多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

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共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    2016年01月

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    親露派武装勢力とは?
    日本では、『武装した親露派』とも呼ばれている、ウクライナ東部にある
    ドンバスのロシア系住民達は、いわゆる、『西側』では、完全に悪者扱いを
    されており、2014年に誕生した親米路線のネオナチ政府から常に攻撃を
    受けている。 実際のロシア系住民達がウクライナ・ネオナチ政府から受けた
    酷い仕打ちは、この動画の通りであるが、この事実を『西側』では、全くと
    言っても良いほど伝えなかった。

    【ドンバスでの衝撃の事実を伝えた西側メディアは、極々一部のみ】



    ロシアが一方的に編入したとされているクリミアとは?
    ウクライナ東部のドンバス地域よりも一足先にウクライナからは独立を果たし、
    無事にロシアへの返還が果たされたクリミアでも、ここまでは酷くなかった
    ものの、ウクライナ人による度を過ぎた横行が日々まかり通っていた。
    クリミアでは、そのような理不尽な仕打ちに住民が耐えかね、自ら開催した
    住民投票によって正式にウクライナからの独立の道を選んだが、未だウクライナ
    政府からの空爆が続くロシア系住民の多いドンバス地域の先行きは不透明なまま。
    クリミアは、住民の意思に従い、ロシアへと編入されたが、元々、クリミアは
    ロシア領であったため、特に何の混乱もなく、ロシアへの移管は滞りなく行われた。

    【ドネツク市内で途方に暮れる高齢者にパンの差し入れをする撮影者】
     

    ロシア軍が侵攻?
    西側諸国では、このようなウクライナ東部での内戦を『ロシアが侵攻している』
    としたが、実際は、ウクライナ軍が自国民である、ロシア系住民を空爆したもの。
    アメリカによって操られているウクライナ政府は、自国民の安全すら守らず、
    このような殺戮を繰り返した。 アメリカやイギリスの報道では、全くと言っても
    良いほど、このような報道がなされなかったが、日本でなされている報道とは、
    全く真逆の現実が、そこにはあった。

    【ウクライナ東部のドンバス地域】
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    ウクライナがNATOとEUに加盟?
    ウクライナは、今後、NATOとEU入りを目指すそうだが、このような殺戮を
    平気で繰り返す好戦的な国がNATOIに入る事など到底あり得ず、これからも
    ウクライナは、世界からは孤立して行くであろう。 つい最近では、
    『ロシアへ一方的に併合された』とするクリミアへ取材に行った日本のテレビ局が、
    ウクライナ検察の捜査の対象となったが、そのような自由すら認めない国が
    西側諸国の一員になるのは、未来永劫あり得ない。

    世界はウクライナのネオナチ政権にハッキリとNOを叩きつけなければならない。
    尚、ウクライナのネオナチに若年層が目立つのは、ソ連が崩壊して30年しか
    経過しておらず、ソ連時代の国家的なテロリストを国家的な英雄に仕立て
    上げたため。

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    『ロシア』という国名が最初に文献に登場するのは15世紀末、広く用いられるように
    なったのは16世紀になってからのことである。 ロシアには、これまでに、2つの王朝が
    存在しており、リューリック王朝(860年頃~1598年)と動乱の時代に続く、ロマノフ王朝
    (1613年~1917年)が存在していた。

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    11世紀までは、『ルーシ』の中心地域は、現在のウクライナの首都であるキエフ周辺
    だったため、ロシア正教会の中心地もキエフであったのだが、その周辺の現代
    ウクライナとなっている南西ルーシ地域は、14世紀前後に隣国のリトアニア大公国と
    ポーランド王国によって征服されて以来、18世紀のエカテリーナ2世によるウクライナ
    併合に至るまで、ウラジーミル、モスクワを始めとした北東ルーシからは切り離されて
    いた。 よって、ロシアとウクライナは、同じ東方正教国家と言えども、それぞれ異なる
    道を歩んで来た。

