多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳 Samurai Global』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    2016年02月

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    『南三陸1万人不通』。 人口約1万7,600人の宮城県南三陸町で、
    約1万人と連絡が取れない。 宮城県の発表として、2011年3月13日の
    朝刊はそんな見出しで報じた。

    被害の全容が把握出来ず、一時は町民の半数以上が犠牲となる最悪の
    事態も心配された。 町職員の被災、交通・通信の途絶、避難所に
    押し寄せる住民…。 混乱を極めた現地には、情報を発信するすべも
    なかった。

    79a81e9d.jpg

    その時 何が 1万人安否不明(宮城・南三陸町)<出典:河北新報

    南三陸町を大津波が襲ったのは、3月11日午後3時半ごろ。 大津波は
    高さ5メートルの防潮堤を越え、町の中心部に迫った。 町職員の佐藤勉さん
    (47)は、同町志津川の町海浜センターで大きな揺れに見舞われた。
    住民を高台の町道へ誘導し、避難所となる町総合体育館へ向かった。

    体育館には既に約100人の町民が避難していた。 夕方には避難者は1,000人
    近くに膨れあがった。 無線などの連絡手段がなく、6人ほどの町職員で食料の
    確保などに追われた。

    『残っている職員で町民をいかに守るかで手いっぱいだった』と佐藤さん。
    志津川小から山伝いに避難してきた町民から、『町役場が流失した』と知ら
    されたのは11日深夜。 町役場に隣接する防災対策庁舎も津波で被災し、屋上で
    数人が生存しているとも伝えられた。 役場機能は、ほぼ完全に失われた。

    eff3ff3f.jpg

    『1万人安否不明』の数字は12日、宮城県庁の災害対策本部でのやりとりで出た。
    町から報告された7,500人の避難者数を受け、報道各社から質問が相次いだ。
    記者『7,500人が避難したとなると、残り1万人は?』

    県『町も正確な数字を把握していない。 単純に引き算すると1万人が安否不明に
    なるが、断定的な数字を出せる状況でない』 1万人安否不明という数字は、
    『犠牲者』という意味を帯びて独り歩きを始めた。 14日には、南三陸町で
    約1,000人の遺体が見つかったと報じられた。 町は一貫して否定し、情報は錯綜
    していた。

    防災対策庁舎で津波に襲われた佐藤仁町長(59)。 壊滅した町を庁舎屋上から
    見て祈った。 『みんな、逃げていてくれ』 町は1960年のチリ地震津波で、
    41人の犠牲者を出している。 それを契機に、町は毎年避難訓練を行ってきた。
    佐藤町長は『各地で避難所が孤立し大混乱だったが、町民の防災意識は高かった。
    1万人の安否不明者が全て犠牲となったとは考えていなかった』と振り返る。
    安否確認は難航を極めた。

    町は震災後、町総合体育館に災害対策本部を設置。 しかし、通信手段がなく、
    対策本部と各避難所との連絡が取れない。 道路もがれきに埋もれている。
    町職員、車、ガソリン。 全てが不足していた。

    img466

    >>町民を救った 天使の声 ~遠藤未希さん~

    安否確認のよりどころは、避難所にある手書きの避難者名簿だけ。 家族や親類、
    友人の安否情報を求める住民は徒歩で何時間もかけ、数十カ所の避難所を回って
    いた。

    町が10年2月に発生したチリ大地震津波で行ったアンケート。 最も多く避難した
    のは山間部の親類宅(40.1%)で、指定避難所は24.2%だった。 避難者名簿に
    載らない1万人の安否不明者が出た背景だった。 町による安否不明者の確認作業が
    始まったのは3月28日。 避難所の町民だけでなく、自宅や親類宅にいる町民ら
    全町民を対象に避難者台帳の提出を呼び掛けた。 町外へ脱出するなどして連絡が
    難しい場合は、電話や行政区長を通じて確認を取った。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    1956年10月23日、ハンガリーの首都ブダペストで学生と労働者による
    大規模なデモが起きて、暴動へと発展した。 彼らは、多くの政府関係施設や
    区域を占拠し、自分達で決めた政策や方針を実施し始めた。 夜になり、
    デモ隊と秘密警察との間で衝突が始まると、ハンガリー勤労者党指導部は急遽、
    大衆に人気のあった前首相のナジ・イムレを復職させる決定をした。 翌24日、
    ナジは正式に首相に任命されたが、その頃ブダペストの町はすでに民衆と
    ソ連軍の戦闘状態にあった。 他の地域はソ連軍と革命派との間の停戦が
    行われたり、ソ連軍が革命の動きを阻止した管区もあるなど、平穏な状態が
    保たれていた。

    2c3w5vtkw

    民衆は、ワルシャワ条約機構からの脱退をナジ政府に迫ったが、この事は、
    再びソ連軍の介入を招く事となった。 10月25日、ナジは戒厳令を取り下げた。
    街の人々の中には、ソ連軍の戦車に近付き、兵士と話し合う者もいた。 説得に
    応じたソビエト兵らは、ハンガリー人を戦車に載せ、国会前広場へと移動し、
    約700人が集まった。 しかし、突然発砲が始まった。 国会前広場は血の海と
    化し約100人が死亡、約300人が負傷した。

