多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    2016年01月

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    カナダの先住民族であるファースト・ネーションズの祖先は、人類の南北アメリカへの
    移動に伴って、カナダへやって来た人々である。 数千年に渡る人類とこの地との
    関わり方は、ファースト・ネーションズの生活にもそのまま反映している。

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    16世紀にフランス人とイギリス人がカナダへやって来て、住むようになったが、彼らは、
    ファースト・ネーションズと交易をしたり、戦ったりした。 カナダという名前は、この頃に
    出来たもので、イロコイ族の言葉で『村』をを意味する『カナタ』が起源だと言われている。

    18世紀になると、フランスとイギリスが互いに戦うようになった。 イギリスが勝利したが、
    フランスの影響は、今でもカナダに色濃く残っている。 その後、世界各地からやって来た
    移民達も国家建設に貢献して来た。

    歴史学者によれば、最初にカナダにやって来た人達は、1万5,000年から3万年前に
    アジアと北アメリカを繋いでいた陸地を渡ってやって来たという。 それから、彼らは、
    次第にカナダ中に散らばって行った。 西暦1,000年頃に、スカンジナビアから来た
    バイキングが定住してたグリーンランドから、レイフ・エリクソンが、ニューファウンド
    ランドにやって来た。

    彼は、発見した土地を『ヴィーン・ランド』(ワインランド)と名付けた。 恐らく、その
    名前なら他の入植者をも引き付けるだろうと期待したのだ。 しかし、それ以降は、
    わずかな数のバイキングがやって来ただけで、入植は長続きしなかった。

    次にやって来たヨーロッパ人は、イギリス王国に雇われたイタリア人のジョン・カホットで、
    1497年の事であった。 帰国した彼がカナダの海は、豊富だと報告すると、イギリスと
    フランスの漁師は、こぞって漁に出向いた。 ヨーロッパ人は、カナダには、金が沢山
    あると思っていたが、実際に見つけたのは、魚、木材、毛皮といった、別の種類の
    宝物だった。

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    フランス人ハンター達が毛皮を求めて、カナダ内陸部を探検するようになり、カナダに
    『ヌーベル・フランス』という名の植民地を建て、アカディア、ケベック、モントリオールを
    入植地とした。 入植者達は、ヒューロン族や、他の部族と手を結び、強敵イロコイ族と
    戦った。 フランス人宣教師がキリスト教を広め、カナダで最初の教会が作られた。

    フランスがカナダ東部に入植し、ミシシッピ川に沿って、現在のアメリカの方へと南下して
    行く一方で、イギリスは、ハドソン湾周辺を探検していた。 ハドソン湾の名前は、
    1610年に船でここへやって来たヘンリー・ハドソンにちなんだものだ。

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    ヨーロッパで何世紀にも渡って対立して来たフランスとイギリスは、ここでもやはり争う
    事となった。 イギリス人農民とフランス人毛皮商人が土地問題で争いを始め、入植者、
    兵士、ヨーロッパの船員、そして、ファースト・ネイションズまでをも巻き込み、北アメリカの
    統治をめぐり、1689年から1763年までの間に4度の戦争を繰り広げた。 最後の
    戦いとなった七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)は、1763年に終わり、イギリス軍が
    勝利を治めてカナダの統治権を獲得した。

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    旧ユーゴスラビアは、第2次世界大戦後、チトー大統領の強力なリーダーシップの元で
    発展した連邦国家だった。 スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、
    モンテネグロ、マケドニアの共和国から成り、セルビア人、クロアチア人、ストベニア人、
    マケドニア人、モンテネグロ人、そして、ムスリム人達が、連邦の中で共存していた。

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    主にセルビア共和国に住んでいて、旧ユーゴスラビア連邦の人口の約4割を占めていた
    セルビア人は、、旧ユーゴスラビアの中心的な存在だった。 1980年に、チトー大統領が
    死去し、1980年代末から冷戦が終わりに近づくと、それぞれの民族の中で独立を求める
    運動が出て来た。

    1991年には、スロベニア、クロアチア、マケドニア、1992年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ
    が次々に独立宣言をした。 そのうち、無血で独立出来たのは、マケドニアのみで、他の
    地域では、紛争が起きてしまった。

    ■ スロベニアの独立
    スロベニア人が多数派のスロベニアでは、1991年6月に連邦からの独立を宣言したが、
    スロベニア領内に攻め入ったユーゴスラビア連邦軍と内戦状態となった。 ところが、
    10日間で停戦となり、独立に成功した。