    1237年にキエフは、チンギス・ハンの孫である、バツーが率いるモンゴル軍(黄金軍団)に
    滅ぼされ、その後、ロシアは、150年近くにも渡り、モンゴル・タタール軍の支配下となる。
    1380年、モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイ率いるルーシ諸公連合軍は、クリコヴォの
    戦いで、キプチャク・ハン国のママイ・ハーン軍を破ったが、一般的に、この1380年を以て、
    ルーシは『タタールのくびき』から解放されたとされることが多い。

    その後、モスクワ公国が名実共に『ルーシの第一人者』となって行くこととなるのだが、
    この頃の『ルーシ』の統合はまだ緩やかなものであった。 1467年、ヴァシーリー2世の
    長子であるイヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィアを
    妻として迎え、ローマ帝国の継承者であることを宣言した。 その後、イヴァン3世により、
    豊かな毛皮を産する後背地を抱えるノヴゴロド(1478年)と貿易の活発であったプスコフが
    征服された。 その後、ヤロスラヴリ(1463年)、ロストフ(1474年)、トヴェーリ(1485年)
    等も次々に併合され、これにより独自の豊富な財源を手に入れたモスクワ大公は、
    ルーシ諸公、貴族の中で専制君主として振舞う実力を獲得した。

    【イワン雷帝と息子のイワン】 

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    イヴァン3世は初めて『ツァーリ』(皇帝)の称号を名乗った君主であり、双頭の鷲の紋章が
    モスクワ大公の紋章に加えられた。 次のツァーリである、イヴァン4世は、紙と印刷機の
    導入、常備軍の創設等の近代化を進め、対外戦争(リヴォニア戦争など)を実行すると
    共に、ロシア正教会への国家の統制を強めた。 イヴァン4世の統治の時代は、彼の
    あだ名にもなっている『雷帝』にも象徴されるように、恐怖政治が吹き荒れた時代であった。
    リューリック王朝最後の支配者である、ボリス・ゴドノフは、人望がなく、正当な王位
    継承権を持つドミトリー王子を殺した疑いを持たれ、1605年に突然死すると、その後、
    後継者を決める長い争いが始まり、1613年まで動乱の時代が続いた。

    【ロマノフ王朝成立時のロシアの領土】
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    1613年、ミハイル・ロマノフが王に選ばれ、彼の一族がその後300年に渡って支配を
    続けた。 異母姉であるソフィアから王位を強奪したピョートル大帝は、1689年から
    1725年までを支配し、歴代皇帝の中でも最も精力的に動いた。 新しい首都を建設し、
    海軍を創設し、教育と政府の改革を始めた。 ドイツの王女として生まれたエカテリーナ
    2世は、1762年に女帝となり、30年以上にも渡って国を支配した。 エカテリーナ大帝とも
    呼ばれて、強力な4人の女王の最後のひとりでもあった。 1913年、ニコライ2世は、
    ロマノフ王朝の300周年を祝ったが、その4年後、戦争と市民の蜂起によって破局を迎え、
    1917年、血友病の息子の身を案じて退位したが、1918年に家族と共に、ボリシェビキに
    よって、殺された。 ここにロマノフ王朝は幕を閉じた。

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    世間では、好景気とされているが、求人市場は、お寒いばかり。 一部では、求人が
    増えて来ているとも囁かれているが、増えているのは、主に、サービス業ばかりで、
    しかも、主に求人を行っているのは、ブラック企業ばかり。 そもそも、ブラック企業の
    場合は、人の出入りが激しいため、頻繁に求人を掛けて来る。

    当然、回数を重ねるごとに、より魅力的な案件に変化して行くため、実際の求人内容
    とはまるで掛け離れたものもチラホラ。

    今年の春からは、ハローワークもブラック企業に対して、求人の受理を拒否出来る
    ようになるのだが、これまでは、基本的に、企業側からの求人依頼は、全て受理しなければ
    ならないという、まるで役立たずな施設であったため、実際に転職する人の殆どは、既に、
    ネットを使っての転職に完全にシフトしている。

    早い話が、ハローワークは、ブラック企業の巣窟であるため、常識のある人間は、皆
    避けるのだが、最近では、オンラインの求人情報もブラック化が激しく、同じ企業が
    何度も同じ内容の求人を別のポータルサイトに求人を求める場所を変更して何度も
    投稿して来るため、求職者側も流石に手に負えない。

