多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    2016年04月

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    2016年4月26日から5月3日まで、熊本地震の被災地各地を回り、現地調査を
    して来ました。 当初は、八代市のお手伝いをする計画でこちらにやって
    来たのですが、八代市役所で得た情報によると、八代市内では半壊、全壊した
    家屋の数は、共にゼロとなっており、第二避難所は、この先全て閉鎖され、
    4月30日現在の避難所の数は、8つまで減っています。

    4月27日からは、市内全ての小中学校他での授業が始まりました。 現在、
    八代市内の避難所に避難をしているのは、その殆どが夜間のみで、昼間は避難所
    には、殆ど人がおりません。 最終的に、八代市に出されたのは、避難勧告のみで、
    強制ではなかったため、自宅に留まった人たちもかなり多かったようです。

    4月28日からは、八代市内のみならず、熊本市周辺の各市町村役場、並びに、
    大分県由布市、別府市役所をそれぞれ回ったのですが、各市町村の被災度合いは、
    かなりピンきりで、被災度合いが酷い場所は、家屋が倒壊し、かなり悲惨な光景
    ではあるものの、それ以外の場所は、殆ど被災していない場所も多く、改めて
    地震災害は、直下型であればあるほど、その被災状況にはバラつきが出る事が
    分かりました。



    【熊本市の被災状況】
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    今回の熊本大地震での最大の被災地は、益城町ですが、その益城町内でも、震源地
    から、ものの数キロ程度外れるだけで、家屋倒壊は起こってはおらず、皿が数枚
    割れた程度の被害に留まっています。 全般的に、震源地から10キロ圏内では、
    屋根が壊れて、ブルーシートで覆っている家屋が多く、それ以外の場所では、
    ブルーシートはかなり稀でした。

    熊本市内の被災状況は、4月末現在で、概ね、電気も水道も復旧しており、一部
    地域で、水道水が未だに濁っているため、飲料水を別途用意している状況となって
    いるものの、パッと見では、倒壊家屋や、ブルーシートも少ないため、家屋内での
    家具の転倒程度の被災状況となっています。

    元々、今回の地震は、震度7が2回とは言っているものの、マグニチュードに換算
    すると、7.3程度であるため、震源地が浅いとは言われているものの、過去の
    被災地と比較をすると、かなり懐疑的な被災状況だと思います。 本振とされた
    地震が、気象庁によって、前震であったと修正されたのは、実は今回が初めてで、
    何もかも初めて尽くしであるため、災害よりも、情報の方が、独り歩きしている
    感じが否めません。



    【益城町の被災状況】
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    現在、余震の震源地は、熊本県の八代市付近へと移動をしており、この付近では
    地震のエネルギーが蓄積されているとも言われており、この先、半年から1年
    程度は、警戒をするに越した事はないと思います。 現状、この付近でも、
    余震は、若干収束方向には向いてはいるものの、気象庁も前例のない地震災害
    であるため、終息宣言をなかなか出せずにいます。

    過去の例としては、三陸地方で地震が起きたその直後には、熊本でも大地震が
    起きているという情報もあり、約400年ほど前の1619年に発生した地震では、
    熊本八代にあった麦島城が完全に更地になるほどに崩壊したとのことで、今回の
    地震のような大きな地震が発生していたようです。

    こうした過去の地震が発生した流れの中で、熊本の後に『長野→小田原→江戸』
    でも大地震が発生していたらしい。 その後、地震が原因で、加藤清正によって、
    熊本城が建設された事になったのだが、その熊本城がまた崩れたのは、単なる
    偶然なのだろうか?
     
