多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    2016年03月

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    赤の広場に立つ旅行者の目をまず引き付けるのは、クレムリンの壁やグム・
    デパートではなくて広場の南側に立つ聖ワシリー大聖堂の特異な姿であろう。
    あの玉ねぎ型の屋根の群れ、それぞれの大胆なデザインと鮮やかな色彩の
    取り合わせは、一度見たら忘れることの出来ない強烈な印象を与える。

    この大聖堂は、ロシアによるカザン・ハン国に対する勝利を記念して1555年
    から61年に掛けて建立された。 カザンを征服してモスクワに凱旋した時の
    ツァーリは、まだ22歳のイワン4世だった。 建築を担当したのは、バルマと
    ポスニクという2人のロシア人である(同一人物とする説もある)。

    元々、対カザン戦争の勝利にちなむ8つの聖堂をひとつの大聖堂にまとめる
    という課題を果たすために、8基の祭壇と円屋根を設ける必要があった。
    そのうち、半分の4基は、大きな円屋根で、他の半分は、それぞれ多少とも
    小さめに造られた。 キリストを称えるという趣旨から、中央にひときわ高く
    テント型の屋根をそびえさせ、その頂上には、小ぶりのドームが付けられた。

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    変わっているのは、それをそれぞれの円屋根の形が、たまねぎ型に統一
    されているものの、全部異なった意匠が施され、色合いも様々なことである。
    構成上の調和は全く無視されている。 勝利の日が10月だったことから、
    この大聖堂は、ポクロフスキーと命名された(旧暦の10月1日がポクロフ=
    聖母庇護祭にあたる)。 もうひとつ怪奇なことは、この大聖堂が落成して
    献堂式を拳行して間もない1558年、癒癩行者として知られたワシリーが
    聖者の列に加えられたのを記念して、堂内の祭壇に祀られた途端に、
    ポクロフスキーという正式な名称を忘れられ、福者(ブラジェンヌィー、
    聖者の位のひとつ)ワシリーと呼ばれるようになったことである。

    癒癩行者は、東方正教会に特有な現象で、狂気のふりをして(あるいは、実際に
    狂気に侵されて)社会通念に反するような奇行を演じたり、奇言を吐いたりする
    者のことである。その中で特に正教会では、聖者と認定していた。

    16世紀の末、モスクワのイギリス商館にフレッチャーという人物が勤務して
    いたが、彼は、その著作の中で次のようにワシリーの噂を伝えている。
    『ロシアにはある種の世捨て人が居て一枚の布切れを腰に巻いている他、裸で
    歩き回っている。 髪の毛は長く垂れて、肩の周りを覆っている。 冬の最中
    にも鉄の首輪や鎖を巻いている者も居る・・・そのうちのひとりバジレオ
    (ワシリーのこと)は、先帝イワン4世が人民に対して残虐な圧政を加え続けた
    ことを絶えず非難していた』。

    イワン雷帝のような専制君主を公然と批判するような行為は、癒癩行者にしか
    許されなかったであろう。 その雷帝が1584年に他界したところから、今は
    亡きワシリーが時代の英雄として担ぎ出されたのに違いない。

    聖ワシリー大聖堂と向かい合って赤の広場の反対側に立っているのが、国立
    歴史博物館である。 中世ロシアの伝統的な建築様式で建てられ、クレムリンに
    調和するように赤レンガで積み上げられている。 ただ、中央の主屋の台形の
    屋根やいくつかのテント型の塔の屋根をはじめ、全ての翼の尖った屋根が純白に
    塗られている。 それが、いかにもパンケーキの上に粉砂糖をふりかけたような
    メルヘン的な印象を与える。

    こちらは、比較的新しく19世紀の70~80年代に建てられたものであるが、
    赤の広場に良く似合っている。 行政上、この歴史博物館のアドレス表示は、
    赤の広場1番地であり、聖ワシリー大聖堂は、この博物館の分館のひとつと
    なっている。

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    英国はどの欧米諸国より、ロシアの富が社会の上流に浸透している。
    ソビエト連邦の崩壊後に台頭したオリガルヒ(新興財閥)が
    『ロンドン・グラード』に注ぎ込んできた金額を考えると、デビッド・
    キャメロン首相率いる英政権は、ロシアの非道にどれほど怒りを
    覚えようとも、オリガルヒを弾圧できないだろうという批判がある。

    ロンドンの金融街シティは、ロシア人を締め出すべきではないというメモが
    流出したことも、そうした批判の正当性を裏付けているように見える。
    英国は、英国債に100万ポンド以上を投資している外国人に、3年間の
    『投資家』ビザを発給している。 2年後にその国債を保有し続けていれば、
    1000万ポンドで居住権を手に入れることもできる。

