多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    マルチリンガル通訳・翻訳者によるブログ。

    英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、
    スペイン語、スウェーデン語他の多言語通訳/翻訳業を行っております (^-^)
    仙台弁、石巻弁、宮城弁、東北弁の方言指導、テープ起こしも致します。
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    2016年09月

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    11世紀になると、強力な諸侯が皇帝の権力に抵抗し始めた。 帝国は次第にスイス
    地域の支配力を失い、封建制度の下に勢力を増した諸侯が、広大な領地を統治する
    ようになる。 諸侯によって至るところに街が造られ、ヨーロッパの多くの地域との間に
    重要な交易が始まった。 村人達は、街の市場に家畜を連れて行き、スイスとイタリアの
    農村から運ばれて来た穀物と交換した。

    13世紀になる頃には、諸侯の中でも、特に強力なサボイア家、ツェーリンゲン家、
    キイーブルグ家、ハプスブルグ家の4家がスイスの大部分を支配していた。 なかでも、
    ハプスブルグ家が最も勢力を伸ばし、領地を広げて行く。

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    1237年に、ハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝になる。 その頃、
    小作人の中で、領地から逃亡するか、農作物を売って得た金で、自由の身になる者が
    大勢出た。 これらの小作人達は、スイス中部のシュウィーツ、ウーリ、ウンターワルデンの
    3州に移住した。

    神聖ローマ帝国の権力を握っていたハプスブルグ家は、自由と自治を得ていたこの
    3州を侵略し始める。 1291年に、3州の指導者達は、同盟を結んだ。 3州は、
    ハプスブルグ家に対抗して、独立国の建国を目指していたため、互いのタ対立を
    解決し、防衛し合うことを誓約したのである。

    3州は民主的な連合体を形成し、立法制度を打ち立てた。 各地域の住民は、1年に
    一度集会を開き、選挙によって代表を選び、和平や戦いに関する事柄を決めたのである。

    大きい街は、依然としてハプスブルグ家が統治していたので、同盟に加わったのは、
    主に農村部の村の住民だった。 他の地域の人々は、ハプスブルグ家に対抗する
    3州同盟の成り行きをじっと見守っていた。

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    山間部や川の流域の洞窟に人が住み始めた先史時代に、今のチェコにあたる地域、
    ボヘミアとモラヴィアにも人類が住んでいた。 紀元前500年頃、ヨーロッパの北と
    東から遊牧民ケルト人がやって来た。

    ボイイと呼ばれるケルト人がボヘミアに定住し、その地域とボイイと名付け、それが
    ボヘミアの由来と言われている。 ケルト人の集落や最大の都市ボイオヘムームは、
    交易で栄えた。

    czech-map

    しかし、ボイイ人は、西の地域に定住していたチュートン人(ドイツ系)と敵対関係に
    あった。 紀元前12年には、マルコマーニと呼ばれたチュートン人がボイイを征服した。
    ボヘミアとモラヴィアは、その後数世紀に渡って争いが続き、不穏な情勢にあった。
    侵入する遊牧民と、土地や交易をめぐって衝突が絶えなかったからだ。

    別のチュートン人一族がマルコマーニ人を征服して、南の盆地に定住したところ、
    アヴァール人とスラヴ人が東から移動して来た。 ローマ帝国軍の兵士達も、
    ヴァルタヴァ川の流域に前線基地を造るために、ボヘミアの森を通って前進して来た。

    ローマ人は、3世紀までにイタリア半島を基地に広大な帝国を築いていた。 しかし、
    外部からの侵入と政治的な内乱はローマ帝国を弱体化させ、ローマ帝国は、
    4世紀には東と西に分裂した。

    東西分裂の後、コンスタンティノープル(イスタンブール)は、東ローマ帝国の首都と
    なった。 しかし、ローマは、依然として西ローマ帝国の首都であった。 ふたつの
    首都共、ローマ帝国が公認したキリスト教の拠点としての地位を持った。

    175611

    4世紀に入ると、チュートン人が南ヨーロッパとイタリアに侵入し、西ローマ帝国は
    滅亡した。 その後、スラヴ人の大集団が移動し始めた。 スラヴ人は東、南、西の
    グループに分かれていた。 東スラヴ人はロシアに、南スラヴ人は南東ヨーロッパの
    バルカン半島に、西スラヴ人は中央ヨーロッパ北部の川の流域と平野に集落を
    作った。

    なかでも、現在のポーランド、ボヘミア、モラヴィア、スロヴァキアにあたる地域に
    定住した西スラヴ人は、最も大きな民族集団であった。 この民族大移動の時期に、
    ボヘミアとモラヴィアに到達したスラヴ人集団のひとつが、チェコ人の先祖である。