    1956年10月23日と停戦を挟んだ11月1日の2回、ソ連軍は反乱に対して介入した。
    1957年の1月にはソ連は、新たなハンガリー政府を任命し、ハンガリー人に
    よる改革を止めようとした。 蜂起は、直ちにソ連軍によって鎮圧されたが、
    その過程で数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ
    逃亡した。

    4779562

    一方、ナジはユーゴスラビア大使館に避難したが、安全確保を保障されて
    大使館を出たところをソ連軍に捕まり、ルーマニアに連行され、2年後に処刑
    された他、政権の閣僚や評議会を指導していた多くの市民がカーダール政府に
    よって処刑された。 1960年代に発表されたCIAの推定によると、およそ
    1,200人が処刑。 この時逮捕された政治囚は、1963年までにカーダール政府に
    よって、ほとんどが釈放された。 この一連の戦闘の結果として、ハンガリー側
    では死者が17,000人に上り、20万人が難民となって亡命した。 ソ連側も
    1,900人の犠牲者を出した。

    ing_countries

    ハンガリーでは、この事件について公に議論する事は、その後30年間禁止
    されたが、1980 年代のペレストロイカ政策の頃から再評価が行われた。
    1989 年に現在のハンガリー第三共和国が樹立された際に、10月23日が
    祝日に制定された。

    ペレストロイカの影響でハンガリー社会主義労働者党でも改革派の勢力が
    強まり、1989年に動乱の評価を修正し、復権させた。 ハンガリー社会主義
    労働者党の自らの自己批判は、後の東欧革命への導火線となった。

    尚、このハンガリー動乱の直前の1946年に、現在のウクライナ領である、
    カルパチアがハンガリー領(スロバキア領)からウクライナへと併合され、
    現在に至っている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    ドイツの現在の首都であるベルリンは、冷戦時代には、この地を巡って
    アメリカを中心とする西側グループと、旧ソ連をリーダーとする東側
    グループが対立していた。 この対立が発展した事件が、ベルリン危機
    (ベルリン封鎖)である。

    ベルリンは、ドイツの北東部にあり、約340万人の人々が住んでいる
    ドイツ最大の都市。 ドイツは、第二次世界大戦に敗れ、戦争に勝った、
    アメリカ、フランス、ソ連の4カ国によって占領された。 東はソ連に、
    西はアメリカ、イギリス等に占領された。 ドイツの首都であった
    ベルリンは、東ドイツの中にあったが、首都であったため、4つの区域に
    分けられて、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連が、それぞれの担当
    区域を管理した。

    ドイツをどのように管理するのかについては、アメリカとソ連は、当初
    から対立していたが、1948年3月20日、ソ連は、アメリカやイギリスの
    主張に反発して、話し合いの場から脱退してしまった。 その後、アメリカ、
    イギリス、フランスの軍隊が東ドイツを通って、西ベルリンへ陸上移動
    する際には、ソ連は、それを検査する権限があると主張し、西ドイツ地域
    からベルリンへ送られて来る郵便や品物を制限した。

    MapGermany

    ソ連によるベルリン封鎖
    1948年、アメリカ、イギリス、フランスが、西ドイツでの通貨改革を
    西ベルリンでも行おうとしている事に対して、ソ連は猛反発し、鉄道や
    道路、河川を通じて西ベルリンを行き来出来ないようにした。 更に、
    ソ連は、西ベルリンに向けての食料、燃料、衣料品、電力の供給も停止した。
    こうして、ベルリンは封鎖された。

    これに対して、アメリカ、イギリス、フランスは、当時約200万人居た
    西ベルリン市民への全ての物資を空輸によって補給した。 ベルリンの
    封鎖が解かれる1949年5月まで、この空輸は約27万回、空輸した物資は、
    総計200万トンを超えたと言われている。 1949年3月、国連の場で
    アメリカとソ連がベルリンの問題について話し合いを行い、5月、1年間
    続いたベルリンの封鎖がようやく解かれた。

    封鎖されている間に、ベルリンでは、東と西に2つの異なる行政組織が
    出来上がった。 1949年3月、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツ
    (ドイツ民主共和国)が建国された。 そして、この時点で、東と西の
    2種類の通貨が出回っていた。 ドイツは、第二次世界大戦後、西ドイツと
    東ドイツに分断されただけではなく、この事件によって首都ベルリンも
    東西に分割されてしまった。 この一連の出来事を、ベルリン危機
    (ベルリン封鎖)と呼ぶ。

    mdeu010

    東西ベルリンの問題は、ベルリン危機以降も、冷戦の最前線となった。
    1961年には、東西ベルリンの境界線上に、43キロメートルにも渡る
    ベルリンの壁が作られた。 1970年代に入ると、東西ベルリンの緊張関係は、
    和らぎ始め、東ドイツも少しづつ西側に開かれた社会となった。 すると、
    東ドイツでは、社会主義体制に不満を持つ人々が増えて行った。 その後、
    1989年には、東ドイツ市民が西ドイツへ大量に流出し始め、ついに、11月、
    ベルリンの壁が崩され、東西冷戦は終わりに向けて、大きく進んだ。