    ■ クロアチアの独立に関わる争い
    クロアチアも、1991年6月に独立を宣言し、スロベニアと共に1992年1月、EC(欧州共同体)
    によって、独立を承認された。 このことにより、ユーゴスラビアは解体した事になるが、
    その前後にクロアチアでは、クロアチア人とセルビア人による争いが起きていた。
    クロアチアでは、クロアチア人が多数を占めていたが、クライナ地方は、セルビア人が
    集中して住んでおり、多数派となっていた。 この地方のセルビア人達は、クロアチアが
    ユーゴスラビアから独立をしてしまうと、少数派になってしまうという危機感を持っていた。
    そこで、1991年5月、住民投票を行い、クライナ地方をセルビア共和国に編入する事を
    決めた。 その結果、クロアチア人とセルビア人の対立が始まった。

    この争いに、セルビア人が主導権を握るユーゴスラビア軍が介入し、クロアチア領土の
    3分の1を制圧した。 1991年12月、セルビア人はクライナ・セルビア共和国の樹立を
    宣言した。 しかし、1995年5月、クロアチア人は、セルビア人の支配地域を攻撃し、
    制圧した。 11月には、クロアチア人とセルビア人の間で、和平条約が結ばれ、1998年
    には、全ての領土が、クロアチア人の統治下に置かれた。

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    ■ ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
    旧ユーゴスラビアだった周りの国々が独立するのを見て、ボスニア・ヘルツェゴビナでも、
    1992年3月に国民投票が行われ、独立が決定された。 ボスニアには、セルビア人、
    クロアチア人、ムスリム人が住んでいるが、セルビア人は、独立に反対して、国民投票を
    放棄した。 こうした中、1992年4月に共和国の首都サラエボで始まった戦闘は、3民族が
    入り乱れての紛争に発展した。

    この時、旧ユーゴスラビア連邦解体後に、セルビアとモンテネグロによって作られた、
    (新)ユーゴスラビア連邦共和国が、ボスニアに住むセルビア人を支援したため、セルビア人
    は、クロアチア人、ムスリム人に対して、軍事的に優位に立った。 紛争開始3ヶ月で、
    セルビア人勢力は、ボスニアの約7割を支配し、クロアチア人とムスリム人とが、残りの
    領土で争った。 ボスニア紛争では、『民族浄化』が行われたため、国際的な関心を集め、
    国連の場でも、民族浄化に対する非難が行われた。

    旧ユーゴスラビアで起きている民族浄化を防ぐために国連は、1992年7月、UNPROFOR
    (国連保護軍)と呼ばれる平和維持部軍を紛争地域に送り込んだ。 しかし、この試みは、
    上手くは行かず、国連の部隊が市民を守っている地域でも虐殺が起きた。 1995年には、
    セルビア人勢力によるムスリム人への攻撃が激非常に激しくなり、国連等の人道支援
    物資も、上手く目的地に届かないような状況が続いていた。 1995年7月、2,000人の
    セルビア人の兵士が、ムスリム人が多く暮らすスレブレニツァに攻め入り、街は陥落。
    街から逃げ出したムスリム人は、兵士に追いかけられて殺された。 この事件では、
    7,000人以上の命が失われたと言われている。

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    ■ NATOによる空爆から、ディトン合意へ
    国際社会は、(新)ユーゴスラビア連邦共和国のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争への介入を
    強く避難した。 1992年5月、国連安保保障理事会は、ユーゴスラビア連邦共和国に
    対して、貿易禁止等の経済制裁を行う事を決定した。 そうしたなか、1994年3月、
    ボスニアのムスリム人とクロアチア人が、連邦国家を樹立する事で合意。 しかし、7月、
    セルビア人勢力は、アメリカ、イギリス等が提案した和平案を拒否した。 セルビア人に
    対する国際社会の批判が高まるなか、1994年4月、国連の決議に基づいて、NATO
    (北大西洋条約機構)が、セルビア人に対する空爆を初めて行った。

    1995年、大規模な空爆が、8月30日未明から9月14日に掛けて行われた。 この
    空爆の間、クロアチア人とムスリム人は、セルビア人に反撃し、セルビア人が支配して
    いた地域を奪って行った。 このような圧力下に置かれたセルビア人は、和平交渉に
    応じるしかなかった。 こうして、1995年10月に停戦、アメリカが間に入って、クロアチア、
    セルビア、ボスニアの指導者が和平交渉を開始し、11月には、クロアチア和平、
    ボスニア和平の枠組みが決まった。 このうち、ボスニアに関する和平合意を
    『ディトン合意』と言う。