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    ロシア連邦、中国、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンと国境を接し、カスピ海
    にも面したカザフスタンは、国土の大部分が砂漠やステップ地帯である。 人が住める
    場所は限られていて、人口の大半は、首都のアスタナやアルマトイといった一部の地域に
    住む。

    kazakhstan

    ソビエト連邦が崩壊した後は、カザフスタン共和国として独立したが、ロシアを中心とする
    独立国家共同体(CIS)に加盟、ロシアとは良好な関係を結んでいる。 国民の6割近くが
    カザフ人で、残り3割をロシア人が占め、その他にも、ウクライナ人やウズベク人も住んで
    いる。 宗教もイスラム教とロシア正教が中心となっている。

    ソビエト連邦を構成していた他の共和国とは異なり、大統領のヌルスタン・ナザルバエフは
    ソ連時代から今日までずっと大統領職にあり、強力なリーダーシップを発揮している。
    一見、安定した国家のように見えるが、アルマトイでは、反ナザルバエフ派の市長が
    殺されたり、2006年には、野党連合の共同議長が射殺死体となって発見されるなど、
    事件が続き、この時は、容疑者として、国家保安委員会のメンバー5人が逮捕されている。

    nazarubaev

    日本の7倍もある国土は長大で、全ての国境を警備することは不可能に近い。 特に、
    2001年の9.11テロ以降は、テロ組織アルカイダや外国の反政府組織のメンバーらが
    潜伏するのに好都合とばかりに、出入りしている事実もあり、中でもウズベキスタンとの
    国境は、厳重な警備が敷かれている。

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    北にロシア、西に黒海、南にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンに囲まれたグルジアは、
    ソビエト時代には、連邦構成国のひとつだった。 1985年にミハイル・グルバチョフが
    ソ連の指導者になって以降、ソ連からの独立を宣言する共和国が続出、グルジアも
    1990年末に国名をグルジア共和国と改名し、翌1991年4月に独立を宣言したが、
    ソ連の崩壊で独立は完全なものとなった。

    独立後もグルジアは、強固なグルジア民主主義の下、欧米との関係強化を打ち出し、
    その後、日本語での国名をジョージアと改名した。 ロシアとは一貫して距離を置いたが、
    皮肉にも、この民族主義は、親ロシア路線を取る南オセチアのオセット人や、イスラム
    教徒であるアブハジア人など、国内に住む少数民族の民族主義にも火を付けた。

    mapd

    グルジアからの分離を要求して、1989年に一度独立を宣言したものの、この時は、
    グルジア軍によって武力で押さえつけされた南オセチアでは、分離独立を求める運動が
    再燃、グルジア軍は、再び銃で対抗するなど、国内は安定せず、初代大統領となった
    ズビアド・ガムサフルディアの強権政治がもたらした政情不安や治安の悪化で、国内は
    内戦状態に陥った。

    1992年1月、ガムサフルディアがクーデターによって追放されると、エドゥアルド・
    シュワルナゼが政権の座に就いた。 シェワルナゼは、ソ連最後のゴルバチョフ政権で
    外務大臣を務めた人物だった。

    シェワルナゼ政権の下で、11月には南オセチアとの間に停戦が成立。 南オセチア、
    グルジア、南オセチアの3者による平和維持軍が置かれ、事実上独立国状態となった。
    2004年には、新しく野党のミハイル・サアカシュヴィリがグルジアの大統領に選ばれた。

    親欧米、反ロシア色は、サアカシュヴィリ政権下で更に鮮明になり、2006年3月には、
    ロシア政府がグルジア産のワインの輸入禁止措置を取ったことに反発。 9月には、
    グルジア軍の治安当局が、ロシア将校ら10数名をスパイ行為で逮捕。 2008年には、
    ロシア軍が平和維持軍として駐留し、事実上独立状態にあった南オセチアにグルジア軍が
    侵攻、ロシア軍と戦闘状態に突入した。

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    2008年8月7日、グルジアの陸海軍が突如南オセチアの首都ツヒンバリへの軍事行動を
    開始した。 これに対し、ロシア軍は、南オセチアに軍港進攻させて、グルジア軍との
    戦闘に入った。 5日間の激しい戦闘の末、グルジア軍は、南オセチアから撤退。
    8月15日には、フランスの仲介で、グルジアは、ロシアとの休戦協定に調印した。
    同26日は、ロシアは、アブハジアと共に南オセチアの独立を承認、国際社会の同意を
    得たロシア軍は、10月にはグルジア領内から完全に撤退した。