    【400年前の地震】
    1611年 慶長の三陸沖地震(M8.1)
    1619年 熊本地震(M6.0)
    1627年 長野地震(M6.0)
    1633年 小田原地震(M7.0)
    1635年 江戸地震(M6.0)

    東日本大震災と熊本大地震との間には、何らかの因果関係も考えられるため、
    これらの地域では、用心をするに越した事はないかも知れない。

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    原子力規制委員会は、2016年4月22日、東北電力女川原発2号機(宮城県女川町、
    石巻市)の新規制基準に基づく適合性審査会合で、敷地内の地質構造を詳しく
    確認するため、近く現地調査をする考えを東北電側に伝えた。

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    規制委は、女川2号機の審査の一環として、設備面を対象に現地調査した実績は
    あるが、地震分野で現地入りするのは初めて。 地震分野の審査を担当する
    規制委の石渡明委員らが、現地で東北電のボーリング調査結果などを確認する
    見込み。

    同日の審査会合で東北電側は、敷地内の重要施設の下に9本の断層があることを
    説明。 断層面の鉱物の分析結果などに基づき、いずれも新規制基準が活動性を
    考慮する時代より古い年代の断層で『将来活動する可能性はない』と強調した。

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    19世紀の半ば、ロシア社会に大きな変革が起きる。 その引き金になったのは、
    クリミア戦争だった。 トルコとの戦いは、既に何回も行われていたが、今度は
    トルコの後押しをするイギリスとフランスを相手に戦う羽目になった。

    1853年に始まった戦争は、その翌々年クリミア半島の南端にあるセバストーポリの
    要塞の陥落によってロシア側の敗北に終わった。 翌年のパリ条約の締結を待たずに、
    ニコライ1世は他界し、アレクサンドル2世が皇帝となった。 敗戦は農奴制を基盤
    とするロシア社会の変革の必要性を認識させずにはおかなかった。

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    新帝は、クリミア戦争終戦後の詔書を出した11日後、モスクワを訪問し、総督
    ザクレフスキーが集めた貴族の代表達に演説した。 『不幸にも農民とその領主
    との間に敵対的感情が存在しており、それが原因で既に領主に対する不服従が
    いくつか発生している。

    朕は、遅かれ早かれ、我々がこれに着手しなければならないものと確信している。
    諸君も朕と同意見であると思うのだが、そうであるなら、これが下から起こる
    よりも、上から起こる方が遥かに良いのだ。』 皇帝は、モスクワで農奴解放へ
    向かう意思を表明した。

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    この解説ニュースは、全国に瞬く間に広まった。 『大改革』が始まった。
    最初は、経済面の改革であった。 1861年には、農奴解放が実現され、64年には、
    ゼムストヴォと呼ばれる地方行政を担当する自治機関が創出され、陪審員制度を
    持つ三審制の近代的な司法制度も創り出された。 中学校、大学制度も改革された。

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    安倍政権が発足して、早4年が経過した。 その間、アベノミクスによる
    『三本の矢』と『新三本の矢』 が実施されたが、特にこれといった結果は出て
    いないどころか、一般庶民の生活はますます厳しさを増すばかり。

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    【三本の矢】
    金融政策に関しては、安倍内閣発足時から、それまでの極度の円高状態から
    円安方向へと導いたが、最近になって、再び円高方向へと進んでいるため、
    既に失敗と見て良い。 一部では、また1ドル100円を切るのではとの憶測まで
    飛び出している。 デフレ脱却は、未だ賃金が上昇しておらず、一部では、
    インフレ傾向も出ているため、収入は上がらないが、物価は上がっていると
    感じるばかり。

    財政政策に関しては、国内の大手企業を始めとして、海外へ仕事を何もかも
    丸投げしている企業が非常に多いため、そもそも、日本国内には、お金が落ちない
    システムが既に完成している。 また、東日本大震災の被災地に関しては、
    復興が遅々として進まず、未だに全く手付かずの被災地も多いため、疑問だらけ。

    成長戦略に関しては、マイナス成長ばかりで、安倍政権になってからは、殆ど
    プラス成長を遂げていない。 既に、中国、韓国にすら抜かれてしまっている
    状態。 但し、そのような不都合な事実は認められないため、国民には特に
    公表なし。

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    【新三本の矢】
    強い経済は、日本の脆弱な経済状況を見る限り、いっそのこと、中国様に支援を
    して頂いた方がましなレベル。 まともな転職など夢のまた夢で、ブラック企業
    ばかりの世の中に成り果てているため、常に自殺が絶えない。