    2008年第3四半期から2013年第3四半期までの間に、ロシア人には、この種の
    ビザが433件発給されている。これはどの国より多く、近い数字は中国人の
    419件のみだ。 英国には、オリガルヒの子弟向けに枠を用意した学校は、
    ダリッジ・カレッジ以外にも何十校もある。

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    独立学校協会(ISC)によれば、2013年に私立学校に在籍する非英国人の
    生徒のうち、8.3%がロシア人だったという。 年間の学費にすると最大で
    6,000万ポンドをロシア人が支払っている。 ロシア人の生徒数は、2009年
    以降倍増した。

    オリガルヒは、ロンドンのマンションやペントハウスを買いあさっている。
    不動産会社のサビルズによると、チェルシーやウェストミンスターといった
    『一等地』の購入者の4%がロシア人で、平均630万ポンドを投じているという。

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    東日本大震災で被災した宮城県石巻市の大川、門脇両小の校舎について、
    亀山紘市長が2016年3月26日、保存することを正式表明した。 記者会見での
    主なやりとりは次の通り。

    ◎遺族への配慮 在り方探る 出典:河北新報

    -保存を決めた理由は。
    -『最大被災地の石巻市で、大災害の教訓を伝えていくことが重要。 命が
    奪われたことが一番の教訓。 大川小は児童と教職員計84人が犠牲となった。
    悲しみを伴う事実を伝えるためにも校舎を残す意義はある。 門脇小は津波と
    火災の痕跡があり、校舎にいた人は裏山の日和山に逃げて助かった』

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    『実際に被害を受けた建物を見るのと、映像を見るのとでは伝わり方が違う。
    保存の期限は決めていない。 できるだけ長期にわたり伝承していくことが
    必要だ。 語り部をしている遺族らの協力も受け、防災・減災の取り組みを
    していきたい』

    -もっと議論すべきではなかったかとの声がある。 『民主的にさまざまな
    -『意見を聞き、結論に至った。 保存、解体の両論が拮抗しているのは間違い
    ないが、震災から5年を迎えた今、先送りせず保存を決めるべきだと考えた。
    解体を望む遺族らのつらい思いに配慮した保存の在り方を検討していく』

    -仮に亀山市長が交代した場合、後任に両校舎をどうつないでいくのか。
    -『住民らとの話し合いを今後進める中で両校舎の具体的な残し方について合意
    していけば、首長が代わったとしても重要な遺構として伝わっていき、保存
    方針が変更されることはないと思っている』

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    都市には市が付き物で、モスクワでは、14世紀の後半から、クレムリンの東側の
    城壁の外が商売の売り買いの場となっていた。 16世紀30年代にクレムリンと
    キタイ・ゴロドがまとめて囲まれた時、市の立つ広場は広げられた市域での
    中心地となった。 支配する者と支配される者が出会う場所という意味でも、
    それは国家の中心とも言えた。

    最初は単に市とか市の広場の名称で文献に現れるが、イワン3世が火事の際、
    火の手がクレムリンに及ぶのを防ぐ意味で、240mの幅の空間に建物を建てる
    ことを禁じたことから、16世紀には、ポジャール(火除け)の広場と呼ばれた。
    今のように赤の広場(赤は『美しい』を意味する)の名前が一般化するのは、
    17世紀の後半からである。

    建物は作れなくても、立売や露店を出して商売することは自由であった。
    時代が下ってからは、堀をまたぐスパスカヤ門の橋の上では、書物や版画が
    売られ、一番北の端のニコリスカヤ門の周りには、ブリヌイ(クレープ)や
    パイのような食べ物売りが集まり、その門の近くにある大砲の台座の脇には、
    クワス(黒パンから作る飲み物)やリンゴ、長革靴、ろうそくを商う店が
    並んでいた。 同業者が固まってひとつの列を成しているのが通例であった。

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    広場を挟んでクレムリンと向き合っているのが、キタイ・ゴロドである。
    赤の広場に建物を作らせない代わりに、16世紀の末、ボリス・ゴドゥノフの
    命令によって広場の脇にクレムリンと平行するように常設のゴスチーヌィー・
    ドゥヴォール(商人館)を建て、そこで商品を展示したり、営業を行わせ
    たりした。 ソ連時代には、グム・デパート(国営百貨店)となった。
    キタイ・ゴロドの一角には、イギリス、イタリア、ドイツ等の外国の商館も
    置かれていた。

    赤の広場のように人が集まる空間は、政治的なパフォーマンスの場にもなった。
    イワン3世とソフィアの孫にあたるイワン4世は、非常に残忍なツァーリだった
    ことで有名で、雷帝というのが彼の通り名であった。 国家を収め始めた
    初期には、宗教会議を招集して法律を定めたり、それまでの年代記を集大成
    したりして積極的な姿勢を示すが、1560年からは、周囲に対して、威圧的な
    態度で臨み、彼の治世の間に赤の広場で処刑された貴族や役人の数は、何百人、
    あるいは、何千人とも言われている。