    紛争の直接的な原因は、南オセチアの分離独立だが、ロシアにとってグルジアは、
    カスピ海産原油のパイプライン敷設など、南の玄関口である黒海に繋がる要の位置に
    ある重要な国でもある。

    紛争の背景には、表の顔(分離独立)の他にもうひとつ、大国の思惑(原油などの地下
    資源確保)がある。 グルジアでの1週間にも満たない戦闘で、南オセチア側では、
    2,000人以上、グルジア側でも200人を超す民間人が犠牲となった。 また、双方
    合わせて23万人余りが難民となった。

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    中華民国から中華人民共和国へと外交関係を切り替える国が増える中、1980年代は
    台湾にとって不安定な10年になった。 台湾の指導者の地位については、1978年から
    蒋介石の息子、蒋経国が就いていた。 彼は、大陸を取り戻すよりも、経済発展に
    力を入れることを選んだ。

    1985年には、アメリカの大統領レーガンが、民主化を推進するよう台湾に働きかけ、
    これを切っ掛けに台湾では、政治の自由化と民主化が、徐々に進んで行くこととなった。
    1986年には、民主進歩党(民進党)が合法的に成立、いくつかの野党の活動も合法化
    された。 民進党は、台湾を独立国家にすることを主張している。

    1987年には、38年間に渡って敷かれて来た戒厳令が解除された。 戒厳令は、戦争
    などの非常事態の際、軍に特別な権限を与えて厳重に警戒するための命令である。
    歴史上、最も長い戒厳令が解かれて、台湾でもようやく平常時の社会建設を目指す
    こととなった。

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    1988年はじめに蒋経国が死ぬと、当時、副総統だった李登輝が後継者となった。
    台湾人初の中華民国政府の代表の誕生であった。 李登輝は、台湾の人々の民主化を
    求める声を受けて、憲法を5回に渡って改定するなど、政治を改革し、民主化を大きく
    進めた。 代表的な改革のひとつは、政府の代表である総統と副総統を直接選挙で
    選ぶようにしたことである。

    そして、1996年3月、その第一回の総統直接選挙が行われた。 これに対して、
    中華人民共和国は、台湾を重視する李登輝の政治を非難してミサイルで威嚇する
    などしたが、李登輝はかえって多くの人々の支持を受け、初の選挙民が選らんだ
    総統として当選した。

    一方、李登輝への支持は、李登輝率いる国民党への支持とはならなかった。 汚職や
    金権政治などの古い体質に、非難が集まったからである。 そして、2000年3月、
    第二回の総統直接選挙が行われた。

    李登輝は、以前から引退を表明しており、国民党からは、副総統の連戦が出馬した。
    野党第一党の民進党からは、まだ49歳の若さの陳水扁が出た。 そしてもうひとり、
    大陸出身で元国民党の宋楚揄が有力候補だった。 結果は、陳水扁が宋楚揄に
    わずかの差で当選した。 国民党の連戦は惨敗。 50年余り続いた台湾での
    国民党政権に終止符が打たれた。

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    しかし、国民党は、立法院(国会)では何とか多数派の議席を維持していた。 また、
    宋楚揄は新政党親民党を作って、新総裁に対抗することになった。 少数政権党を
    率いる陳水扁は、困難な政権運営を迫られたのである。 更に、経済が振るわず、
    陳政権に批判的な中国との緊張し関係も加わった。

    だが、民主と台湾重視という政治の流れは変わることはなかった。 2001年12月の
    立法院議員選挙では、民進党は議席を大きく伸ばして最多政党となり、国民党は
    党2党、次いで親民党となった。

    民進党の議席は、過半数までは届かなかったが、選挙の2ヵ月半前に結成された
    民進党寄りの台湾団結連盟との連立など、政権は安定への兆しが見えた。
    台湾海峡は、日本への重要な輸出入ルートであり、台湾の安定は、日本にも大いに
    関係している。

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    バーベンベルク家の領土が拡大するにつれて、マジャール人の攻撃がまた盛んに
    なった。 1246年、オーストリア公フリードリヒ2世は、マジャール人との戦いで戦死し、
    バーベンベルク家は絶えた。 北隣のベーメン(今のチェコ)の国王オットカル2世は、
    フリードリヒ2世の未亡人と結婚し、オーストリアとシュタイヤーマルクを自分の領土に
    併合した。

