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    2016年04月

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    現在ベルギーになっている地域では、いくつもの先史時代の遺跡が発見
    されている。 それによれば、この地域の初期の住民の大部分は、農業と
    牧畜に従事していたようである。 西暦前3000年頃までに、東と北から侵略と
    移住が繰り返されて、この地域の人々の生活様式を変えてしまった。 新来の
    人々の一部は、金属加工に熟練していた。 その後、ヨーロッパ北部から
    ケルト人と呼ばれる人々が来て、死者を火葬にして、遺灰を骨壷に収める
    風習を広めた。

    西暦前およそ2000年頃までには、ケルト系の人々がこの地域に住むように
    なっていた。 その中でも、ベルガエ人は、よく知られている。 オランダ
    北部では、ケルト系とゲルマン系の両文化の接触は、ごく普通に行われ、西暦前
    1世紀には、ゲルマン系の民族が現在のフラマン地域圏に入って、ケルト系の
    人々と婚姻関係を結んだ。 それに対して、南部(現在のワロン地域圏)は、
    殆ど完全にケルト系のままだった。

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    【ローマ人の支配】
    西暦前1世紀、優秀な戦士だったベルガエ人は、ローマ帝国の軍隊と戦った。
    この帝国は当時、イタリアから北に向かって領土を広げていた。 西暦前
    58年~51年に掛けては、ローマの将軍、ユリウス・カエサル(ジュリアス・
    シーザー)の率いる軍団が、当時ガリアと呼ばれていたヨーロッパ北部の広い
    地域を征服した。 ローマ人は、やがて、ベルガエ人を服従させ、ベルギカ州を
    建設した。 この地域は、現在のベルギーから、北方のライン川まで広がって
    いた。

    ローマ人は、ベルギカ州内に軍隊の野営地を設置し、広い道路網を建設した。
    ベルギカの住民たちは、税金を支払い、また、兵士を提供した。 軍隊に食料を
    提供するために、ローマ人は大規模な農場を作り、穀物の収穫量を増やした。

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    ベルガエ人は、ローマの統治にやすやすと適応し、ローマ人の使っていたケルト語に
    取り入れられた。 西暦2世紀には、ベルギカ州内の多数の水路沿いに産業と交易が
    栄えた。 現在、いくつかの都市等には、ローマ時代の遺跡に残っている。
    しかし、4世紀の終わり頃には、ローマ政府内の様々な問題のために、帝国の
    防衛が弱体化し始めた。 ゲルマン系の民族グループの内、特に中央ヨーロッパ
    から来たフランク人がベルギカ州内のローマの本拠地を攻撃して、奪い取った。

    この頃までに、ローマ人は、キリスト教を国教として採用しており、この宗教は、
    ヨーロッパの他の地域にも広がり始めた。 ベルギカ州内のローマの支配力は、
    5世紀初期には、更に弱くなり、また、北海の高潮が、スヘルデ河口沿いの低地に
    洪水となって侵入した。 更に、奥の内陸部は、余りにも沼地が多く、農業や
    定住や防衛に適さないため、ローマ軍は、北の前哨戦から撤退して行った。

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    モスクワの人口は、16世紀の末に12万人を数えていたと言われている。
    16世紀から17世紀に掛けて、ヨーロッパからロシアを訪れた使節や商人達が
    様々な紀行文を残しており、ロシア人自身による当時の記録も残っている。

    moscow-vintage-picture

    16世紀の中頃イワン4世に仕えるシリベストルという僧が『家庭訓』という
    書物を編んだ。 そこには、中世のロシアの人々の典型的な道徳観が示されて
    いる。 『まず大切なことは神を恐れ、ツァーリや貴族や聖職者を敬い、教会に
    通うことである。 両親を愛し、服従することもキリスト教徒としての義務である。
    妻や子供達が間違ったことをした場合には、彼等を罰しなければならない。
    しかし、いかなる罪に対しても、耳や目を打ったり、心臓を拳骨で殴ったり
    すべきではない。 良い妻は宝石よりも貴重である。』 

    シリベストルが非難するのは、教会の斎戒を守らないこと、同性愛、罵詈雑言を
    口にすること、みだらな歌を歌うこと、占いにふけることなどである。 その他、
    彼の教訓は、召使いをどう監督するか、領地をどう管理するか、1年分の食べ物を
    どう貯蓄するかなどの細々とした実用的な事柄にまで及んでいる。