    アムステルダムで発行された前述のクレムリンの図にも『処刑された人々の
    ための堀ばた教会』の絵が5堂も描かれている。 これらの教会は、18世紀に
    なって取り壊され、その祭壇がワシリー大聖堂に移されたので、今は姿を留めて
    いない。 赤の広場の一角にローブノエ・メストと呼ばれる円形の石壇があるが、
    かつてここは、ツァーリの発布する法令が読み上がられた場所である。

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    17世紀に最も多くの群衆を集めたのは、復活祭1週間前の聖枝祭の行列だった。
    キリストがエルサレムに入ったとされるこの日、総主教が乗るロバの手綱を
    ツァーリが握り、全ての貴族や聖職者や聖歌隊や銃兵隊等が付き従って、
    ウスペンスキー大聖堂からスパスカヤ門を通って、赤の広場に出て、ローブノエ・
    メストまでにぎにぎしく行進したのである。 それは、国家の最高権力者たる
    ツァーリが謙譲の美徳を民衆の前に示すための行事だったと考えられる。
    行進の最後には、ツァーリと総主教がローブノエ・メストに並んで立ち、民衆の
    歓呼の声に応えることで締めくくられた。

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    モスクワ大公は、イワン3世の孫の雷帝イワン4世の時からツァーリと名乗る
    ようになり、クレムリンには、歴代の大公とその家族が暮らしていた。
    ツァーリは、ローマのカエザル・シーザーに由来している称号であり、
    モスクワ大公が代々使用して来た称号である。

    しかし、クレムリンに住んでいたのは、最高権力者だけではなかった。
    1600年にアムステルダムで出版された絵図によれば、今と同様に、正門は
    赤の広場から入るスパスカヤ門(当時の呼び名はフロロフスカヤ門)であった。
    門を入るとすぐ右手にヴェズネセンスキー尼僧院とチュードフ修道院があったが、
    現在、その場所は、新しい建物になっていて、ロシア大統領の官邸となっている。

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    左手には、ロシア各地の大修道院の分院が建っており、現在、その場所は、
    空き地になっている。 広場を通り過ぎると、クレムリンの中でもずば抜けて
    高い81mの『大イワン』と呼ばれる鐘楼がある。 これをイワン大帝と呼ぶのは
    紛らわしく、キリスト教の古い聖者ヨハネ(ロシア語ではイワン)に由来
    している。 この大鐘楼は、物見の塔の役割を果たしていた。 

    鐘楼の先には、ウスペンスキー大聖堂、アルハンゲルスキー大聖堂、
    ブラゴベシェンスキー大聖堂が立ち並び、その背後から国事を行う宮廷、並びに、
    ツァーリと皇族の私的な居住空間となっていた。 後者は、一段と高い丘の上に
    立ち、周囲からは隔絶していた。 この大クレムリン宮殿は、ツァーリの
    モスクワでの居城であった。 現在の建物は、ニコライ1世の命で建てられた
    ものである。 大鐘楼、大聖堂群、多陵宮を除けば、ニコライ1世以前から
    現存している建物は、ほとんどない。

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    ツァーリの宮殿から程遠くない場所には、総主教館があった。 この聖界と
    俗界のトップの他に、1600年の時点で12家の貴族がクレムリン内に邸を与え
    られていた。 モスクワ国家の全ての貴族と高官は、毎日、早朝ツァーリの
    宮廷に伺候することが義務付けられていたたため、クレムリン内に舘がある
    ことは、相当な特権であったと想像出来る。

    前述の大聖堂の他にも、聖堂(教会)と称するものが19堂、修道院分院と
    呼ばれるものが6堂を数えるため、政治と宗教が分かちがたく結び付いていた
    ことが分かる。 現在の外務省に相当する使節官署、財務省に相当する出納寮、
    警察庁に相当する盗賊取締官署等もクレムリンの中に置かれていた。 すなわち、
    全ロシアの中枢が全てクレムリンに集中していたのである。

    現在と比較して、変わったのは外堀で、西の城壁のわきには、ネグリンスカヤ川が
    流れ、東側、つまり、赤の広場の側には、ネグリンスカヤから分水して堀が掘られ、
    モスクワ川から流れ落ちていた。 堀の深さは、10mあり、幅は35mで、
    スカスカヤ門に入るには、跳ね橋を渡る必要性があった。 19世紀の初めに
    なって堀は埋め立てられ、続いてネグリンスカヤ川も河口から3kmの地点まで
    埋め立てられた。

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    乱世の権力闘争を制して、モスクワが覇権を握ったのには2つの要因が
    あったとされている。 まず、地理的条件。 モスクワは、ロシア平原の
    ほぼ中央にあって、周囲を森で囲まれていた。 タタール勢の襲撃を
    受けにくい比較的安全な場所だった。 また、モスクワ川によって
    ロシア各地と結ばれていた。 中世では、河川は重要な交通手段だった。
    交易の中継をすることでモスクワは莫大な経済的な利益を得た。