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    1273年、選挙候達は、スイスの裕福な一族の家長であるハプスブルク家のルドルフを
    神聖ローマ帝国皇帝に選出した。 1278年、ハプスブルク家の軍隊は、マルヒフェルトの
    戦いでオットカルを打ち破った。 オットカルの領土は次々とルドルフの支配化に入った。
    こうして、ルドルフを初代とするハプスブルク王朝が始まり、以後、600年以上にも
    渡ってオーストリアに君臨することになる。 ハプスブルク家のオーストリアの君主の
    ほとんどは、同時に神聖ローマ帝国皇帝でもあった。 ハプスブルク家は結婚によって
    14世紀中に、ケルンテン、チロル、フォアアールベルクをオーストリアに併合した。

    だが、ハプスブルク家は、これらの新領地の絶対的な君主ではなく、どの地域でも
    貴族と聖職者達から成る議会の制約を受けた。 議会は人民に課税し、軍隊を
    徴収する権限を持っていた。 農民達は、過酷な労働を強いられ、領主の認可が
    なければ、結婚も移住も出来なかった。 聖職者達は、ローマ教皇以外の権威を
    認めなかった。

    ハプスブルク家は、新たに領土をオーストリア公国にもたらしたものの、秩序ある
    継承順序を定めてはいなかった。 相続同士の争いは、しばしば公国を混乱に陥れ、
    貴族達に対するハプスブルク家の支配力を更に弱めた。 ハプスブルク家と貴族達
    との対立は、15世紀初期まで続き、オーストリアの経済を衰退させた。

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    【帝国の膨張】

    1463年、シュタイヤーマルクのフリードリヒは、相続争いの内戦を生き抜いて、チロル
    以外のオーストリア全土の支配者となった。 1477年、フリードリヒの息子
    マキシミリアンは、ブルゴーニュ公の後継ぎマリアと結婚し、ネーデルランド(現在の
    オランダとベルギー)の土地は、残らずハプスブルク家の領域に編入された。

    1493年に神聖ローマ帝国皇帝となったマキシミリアンは、結婚によってハプスブルク家の
    領域を拡大する政策を続け、自分の息子をスペイン王フェルディナントの娘と結婚させた。
    この結婚から生まれたカール5世は、1516年にスペイン王となり、1519年、神聖ローマ
    帝国皇帝に選出された。 その結果、カールは、ドイツとスペインを含む、広大な
    領域をハプスブルク家当主として支配することになった。

    カールの弟フェルディナント1世は、オーストリアの支配者となり、ベーメンとハンガリー
    両国の王ラヨシュ2世の妹と結婚して、1526年、ラヨシュの戦士後、両国の王を兼ねた。
    ベーメンは、現在のチェコであり、ハンガリーは、マジャール人が創設した国である。
    ハンガリー貴族の一部は、トルコの支配を得て、フェルディナントに反抗した。 当時の
    トルコは軍事大国で、バルカン半島の大部分を支配化に治めていた。 トルコ軍は、
    1529年にウィーンに迫ったが、フェルディナントの軍は、これを撃退した。

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    1930年代後半、第一次世界大戦の時と同じような軍事問題が再び起きて来た。
    しかし、今回はイギリス政府は、以前ほど積極的に国際紛争に関わろうとしなかった。
    保守党首相ネヴィル・チェンバレンは、国内問題を優先した。

    しかし、1939年9月、ドイツがイギリスの同盟国ポーランドに侵攻した時、チェンバレンは
    仕方なく宣戦を布告した。 その後まもなく、チェンバレンは辞職し、ウインストン・
    チャーチルが自由党、労働党、保守党の連立内閣の首相となった。 イギリスと
    連合国(ソ連、アメリカ、フランス)が枢軸国のドイツ、イタリア、日本と戦った。
    第二次世界大戦である。

    effortchar

    1940年、ドイツ空軍がイギリスの海岸や主要都市を連日のように空爆して、ロンドン、
    コヴェントリー、リヴァプール、ハル、ブリストル、プリマスの鉄道、港湾設備、工場、
    住宅が破壊された。 海外からイギリスへ何トンもの物資を輸送する船が、ドイツの
    潜水艦に撃沈されたため、イギリスでは食料、物資の配給が日常のことになった。
    だが、イギリス国民は、戦争支持の決意をあらわにした。

    結局ドイツ軍は、イギリス侵攻を果たせず、1943年、戦争の流れは連合国に有利と
    なり、1945年に連合国側勝利で終戦となった。 しかし、イングランドの都市の多くは、
    廃墟と化し、国民は大きな損害を被った。

    戦後、クレメンツ・アトリーを党首とする労働党政府は、破壊された工場や市場の
    減少、資金の不足などの問題と取り組んだ。 破綻したイギリス経済の建て直しには、
    アメリカからの借入金があてられた。

    アトリー政府は、国有化計画の実施も図った。 これは石炭、鉄鋼、鉄道など基幹
    産業の所有を、個人の手から国家へ移すものだった。 イングランド銀行さえ国家の
    管理下に入った。