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    現在のカナダ東部海岸を最初に探検したのは、1497年、イギリス国王ヘンリー7世の
    命を受け、ニューファンドランドやケープ・ブレトン島周辺を探索した、ジェノバ生まれの
    航海士、Jカボットである。 カボットの探検隊は、後に同地域がイギリス領となることの
    発端となった。

    フランスは、イギリスの動きに少し遅れて、1524年、フランス国王のフランソワ1世の
    命を受け、フロリダからニューファンドランドまでを航海し、その『新大陸』を『ノヴァ・ガリア』
    と名付けた。 1534年には、ジャック・カルティエが、ニューファンドランドからセント
    ローレンス湾の沿岸、リシュリュー湾周辺を探検している。 カルティエは、現ケベック州の
    ガスペ半島の先端である、ガスペ岬に上陸し、この地に『フランス国王万歳』と彫り込んだ
    十字架を建て、同地をフランス領とする事を宣言している。 これを持って、『ヌーヴェル・
    フランス』の歴史の始まりとされている。 その後、サムエル・ド・シャンプランがケベックを
    創設し、以降、この地が北米におけるフランスの植民地活動の拠点となって行く。

    【ヌーベル・フランスの領土】(青い部分全て)

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    現在、『ケベック問題』と呼ばれるカナダの最大の政治的課題は、17世紀から18世紀
    中期に掛けてのカナダ東部沿岸地域における英仏の覇権争いに端を発していると
    言える。 英仏の衝突は、ケベックの陥落(1759年)、そして、1763年のパリ条約
    (1763年)によって、一応の決着を見せ、『ヌーベル・フランス』は、スペインとイギリスに
    移譲された。 その後、カナダでは、イギリスの覇権が確率されたが、ケベック州の
    人口の約8割を占めるフランス語系住民達のナショナリズムは、その後のカナダ政府の
    文化政策、移民の動向、エスニック集団の扱いに大きな影響を与えて来た。

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    カナダの総人口のうち、民族的には、イギリス系が最も多数となっているが、一口に
    イギリス系と言っても、その内訳は複雑で、カナダへの移民は、アイルランド人、
    スコットランド人、ウェールズ人の順となっている。 イギリス系カナダ人がケベック
    以外のカナダで安定した覇権を確立して行った分岐点のひとつは、アメリカ合衆国
    からの執拗な攻撃を食い止めた1812年戦争からであると言える。 アメリカ軍は、
    アメリカに親近感を持つものの多い、『ウェスト・カナダ』(現在のオンタリオ州)をまず
    攻撃した。

    しかし、イギリス軍は、有能な司令官アイザック・ブロックの巧みな作戦と、イギリス側に
    付いた先住民の協力によって持ち堪え、いくつかの曲折を経て、1817年のラッシュ・
    バゴット協定と1818年の協定によって、英領北アメリカ(現在のカナダ)とアメリカの
    間の国境確定が、ロッキー山脈の東側の麓までで、ほぼ確定されている。 この1812年
    戦争では、フランス系カナダ人は、革命的で脱宗教的なフランス共和国とヨーロッパで
    戦うイギリス人に好感を持ち、イギリス軍と共にアメリカ軍と戦っている。

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    1812年戦争までは、アメリカ13植民地からの英語系の移民が多かったが、その後は、
    第二次イギリス系の波がカナダへと押し寄せた。 1815年から1850年までの
    35年間の間に80万人近いイギリス系移民がやって来た。 彼らは、イギリスが
    フランスを破った、ワーテルローの戦いの後に職を失ったイギリス軍の将校たち、
    アイルランドの職人や貧民、スコットランドの職人や小作人、イングランドの工場労働者
    たちであった。

    1815年から38年の間にイギリスから新しく到着した人々の多くは、スコットランド人で、
    それでの王党派が多かったノバスコシア、プリンス・エドワード島、ニュー・ブラウンズ
    ウィックや、セントローレンス湾岸に定着して行った。

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    カナダは、英語とフランス語の2言語を公用語とするバイリンガル国家であり、
    『1982年憲法』では、両言語を以下のように規定している。