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    次に挙げられるのが、歴代の君主の巧妙な外交手段である。 その点で
    とりわけ目立ったのは、ダニールの息子でカリター(銭袋)とあだ名された
    イワン1世であった。 イワンはタタールに取り入って、ロシアから
    キプチャク・ハン国に納入すべき貢税の徴収権を手に入れた。 そして、
    豊富な資金に物を言わせて、モスクワ公国に隣接する諸侯から土地を
    買い入れて領土を拡大して行った。 ロシア全土のキリスト教会を
    統轄するキエフ府主教は、タタールの襲来以来、以後ウラジーミルに
    居を移していたが、それが招かれてモスクワに腰を落ち着けたことも、
    新参のモスクワの権威を高めるのに役立った。

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    それにつれて、クレムリンの内部も次第に拡張されて行く。 考古学的な
    発掘で確められるところでは、イワン1世の代には既にアルハンゲリスキー、
    ブロゴベーシェンスキー、ウスペンスキー等の大聖堂が揃って立ち、
    ハン国の客人を宿泊させるためのタタール館やチュードフ修道院が
    クレムリンの内側に建てられていた。 クレムリンの中に住むのは、
    公の家族と貴族や僧侶で、商業が行われるのは、初めのうちモスクワ川と
    クレムリンの城塞の間の空き地だった。 それが、ポサードと呼ばれた。
    イワン1世の治世になって、市の立つ場所をクレムリンの東側に移した。
    赤の広場の原型が姿を現したのである。

    イワン1世の孫にあたるドミトリー大公の代にモスクワの興隆は一段と
    進み、ドミトリーは、ロシア諸侯の連合軍を率いて、タタール軍を
    南ロシアのドン川の彼方、クリコヴォで打ち破った。 ドミトリー大公は
    この勝利によって、ドンスコイ(ドンの英雄)と呼ばれるようになった。

    ドミトリーの功績のひとつは、クレムリンをほぼ現在の規模にまで
    広げて、1367年の火災で焼け落ちた木の柵の代わりに石炭岩でクレムリンを
    囲ったことである。 「白亜の石のモスクワ」という美称がここから
    生まれた。

    また、14世紀の後半には、モスクワの周りにアンドロニコフ、
    シーモノフ、ロジェストヴェンスキー、スレーチェンスキー等のような
    修道院が次々と開かれた。修道院と言っても、有事の際には、出城の
    役割を果たすように広い敷地を持ち、賢固に築かれていた。 これらの
    修道院は現存していて、あるものは修行の場に、あるものは博物館に
    なっている。 もっとも、現存の建物は、いずれも後代のものである。

    ドミトリー・ドンスコイ大公が没する頃のモスクワの人口は、3万
    ないし4万人に達していたものと推測されている。

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    モスクワとという名前が文献に初めて登場するのは、1147年である。
    モスクワからほど近いスズダリの街に、ユーリーという公が本拠地を置いた。
    元々、古いロシアの支配者は、バイキングの血を引くリューリックの子孫に
    限られていた。 ユーリーの父のウラジミールもその一人で、キエフ大公として
    諸侯の上に君臨していた。 ところが、ユーリーがスズダリやロストフを領有
    するようになった頃から、キエフを中心とする現在のウクライナ地方に対して、
    ロシア平原の東北部の政治的優位が目立つようになった。

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    ユーリーは、しばしば長駆してキエフの王座を狙ったことから、ドルゴルーキー
    (手長公)というあだ名が付いたほどだった。 そのユーリーが当時政治的に
    手を結んでいた又従兄弟にあたるスヴャトスラフ公(オペラでうたわれる
    『イーゴリ公』の父親)に向かって、『モスクワに来られたし』 と酒宴に
    招いたのが、この年の事であった。

    ある小川が北からモスクワ川に流れ込む河口の三角地帯に、ユーリー大公が
    新たに周囲400mあまりの木柵を築き、堀をめぐらせたのが1156年である。
    その中の広さは、たった1haだった。 この時、ようやくモスクワは町として
    成立したのだが、モスクワの発祥を示す時には、文献初出の1147年をもって
    出発点とみなすこととなっている。 近いところでは、1997年に創建
    850周年際が行われた。

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    赤の広場を出て西北に向かう市内随一の目抜き通りであるトゥヴェルスカヤ
    通りの右側に、ユーリー・ドルゴルーキー公の銅像が立っている。 派手な
    赤い色のモスクワ市庁舎(旧モスクワ総督公邸)の向かい側である。 もっとも、
    モスクワを自分の居城に定めてモスクワ大公国初代の君主になったのは、
    ユーリーから数えて5代目にあたる末裔のダニール公だった。