    労働党が強く目指したのは、広い社会福祉関係の立法であった。 議会は。退職者や
    失業者のための国民健康保険を規定する法案を通過させた。 新しい国民健康保険
    により、国民は安い費用で医療を受けられるようになった。

    1952年に即位した女王エリザベス2世の名の下、1950年~60年代には、保守党政権が
    続いて経済力は弱まり、求人は増え、賃金も上がった。 その結果、人々は自分の
    家を持ち、冷蔵庫やテレビも買う余裕が出来た。 イングランドの全ての階級の
    人々が余暇を様々な活動に使い、ヨーロッパ大陸などへ旅行する余裕も生まれた。

    大学も新設され、奨学金も増設された。 また、より良い生活を求めて、イギリスの
    植民地から何千人もの人々がイングランドに移住して来た。

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    【経済の衰え】

    戦時の荒廃から急速に回復したため、1960年代半ばから70年代には、イングランド
    経済に歪みが生じた。 新しい社会福祉計画は、財政負担を増やした。 アジアから
    海軍を呼び戻し、植民地の多くに自治を認めたため、イギリスの国際的影響力は
    弱まっていた。

    イギリスの持つ海外市場が減少すると共に、国内では失業者が増えて、また生活費は
    急激に膨張した。 労働組合は1972年~79年に掛けて、賃上げを要求して何度も
    ストライキを行った。 労働党政府は、連続して政権を取る中で、これらの問題解決に
    努めた。 例えば、イギリスは、1973年にEC(欧州共同体)に加盟したが、これは
    イギリスの商品をヨーロッパ市場に参入させて、市場の拡大を図ろうとする動きの
    ひとつだった。

    最近発見された北海油田開発のために資金が投入されたが、これは自国の石油を
    増産させて、石油の輸入を減らそうとの考えだった。

    しかし、なお失業率は高く、インフレはひどくなり、ストライキは頻繁に起こるなど、
    問題が重なり、労働党政府の力は弱まった。 また、与党であった労働党が非核武装
    問題で分裂することもあった。 労働党内部に、非核武装を国の政策にしたいと
    思う人がいたからだ。 このようなことで労働党政府は、1979年に政権を失った。

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    シュレスウィヒとホルスタインのドイツ系住民は、新憲法の受け入れを拒否した。
    そして、他のドイツ諸領邦のつくる連邦に加盟しようと、デンマーク政府に対して
    反乱を起こした。 ドイツ連邦の両大国プロイセンとオーストリアは、シュレウィヒと
     ホルスタインを支持して、デンマーク・ドイツ戦争が始まった。

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    1864年、ドイツ連邦軍は、デンマーク軍を敗北させた。 ウィーン条約によって、
    シュレスウィヒとホルスタインは、プロイセンとオーストリアに引き渡された。 こうして
    デンマークは、最も肥沃な農地の一部を失った。

    若い道路技師エンリコ・ダルガスは、農地の損失を補う方法を考えた。 1866年、
    ダルガスは、海を埋め立てて農地を作るための組合組織を創設した。 農民達は
    沼地を干拓して常緑樹を植え、土壌の浸食を防いだ。 その結果、砂性の土壌に
    穀物が出来るようになった。 この埋め立て事業は極めて広範囲に行われたので、
    両地域の損失に十分見合った。

    同じ時期、農業協同組合の運動が起こって、農業の生産性が高められた。 最初に
    協同組合を作ったのは、スティリング・アネルセンというヒェディングの農民である。
    アネルセンは、地元の農民達を説得して、個別に行われていた牛乳の加工を
    共同作業で行うことにした。 共同作業場の出現で、機械の購入、加工法の
    研究、販路の拡大などが、個人ではとても不可能な規模で出来ることが分かった。

    最初の農業協同組合は、その製品の品質の高さでたちまち有名になった。 農作
    業面でのその他の改良も進み、協同組合運動は、たちまちデンマーク全土に
    広まった。

    1870年代になると、別の種類の衝撃がヨーロッパの農業市場を襲った。 アメリカ
    合衆国とロシアの農民が、大量の穀物を極めて低い経費で生産出来るようになり、
    余剰農産物をヨーロッパでも売り始めたのである。 ヨーロッパの生産者達は、
    安い輸入品に対抗することが出来ず、穀物の価格は下落した。

    最初は、穀物価格の下落はデンマークの農民達に損害を与えたが、彼らはやがて
    安い輸入穀物を使って、以前より数多くの家畜を飼うようになった。

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    1880年代には、デンマークの農業協同組合は、多量の乳製品とベーコンをイギリスに
    輸出するようになった。 20世紀末には、この種の産物の輸出国のトップとなった。