    子育て支援は、そもそも、出生率以前に、結婚すら出来ない程生活が困窮して
    いるため、本末転倒。 結婚して子供を産んだだけでも勝ち組と言われている昨今、
    負け組には何の支援もないが、勝ち組に支援を与えると言われても、賛同する人間は
    少ないであろう。

    社会保障は、これこそ本当に充実させなければならない項目であり、日本の社会
    保障を海外の通常の社会保障と比較してしまうと、目も当てられない非常にお粗末な
    レベル。 日本は、そもそも人権というものがほぼ守られていない放置国家である
    ため、社会的なセイフティーネットがほぼ存在せず、どうしても生活に困って
    しまった場合は、万引きでもして刑務所に入った方が命の危険性からは解放される
    という非常にお粗末なレベル。

    これまでは、『愛国心』を利用して、何とかやり繰りして来た安倍政権だが、
    そろそろネタも尽きて来たため、自民党もとろも、大人しく退陣して頂いた方が、
    国民も幸せになれるのではないだろうか? 経済的な格差ばかりが年々広がり
    続けているため、経済システム自体を根本的に変えない限り、日本はこの先も
    マイナス成長ばかりを続け、未来はないのではないだろうか。

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    ベルギーの人口は、1,000万人を超え、ヨーロッパで最も人口密度の高い国の
    ひとつとなっている。 人口は、都市や郊外に集中し、1平方km辺りの人口密度は、
    ブリュセルとアントウェルペンで1158.3人、アルデンヌの田園地域は50.2人以下
    である。

    出生率も地域圏によって、大きな差がある。 フラマン地域圏の人口増加率は
    高く、圏外に移住する者は、極めて少ない。 これに対して、ワロン地域圏では、
    人口増加率はマイナスであり、地元生まれの親から生まれる幼児の数は、減少
    している。 しかし、この地域圏に流入する外国人が多く、相対的な人口は安定
    している。

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    【民族グループと社会構造】

    フラマンとワロンは、この国の人種と言語の区分の核心である。 フラマン
    地域圏は、西部と北部で、西フラマン、東フラマン、アントウェルペン、
    リンブルフの4州と、ブラバンド州の北部である。 ワロン地域圏は、
    ブラバンド州の南部の他、エイノー、ナミュール、リエージュ、
    リュクサンブールの4州を含む。

    両地域圏の人種的背景は、殆ど同じで、どちらも、ケルト民族のベルガエ人と、
    ゲルマン民族のフランク人の子孫である。 フラマン地域圏では、ゲルマンと
    ケルトの両文化が混合し、ゲルマン系の言語であるオランダ語が使われるように
    なった。 ワロン地域圏では、ケルト文化的特徴が比較的強く、フランス語が
    使われて来た。

    人々の約56%は、オランダ語だけを、32%がフランス語だけを話す。 両方を話す
    市民は、11%だけとなっている。 ドイツ語を母国語とする人は1%未満で、ドイツ
    との国境のリエージュ州東部に住んでいる。 どちらの地域圏でも、社会は複数の
    自立的な『柱』に分かれ、この『柱』が生活の殆どの分野の基本となる。 『柱』の
    それぞれに、独自の政党、労働組合、新聞、学校等の社会組織がある。 人々は、
    この『柱』のシステムを通して職業を見つけ、医療を受け、事業を営む。

    宗教や政治上の意見の似ている人々は、普通、同じ『柱』に属する。 ひとつの
    『柱』から別の『柱』に心を移すのは、単に、別の政党に籍を移す以上の大きな
    意味を持つ。

    この『柱』は、3つ存在し、その内訳は、カトリック、リベラル、社会主義と
    なっている。 カトリックの『柱』は、社会を横断していて、上流、中流、
    労働者の3つの階級を結び付けている。 この『柱』の中には、フランス語を
    話す人々の政党と、オランダ語を話す人々の政党が、それぞれひとつづつあって、
    両方の言語グループの利益を擁護する。

    リベラルの『柱』は、主として、中流階級の職業人が所属し、社会主義の『柱』は、
    労働者が権力を握っている。 リベラルと社会主義のどちらの『柱』にも、
    それぞれの政党内にオランダ語ブループとフランス語グループが存在する。 