    1300年前後のことである。それまでに、バトゥ・ハン率いるモンゴル軍
    (ロシアでは、タタールと呼ばれている)がモスクワに攻め入ってモスクワ砦の
    木柵も焼き払われるというような事件があり、1293年には、再びタタール勢が
    来襲してモスクワは廃墟になった。 その後、ロシア全体がモンゴル軍が建国
    したキプチャク・ハン国(金帳汗国)に服属することとなるのだが、ロシア国内
    では、諸侯間の激しい内紛が繰り返され、当時は小さな街に過ぎなかった
    深い森に囲まれたモスクワが、その後、ロシアの首都となるのである。

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    ロンドン塔は、多くの王侯貴族が幽閉されたり、処刑された場所として有名で、
    幽閉と処刑の場であったばかりではなく、それとは反対に、即位した国王が
    戴冠式までの数日をここで過ごしたという喜ばしい習慣もあったらしい。 1547年
    1月31日、ヘンリー8世の死が議会に報告され、その子供であるエドワードの即位が
    宣言されると、エドワードは、ロンドン塔に入った。 大勢の貴族が集まって臣下の
    誓いの儀式が行われた。 そして、ヘンリー8世の葬儀の4日後、2月20日に、
    ウェストミンスター寺院でエドワード6世の戴冠式が行われた。

    エドワード6世が1553年7月6日に亡くなると、その後を継ぐ筈だったジェイソン・
    グレイは、サイオン・ハウス(ロンドン西部にあったダドリー家の屋敷)から
    テムズ川を船で下り、ロンドン塔に入った。 そして、7月10日、イングランド
    王女としての即位が宣言された。 しかし、その9日後の7月19日には、一転して、
    ロンドン塔の因人となり、7ヵ月後の翌年2月12日に斬首となるという運命が
    待っていた。 17歳という若さであった。

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    ヘンリー8世の二人目の王妃であるアン・ブーリン(エリザベス女王の母)も、この
    ロンドン塔で運命の反転を受け入れざるを得なかった。 1532年6月1日の王妃の
    戴冠式に備えて、アン・ブーリンは、当時のグリニッジにあった宮殿から、ヘンリー
    8世と共にロンドン塔に入った。 二人の船に従う船は、4マイルの列をなしたという
    壮大な行列であった。 それが、3年後の1536年5月2日には、グリニッジ宮殿で
    罪状を知らされ、同じルートでグリニッジから船でロンドン塔に入り、ロンドン塔の
    グレート・ホールで裁判が行われ、5月19日に処刑された。

    このような処刑が行われたのは、イギリスの宗教改革と英国王位継承の事情が
    あった。 ヘンリー8世は、最初のスペイン国王カタリーナ・デ・アラゴンと
    結婚し、この時も二人は戴冠式の前夜をロンドン塔で過ごした。 10年のうちに
    6人の子供が生まれ、うち二人は王子であった。 しかし、いずれも生後間もなく
    死亡し、一人生き残ったのは、王女メアリーだけであった。 この時、英国王位
    継承を確保するためにどうしても王子が必要であったのは、想像するに難くない。
    これがカタリーナとの離婚につながり、更には、ローマ教会との決別、英国国教会
    設立という、英国特有の宗教改革につながった。

    1547年にヘンリー8世が死んだ時の子供は、カタリーナとの間に生まれたメアリー
    (31歳)、アン・ブーリンとの間に生まれたエリザベス(13歳)、ジェイソン・
    シーモアとの間に生まれたエドワード(9歳)であった。 メアリーと
    エリザベスは、いずれも非嫡出子とされ、王位継承からは外されていたが、
    最終的には、エドワードに続く王位継承者になった。 このエドワードの時代に
    英国国教会は、その土台を着実に築いた。 エドワード6世が15歳の1553年1月、
    重い病気に掛かった時に王位継承の危機が訪れた。

    この当時、40人の顧問官からなる枢密院が最高議会決定機関であり、そのリーダー
    であったノーザンバラトン公ジョン・ダドリーが事実上の政治的実権を握っていた。
    7月6日にエドワード6世が死ぬと、枢密院は、ジェイソン・グレイを王位継承者に
    指名し、7月6日にジェイソ・グレイはロンドン塔へ移され、戴冠式を待つこと
    となった。

    メアリーは、弟の死を知らされてもロンドンには行かず、カトリック支持の実力者が
    第三代ノーフォーク公トマス・ハワードび勢力下にあるイースト・アングリアに
    赴き、支持者を募った。 メアリーがケンブリッジ近くのソーストン・ホールに
    居るという情報を得たジョン・ダドリーが急遽兵を3,000人かき集めてこの館を
    急襲したが、メアリーを捕獲出来なかった。

    しかも、この館は、カトリック教徒の常識として、抜け穴、隠し部屋等の忍者屋敷
    さながらで、メアリーは、乳搾り女に変装して脱出したという。 メアリーのもと
    には、2万の勢力が終結していた。 ロンドンに残っていた枢密院は、ことの
    重大性を知り、先の決定をひるがえして、メアリーを継承者にすることを決定し、
    その旨をメアリーに伝えた。 7月19日のことである。