    しかし、全てのモスクワの人達がこのような教えを守って暮らしていた訳ではない。
    17世紀の前半に2度に渡ってロシアを訪れたオレアリウスというドイツ人は、
    『遠くから眺めると、モスクワはクレムリンを中心に多くの聖堂の屋根がキラキラ
    輝いて聖なるエルサレムのように見えるが、中に入ると、貧しいベツレヘム
    (キリストの生まれた村)である』と書いている。 そして、彼は、町中では
    人々が互いに聞くに堪えない言葉で罵り合っているのを耳にした(ロシアの罵詈の
    凄まじには現在でも定評がある)。 悪口を禁止する発令が出ていたが、一度に
    あちこちから聞こえるので、役人も取り締まる暇がなかったと言う。

    キタイ・ゴロド、それに、白い町や土の町の屋根は大体が木造だったが、火事も
    多かった。 町中が焼けるうような大火が1世紀に2~3度起こり、1つか2つの
    街区が丸焼けになるというような火災が発生しない週はなかったという証言がある。
    統計的に見て、モスクワっ子は、一生に一度は焼け出される計算だったと述べる
    歴史家も居る。 要するに、『火事と喧嘩』はモスクワ名物だったらしい。

    『ロシア人は概して大酒飲みの上、にんにくが大好きで、クレムリンの宮殿の
    中までにんにくの臭いがした』というのは、オレアリウスの伝えるところである。
    モスクワの家の建て方自体が、ヨーロッパ人旅行者の目には異様に映った。
    1戸づつ敷地をたっぷりと取ってあり、家の周りが菜園に使われていた。 市内の
    道路でも舗装されたところは、ごく僅かで、夏の乾いた時には、土埃が舞い、
    雨が降るとぬかるみのようになった。 都市というよりは、大きな村のように
    見えたという。

    『夜になると街路ごとに道路は閉鎖され、番人が立った。 夜の間に明かりを
    持たずに往来する者は盗賊と見なされ、捕縛された。 それでも盗みと人殺しは
    後を絶たず、1晩のうちに、数人の死体が見つかることは普通だった。 ツァーリの
    即位などで恩赦令が出て因人が一斉に出獄した時などは、一夜で100人以上も
    殺された』と書いているのは、元外交官でモスクワからスウェーデンに亡命した
    コトシーヒンという人物である。

    moskva

    コトシーヒンは、17世紀の中頃、使節館署で働いていたため、クレムリンの
    内部事情に通じていた。 『ツァーリの幼い皇子と全ての皇女が外出する時には、
    周囲をすっかり布の幕で覆って人目に付かぬようにした』とか、『皇女は決して
    臣下に嫁がせず、改宗を恐れて、外国の王家にも出す習慣がないため生涯を
    涙のうちに泣き暮らすことになる』などとも述べている。 もっとも、
    『ツァーリの后を外国からの使節にも会わせないのは、教養のなさを隠す
    ためである』というような叙述にはいささか悪意が感じられない訳ではない。

    西欧人の観察では、ロシアでは肉付きの良い女性ほど美人と考えられていた。
    『貴族ともなると、白粉を顔一面に塗って紅をたっぷりと頬に付け、20人、
    ないし、30人の召使を引き連れて、夏は馬車、冬はソリで外出したという。
    男女を問わず、身分の高い者は徒歩では出歩くことは出来なかった。 そして、
    大勢の召使を抱えることが豊かさの証とされた。 満足な給料を与えられない
    召使の多いことが犯罪の温床になった』と指摘している外国人も居る。

    むろん、人間の社会であるため、モスクワの暮らしが暗黒ずくめだった筈がない。
    1年を通して、正教会の祭日には、各所で縁日が立って見世物の出る賑わいが
    あり、街区ごとに雪投げ、石投げ、素手の殴り合いなどの遊びがあり、所属
    する教区教会の祝日には講を組んで酒宴を催すというような楽しみ方もあった。

    1日のうちの正式な食事は昼食で、その後にゆっくりと昼寝をするため、真昼時
    には、町の人通りが消えてしまうというような19世紀まで続いた独特の習慣も
    既に成立していた。 

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