    デンマークはまた、19世紀末に大きな政治問題をひとつ解決した。 この国の2大
    政党である保守党と自由党が、議会の上院と下院の権限の配分について議論を
    重ねた。 自由党は下院で多数を占め、保守党は上院を制覇していた。 両党の
    妥協が成立して、保守党の政治家やヤコブ・エストルップが首相となって政権を
    握った。

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    チェコの都市が比較的発展したのは、19世紀の工業化と、鉄道の普及のお陰である。
    現在、チェコの全人口1030万人の約半数は、人口2万人以上の都市に住んでいる。
    プラハやブルノのような大都市は、大きな川の流域にあり、小規模な町や農村の多くは、
    ボヘミアとモラヴィアの山岳地帯にある。

    23015

    【プラハ】

    プラハは、人口120万人、中北部ボヘミアに位置している。 ヴァルタヴァ川両岸に
    そそり立つ岩と丘に広がる都市である。 歴史上、常にボヘミア王国の首都であった
    プラハは、現在ではチェコ共和国の首都として、経済、政治の中心であり、中央ヨーロッパ
    の重要な文化の拠点ともなっている。

    現在のプラハのあたりには、遅くとも2000年以上前に、交易商人のたの宿屋が存在
    していた。 紀元後9世紀に町が作られた後、プラハは、ボヘミア王の居城の地となった。
    1300年代に入ると、カレル4世は、市街地を拡張整備して、新しく王宮、教会、橋、
    新市街を建設した。 1883年にプラハ市は周辺の町村を合併し、市の人口と面積は
    急速に増大した。

    20世紀のヨーロッパが2回の世界大戦の戦場となったにも関わらず、プラハは爆撃と
    破壊を免れた。 歴史上、重要な建造物が多い新市街と旧市街の大部分は壊されずに
    残った。

    市街地を見下ろす堅固な岩丘の上に立つプラハ城は、貴重な美術収集品を所蔵し、
    チェコ大統領官邸としての役割も果たしている。 プラハの主要産業は、銀行、金融
    サービス、情報、教育、工業、観光である。 プラハは、長いことチェコの政治、経済の
    拠点ではあるが、重工業の生産工場は他の都市に移っている。

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    【その他の都市】

    チェコ第二の都市であるブルノの人口は、約37万人で、南モラヴィアに位置し、
    モーターバイク、繊維、機械製品工業の中心である。 ブルノ市は、1000年前に建設
    された。 13世紀始めまで、モラヴィアがハプスブルグ帝国領域であった時代に、
    ブルノは、モラヴィアの首都であった。 今では、市の観光名所のスピルブルグ城は、
    ハプスブルグの時代には悪名高い牢獄であった。

    チェコ第三の都市であるオストラヴァは人口32万人で、モラヴィアとポーランドを
    結ぶ峠であるモラヴィア山峡の近くに位置している。 オストラヴァ住民の多くは、
    ポーランド系で、市はポーランドと文化的にも経済的にも近い関係にある。
    オストラヴァの工場は鋼鉄、機械、化学製品を生産している。、 こういった企業は、
    高い雇用を生む一方で、環境汚染の大きな原因ともなっている。 その結果、
    オストラヴァは、チェコでも最も健康に悪い都市のひとつにあげられている。

    西ボヘミアの都市プルゼニは、人口17万人で、街の創立は10世紀に遡る。 プルゼニは、
    ピルゼン・ビールで有名だが、兵器産業の中心としても知られていた。 例えば、
    大シェコダ工場は、飛行機、機械、鉄道車両、繊維生産と並んで、兵器産業工場として
    有名であった。 プルゼニ市には、技術選科の工科大学があり、産業界の人材
    育成に貢献している。

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    共に中央アジアに位置するアゼルバイジャンとアルメニア。 黒海とカスピ海に
    挟まれたカフカス山脈の南に隣り合う両国は、アゼルバイジャンにある
    ナゴルノ・カラバフ自治州をめぐって泥沼の争いを続けて来た。 根底には、
    民族と宗教が絡んでいる。

    nagkab

    トルコと友好関係にあるアゼルバイジャンは、元々は、イスラム教の国で、国民の
    95%がイスラム教徒となっている。 一方、ロシアとは強固な関係を築いて来た
    アルメニアは、キリスト教の国。 ソビエト時代には、連邦内の民族自決を弱める
    ために、宗教や民族間の分断を狙ったスターリンの政策で、キリスト教とである
    アルメニア人が多数を占めるナゴルノ・カラバフは、アゼルバイジャンの自治州に
    組み込まれていた。