    実際のところ、正社員での求人が激減りしているため、仕方なしに派遣での就労を
    余儀なくされている人達の数が増え過ぎたため、全国平均で、約4割が非正規雇用で
    ある派遣社員として働いているのだが、首都圏の場合は、この比率が実は突出して
    高く、概ね6~8割が既に不安定な雇用条件の派遣社員と見て間違いない。

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    派遣会社の数も増加の一途を辿り、雨後の筍のように、続々と新しい派遣会社が
    出来ては、合併を繰り返しているため、派遣会社の名称変更も激しい。 実際に、
    求人を見ていると分かるのだが、同じ内容の案件が、複数社に渡り掲載されている
    ため、数年ほど前からは、『企業名非公開』なる意味不明の案件まで飛び出す始末。

    企業名を明かせないのに、登録をする側には、個人情報を記入させるという非常に
    意味不明な労働市場となっているのだが、先程も述べた通り、1つの案件が5~6社に
    求人を掛けているため、実際の求人倍率は、その5分の1程度と見て間違いなさそう。

    安い人材をかき集めるために、お金に糸目は付けない割には、実際に労働者に支払って
    いる賃金は、余りにも安いというのが現実であるため、仕事が増えても、給料が下がる
    ばかりという時代は、まだまだ続きそうだ。

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    『都道府県魅力度ランキング』において、常にナンバーワンを維持している北海道。
    今回は、その北海道の魅力、道北編をご紹介します♪

    北海道の中でも、最も自然が厳しく、大自然がそのまま残されている道北地方。
    道北観光のゲートウェイと言えば、やはり、旭川。 最果ての地、稚内も見逃せない。

    【旭川】
    人口34.5万人の北海道第二の都市で、札幌とは違った、魚ベースのスープを用いた
    旭川ラーメンが有名だが、近年では、旭山動物園が特に有名。 近郊には、層雲峡や
    美瑛等もあり、都市と自然とがバランス良く共存している都市。 道北の文化、政治、
    経済、産業の中心都市中心地として発展しており、道北観光の要。

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    【富良野】
    ラベンダーとテレビドラマ『北の国から』の人気により、一躍北海道を代表する観光
    都市の一つとなった。 ドラマの舞台となった、麓郷展望台からは、『日本農村百景』
    にも選ばれている美しい風景が広がる。 雄大な大自然と素朴な農村の風景が
    眼下に広がり、雄大な北海道のイメージそのもの。 観光農園では、果物の収穫を
    体験することも出来る。
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    【美瑛】
    北海道上川地方のほぼ中央、石狩国上川郡にある町で、近隣の富良野市等と共に
    北海道を代表する観光地のひとつ。 丘陵風景と花の風景が人気で、北海道外からの
    移住者も多い。 『日本で最も美しい村連合』に加盟しており、その事務局が美瑛町に
    置かれている。
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    【層雲峡】
    旭川郊外の上川町にある峡谷で、大雪山国立公園に位置している。 石狩川を挟み
    約24kmの断崖絶壁が続く。 大雪山黒岳山麓にある層雲峡温泉は大型ホテル等が
    立ち並ぶ北海道有数の規模を誇る温泉街で、層雲峡および大雪山観光の中心地
    となっている。 大函・小函、流星の滝、銀河の滝等が主な見どころ。
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    【稚内】
    日本で最も北に位置する最果ての地。 宗谷岬や礼文島、利尻島へのフェリー航路、
    日本最北の駅である稚内駅がある。 松前藩が宗谷場所を開設した江戸時代初期
    以降、港湾として恵まれた地理条件を備え、良質な魚場に恵まれたため漁業の街として
    発展した。 日露戦争後には樺太航路を開設、大正時代には鉄道建設も行われ、
    旭川以北最大の都市となる。 旧ソ連の排他的経済水域設定後は、基幹産業である
    漁業が衰退し人口減少が続いている。
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    【礼文島】