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    【教育】
    言語の違いは、教育制度にも及んでいる。 教育に使われる言語は、フラマン
    地域圏では、オランダ語、ワロン地域圏では、フランス語である。 殆どの
    国民は、2つの民族言語のどちらかひとつを読み書き出来る。

    児童は、満16歳まで学校に通う。 政府は、公立、私立どちらの学校にも資金を
    支出し、教育は無料で行われる。 児童の57%は、私立学校に通い、私立学校の
    大部分は、宗教ブループが経営している。 初頭高等学校教育のための学校は、
    一般、技術、芸術、職業の各科目について教育を行う。

    大学は6つあり、職業教育の高等専門学校がいくつもある。 大学で最も古いのは、
    ルーヴァンのカトリックの大学で、1425年に創立された。 ここの図書館は、
    世界的に有名で、6世紀から16世紀におよぶ中世の資料を保管している。 元は、
    2つの民族語を併用していたが、1970年にオランダ語とフランス語に分割された。

    ブリュッセル自由大学は、1834年に創立され、宗教的な制約は全くないが、
    フランス語で教育が行われている。 その他の大学は何れも、19世紀以降に開設
    されたもので、ゲントにある国立大学は、1917年創立で、オランダ語で講座が
    開かれている。 リエージュとモンスにある大学では、フランス語で講座が
    行われている。

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    ヨーロッパで話されているフランス語の発音や語彙に慣れていると、ケベックで
    耳にするフランス語には少し違和感を感じるかも知れない。 また、もしかすると、
    その逆もあるかも知れない。 もちろん、どの国や地域で話されようと、
    フランス語はフランス語なのだが、ケベックの場合、イギリス領のおよそ
    百数十年間、様々なレベルでフランスとの公的交流を絶っていたという事実がある。
    そのため、言語としての独自性が強いのである。

    ケベックのフランス語の特徴は、主に発音と語彙に端的に現れている。 発音の
    一例を挙げると、フランス語の母音I(イ)とU(ユ)の前にTやDが来る、TI(ティ)
    TU(テュ)DI(ディ)DU(デュ)と発音されるが、ケベックでは、多くの場合、
    TIはツィ、TUはツュ、DIはズィ、DUはズュと発音される。

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    さて、ケベックで話されているフランス語は、次の3つのレベルに分類される。

    ①標準的フランス語
    これは、表現や選択がヨーロッパの、主としてフランスで話されている
    フランス語に近い。 テレビやラジオのアナウンサーやレポータが話すフランス語が
    これにあたる。 また、知識人もこのフランス語を話すことが多い。

    ②ジュアル(Joual)
    ジュアルを厳密つに定義することは、大変困難である。 一般的に、ジュアル
    とは、後述の大衆フランス語に含まれるものである。 ジュアルという言葉は、
    フランス語で馬を表すシュヴァール(Cheval)という単語をケベックの人が
    発音すると、ジュアルと聞こえるというところから来ている。 この由来からも
    分かるように、ジュアルは話し言葉を表すことが多く、同時に少し自虐的な
    ニュアンスさえ含むのである。 ジュアルは、都市圏の若者や労働者の間で多く
    話されるスラングの一種であり、意味不明なフランス語の使用や音節の省略等が
    その特徴としてあげられる。

    そして、ジュアルは、言語のレベルを超えてイデオロギー的な側面を持ち、むしろ、
    この点の方が社会に大きな影響を与えて来たと言える。 1960年代に入ると、
    ケベックの青年文学者ブループ『パルティ・プリ』と呼ばれる文学集団を作る。
    イギリスの支配下に置かれて以降、ケベクックは政治、経済等多くの領域で
    イギリス系他州に常に遅れをとり、同州内にあっては、数的にマジョリティとは
    言え、現実的には、支配的なイギリス系との間で社会格差が生じ、苦悩していた。

    こうして、進むべき未来をまだ描くことが出来ずにいるケベックの閉塞的な状況を、
    彼らはケベックのフランス語が伝統的に持っている牧歌的て、美しい表現や語彙を
    全て排除し、ジュアルを多用して行った。 それはいわば、『言語の劣化』だった。