    1990年に、ドイツが統一した事によって、ベルリンも統一され、統一
    ドイツの首都となった。 その後、しばらくは、分断の影響が強く残って
    いたが、それらの問題も次第に克服され、EU内でのドイツの地位は不動の
    ものとなった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    『仙台市若林区荒浜で200~300人の遺体が見つかる』。 大震災が発生した
    2011年3月11日の夜、衝撃的なニュースが全国を駆けめぐった。 百万都市・
    仙台の海岸沿いに広がる約900世帯の地区では、多くの住民が犠牲になった。
    だが当初伝えられた遺体の数は、混乱の中で錯綜した情報の一つだった。

    その時 何が『遺体200~300人』(仙台・荒浜)
    出典:河北新報 2011年5月22日

    『大津波警報が出ている。 早く逃げろ』 県道塩釜亘理線の東側に開けた
    住宅地。 荒浜新1、2丁目の約300世帯でつくる荒浜新町町内会の大橋公雄
    会長(67)は地震直後、住民に近くの荒浜小に避難するよう自転車で呼び
    掛けて回った。 住民の反応は鈍かったという。

    荒浜は高さ6.2メートルの防潮堤で守られている。 高さ2.5メートルの
    離岸堤も備える。 1978年の宮城県沖地震や、昨年2月末のチリ大地震津波
    でも、被害はなかった。

    『荒浜に津波は来ない』。 体験からそう信じる住民が少なくなかった。
    荒浜小に避難した住民の中にも、しばらくして自宅に戻る人が現れた。

    f3373f81


    午後3時55分。 濁流が猛烈な勢いで町をのみ込んだ。 4階建ての校舎には
    約320人の児童、地元住民が避難。 津波の威力はすさまじく、校庭などに
    残っていた人々は流されたという。

    荒浜南部の福祉施設で働いていた遠藤雅人さん(32)は地震後、利用者、
    職員計約70人と施設屋上などに避難した。

    『バリバリという音を立てて防潮林の松の木がなぎ倒され、今度はその大木が
    住宅街を根こそぎ破壊した』 犠牲者を出したのは、住宅街だけではない。
    県道塩釜亘理線より西の水田地帯では『車を乗り捨てて逃げる人が濁流に
    のまれた。 大勢の人が必死で走っていたが、津波の速さは尋常ではなかった』
    と遠藤さん。

    複数の生存者によると、大勢の住民が津波の到達直前まで、水田地帯の農道に
    車を止めて沖を眺めていたという。 水田付近で事務所の片付けをしていた
    会社員男性(32)は『住宅街から逃げた住民が車内でラジオを聞いたり、
    立ち話したりしていた。 そのうち津波が押し寄せ、一瞬で辺り一面が水に
    沈んだ』と話す。

    3655bd2e.jpg

    なぜ、住民はより内陸へと逃げなかったのか。 荒浜に先祖代々住む大学
    源七郎さん(69)が説明する。 『住宅街の西を通る県道塩釜亘理線まで
    逃げれば大丈夫と思ってきた住民がほとんどだった。 地区の避難訓練でも、
    県道を渡ることに力点が置かれてきた』

    仙台市が町内会に配布していた『津波避難マップ』。 津波が県道に到達する
    とは想定されておらず、荒浜の住宅街の中でも県道に近い西部は『津波警戒区域』
    に設定されていなかった。 だが、実際に津波はさらに内陸側の東部道路周辺
    まで達した。

    『荒浜新1、2丁目で200~300の遺体との情報』。 これは3月11日夜にあった
    緊急通報の一つだ。 大震災発生の直後で、消防、警察にはそれぞれ何千件
    もの通報が殺到。 関係機関による事実確認は混乱の中、難航を極めていたが、
    その衝撃的な内容は報道関係者の意識を引き付けた。

    情報は一部メディアで『海岸に200人以上の遺体』などと変遷しながら、事実
    として数日間、発信され続けた。 仙台市の死者・行方不明者は21日現在869人。
    荒浜地区での犠牲者は約180人に上るという。 遺体の大半は、県道塩釜亘理線
    沿いの荒浜新1、2丁目や海岸ではなく、荒浜西部の南長沼周辺や東部を流れる
    貞山堀で見つかった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    チェチェン共和国は、ロシア連邦国内にある小国であり、カスピ海と黒海に
    挟まれたロシア南部のコーカサス地方にある国。 大きさは、日本の四国ほどで、
    住民の多くは、アジア系のチェチェン人で、主にイスラム教を信仰しているため、
    主に東方正教を信仰しているロシア人とは、民族的にも宗教的にも異なる。