    北海道の北部、稚内の西方60キロメートルの日本海上に位置する島。 地名語源は
    アイヌ語のレプン・シリ(沖の島)。 0メートル地帯から200種類以上の高山植物が
    咲き乱れていることから別名花の浮島と呼ばれている。 日本最北端のスコトン岬が
    ある。 稚内港からは、フェリーで約2時間、札幌からも飛行機が飛んでいる。
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    2015年12月6日に仙台市営地下鉄東西線が開業した。 仙台市内では、3本目の
    地下鉄となり、この東西線と地下部分で並走しているJR仙石線は、実は、日本で
    初めて地下を鉄道が通った路線となっており、東京メトロ浅草線よりも、仙石線の
    方が先に開業している。 但し、現在その部分は、廃止されており、現在の地下
    部分は、2000年に再度地下化したもの。


    東西線の工事は、東日本大震災発生後にも遅れずに、予定通り2015年の開業と
    なっている。 東西線は、リニアモーター方式を採用しているため、仙石線との相互
    乗り入れは出来ない。

    東西線は、計画当初、モノレールでの建設が検討されましたが、その後、仙石線の
    延伸へと変更され、最終的には、その仙石線とは乗り入れない形で、リニア方式が
    採用されたもの。

    車両とホームとの隙間が、かつて見たことがないぐらいに、ピッタリと作り上げられて
    いたのが非常に印象的。 地下鉄仙台駅は、JRあおば通駅と同じで、JR仙台駅とは
    違うのだが、東西線が出来て、その定義が崩れたため、どっちに行ったら良いのか
    分からなくなりました。 仙台では、来年の3月に北海道新幹線も開業します♪



    同じ12月6日からは、地下鉄の開業に合わせて、『仙台光のページェント』が始まったが、
    この光のページェントは、日本で初めて樹木にイルミネーションを取り付けたイベント
    としても有名で、今年で30周年目の記念の年となっている☆ 仙台のイルミネーションは、
    ケヤキ並木が完全にトンネルになっており、その真中を歩く事が出来るため、他の地域の
    イルミネーションとは、迫力がまるで違います。

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    【キエフ・ルーシの始まり】
    現代ロシア人の祖先は、6世紀には、ヨーロッパ・ロシアのステップ地帯に住み
    着いた東スラブ民族に始まる。 9世紀には、バルト海からバイキングの
    バリャーク人が、ドニエストル川沿いの地域に乗り出し、スカンジナビアから
    ビザンチウムへの交易ルートを開いた。 彼らの首領のひとりである、
    リューリクがロシア最初の王朝を建て、その後継者であるオレーグが最初の
    キエフ・ルーシを創建した。

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    しかし、1237年、外部からの力で破局が訪れた。 タタール(モンゴル)軍が、
    ルーシの多数の都市を侵略し、そのご200年間に渡ってルーシを支配した。
    こうして、ルーシは、少公国に分裂したのだが、その中から、モスクワが次第に
    力を伸ばし、やがて、タタール人の支配を覆す事となる。



    【中心地がキエフからモスクワ公国へ】
    9世紀にオレーグ公が建国したキエフ・ルーシは、ウラジーミル1世、ヤロスラフ
    賢公、ウラジーミ=モノマフといった、偉大な支配者の元で、400年間に渡って
    栄え、ヨーロッパで最も大きく、裕福な国となった。 しかし、1237年、内分の
    半目によって、弱体化していたキエフは、チンギス・ハンの孫である、バツーが
    率いるモンゴル軍(黄金軍団)に滅ぼされた。

    最盛期の1054年には、キエフ・ルーシの領地は、黒海からバルト海まで、北は
    オネガ湖まで至った。 キエフの衰退後、ルーシの中心は、北東部に移り、最初は、
    ウラジーミル、その後は、モスクワ公国の首都モスクワが中心となった。
    モスクワ公国は、白海から、東は、ボルガ川を超えて、シベリア西武にまで至る
    土地を支配した。

    【モンゴルの支配者】
    モンゴルの支配者であるチンギス・ハンは、アジアの本拠地に居ながら、中国、
    インド北部(現在のパキスタン)、中央アジアを征服した。 1222年には、
    優れた騎馬団がルーシ南部を席巻し、ボルガ川とドニエプル川の間の土地を
    荒らし回った。 孫のバツーは、1237年に、ルーシの侵略を終え、キエフ・
    ルーシの大部分と新しい都市ウラジーミルとスズダリを占領した。 更に、彼は、
    ハンガリーとポーランドを目指して西進した。 この際に、アジア側から
    ヨーロッパへと押し出されて、その後、コーカソイド化した民族が、ブルガリア人、
    ハンガリー人、フィンランド人となっている。