    ③大衆フランス語
    前述の標準フランス語が規範文法を重んじているのに対して、ケベックの人々が
    日常生活の中で普通に話しているフランス語が大衆フランス語である。 大衆
    フランス語は、ケベックの社会の現実に即して、言語のあらゆる可能性を排除する
    ことなく用いられる。 そのため、ケベックに固有なフランス語表現等がこの中に
    入って来る。 また、極めて特徴的なことは、英語からの直接的な『借用』や、
    『読み換え』等が大変多く見られるという点である。 この事実は、ケベックが
    置かれている地理的、社会的状況を踏まえれば、むしろ当然なことかも知れない。



    【今後のケベック・フランス語】
    フランス語に関する認識は、変わりつつある。 以前は、フランスで話されている
    フランス語が唯一基準となるフランス語であるとする考え方が主流であった。
    しかし、今や、フランス語圏の文化的、社会的多様性がフランス語をより一層
    豊かで、強固なものにしているという捉え方に移行しつつある。 つまり、国際
    フランス語という考え方である。 この国際フランス語という枠組みの中で重要な
    役割を果たしているのが、まさにケベックである。  ケベック州政府は、ケベック
    特有のフランス語をラルース等のフランス語辞書の語彙に加えるようにフランス語
    圏の国際委員会に働き掛け、それと同時に、新語の開発でもフランス語圏の主導的
    役割を果たしている。

    例えば、ソフトウェアを現すLogicielという語彙がある。 これは、現在は、
    フランスを始め、フランス語圏では当たり前のように用いられているIT用語である。
    この用語は、実は、ケベックで作られたものである。 ケベックでは、
    フランス語は、単なるコミュニケーションツールを超えるものと深く理解
    されている。 ケベックは、これからも独自のフランス語の歴史を作り上げ、
    そして、世界のフランス語圏の中でますます
    重要な地位を占めて行くと
    思われる。

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    フラマンとワロンの両地域圏の対立は、地域的な小規模政党の発達を促した。
    現在の中央政府は、いくつかの政党で連立して国会内で多数を占めること
    によって成り立っている。 フラマン・キリスト教人民党は、フラマン地域圏
    では最大の政党で、これがワロン地域圏にある同じ考え方の比較的小規模な
    政党と提携して、カトリック投票ブロックを形作っている。

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    キリスト教人民党は、何人もの首相を出しており、その中には、レオ・
    ティンディマスとウィリフリード・マルテンスがいる。 マルテンスは、
    1979年に最初に首相になって以来、数回に渡り首相に選ばれた。 社会党は、
    ワロン地域圏で勢力が強く、オランダ語とフランス語をそれぞれ母国語と
    する人々の集団が、内部に作られている。 この点は、自由党の場合も同じで、
    自由党の強い支持基盤は、ブリュッセル地域圏である。

    1980年代には、失業率は増大し、物価は高騰していた。 この時期にも
    マルテンスは、首相となり、政府から緊急権限を与えられて、国の財政
    状態の改善にあたった。

    彼は、強力な経済政策を採用した。 公共投資と福祉予算を大幅に削って国家の
    負債を圧縮した。 労働者は、賃金の切り下げを強いられ、デモやストライキが
    多発した。 マルテンスは、企業への課税を減らして、生産の増大と職場の
    創設をはかり、世界市場での競争力を付けされた。

    その目的を達成するため、マルテンスは、数度に渡り、短期間、野党の地位に
    甘んじたが、いすれの場合も、新しい連立内閣を作るのに成功した。 1990年代
    初期までに、 この強力な政策は功を奏し始めたようで、ベルギーの経済情勢は、
    久しぶりに改善された。

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    この間、ECを統一した貿易ブロックに作り変えようとする計画が策定された。
    その結果、1993年には司法等の面での結び付きを強めて欧州連合(EU)へと
    移行した。 EUの本部をブリュッセルに置くベルギーは、ヨーロッパ市場の
    大変革の中心に位置している。 1993年、国王ボードワン1世の死去に伴い、
    弟のアルベール2世が即位した。 その後、アルベール2世の長子である
    フィリップが国王に即位し、現在に至っている。