    ロシア連邦からの独立を望むチェチェン共和国との戦いは、テロという姿に形を
    変えて今でも水面下で続いている。 1991年にソ連が崩壊する間際には、ソ連
    各地で独立運動や暴動等が起き、大混乱に陥ったが、チェチェン共和国でも
    この頃から独立に向けた動きが活発になった。

    912225

    1991年10月にチェチェン共和国の大統領に選ばれたドゥダエフは、すぐさま
    独立を宣言。 当時は、ソ連の中にロシア連邦共和国があり、ロシア連邦の中に
    チェチェン共和国があるという状況になっていたため、チェチェンは、ロシアに
    対して、独立を求めた。 しかし、当時のロシアの大統領であった、エリツィンは、
    チェチェンの独立を認めず、治安部隊を派遣して、これを鎮圧しようとした。

    1991年12月にソ連が崩壊し、15の共和国がそれぞれ独立したが、ロシアは、
    この際にもチェチェンの独立を認めず、チェチェンの独立運動は、その後も続く
    事となった。

    第一次チェチェン紛争(1994年~96年)
    ソ連崩壊から、3年後の1994年、ロシア国内の混乱をおさめ、政治体制を固めつつ
    あったエリツィン大統領は、本格的に、チェチェン問題に乗り出した。 12月に
    大規模な軍隊を投入し、チェチェンへ介入を始めた。 こうして第一次チェチェン
    紛争が始まった。 ロシア軍は、激しい空爆を行い、チェチェンの首都である
    グロズヌィを攻めたが、激しい抵抗にあい、首都制圧は出来なかった。 この
    戦いは、1996年まで続き、ロシア側とチェチェン側を合わせて、数万人の死者が
    出たと言われている。 チェチェンでは、ロシアの空爆により、一般市民にも
    多くの死者が出た。 1996年には、5年間にも渡って独立闘争を指揮して来た
    ドゥダエフ大統領までもが、ロシア軍の攻撃により死亡した。

    こうしたなかで、ロシアの国家保安保障会議のレベジ書記と、チェチェンの
    マスハドフ参謀総長らの努力により、1996年8月に和平交渉が行われ、両者は、
    チェチェンの独立問題を2001年まで先送りする事を定めたハサブユルト和平
    合意を結び、全面的な停戦が成立した。 これに伴い、1997年、ロシア軍は
    チェチェンから撤退した。

    faq02cc03j

    第二次チェチェン紛争(1999年~2009年)
    ロシア連邦がチェチェンから撤退した後、OSCE(欧州安全保障機構)等の
    監視の下で、民主的な選挙が行われ、マスハドフが大統領に選ばれ、国際的に
    承認された。 ハスハドフ大統領は、アメリカやアラブ諸国を訪ね、チェチェンの
    ロシアからの独立を訴えると共に、ロシアのエリツィン大統領とも定期的に
    交渉を行い、正式な独立に向けて準備を進めた。 ところが、チェチェン国内の
    武装勢力を上手くおさめる事が出来ず、誘拐等の犯罪が頻繁に起こるようになった。

    1999年8月、独立最強硬派のシャミル・バサエフとアミール・ハッターブに率い
    られた1,500名程のチェチェン人武装勢力が隣国ダゲスタン共和国へと侵攻し、
    一部の村を占領するという事件が発生する。 また、同時期にモスクワでは
    アパートが爆破されるテロ事件が発生し百数十名が死亡した。 これを受けて、
    ロシア政府はチェチェンへのロシア軍派遣を決定し、プーチン首相の強い
    指導の下、9月23日には、ロシア軍がテロリスト掃討のため、再びチェチェンへの
    空爆を開始し、ハサヴユルト協定は完全に無効となった。

    第二次チェチェン紛争以降にテロが過激化して来た事に関しては、イスラム原理
    主義の思想を持つイスラム過激派の勢力が加伸張して来た事があげられている。
    チェチェン領内でのゲリラ戦に加えて、2002年10月のモスクワ劇場占拠事件や
    2004年9月のベスラン学校占拠事件等、チェチェン共和国外での一般市民や政府
    などに対する攻撃や自爆テロも数多く起きている。 自爆テロの中にはチェチェン人
    の女が関わっているケースがあるが、これは殺害された独立派武装勢力兵士の
    妻等が、仇討ちのためにテロに身を投じていると考えられている。

    チェチェン独立派は事件直後には犯行声明を出さない事が多く、むしろ、発生後
    しばらくの間は、自分たちの関与を否定するかのような発言を行い、ある程度
    時間が経った時に初めて声明を出す事が多い。 また、独立派は、捕らえた一般
    市民やロシア兵を殺害する様子をビデオテープに記録し、インターネット上に
    配信した事もある。