    【キエフ・ルーシの歴史】


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    O-Zoneは、旧ソ連邦のモルドバ共和国出身のルーマニア語による男性3人組
    グループ。 1999年、リーダーのダン・バラン(Dan Bălan)とその友人ペトル・
    イェリホフスキ(Petru Jelihovski)の2名で結成され、モルドバ国内で、7曲のメガ
    ヒットを生み出す前代未聞の快挙を達成する。 しかし、作詞、作曲をひとりで
    担当し、音楽を真剣に考えるダンは、ルーマニアでの音楽活動を希望、あくまで
    音楽を趣味と考える、ペトルとの対立が表面化し、二人は袂を分かつが、その後も
    友人関係は続いている。

    【ダン・バラン最新曲】


    2001年春、ダンは、3人組のユニット結成を計画したが、彼のボーカルの先生が
    音楽スクールの後輩アルセニェ・トデラシュ(Arsenie Toderaş)を紹介した。
    アルセニエは、歌を習い始めたばかりで、時期尚早とも思われたが、将来性を信じた
    ダンが、グループに迎え入れたものだが、この時ロシア訛りで話すアルセニエが
    オーディションで、エルヴィス・プレスリーの『Love Me Tender』を歌うと、
    ロシア語のアクセントが嫌いで、ロシア訛りが苦手だというダンだったが、彼の
    歌に嫌悪感が吹っ飛び、気にならないと言ったそうである。 少し経ち、ダンは、
    ラドゥ・アレクセイ・スルブ(Radu Alexei Sârbu)と出会い、新しいメンバーを
    加えて、第2次O-Zoneが結成された。



    ダンは、早速、新曲4曲をリリースし、人気は上々だった。 これを受けて、
    いよいよダンが望んだ、ルーマニア進出へと乗り出す。 モルドバ人が
    ルーマニアで成功した前例は過去になかったが、3人は成功を信じ、努力は
    惜しまなかった。 資金が不足していたため、所有していたスタジオと
    シンセサイザーを売却した。

    2002年春、ルーマニアの音楽大手『Media Services』と契約が決まり、8月に
    3人としてのファーストアルバム『Number1』を発売したものの、当初
    ルーマニアでは、『モルドバの新しいバンド』としか受け止められていな
    かったためか、ラジオでもなかなか取り上げられずに苦戦した。

     

    そこで、2002年秋には、このアルバムの中から『Despre Tine』をシングル
    カットして発売、『覚えやすくて面白い』をテーマに、プロモーション・ビデオも
    制作されると、これがルーマニアでは数十年ぶりという大ヒットを記録、5ヶ月
    以上に渡ってヒットを続け、多くの老若男女が口ずさむほどの人気曲となり、
    それに乗じてアルバム『Number1』も10万枚を超えるメガヒットとなり、
    O-ZONEは一躍ルーマニアで大人気のバンドとなった。

    【ウクライナのヴェラ・ブレジネワとのデュエット曲】


    2003年、シングル『Dragostea Din Tei』 (DDT) をリリース、ヨーロッパ全土を
    巻き込んで空前の大ヒットとなった。 同年8月にリリースされた、セカンド
    アルバム『DiscO-ZONE』も翌年夏に大ブレイクし、『Dragostea Din Tei』の
    軽快なリズムに乗ってO-Zoneは欧州を席巻、モルドバの大ヒーローとなった。

    2004年夏には、日本でも『恋のマイアヒ』としてメガヒットを記録し、社会現象
    にもなった。日本では、『SMAP×SMAP』や、『ミュージックステーション』
    にも緊急生出演している。



    しかし、ヨーロッパを席巻し、日本でもヒットの兆しが見え始めていた矢先の
    2005年1月14日、突然解散を発表した。 ダンがアメリカに渡り、O-Zoneの名で
    英語で新しい歌詞をつけた曲をリリースしたが、これに反発した残りの2人に対し、
    ダンが『今まで、作詞、作曲、プロデュース、全て自分でやってきた。 O-Zoneは
    ずっと俺のものだった。』『O-Zoneに今後はない。 今このプロジェクトを終わら
    せているところだ。』と一方的に解散を宣言をした。