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    ブラジル下院本会議は2016年4月17日、ルセフ大統領に対する弾劾決議案を
    賛成多数で採択した。 審議は上院に移る。 上院の野党勢力は下院より強く、
    上院本会議での採択を経て、弾劾裁判が開かれる可能性が高い。 左派労働党
    政権は4期目で窮地に追い込まれた。

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    投票結果は賛成367、反対137、棄権7、欠席2。 賛成票は、採択に必要な定数
    513の3分の2(342)を超えた。

    報道によると、上院(定数81)で弾劾裁判を開くか否かの採決が5月上旬にある。
    ここで過半数41人が賛成すれば、大統領は職務を180日間停止される。 この
    期間中に始まる弾劾裁判で、定数の3分の2に当たる54人が賛成すれば、大統領は
    失職する。

    4月16日現在、上院議員で弾劾に賛成を表明しているのは47人。 反対表明は19人。
    既にルセフ大統領の職務停止は避けられない情勢だ。

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    職務停止中はテメル副大統領が暫定大統領に就く。 弾劾が成立した場合も
    ルセフ氏の残り任期である2018年末までテメル氏が大統領職に留まる。 決議案は、
    ルセフ政権が財政赤字を隠し、貧困層への生活保護費や失業保険などを満額給付
    するため不足分を国営銀行に違法に肩代わりさせたとして、大統領を8年間、公職
    追放するよう求めている。

    ルセフ氏は、肩代わりは長年の慣習で問題ないと反論していた。 この日は弾劾
    賛成派、反対派が全国各地で集会を開催。 参加者はテレビで、議員が議場で1人
    ずつ短い演説をした後、口頭で賛否を表明する模様を見守った。

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    ベルギーの戦後は、大体において繁栄した。 外国の援助を受けてベルギーは、
    製造部門を現代的なものにした。 この改良は、フラマン地域圏でめざましく
    進み、国際的な投資によって、産業は近代化され膨張した。 しかし、ワロン
    地域圏では、産業活動の改善は余り行なわれなかった。

    1948年、女性が投票券を獲得した。 これは男性が1919年以来持っている権利
    である。 ベルギー政府は、この国の社会福祉政策を推進して、一般市民を
    経済的な困窮から保護するために、年金、健康保険制度、失業手当等を創設した。
    ボードワン国王と政治的指導者達は、国際強力と世界平和への努力を強め、
    ベルギーは、国連創設のメンバーとなった。 ベルギーは、オランダと
    ルクセンブルグの両国と通商協定を結んだ。

    natoheadquarters

    ベネルクス連合と呼ばれるようになったこれら3国の小国は、合体した事で
    経済力を強めた。 3国はまた、NATO、つまり、北大西洋条約機構に加盟した。
    これは、他の大部分の西ヨーロッパ諸国も加盟している軍事防衛組織である。
    NATOは、その人事管理部門の本部をブリュッセルに置いており、NATOの軍事
    本部もベルギーのモンス市近くにある。

    ベネルクス連合の成功によって、ヨーロッパの他の国々でも経済的強力を強め
    ようとの考え方が台頭した。 後に、ECと呼ばれるようになった共同市場が、
    1957年に発足し、ブリュッセルがその人事管理上の本部となった。 ECは、
    全ての加盟国の経済政策の強調をはかり、財政投資を行って、EC加盟国の間の
    経済発展を促進することを使命としていた。

    1960年代、国連の決議によって、ヨーロッパ各国は、それぞれの植民地に独立を
    認める方針を取ることになった。 ベルギー領コンゴ(現ザイール)で騒乱が
    勃発した後、ベルギーは、この地域の独立にいち早く同意し、1962年には、
    ルアンダとブルンディに独立を与えた。

    6024014603

    植民地を放棄した後も、ベルギーの経済は順調な発展を続けた。 しかし、1970年
    までに経済的な格差(特にフラマンとワロン)は、一層深刻なものとなった。
    オランダ語を話すフラマン人達は、1970年代に多国籍企業が多くの地域に近代的な
    製造工場や新しい通信網をこの地域に建設したため、めざましい発展を遂げた。