    1988年、同自治州の人口の8割を占めるアルメニア人はが、アルメニアへの帰属を
    求めたところ、アゼルバイジャンは要求を拒否しただけではなく、自治州まで廃止し、
    直轄統治という強引な措置に出たため、火種はくすぶり出した。

    1991年のソビエト崩壊に伴って、両国が独立を果たすと、アルメニア人のアルメニアへの
    帰属を求める民族意識は一気に燃え上がった。 紛争の勃発は1992年、ナゴルノ・
    カラバフが一方的に独立を宣言したことにある。 アゼルバイジャンは経済封鎖などで
    対抗したが、アルメニアは、当然ながら戦闘状態に突入した。

    1994年、ロシアとフランスの仲介により、停戦が成立したが、停戦案の中身は、戦闘で
    アルメニアが占拠したアゼルバイジャンの領土は返還しなければならない、ナゴルノ・
    カラバフはアゼルバイジャンに帰属し、自治共和国として昇格するなどと定められた
    ことから、アルメニア側は反発、今も解決の目処が立っていないが、実質上は、
    アルメニアの支配下にある。

    更に、2009年、アルメニアは、 宿敵トルコとの間で国交正常化が実現したが、ここでも
    ナゴルノ・カラバフ紛争をめぐる文言にアルメニア側が反発、正常化はほど遠い現状と
    なっている。

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    ロシアやフランス、トルコを始め、欧米などの仲介が上手く行かない背景には、バクー
    油田など豊富な天然資源がアゼルバイジャンの経済を支えて来た現状があり、
    更に、ヨーロッパ向け原油パイプラインに対する欧米の直接投資や原油高に伴う
    収益が、国内経済成長を後押ししているという現状に、仲介側が配慮せざるを得な
    かったという事情がある。

    その影で、この紛争では、2万人の犠牲者と100万人以上の難民が発生した。

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    【16世紀に始まったロシア帝国の侵略】


    ロシア連邦チェチェン共和国は、モスクワの南1500キロの場所にに位置し、面積は、
    日本の四国よりも少し狭い約1万7000平方キロメートルである。 このあたりの一体は
    北コーカサス地方と呼ばれ、寒いロシア連邦の中では、温暖で豊かな地域である。

    200210

    北コーカサスには、多くの少数民族が住むが、チェチェン人は約6000年前から暮らして
    いたと言われ、チェチェン語はロシア語とは全く異なる言語で、現在では住民の殆どが
    イスラム教徒となっている。

    帝政ロシアは18世紀から、コーカサス地方の征服を始めるが、チェチェン人らは、これに
    抵抗して来た。 エカテリーナ2世の時代に戦争が本格化し、1785年にチェチェンで
    大規模な反乱が起こった。 それ以降戦争が続き、1859年に抵抗の指導者シャミーリが
    ロシア帝国に降伏。 その5年後にチェチェンはロシア帝国に併合された。

    1917年に起きたロシアの十月革命は、チェチェン人らコーカサスの諸民族が独立を
    勝ち取る希望ととらえられた。 翌1918年には、コーカサス諸民族が集まり『山岳共和国』
    の成立を宣言した。

    しかし、革命政権『ボリシェビキ』、革命に反対する白軍、地元コーカサス諸民族が3つ巴の
    戦争状態となり、1924年には山岳共和国は廃止されて、チェチェンやその他の民族は、
    ソビエト連邦の領土として支配された。 つまり、帝政ロシアが革命で倒れた民族独立が
    達成されるかと期待されたが、新たにソビエト革命政権に組み込まれてしまったのだ。

    第二次世界大戦末期の1944年2月、ソ連政権はチェチェン人がナチスドイツに協力を
    したとして、チェチェン民族を全員貨車などに押し込めて中央アジアのカザフスタンに
    強制移住させた。 貨車での移動中に大量の人々が死に、強制移住先での病気や
    餓死などで、民族の半分を失った。

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    【独立宣言と2つのチェチェン戦争】


    ソビエト連邦崩壊直前の1991年11月、チェチェン共和国は独立を宣言した。 ソ連に
    代わったロシアは、特殊部隊などを派遣して独立運動の弾圧を試みたが失敗し、ついに
    1994年12月にロシア軍が全面侵攻し、第一次チェチェン戦争が始まった。

    ロシア軍は非武装の住民をも攻撃し、また、独立派ゲリラを探し出すために大量の
    住民を逮捕して『選別収容所』に送った。 このため、国際的にも非難の声が高まった。
    1996年8月、8万人以上の犠牲者を出しながら、独立問題は棚上げをしたまま停戦協定が
    結ばれて、戦闘は終わった。