    このため、ロンドン塔に居たジェイン・グレイは、戴冠式を待つ身から一転して、
    ロンドン塔の因人になってしまった。 枢密院に裏切られたジョン・ダドリーも
    あっさり降伏し、反逆者として処刑される。 かつて王の後見人として実権を握って
    いたエドワード王の叔父エドワード・シーモアを失脚させて葬り去り、実権を
    奪取した男の末路であった。

    ジェイソン・グレイとギルフォード夫婦は、すぐには処刑されなかった。 
    メアリーには、この近親者を処刑する意図はなかった。 しかし、メアリーが
    カトリック宗主国スペインの皇太子フィリペとの結婚を表明すると、プロテスタント
    勢力の間に危機感が広がり、翌1554年1月26日、メアリーの廃位を目的とする
    ワイアットの反乱が起きた。 反乱は鎮圧されて、首謀者は処刑されたが、同じ
    ような反乱が起きることを防ぐために、ジェイソンとギルフォードも2月12日に
    処刑された。

    これが、メアリーによる粛清の始まりとなり、英国民の心に、カトリックに対する
    恐怖と偏見を深く長く刻み付けることとなる。 数年後、メアリーの突然の死に
    よって、悪夢が終わり、エリザベス女王の治世へと移り、再びプロテスタント国
    になると、ジェイソン・グレイは、その殉教者という地位を得ることとなる。

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    東日本大震災で被災した宮城県石巻市で月2回、仮設住宅に無料配布
    される『仮設きずな新聞』が終刊となった。震災から5年が過ぎ、資金や
    担い手が不足し、継続が難しくなったという。 被災者から感謝と惜しむ
    声が相次ぎ、新聞制作や配布を支えてきたボランティアらが新たな情報紙の
    発行を検討している。
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    被災者支援に取り組む団体『ピースボート災害ボランティアセンター』が
    2011年10月に創刊。 A4判4ページで、約5,500部を市内133カ所の
    仮設団地で配ってきた。

    終刊について、編集長の岩元暁子さん(33)は『助成金などの支援が年々減り、
    資金難と担い手不足が主な要因』と説明する。

    岩元さん自身も結婚し、東京の夫とは別居状態が続く。 『歳月を経て支援者側の
    生活環境も変わった。 仮設住宅の解消まで頑張るかどうか悩んだが、どこかで
    区切りが必要』と話す。

    きずな新聞には住民の活動や地域の催し、健康に関する話題など暮らしに役立つ
    情報を掲載。 ボランティアや地域住民が一軒一軒を訪ね、直接手渡す
    『見守り活動』が好評だった。

    岩元さんは14日、最終号の第113号を手に石巻市鹿又の役場前団地を訪れ、住民に
    終刊を説明。最終号を配りながら、近況などを聞いて回った。

    平塚好夫さん(70)は同市門脇にあった自宅が津波で流失。 2011年10月から、
    同団地で妻と暮らす。 『本当にありがたかった。毎回楽しみだっただけに、
    終わるのは寂しい』と話す。

    きずな新聞は他の支援団体にも浸透し、新聞作りに協力する人もいた。 そうした
    メンバーからも惜しむ声が上がる。 岩元さんは『きずな新聞は終刊となるけれど、
    発行頻度を減らすなどして別の形の新聞を協力者たちと作りたい』。 夏ごろの
    発行を目指し、新媒体の準備を進めている。

    出典:河北新報

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    イギリスにとって、最大の遺産は、英語と観光であると言われている。
    英語は、世界の共通語になりつつあるし、 2010年にロンドンを訪れた
    観光客は1,460万人にも及び、1兆円以上の金をロンドンに落とした
    ことになる。 ロンドンを訪れる観光客の最大の目玉は、華やかな衛兵の
    交代式で知られるバッキンガム宮殿である。

    ロンドンを訪れた観光客は、まず始めにこの宮殿の歴史と衛兵の交代に
    見られる伝統の重さを噛みしめてから、繁華街へと繰り出すこととなる。
    その中心地であるピカカデリー・サーカスに立つと、リージェンス
    ストリートの景観が先ず人々の度肝を抜くこととなる。 この周辺の整然
    とした街並みは、古都ロンドンの威厳を示すと同時に、ロンドン子の誇りの
    象徴でもある。

    この通りを更に進むと、オックスフォード・サーカスを経て広大な
    リージェンツ・パークに至る。 反対側に目を向けると、トラファルガー
    海賊の英雄である、ネルソン提督の記念柱がそびえるトラファルガー広場が
    見える。