    これに対して、フランス語を言語とするワロン地域圏では、重工業が老朽化し、
    石炭の埋蔵量が底をついたため、衰退し始めた。 ワロン地域圏には戦後、外国の
    援助も資本の投資も余り行われなかったのである。

    自分達の要求が無視されていると感じたワロン地域圏の人々は、ベルギーを2つの
    独立した地域に分割する案を提起した。 ワロン地域圏に対して、財政的な責任を
    負うのを望まないフラマン地域圏の人々も、この分割案を支持した。

    ベルギー人は1970年代と80年代に、数回の国民投票を行って、憲法を改定した。
    この憲法の改定によって、地域議会が創設され、行政委員会が任命されて、財政
    資金を主要な言語地域の間で分割することが定められた。 1989年の憲法改正に
    よって、ベルギーは、フラマン、ワロン、ブリュッセルの3つの地域圏から成る
    連邦国家となり、この3つの地域圏は、これまで中央政府の有していた権限の
    多くを獲得した。

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    国際NGO『国境なき記者団』(本部・パリ)は2016年4月20日、2016年度の
    『報道の自由度ランキング』を発表した。

    日本は、対象の180カ国・地域のうち、前年より順位が11下がって72位だった。
    特定秘密保護法の施行から1年余りを経て、『多くのメディアが自主規制し、
    独立性を欠いている』と指摘した。 世界的にも報道の自由は損なわれつつ
    あるという。

    日本の『報道の自由』が後退しているとの指摘が海外から相次いでいる。
    国連の専門家や海外メディアからも懸念の声が出ている。

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    日本は2010年には11位だったが、年々順位を下げ、2014年は59位、2015年は
    61位だった。 今年の報告書では、『東洋の民主主義が後退している』とした
    上で、日本に言及した。

    特定秘密保護法について、『定義があいまいな『国家機密』が、厳しい法律で
    守られている』とし、記者が処罰の対象になりかねないという恐れが、『メディアを
    麻痺させている』(アジア太平洋地区担当のベンジャマン・イスマイール氏)と
    指摘した。

    その結果、調査報道に二の足を踏むことや、記事の一部削除や掲載、放映を
    見合わせる自主規制に『多くのメディアが陥っている』と報告書は断じた。

    『とりわけ(安倍晋三)首相に対して』自主規制が働いているとした。

    original45

    日本の報道を巡っては、『表現の自由』に関する国連特別報告者のデービッド・
    ケイ氏(米カリフォルニア大アーバイン校教授)が調査のため来日。 4月19日の
    記者会見で『報道の独立性が重大な脅威に直面している』と指摘した。

    海外メディアも、米ワシントン・ポスト紙が先月の『悪いニュースを抑え込む』と
    題した社説で、政府のメディアへの圧力に懸念を表明。 英誌エコノミストも
    『報道番組から政権批判が消される』と題した記事で、日本のニュース番組の
    キャスターが相次いで交代したことを紹介した。

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    1930年のドイツ軍事力増強は、ヨーロッパの脅威だった。 1936年、
    ベルギーは再び中立を宣言した。 イギリス、フランス、そして、ドイツが
    ベルギーの中立の立場を承認した。 しかし、ドイツが周辺諸国を次々に併合
    したため、摩擦は避けられないものとなり、1939年に第二次世界大戦が勃発した。
    1940年5月10日、ベルギーの中立を尊重すると誓約していたにも関わらず、
    ドイツは、再度ベルギーを侵略して、フランスに攻め入った。

    chevalbelges

    激しい戦闘が18日間続いた後、レオポルド3世は、ベルギー軍を降伏させる手順を
    取った。 ナチの軍隊が国土を占領してから後、ドイツは、ベルギーから金銭と
    商品と労働力を奪い取った。 ベルギー人達は、地下の抵抗運動を組織し、
    ベルギーの武装兵力の一部は、イギリスに逃れ、ドイツ軍に対抗する連合軍と
    合流した。