    Battalionview

    このような紛争のテロリズム化に対して、ロシアは2003年から2006年に掛けて
    独立派最高指導者のチェチェン共和国の第2代大統領ゼリムハン・ヤンダルビエフ、
    第3代アスラン・マスハドフ、第4代アブドル・ハリムを殺害し、シャミル・
    バサエフ等の最強硬派の過激派指導者も殺害した。 これ以外にも、アフメド・
    ザカエフのような穏健な独立派指導者も大半は国外へ脱出している事から、
    チェチェン共和国の弱体化が指摘される事もあった。

    このような状況の中、チェチェン共和国の第5代大統領であった、ドク・ウマロフは、
    2007年に北コーカサスでのイスラム国家の建設を目指すコーカサス首長国の建国を
    宣言した。 2009年の戦争終結宣言以降も、コーカサス首長国等のイスラム
    過激派達はロシア連邦軍とチェチェン共和国政府に対するゲリラ戦を継続し、
    兵士や市民を殺害する事態が続いている。

    独立派は、この戦争により、6万人の市民が死んだと主張している。 また、
    ロシア国防省はこの紛争で、6,000人以上のロシア兵が死亡したと発表した。
    独立派指導者の一部は、西側諸国に対して仲介を要望し、ロシアの軍事行動等に
    対しては抗議をしている。

    独立派に対するロシアのプーチン政権の強硬策に対する批判も一部から出て
    おり、独立派は、紛争当初こそ各国から支援を得ていたものの、世界的な
    『テロとの戦い』という流れの中でチェチェン紛争もこの一部とされることが
    多く、紛争後期には独立派もアルカイダ等の国際テロ組織との関係を疑惑視され
    孤立無援となった。

    Beslankollazh

    【第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム一覧】
     
    2002年
    モスクワ劇場占拠事件 - 169人死亡
    首都グロズヌイの政府庁舎爆破 - 72人死亡

    2003年
    共和国北西部の行政庁舎爆破 - 60人以上死亡
    モスクワ野外コンサート会場爆破 - 15人死亡

    2004年
    モスクワ地下鉄爆破 - 41人死亡
    グロズヌイの対独戦勝記念式典を爆破 - 親ロシア派のチェチェン共和国大統領
    アフマド・カディロフなど30人死亡
    イングーシ共和国内務省などを襲撃 - 約90人死亡
    モスクワ発旅客機同時爆破 - 80人以上死亡
    モスクワ地下鉄駅付近爆破 - 約10人死亡
    北オセチア共和国ベスラン学校占拠事件 - 322人死亡

    2005年
    カバルジノ・バルカル共和国首都ナリチク同時襲撃事件

    2006年
    イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致しチェチェン共和国からの
    ロシア部隊撤退を同国政府に要求。要求が拒否されたため外交官を殺害。
    アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件

    2007年モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    【紛争終結宣言以降の第2次チェチェン紛争に係る主要テロリズム一覧】
    2009年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    2010年
    モスクワ地下鉄爆破事件

    2011年
    ドモデドボ空港爆破事件

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    スイスでは、全成人国民に対して、無条件で月額2,500スイスフラン(約30万円)を
    支給する『ベーシックインカム』制度の導入を求める運動が続いており、2013年
    には、12万人以上の署名が集まっている。 これまでに、オランダやフィンランド
    でもこのベーシックインカムの是非を問う動きはあったが、世界で最も早く、
    2016年6月にベーシックインカムに関する国民投票を行う国は、スイスとなる事が
    明らかになった。

    018dac70ac6da


    この国民投票が可決されれば、成人国民に月額2,500スイスフラン(約30万円)、
    未成年者には月額625スイスフラン(約7万5000円)の最低所得保障が支給される
    事となる。 リサーチ会社『デモスコープ』の世論調査によると、大多数の
    スイス人が、もし同制度が採択された場合でも、仕事を続ける意向である事が
    分かった。 逆に、仕事を辞めると答えた国民は、わずか2%だった。

    09102301

    スイスでは、これまでにも世界でも類を見ない手厚い保障の『ベーシックインカム
    制度を実現させようとする活動が行われており、10万人以上の署名を集めた
    『国民発議』に関しては、憲法改正を要求する事が可能となっている。

    この制度に必要な費用の大半は、税金によってまかなわれる予定となっているが、
    制度導入に伴って、既存の社会保障制度の一部の打ち切り、所得保障制度を一本化
    する予定となっている。 所得保障制度で掛かる費用の約4分の1分は、廃止と
    なる既存の社会保障制度費用から捻出する計画となっており、複雑な社会保障制度を
    シンプルな所得保障制度に一本化する事で、行政コストを削減出来る効果も期待
    されている。

    ベーシックインカムが承認された場合、スイス政府は、年間2,080億スイスフランを
    支給する事となるが、そのうち、1,500億スイスフランは、国の税収入から、550億
    スイスフランは、社会保険基金から拠出される見込みとなっている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    1日20万人が行き交う東北の玄関口が2011年3月11日、激しい揺れに大きな
    ダメージを受けた。 『仙台駅ホーム天井、数十メートル落下』。 3月15日の
    朝刊は、地震当日の仙台駅の状況を伝えた。 JR東日本によると、幸いにも
    死傷者はゼロ。 元々、宮城県は地震が非常に多い地域のため、防災意識が
    非常に高く、地震にはすこぶる強い。