    2005年3月、エイベックス・ディストリビューションより、日本盤のアルバム
    『DiscO-ZONE』がリリースされ、7月15日には、初来日を果たし、ミュージック
    ステーションにも出演。 8月22日付のオリコン総合アルバムチャートで発売24週目
    にして、1位を獲得。 海外アーティストのデビューアルバムの1位は、1972年の
    ポール・サイモン、2003年のt.A.T.u.、2004年のUtadaに続いて史上4組目であった。

    2005年12月1日、第47回日本レコード大賞特別賞を受賞し、2005年9月23日、
    ルーマニアの音楽イベント『チェルブル・デ・アウル国際音楽祭』にて、最後の
    コンサートを行った。 

    2005年10月、解散コンサート後にも関わらず3人で再び来日し、10月7日の
    『ミュージックステーション』、24日の『SMAP×SMAP』にも出演している。
    この年の12月に、またもや来日し、『ミュージックステーション』や
    『とくばん』等にも出演。 しかし、ラドゥーは、娘と迎える初めての
    クリスマスの為か、来日しなかった。

    【空前のメガヒットとなった『恋のマイアヒ』】


    2007年3月12日、O-Zoneが近々再結成するのではないか、という内容の記事が、
    ルーマニア語サイト『Revista Vip』に掲載された。 2月にキシナウのクラブにて、
    ダンとアルセニェが面会していたため、これが噂の出所では、との声もあるが、
    今のところ、メンバーの復活は実現しておらず、それぞれが、ソロ活動を行っている。

    ダンは、近年、主に、ロシア語で歌っており、ロシア市場でのヒットも数々記録して
    いるが、グループ結成時よりも、歌唱力が数段上がっているため、今後も目の離せ
    ないアーティストと言えるかも知れない。

    2018年版「恋のマイアヒ」


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    さいたま市大宮区大成の鉄道博物館駅から歩いて数分のところに、本格的な
    ロシア家庭料理の店、『ターニャ』がある。 このお店を経営しているのは、
    ロシア人女性のターニャさんで、2011年の原発事故までは、福島県北部の
    国見町に住んでいたが、福島に旦那さんだけを残して、親子でさいたま市へと
    避難をして来た。

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    埼玉県内では、恐らく、初めての本格的なロシア料理店であり、日本人が
    経営するなんちゃってなロシア料理が横行している日本では、かなり珍しい、
    本場ロシアの味が味わえる店となっている。 ターニャさんは、長年福島で
    日本語のみで生活をしていたため、日本語も非常に堪能。

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    国道沿いに面しており、大宮駅と鉄道博物館駅との中間地点にあるため、
    徒歩ではなかなか行きづらいのだが、大宮に行った際には、是非とも立ち寄って
    欲しいお店。 店内には、ロシアのグッズが多数取り揃えてあり、ちょっとした
    ロシアへの旅行気分も味わうことが出来る。 琥珀やロシアお土産や本等も
    扱っており、料理だけではなく、ロシア土産も調達出来るため、非常に便利♪

    IMG_8013.jpg


    日本のロシア料理店は、戦中に見よう見まねで作り始めたものが殆どとなっており、
    実際に本場の味がする店は実はないため、『創作ロシア風料理』とするのが正しい
    日本語なのだが、これからは、本格的な味を楽しめるため、ロシア料理を食べる
    機会が増えそう?

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    お店の住所はこちら: 埼玉県 さいたま市大宮区 大成町 2-180-5 サンエイハイツ 1F




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    1991年12月末に、ソ連邦が崩壊し、それまでソ連邦内に15あったそれぞれの
    共和国は、独立し、『独立国家共同体(CIS)』という緩やかな国家連合に移行
    する事となった。 その直接の切っ掛けとなったのは、バルト三国での独立
    意識の高まりと、当時のゴルバチョフ氏が押し進めた、『情報公開』により、
    西側の情報が雪崩れ込んだため、それ以上の国家体制が維持出来なくなり、