    ドイツの占領は継続されたが、1944年の夏、連合軍がフランス北部に大挙して
    上陸し、やがてベルギーは開放された。 1944年12月、退却を続けていた
    ドイツ軍は、アンデンヌで最後の大攻撃を敢行した。 これは、バルジの戦いと
    呼ばれている。 1945年5月、ドイツは降伏した。

    19140815liege02

    レオポルド3世が戦争初期にドイツに降伏したため、ベルギーは、ヨーロッパの
    他の一部の国々が被った程の破壊を受けずに済んだ。 しかし、多くの
    ベルギー人達は、国王がヒトラーに対して、協力的であり過ぎたと感じた。
    その問題は、フラマン人とワロン人の間の分裂を深め、フラマン人は、一般に
    君主制を擁護するのに対して、ワロン人は、国王は王位を捨てるべきだと要求した。
    レオポルドは、戦後の混乱期をベルギー国外で過ごし、1951年に王位を放棄した。
    息子のボードワン1世が後を継承した。

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    20世紀初頭までに、ベルギーは、社会的に安定して来たが、政治的、宗教的、
    言語的な面では、分裂した社会でもあった。 人々は何らかの宗教グループか
    政治的党派に属していた。 宗教的グループであるカトリックと、政治的党派で
    ある自由党は、『柱』と呼ばれる制度を採用して、それぞれ別個のグループを組み、
    平等の立場で社会生活を営むようになった。

    『柱』は、あくまでも自立したもので、教育制度、文化施設、労働組合、言語、
    医療サービス、社会サービス等の機関を別個に持っていた。 それぞれの『柱』の
    中では、別個の政党が組織されて、政府に影響力を行使し、『柱』同士の紛争を
    解決した。 これによって、『柱』のメンバー達の要求は処理され、政府に対する
    民衆の不満は大幅に回避する事が出来た。

    大部分のベルギー人は、経済的な安定を望み、そのためには、ヨーロッパでの
    平和が不可欠だと考えていた。 さまざまな国家間条約が結ばれて、列強の
    間での勢力の均衡が図られた。 戦争の危機を避けるため、ベルギーは、
    ヨーロッパの他の幾つかの小国と同じように、中立国を宣言していた。 これは、
    どんな戦争にも加担しない事を意味した。 しかし、このやり方は失敗し、
    1914年に戦争が始まった。

    p0790

    【第一次世界大戦】
    第一次世界大戦では、イギリス、フランス、イタリア、ロシア等の連合軍が、
    ドイツ、オーストリア等の同盟国と戦った。 1914年8月、ドイツ軍は、
    フランスに攻め込む過程で、ベルギーを侵略した。 戦争の全期間を通じて、
    ベルギー側の手に残っていたのは、西部の細長い地域だけだった。 占領された
    地域は、戦争により、徹底的に破壊された。 イーペルだけでも、3回もの
    激戦場となった。 ベルギー南部とフランス北部の長期の戦闘で、何十万人
    もの兵士が命を失った。 それでも、数千人ものベルギー兵が、1918年の
    ドイツの敗北まで連合軍と共に戦い続けた。

    戦後、ベルギーは、国際連盟の創設に力を貸した。 これは、世界的な国際
    組織で、戦争の防止を目標としていた。 国際連盟は、アフリカにあった
    ドイツの植民地ルアンダとウルンディ(現在のブルンディ)を、ベルギーの
    委託統治領とした。 ベルサイユ条約によって、第一次世界大戦は、正式に
    集結し、サンヴィット(現在は、何れもリエージュ州東部に所属)を獲得した。

    LeopoldIII

    1930年代の世界恐慌は、経済を再建しようとするベルギーの努力に水をさした。
    失業率は増加し、法と秩序と経済的安定を看板に掲げた政治運動が、いくつも
    起こった。 その中で、最も強力だったのが、ナチスで、アドルフ・
    ヒットラーの指導の下に、ドイツで勢力を振るった。 この頃、ベルギーでは、
    1934年にレオポルド3世が国王となり、安定した君主制が続いていた。

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