    その後、中東などからイスラム急進主義者達がチェチェン領内に流入するようになったが、
    ロシア当局は、それを見逃していた。 1999年8月、チェチェンのイスラム武装勢力が
    隣国のダゲスタン共和国に侵攻する。

    また同月から9月に掛けて、ロシア各地でアパート爆破テロが連続し、合計300人が死亡
    した。 ロシア政府は、チェチェン独立派勢力のテロだと断定し、9月にはチェチェン攻撃を
    再開した。 この第二次チェチェン戦争は、2009年4月16日に国家対テロ委員会が
    独立派の掃討が完了したとして、対テロ作戦地域からの除外を発表、10年の長きに
    渡った紛争が終結したものの、連続爆弾テロに関しては、多くの謎と疑問が指摘された
    ままで、未だに解明されていない。

    第二次チェチェン戦争では、前回を上回る激しい攻撃により、2000年春までにロシア軍が
    チェチェンの主要部分を占領した。 2003年にはチェチェン共和国で大統領選挙を
    行い、ロシアの全面支援を受けたカディーロフ政権が正式に樹立され、今もチェチェンを
    統治している。

    人口100万人の地域で、20万人の犠牲者を出す残虐な戦争だった。 戦闘が終息に
    向かっても、ロシア軍やロシアに援助された傀儡政権による住民連行は後を絶たず、
    人権上大きな問題となっている。 国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチの
    モスクワ支部によると、2000年から2004年までの間だけでも、約1万8000人の
    行方不明者を出しており、未だ解決されていない問題となっている。

    ahgined

    【第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム】

    2002年
    モスクワ劇場占拠事件 - 169人死亡
    首都グロズヌイの政府庁舎爆破 - 72人死亡

    2003年
    共和国北西部の行政庁舎爆破 - 60人以上死亡
    モスクワ野外コンサート会場爆破 - 15人死亡

    2004年
    モスクワ地下鉄爆破 - 41人死亡
    グロズヌイの対独戦勝記念式典を爆破
    親ロシア派のチェチェン共和国大統領アフマド・カディロフなど30人死亡
    イングーシ共和国内務省などを襲撃 - 約90人死亡
    モスクワ発旅客機同時爆破 - 80人以上死亡
    モスクワ地下鉄駅付近爆破 - 約10人死亡
    北オセチア共和国ベスラン学校占拠事件 - 322人死亡

    2005年
    カバルジノ・バルカル共和国首都ナリチク同時襲撃事件

    2006年
    イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致しチェチェン共和国からの
    ロシア部隊撤退を同国政府に要求。要求が拒否されたため外交官を殺害。
    アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件

    2007年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    【紛争終結宣言以降の第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム】

    2009年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    2010年
    モスクワ地下鉄爆破事件

    2011年
    ドモジェドヴォ空港爆破事件

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    セルビア共和国の自治州であったコソボは、住民の約8割以上がアルバニア系で、
    セルビア人は1割ほどしか居ない。 元々、旧ユーゴスラビア連邦の時代から、
    他の6つの共和国に準じる自治権を与えられていた。

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    しかし、1988年にセルビアの大統領に就任したミロシェビッチは、コソボの自治権を
    奪って政府機能を中央に集中し、アルバニア語による放送や教育を禁じ、アルバニア系
    住民を官庁から追放するなどの弾圧政策をとった。

    コソボ住民は、これに反発。 初めは非暴力・不服従で対抗していたが、後に独立を
    求めてコソボ開放軍が結成され、武力闘争を始めた。 ユーゴスラビア連邦軍や
    セルビア治安部隊との間に激しい戦闘が続き、多くの死者や難民が出たり、家が破壊
    されたりした。

    1999年に北大西洋条約機構(NATO)が介入して、セルビアを空爆し、セルビア国民の
    生活が圧迫され、やがてミロシェビッチ大統領は失脚した。 ユーゴスラビア連邦政府は、
    和平案を受諾し、武力紛争は終わりを告げた。

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    しかし、その後、アルバニア系住民によるセルビア人などへの報復攻撃により、多くの
    セルビア人難民が出るなど、対立は解消していない。

    アルバニア系の人達は、おだやかなイスラム教徒が多い。 しかし、歴史的には、
    ローマ帝国の影響を受けて、キリスト教徒(カトリック)が多かった。 後に、オスマン・
    トルコの侵略にあってから、イスラム教徒が増えた。 セルビア人の影響もあり、
    東方正教会の人も居る。

    コソボの殆どが、こうしたアルバニア系の人たちとなっており、ロマ人は、セルビア人
    よりももっと少ない。

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