    最終的に、ロシアが、同じスラブ人国家である、ウクライナとベラルーシを
    引き連れて、独立宣言を行った事にある。 よって、ウクライナ自体は、独自に
    独立活動をした訳ではなく、あくまでも、ロシアが独立する際の『道連れ』的な
    副産物に過ぎなかった。

    【ウクライナにおけるロシア語の使用率】
    language

    ウクライナは、1991 年に独立するまで、一度も自民族による独立国家を持った
    事がなく、その国境線も 20 世紀の後半になって、ようやく最終画定した経緯が
    あり、特に、東部のロシアとの国境は、長年に渡って、かなり曖昧なままであった。
    また、独立後、数年を経た後でも、ロシアとの国境線は、単なる『県境』程度の
    意味しか持たず、ソ連邦崩壊直後には、CIS内のどこの国境線においても、面倒な
    パスポートのチェック等はなかった。

    ウクライナは、元々は、ルーシ人の国家である、『キエフ・ルーシ』の中心地
    であり、その名の通り、キエフが首都であったが、モンゴルから遥々遠征して来た、
    モンゴル・タタール軍に攻め滅ぼされ、街が徹底的に破壊された後、数百年間に
    渡り、復活する事が出来なかった。 その間、台頭して来たのが、北にある
    モスクワで、当時は、『モスクワ公国』と呼ばれていたのだが、ウクライナは、
    数百年間にも及ぶ、ポーランド支配を脱したかったため、同じ東方正教国家である、
    隣国のモスクワに助けを求めたが、そのまま、モスクワへと吸収され、それ以降、
    モスクワは、『ルーシの正当な後継者』という意味で、『ルーシ国』という意味の
    『ロシア』という国になった。
     
    AS2015021200

    ウクライナは、大きく分けると、西部が、ポーランド、リトアニアとの繋がりが
    強く、ガリツィア地方は、元々ポーランド領であったため、ロシアとの繋がりは
    希薄であった。 逆に東部は、ロシアとの国境線がなかなか定まらず、曖昧な
    ままにされたため、ロシア化が進んだ。西部地域は、ハプスブルグ家の支配を
    受けていた影響もあり、宗教的には、カトリックの影響が強い。 東部は、完全に
    東方正教の影響が強く、ウクライナは、東西格差が非常に大きい地域であった。

    ウクライナでは、独立後の1990 年代は、『中欧』概念の復活に乗じて、
    ハプスブルグの流れを汲む『ヨーロッパの一員』へのアイデンティティーに注目が
    集まり、EU、NATOの東方拡大や、2004年末の『オレンジ革命』を経た後は、
    EU加盟により、『ヨーロッパの一員』を希求するウクライナ・アイデンティティと
    『ヨーロッパの隣人(EUの外)でいる』アイデンティティとして議論される機会が
    増えた。 

    『ヨーロッパの一員』を強く熱望する余り、ウクライナ全域で使用されている、
    ロシア語への批判的な処置が行われ、国内で放送されていたロシア語番組には、
    全てウクライナ語の字幕を入る事が義務付けられ、ロシア語は、基本的に『外国語』
    扱いとされ、ウクライナ語以外は、公の場での使用を基本的に禁止された。

    【オレンジ革命の末路 ダイオキシンを盛られたユーシェンコ元大統領】
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    2014年に始まった『ユーロ・マイダン』以降は、ロシア寄りの政治家達を全て
    排除し、アメリカの誘導の元、EU寄りへと強引に舵を切ったが、そのEU自体が
    ウクライナ援助に関しては、全く乗り気ではなく、むしろ、ウクライナ排除の
    方向へと向かっている事実をウクライナ国民は全く知らさせてはいない。
    オリガルヒ(新興財閥)らによる情報操作も甚だしく、ウクライナでは、ウソが
    平然とまかり通っている。

    今後、ウクライナがEUの一員になる事を本気で望むのであれば、正しい情報の
    公開と、オリガルヒによる世界でも指折りの腐敗し切った政治を何とかしない限り、
    ロシアからもEU諸国からも愛想を尽かされる事となる。 本来、ウクライナが
    目指すべき道は、地政学的な事を鑑みても、『東西の架け橋』になる事であり、
    自分達の都合の良い主義主張ばかりをゴリ押ししているウクライナが、EU諸国の
    一員になれる日は、未来永劫ないのではないか?