    地震の直前に仙台駅を出発した新青森行きの新幹線は、トンネル内に8時間以上、
    閉じ込められることになる。

    その時何が 新幹線ホーム損壊(仙台駅)
    仙台駅の新幹線ホームは静まりかえっていた。 午後2時42分、盛岡行きやまびこ
    61号が出発。 午後2時44分には東京行きMaxやまびこ144号を送り出していた。

    地震が発生したのは、やまびこ144号がたった2分後。 下り線ホームで1時間先の
    列車を待っていた、むつ市の会社員阿部学さん(38)は、立っていられないほどの
    強い揺れに襲われた。

    15秒後、頭上でけたたましい音が鳴り響いた。 金属製の天井がベラベラと剥がれ
    落ちてきた。 ホーム南側の喫煙所前にいた阿部さん。 『死ぬかもしれない』。
    あわてて北側へホームを走った。 必死に逃げるも、天井板は追い掛けるように
    次々と落ちてくる。

    剥がれ落ちた天井板が強い揺れで激しく波打っている。 『まるで竜のような
    生き物に見えた』 こぶし大のコンクリート片と金具も矢のように降ってくる。
    待合室に逃げ込み、揺れが収まるのを震えながら待った。 駅員が駆け上がって
    きた。

    『外に出ましょう』。 待合室を出ると、ほこりで辺りは黄色がかって見えた。
    誘導されたのは、駅西口のタクシー乗り場前。 約1,000人の駅利用者と
    駅従業員が不安そうにたたずんでいた。

    a2b4d468.jpg

    JR東日本の関連会社『日本レストランエンタプライズ』仙台支社の三浦仁志さん
    (32)は、上りホームの売店にいた。 あまりの揺れに、しゃがんで床に手を
    ついた。 ふと、顔を上げた瞬間、目の前にスーツ姿の若い男性が腰が抜けた
    ようにへたり込んでいた。

    落下する天井板と売店の看板が2人を襲う。 『上に注意して』。 三浦さんは
    何度も男性に叫んだが、動く気配はない。 『直撃したら危ない』。 三浦
    さんは男性の腕とベルトをつかみ、激しい揺れの中、階段を駆け下りた。
    とっさの判断だった。

    b03d0e75.jpg

    東北新幹線のレールでは、上下18本が営業運転中だった。 約830人を乗せた
    新青森行きはやて・こまち27号は、大崎市の第1三本木トンネル内で緊急
    停止した。 仙台駅を出て8分後。 走行時速は270キロだった。

    『脱線してしまうんじゃないか』。 8号車にいた仙台市太白区の税理士
    大藤正樹さん(57)は、右に左にうねりながら走り続ける列車に恐怖を覚えた。

    車内は節電のためか、空調と照明はギリギリに抑えられた。 車内販売の食料は
    買い尽くされた。 大藤さんは空腹に耐えながら、待つこと8時間。 時計は午後
    11時を回っていた。 救出に駆け付けたJR社員が照らす懐中電灯を頼りに脱出、
    乗客はトンネル内をぞろぞろと歩き続けた。 20~30分後、外に出ると雪が
    舞っていた。

    f74bbd1f.jpg

    『不幸中の幸い。 大惨事になっていてもおかしくない』。 居合わせた乗客らは
    口を揃える。 渡辺英明仙台駅長(57)も『地震発生が、夕方のラッシュ時の前
    だったのが幸いした』と>認める。

    仙台駅を地震発生の2分前に発車したやまびこ144号は、仙台市太白区長町の
    高架上に緊急停止。 乗客約280人は間もなく脱出したが、車両は電柱の復旧
    工事などが終了する4月22日まで、その場にとどまった。 大惨事を免れた
    東北新幹線。 『安全神話』はかろうじて守られたものの、全線復旧には
    50日を要した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    震災の直前、JR仙石線野蒜駅(宮城県東松島市)を同じ時刻に発車した2本の
    列車があった。 ともに4両編成の仙台行き上り普通列車と石巻行き下り快速列車。
    海沿いを走行中に地震に襲われ、2011年3月12日の朝刊は『野蒜駅付近を走行して
    いた列車と連絡が取れないとの情報がある』と伝えた。 乗客の明暗が分かれた。

    a59e5185-s


    その時何が 消えた列車(東松島)
    3月11日午後2時46分。 2本の列車は、時刻表通り、野蒜駅からそれぞれの目的地へ
    出発した。 窓の外は雪が舞っていた。

