絶する』事件によりドイツ全土が悲しみに暮れていると発言。 20日午後に
    現場を訪れる計画だと語った。 更に『犯人が、保護・難民認定を求めていた者だと
    したら、皆にとって特に耐え難いことだと認識している」と語った。

    トラックの前にいる警察官と比較すると、かなり大型であることがわかる。 トラックは
    12月19日夜、突然、ベルリン中心部のクリスマスマーケットに突っ込み、屋台や店舗
    などを次々となぎ倒した。

    hgfghkgf

    その後、過激派組織『イスラム国』が、犯行声明を出している。 警察は、事件が
    計画的犯行である見方を示し、その解明を急いでいる。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1939年9月1日、ドイツ軍は、ポーランドへの大規模な侵攻を開始し、同時にソビエト軍も
    東から攻撃を始めた。 2日後には、、イギリスとフランスは、ドイツに宣戦を布告したが、
    ドイツ軍どソビエト軍は、ポーランド国土を蹂躙し、国土を再び分割した。 ポーランドの
    指導者たちは、イギリスに逃れて亡命政府をつくった。

    ドイツ軍の爆撃と戦闘によって、グダニスク、ワルシャワ、その他の工業都市は破壊された。
    ナチスはポーランド国内に、アウシュヴィッツ(オシヴィエンツィム)など、いくつもの
    強制収容所をつくり、何百万人ものユダヤ人や政治的因人を虐殺した。 戦争中に
    殺されたポーランド系のユダヤ人は、300万人以上に上っている。

    84e9234f

    1941年、ヒットラーがソビエトと戦争を始めると、ドイツ軍はポーランド全土を占領した。
    しかし、1944年には、ソビエト軍は間もなくポーランド全土を占領し、更に進んでドイツの
    首都ベルリンを陥落させた結果、ナチス政府は、1945年5月についに降伏した。

    戦争中、アメリカとイギリス両国は、ポーランド臨時政府の閣僚たちをポーランドの公的
    指導者として承認した。 しかし、戦争が終わると、ポーランド共産党の支配する人民
    解放委員会は、臨時政府の帰国に反対した。 共産党員たちは、ポーランドを占領して
    いたソビエト軍の支援を受けて、政府の重要なポストを独占した。 臨時政府の閣僚
    たちは、祖国に帰れなくなった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1945年、ソビエト、イギリス、アメリカの3国は、ポーランドの新しい国境線について
    合意した。 ソビエトは、ポーランドの東部地域で18万1,300平方キロメートルの土地を
    併合し、ドイツの領土だった10万3,600平方キロメートルの土地がポーランドに加え
    られた。 国境線の変更によって、800万人ものドイツ人がポーランド北部と西武から
    立ち退いて行った。

    c98b9e92-s

    ポーランドの共産主義者達は、ソビエト連邦の共産党をモデルに、ポーランド共産党
    (統一労働党)を組織した。 この党は、労働組合を創設し、各都市と各州に行政委員会を
    置いた。 1947年、共産党は、選挙干渉を行って、ポーランド国内で共産主義者が多数を
    占めるようにした。 共産主義の指導者達はその後、自分達の国名をポーランド人民
    共和国と改めた。

    ポーランド政府はやがて、全ての民間企業を国営化した。 物価も労働賃金も政府の
    企画担当者が設定した。 農民達は、強制的に集団農場に加盟させられ、集団農場では
    種まきも収穫も農産物の販売も全て国家の管理の下に置かれた。 政府は、教会の
    土地を接収し、政権を批判する人々を逮捕し、いくつかあった反対党を共産主義者の
    管理の下に再編成させた。

    ポーランドは、ヨーロッパ中部に形成された共産主義国家ブロックの一員となった。
    このブロック内では、貿易も産業もソビエト経済と密接に繋がっていた。 ポーランド
    政府は、新しい工場を次々に建設したが、これは大型機械、その他の工業製品を
    ソビエトへ輸出するためだった。 ポーランドの共産主義者の中でも、ソビエトの影響に
    反抗する者は、その地位を失って行った。 1948年、ポーランドの共産主義指導者で
    あるヴァワディスワフ・ゴムウカは、ソビエトの政策に異議を唱えたため、投獄された。

    それでも、ポーランドの学生、芸術家、労働者は、政府に対して抵抗し、1956年、
    反政府暴動がポズナニに発生した。 このため、ポーランド政府はゴムウカを釈放した。
    ゴムウカは、ポーランド共産党第一書記(党首)に就任した。

    1cd104b0-s

    ゴムウカは、投獄されていたカトリックの聖職者達を釈放し、集団農場の大部分を
    個人農民に返還した上、西ヨーロッパ諸国との接触を強めた。 しかし、1960年代を
    通じてゴムウカは、ソビエト指導部の設定した政策の大部分に追随した。 国内では、
    共産主義への反抗がなおも続き、1970年に経済状態の悪化を巡って、広範な暴動が
    頻発したため、ゴムウカは退陣した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る

     

    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