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    ジンギスカン(Dschinghis Khan)は、1979年から1980年代前半にかけて活躍した
    旧西ドイツのミュンヘン出身の音楽アーティストグループ。 男女6人組で、
    『ジンギスカン』や『めざせモスクワ』などが世界的に大ヒットした。



    1985年に一旦解散したが、2006年からは、20年ぶりに活動を再開している。
    1993年に他界したルイス・ヘンリック・ポンジェッター(Louis Hendrik Potgieter)と
    スケジュールの調整がつかなかった、レスリーを除く、4人にゲストダンサー3人を
    加えた新たなメンバーによる初のライブが、2006年12月17日にモスクワの
    オリンピックアリーナで開催された。 2006年にスティーヴ・ベンダー
    (Steve Bender)が他界し、翌2007年からは、残るエディナ、ヘンリエッテ、
    ヴォルフガングの3人に、新たに7人からなる『遺産(The Legacy)』という
    バックダンス&コーラス集団を加えて活動を続けている。

     

    1979年、旧西ドイツの音楽プロデューサー、ラルフ・ジーゲル (de:Ralph Siegel)と
    経済学者であったベルント・マイヌンガー (de:Bernd Meinunger)が、当時人気を
    博していた旧西ドイツのアーティスト、ボニーMのヒット曲『怪僧ラスプーチン』
    (Rasputin) をモデルとして、『ジンギスカン』という楽曲を作った。 それを
    ヨーロッパのポップ・ミュージックの登竜門でもある『ユーロビジョン・ソング・
    コンテスト』に応募するためにメンバーが集められ、結成したのがこのグループ
    である。

     
     
    6人のうち、ルイスは、企画当初からメンバーとなることが決まっており、
    彼を除く5人はオーディションで選ばれた。 1979年のユーロビジョン、
    ドイツ国内予選ではグランプリを獲得したものの、本選では4位に終わり、
    グランプリはならなかった。

    楽曲の多くの作詞はマイヌンガーが、作曲はジーゲルがそれぞれ担当したが、
    後にはグループのメンバーも作曲を手掛けるようになった。

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    2015年年末に、東京ミッドタウンと六本木けやき坂のイルミネーションを見に行った。
    この2つのイルミネーションは、都心部で開催されているイルミネーションとしては、
    最も有名で、どちらもさほど遠くない場所で開催しているため、それぞれの場所からは
    歩いて見に行く事が出来る。


    どちらも数十万このLEDライトを取り付けてあるため、見栄えは良いのだが、
    都心部であるため、木の大きさが余り大きくないのが、やはり難点。 今後何年か
    したら、もっと大きくなるのであろうが、毎年、電球を取り付けていると、立ち枯れの
    可能性もあるため、若木に電球を取り付けるのにも問題があると思う。




    冬の風物詩ともなっているイルミネーションだが、中途半端な規模のものは、
    節電を考えてもやらなくても良いのではないだろうか?

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    『ふるさと祭り東京 〜日本のまつり・故郷の味〜』は、毎年1月に東京ドームで開催される、
    大規模な全国各地の物産展。 2009年1月より開催されており、毎年、東京ドームには
    全国各地の名物を販売する物販ブースが多く設けられている。 また、ステージでは、
    秋田竿燈まつり、東京高円寺阿波おどりなどといった、有名な祭りが披露されている。



    2010年より開催されている、『全国ご当地どんぶり選手権』では、全国各地のご当地
    どんぶりが集まり、来場者の投票によりグランプリを決定する。 コンセプト的には、
    『B-1グランプリ』に近い。 色々と食べ比べが出来るように、全てのどんぶりはハーフ
    サイズで統一価格(500円)で提供されている。 1人につき1個だけ投票用のコインが
    渡され、気に入ったどんぶり1つに投票して貰い、コインの多かったどんぶりがその年の
    グランプリとなる。 2012年からは、出場するどんぶりの予選会を事前に実施するように
    なった。 前年ベスト5のどんぶりがシードとなり、予選会はそれ以外のどんぶりで
    行われる。 予選会も同じルールで行われ、投票の多かったどんぶりが本戦進出となる。



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