    仙台に向かう上り列車の乗客は、会社員や小学生ら約50人。 駅を出てすぐ、携帯
    電話が一斉に鳴りだした。『宮城沖で地震発生』。 緊急地震速報だった。ほぼ
    同時に車両が揺れ始めた。 あちこちで悲鳴が上がった。 石巻専修大3年
    菊谷尚志さん(20)は思わず手すりをつかんだ。 『大人2人に揺さぶられて
    いるようだった』

    車両が緊急停止した場所は駅から約700メートル。 近くには東松島市指定避難所の
    野蒜小があった。

    『乗客を野蒜小に避難させてください』。 仙台のJRの指令担当者から無線指示を
    受けた乗務員の案内で、乗客は約300メートルの道のりを歩いた。 誘導された
    体育館には、既に100人以上が避難していた。

    【5年が経過した野蒜駅前】


    午後3時50分ごろ。『津波が来たー! 2階に上がれー!』。 入り口近くにいた
    菊谷さんは、男性の叫び声を聞いた。 人が殺到した近くの階段を避け、ステージ
    奥の階段へ走った。 そこも行列だった。 順番を待つ間に水は足首まで達した。

    現実感がなかった。 『映画みたいだ』と思った瞬間、近くの窓ガラスが次々に
    割れ、泥水が一気に流れ込んできた。 後ろにいた女の子やお年寄りが声もなく
    流されたが、なすすべはなかった。 必死で2階に上った。

    JR東日本仙台支社によると、少なくとも乗客1人が体育館で亡くなったとみられる。
    混乱の中、安否を確認できた人数は約20人。 2カ月が過ぎた今も、体育館に避難
    した乗客数すら『不明』のままだ。

    002_size3

    津波は線路上の上り列車も押し流し、車内は1メートル以上浸水した。 菊谷さんは
    『もし車内に残っていたら、死んでいただろう』と振り返る。

    下り列車は野蒜駅から約600メートル走って緊急停車した。 幸運にもそこは十数
    メートルの高台だった。

    『とどまった方が安全だ』。 地元に住む年配の男性客が、乗客を外へ誘導しよう
    とした若い乗務員に助言した。 乗客と乗務員約60人は、最も高い位置にある
    3両目で待機することになった。

    高台は津波の襲来を免れたが、濁流にのまれる建物や車が窓越しに見えた。
    『上り列車は無事だろうか』。 石巻市の和泉徳子さん(51)は、野蒜駅で
    すれ違った列車の安否が気掛かりだった。

    乗客の男性たちが水に入り、流された家の屋根に乗って漂流していた70代ほどの
    男性を救出した。 震えるお年寄りを座席に横たえ、体をさすって温めた。
    『暗くなる前に一口ずつどうぞ』。 ある女性客が自分の弁当を周りに勧めた。
    それを機に和泉さんら他の乗客も手持ちの総菜や菓子、水を取り出した。 自然に
    分かち合いの輪が生まれた。

    1人だけ、心細そうな男の子がいた。 大人がさりげなく見守り、励ました。
    夜、母親が水をかき分けて車両にやって来た。 『みんな自分のことのように
    ホッとした』と和泉さん。 その晩、男の子は母の腕で眠った。 夜は長く、
    寒かった。 乗客は詰めて座り、互いの体温で暖を取った。

    【5年が経過した東松島市】


    12日朝。 乗客ら全員が車両を脱出、線路を歩いた後、トラックの荷台に揺られ、
    指定避難所の公民館へ向かった。

    『一人一人ができることをやった。 みんなの力で乗り越えられた』。
    和泉さんは今、そう思っている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る

    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    コソボ一帯に歴史的に古くから住んでいたのは、アルバニア人の先祖と
    いわれるイリリア人で、バルカン半島の他の地域と同様に、長くローマ 帝国→
    東ローマ帝国(ビサンティン帝国)の支配下にあったが、7世紀に南スラブ系の
    セルビア人が押し寄せ、キリスト教に改宗すると共に、1168年には、コソボの
    プリズレンを首都にして、セルビア王国を建国した。 セルビア王国は、1389年の
    『コソボの戦い』でオスマン・トルコに破れ、以後オスマン帝国の支配下に入り、
    コソボに居たセルビア人の多くは、クロアチア等、西へ移住して、代わって
    イスラム教に改宗したアルバニア人が再びコソボに移住した。

    img2220

    こうして現在ではコソボの人口の約9割がアルバニア人となったが、セルビア人に
    とってコソボは、『セルビア王国の発祥の地』であり、コソボの戦いという
    『聖戦の地』であると共に、セルビア正教会の中心地であるペチがあるため、
    民族の歴史、文化にとって、掛け替えのない聖地となっているため、コソボが
    セルビアから独立する事に関して、セルビア人は、拒否感が根強い。 とりわけ、
    セルビアが主導していたユーゴスラビアが解体し、それぞれの共和国が独立して
    行った後に、セルビア共和国内にあるコソボまでがセルビアから離れる事は、
    到底容認出来ない。