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    このロンドン観光の中心をなす部分は、その殆どがひとりの国王の手に
    よって造られた。 その国王とは、ハノーヴァー王朝第4代国王である
    ジョージ4世(在位1820~1830年)で、皇太子時代の名前がリージェント
    王子であるため、その功績を讃えてリージェンツ・パーク、リージェント・
    ストリート、ロワー・リージェント・ストリート等の名前が付けられた。

    国王になってからのジョージ4世はが始めたのは、バッキンガム宮殿の
    大改修であった。 バッキンガム宮殿は、英国王室の代名詞のようになって
    いるが、正式に宮殿になったのは、これより後のヴィクトリア女王が即位
    した1837年のことである。

    英国王のロンドン宮殿は、最初ウェストミンスター宮殿、次いでホワイトホール
    宮殿、セント・ジェイムス宮殿と変遷して来た。 バッキンガム宮殿は、元々
    バッキンガム公であるジョン・シェフィールドが1705年に建てた私邸を王で
    あるジョージ3世が1761年に王妃のために買い取ったもので、15人の子供のうち、
    14人がここで生まれ、クイーンズハウスとも呼ばれていた。

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    ジョージ4世は、建築家であるジョン・ナッシュに命じて、バッキンガム
    ハウスを荘厳な宮殿に建てかえることにした。 バッキンガム宮殿の構想が
    現実に向かって動き出すと、これをバネにして、ロンドン各地で色々な動きが
    始まった。 ジョージ4世は、建築だけではなく、芸術や文化にも理解があり、
    1822年に大英博物館が拡張された時も、その翌年にナショナルギャラリーが
    設立された時にも、そのスポンサーになった。 最後の7年間は、ウィンザー城
    に超一流の飾りや調度品を集め、ヨーロッパで最も素晴らしい宮殿のひとつに
    仕上げた。 トラファルガー広場には、ジョージ4世の騎馬像が建っており、
    ロンドン市民を見守っている。

    このような偉大な功績を残したのにも関わらず、ジョージ4世は国民からは
    かなり嫌われた。 父ジョージ3世の残した借金は桁外れで、1793年当事で
    40万ポンドに達しており、借金を棒引きにするために、従姉妹のキャロライン・
    オブ・ブルンスウィックと結婚した。 2人の間には長女シャーロットが
    誕生したが、その3ヵ月後には一方的に別居を宣言して、昔の愛人とよりを
    戻してしまった。

    その後、キャロラインとの仲はもつれにもつれて、国政を巻き込んでの
    大スキャンダルに発展した。 ジョージ4世が全力を傾けて取り組んだ
    バッキンガム宮殿の大改修だったが、ジョージ4世は、その完成を見る事なく
    1830年にこの世を去った。



    ジョージ4世の跡を継いで国王となったウィリアム4世は、長年海軍に所属
    しており、派手好きであった兄とは逆に、質素な性格で、バッキンガム宮殿
    には関心を持たなかった。 ウィリアム4世の死後、姪であるヴィクトリアが
    即位し、完成したバッキンガム宮殿に住み始めた。 しかし、最愛の夫である
    アルバート公が1861年に死去すると、ヴィクトリア女王は公の場を避け、
    ワイト島のオズボーンハウスや、ウィンザー城に住むようになったため、
    バッキンガム宮殿は、40年間に渡って、半ば閉鎖されたようになった。

    跡を継いだエドワード7世の時にようやく活気を取り戻し、増改築を繰り返して、
    ジョージ5世、ジョージ6世、エリザベス女王へと引き継がれて来た。 とりわけ、
    ジョージ6世が第二次世界大戦中にドイツ軍の空爆を何度か受けながら、この
    宮殿に踏みとどまって決意の程を見せた話は有名である。

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    東日本大震災の津波で犠牲となった家族の勤務先や行政を相手取った
    5件の津波裁判の原告遺族らが2016年3月5日、仙台市に集まり、震災の教訓を
    語り合うフォーラムを開いた。 そろって公開の場で討論するのは初めてで、
    『企業や組織は人命を最優先に行動してほしい』などと組織防災の必要性を
    訴えた。

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    フォーラムは七十七銀行女川支店(宮城県女川町)訴訟=最高裁で敗訴確定=の
    原告の呼び掛けで実現した。 行員だった長男健太さん(当時25歳)を亡くした
    田村孝行さん(55)は『連携して大切な命について語り続け、有事が起きた際の
    企業や組織の仕組みづくりを訴えていきたい』と話した。

    同県山元町立東保育所で長男将宏君(当時6歳)を亡くした鈴木あけみさん
    (50)は提訴した理由を『お金のためではなく、町に謝罪して本当のことを
    語ってほしかったから。 最高裁で門前払いになったが、上告せずに後悔する
    よりは良かった』と説明。 同県石巻市の日和(ひより)幼稚園訴訟で和解に
    応じた西城靖之(やすし)さん(47)は『絞り込まれた争点だけ争う裁判の
    仕組みに限界を感じた。 どうしたら子どもの命を守れるかを模索しながら、
    国や自治体に働きかけていきたい』と語った。