    一方で、アルバニア人にとってのコソボも19世紀末から起きた『アルバニア
    独立運動』の発祥の地となっており、オスマントルコに支配されていた
    アルバニア人は、1878年のベルリン条約でセルビア王国が独立すると、
    『イスラム教徒=トル コ人』として扱われ、セルビア領内から追放されることを
    危惧し、プリズレンを中心に独立運動を本格化させ、1912年には、現在の
    アルバニアとコソボ、マケ ドニア、ギリシャの一部をも加えたアルバニア王国を
    建国するが、バルカン同盟(ブルガリア、セルビア、ギリシア、モンテネグロ)や
    列強国の介入で、たちまち領土をむしり取られてしまう。 その結果、現在は
    アルバニアの人口340万人に対して、コソボに約150万人、マケドニアにも約50
    万人のアルバニア人が住んでいる。 『アルバニア人が住む土地は、アルバニア
    として統一されるべき』という、大アルバニア主義は、彼らの民族的悲願でもある。

    セルビア人にとっても、アルバニア人にとっても、コソボの地への思い入れは非常に
    強いものとなっているが、コソボ自治州は、セルビア共和国内でも、共和国に
    匹敵するような自治権を与えられていたが、1981年、完全な共和国となる事を
    求める暴動が起きた。 これに対して、セルビア共和国は、警察と軍によって、
    暴動を鎮圧し、その後、アルバニア系住民達は、セルビア共和国の警察と軍に監視
    される生活を余儀なくされた。

    00425A5BB8A

    1990年、セルビア共和国の大統領となった、ミロシェビッチは、セルビア共和国
    内のコソボ自治州に対する自治権を縮小し、コソボの独立要求を弾圧した事に
    反発したアルバニア系住民は、1992年には、自分達で大統領を選出する等して、
    コソボ共和国独立を求めていた。 しかし、UCK(コソボ解放軍)が結成されて
    からは、そのまでの暴力に訴えない独立運動が、武器闘争に変わってしまった。

    UCKは、結成当初には、秘密裏に活動をしていたが、1997年、一般市民に知られる
    ようになり、コソボ自治共和国でセルビア共和国警察や、治安部隊と衝突を
    繰り返し、次第に若者等を取り込んで拡大して行った。

    これに対して、セルビアの治安部隊は、UCKの活動をテロ活動とみなし、
    アルバニア人達の村を焼き払ったり、住民を追い出したりした。 こうして、
    治安部隊の活動によって、住む場所を失った人達は、国内避難民となった。

    6E63A33

    【紛争発生からNATOによる空爆へ】
    1998年、UCKとセルビア治安部隊の武力衝突が起きると、セルビア人が指導する
    (新)ユーゴスラビア連邦軍が介入し、大規模なUCKとの衝突が起こった。 一方、
    国連安全保障理事会では、セルビア人とアルバニア人の両方に話し合いを促す
    内容の決議がなされた。 1998年10月、NATO(北大西洋条約機構)は、
    (新)ユーゴスラビア連邦共和国に対して、セルビアの治安部隊が、コソボ自治州
    から撤退しなければ、空爆を行うと圧力を掛けた。

    ミロシェビッチ大統領は、NATOの圧力に対して、OSCE(欧州安全保障協力機構)
    の停戦監視団を受け入れ、治安部隊要員の数を減らす等の譲歩を行った。 しかし、
    その後もセルビア勢力とUCKとの争いはおさまらなかったため、1999年2月、
    フランス等が介入し、フランス北部のランブイエで和平交渉が行われた。
    ところが、(新)ユーゴスラビアが、コソボにNATO軍が駐留する事を認めず、
    和平案を拒否した結果、交渉は決裂した。

    1999年3月24日、NATO軍は、国連決議なしにセルビアを空爆した。 NATO軍は、
    コソボ内の治安部隊や軍事施設だけではなく、セルビア全土の工場、橋、鉄道、
    発電所等を狙って激しい空爆を6月10日まで続けた。

    036

    【NATO軍の人道的介入】
    NATO軍は、国際社会に対して、セルビアへの空爆の理由をコソボ自治州で行わ
    れている重大な人権侵害を食い止めるためだとして、『人道的介入』という言葉を
    使って説明した。 しかし、この空爆で、中国大使館が誤爆にあい、沢山の民間人も
    犠牲となったりした。 また、長期間に及んだため、多くのアルバニア人が難民
    となった。

    空爆前にも約10万人の難民が出ていたが、空爆開始後に、アルバニア、マケドニア、
    モンテネグロ等に逃れた人は、およそ、85万人にのぼったと言われている。 だが、
    一連の空爆によって、ミロシェビッチ政権は、停戦に応じざるを得なくなり、
    1999年6月、大統領は、和平案を受け入れ、ユーゴ連邦軍と治安部隊の撤退、避難民
    となっていたアルバニア人の帰還が行われた。 そして、コソボにおいても、民政や
    難民帰還を行うUNMIK(国連コソボ暫定統治機構)と、NATOが中心となって結成
    した、KFOR(国際治安部隊)を受け入れた。

    【お勧めの一冊】






    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