    係争中の石巻市立大川小学校訴訟、常磐山元自動車学校(山元町)訴訟の原告
    遺族も参加した。

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    ベルギーの 人口は、約1,000万人となっており、その95%が都市に住んでいる。 この
    割合は、ヨーロッパ最高となっている。 この国の最も人口の集中している都市は、
    ブリュッセルとアントワープで、その他の都市では、シャルルロアや、リエージュのような
    都市の中心か、、または、ゲントやブルージュのような歴史的な都市に住んでいる。

    cibebru

    【ブリュッセル】

    ブリュッセルの人口は、その郊外も合わせると、110万人となっており、面積の上では、
    ブラバンド州の半分近くを占めている。 この都市は、センヌ河畔にあって、ずっと以前
    からフラマン文化とワロン文化の接合点であった。 現代ブリュッセルは、国際的な産業と
    政治の中心となっている。 市民の3人に1人はベルギー国籍を持っていない。 この
    街では、オランダ語とフランス語が公式言語とされており、住民の大部分はフランス語を
    話すことが出来る。 また、英語やドイツ語、その他の言語も日常的に極普通に使われて
    いる。

    1830年以来、ブリュッセルは、ベルギーの首都ととして、商業、工業、そして、文化の
    中心であった。 住民の多くは、この都市にある政府機関や国際機関の職員となって
    いる。 ブリュッセルの主要な産物としては、繊維製品、薬品、電気機器、機会、ビール
    等がある。

    groenplaats

    【アントワープ】
    人口50万人のアントワープは、ヨーロッパでも最も船舶の出入りの多い港で、スヘルデ川
    沿いに広がっている。 15世紀と16世紀には、この都市は、商業の中心として繁栄し、
    商人、芸術家、職人が多数住み着いた。 現代でも、この都市の主要な収入源は貿易
    だが、精油工業、薬品工業、冶金業、食品加工業、電子工業等も盛んになっている、
    ダイヤモンド産業は、この都市の経済の重要な要素で、ダイヤモンド研磨業は、何世紀も
    前から、世界随一と言われている。

    charleroi

    【シャルルロア】
    シャルルロアは、人口25万人以上を擁する都市で、サンブル川の肥沃な農業地帯の
    ただ中にある。 付近に石炭が多量に埋蔵されているため、この都市の工業は19世紀
    に入って繁栄し、ワロン地域の大きな部分に富と仕事をもたらした。 この都市の運河沿い
    には、かつて商業活動が活発に行われた倉庫が立ち並んでいる。 冶金業関係の
    鋳造所や工場の多くは、時代遅れとなり、今では、ハイテク産業の町となっている。

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    【ゲント】
    ゲントは、人口23万5,000人の古い大学町で、東フラマン州の州都となっている。 
    ライエ川とスヘルデ川の合流地点に位置している数十の島々の上に建設されたため、
    ベルギー第二の港湾都市となっている。 1886年には西スヘルデ運河に直接連絡する
    運河が完成した。 何世紀も前からゲントは、ベルギーの繊維産業の中心となっている。
    最近では、鉄鋼の生産と草花の栽培も地元の経済に大きな意味を持つようになった。
    第一次世界大戦と第二次世界大戦では、ドイツ軍に占領されたが、貴重な建物は破壊を
    免れた。 9世紀に建てたれた城郭と16世紀に建てられた市庁舎は、今でも健在である。

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    【リエージュ】
    人口21万5,000人のリエージュは、ミューズ川の両岸にまたがっている。 遠い昔から、
    ワロン地域圏の行政と商業の中心地で、ひっそりした感じの中庭や狭い裏通り、急な
    坂道が多い。 1460年代にリエージュは、ここの市民に侮辱されたと考えたシャルル
    豪胆公によって、徹底的に破壊された。 そのため、現在残る建築物は、16世紀以降に
    建てられたものが多い。 リエージュは、付近に大量の鉱物が産出するため、19世紀から
    20世紀に掛けて、武器とガラス器の生産が盛んに行われるようになった。 2度の大戦
    では、ドイツ軍に樹凜され、工場の一部は破壊された。 戦後、リエージュは、ベルギーの
    文化の中心地のひとつとなり、喫茶店、キャバレー、コンサートホールやバレエの劇場が
    多数ある。

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    【ブルージュ】
    西フラマン州の州都であるブルージュは、7世紀に建設され、人口12万人、13世紀から
    15世紀に掛けて、ハンザ同盟の加盟都市として繁栄した。 この町と北海に面した
    ゼーブルッヘとは、運河で結ばれている。 市内の運河には数多くの橋が掛かり、運河
    沿いに13世紀以来の家屋が立ち並んでいる。 ゴシック様式の寺院、大きな広場、
    昔ながらの商業建築物等が交易の中心地だった頃の歴史を物語っている。

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