    『英語、及び、フランス語は、カナダの公用語であり、連邦議会、及び、連邦政府の
    全ての機関における使用言語として、対等な地位と権利が認められる』(憲法第16条
    第1項)

    但し、これは、国民に両言語の習得を義務付けている訳ではなく、連邦政府の全ての
    公的機関において、この両言語が対等に扱われているため、どちらかの言語を話す
    事が出来れば、国のサービスを受けられる事を意味している。

    【カナダ国歌】 バイリンガルバージョン


    アメリカでは、英語を強要されるが、カナダの場合は、基本的に、この両言語によって、
    公的機関でのコミュニケーションが図られる事となっているが、実際は、多民族の
    移民国家らしく、窓口には、多数の移民を取り揃えているため、その他の言語でも
    一律にサービスを受ける事が出来る。

    カナダ人の約85%(2,686万人)は英語を話し、約31%(979万人)がフランス語を話す
    ため、バイリンガルを含めて合計すると、100%を超えることとなる。 但し、カナダでは、
    言語的な地域格差が大きいため、皆一様に両言語を自由に操れる訳ではない。
    小学校等の義務教育では、お互いの言語を学ぶことが義務付けられてはいるものの、
    両言語のバイリンガルは、概ね、両言語の言語的な境界線上にある首都のオタワ~
    ケベック州周辺に限られる。 首都であるオタワは、元々、ビクトリア女王が、両言語
    話者達の融和を願って、わざわざ言語境界線上に新たに建設したバイリンガル都市。

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    カナダ最大の都市である、トロントがあるオンタリオ州では、約85.9%が英語を話すが、
    残りの約14%が全てフランス語話者という訳ではない。 トロントにおける
    英仏バイリンガルの比率は、約11.4%となっており、決して高くはない。 逆に、フランス語
    だけが公用語となっている、カナダ第二の都市であるモントリオールを有するケベック州
    では、約53.9%が、フランス語を話すが、全ての方向を英語話者らによって囲まれて
    いるため、約4割がバイリンガルとなっており、バイリンガル率がカナダの中で最も高い。

    ケベック州は、カナダ連邦の中でも唯一、フランス語のみを公用語としているが、その
    面積は、カナダの約4分の1を占めており、英語話者に対しても、かなり敵対意識が高い。



    この他にも、カナダは、多民族国家、移民国家であるため、公用語以外の言語が
    日常的に使用されている。 例えば、家庭言語として、英語、フランス語に次いで最も
    多く話されているのは、約2.6%=76万人の話者を抱えている、中国語(広東語)である。
    その次に、インドやパクスタンで話されている、パンジャビ語が、約0.8%=約27万人を
    占めている。

    更に、カナダの多様化に拍車を掛けているのが、アラビア語話者の急激な増加で、
    約0.5%の14万4,000人となっている。 この他にも、近年は、アジアからの移民が
    増加しており、カナダでは、言語の多様化が進んでいる。 世界一の移民都市である
    トロントでは、地下鉄やバスに乗っていても、見渡す限り移民ばかりが乗っているため、
    通常、英語などでは喋っていない事の方が圧倒的に多いのだが、例え英語や
    フランス語で話していなくとも、お互いに理解する努力さえ惜しまなければ、世界中
    どこに行っても、誰とでも仲良くなれるため、カナダでは、積極性が非常に重要となる。

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    オランダ語の人称代名詞の属格(所有格)と対格(目的格)は以下の通り


    主格 属格 弱形 対格 弱形

    1人称単数
     
    ik mijnm'nmijme

    2人称単数
     
    jij jouwjejouje
    u uw
    u
    3人称単数 hij zijnz'nhem'm
    zij haard'rhaard'r
    het zijn
    het't

    1人称複数
     
    wij ons, onze
    ons

    2人称複数
     
    jullie jullie
    jullieje
    u uw
    u
    3人称複数 zij zij z'nhenze
    haar d'r hun
    zij z'n hun

    属格(所有格)

    属格は、主に所有を表し、日本語では、『~の』にあたるもの。

    1人称複数の属格には、ons と onze の2つの形がある。  どちらを用いるかは、次に
    来る名詞の性と数によって決まる。 次に来る名詞が中性名詞単数の場合は、
    ons を、それ以外の場合は、語尾に -e を付けた形の onze を用いる。 ons の
    語尾に -e が付くので、スペリングの法則に従って、語末の s が z に変化して、onze と
    なる。



    対格(目的格)は、直接目的語としても、間接目的語としても使われる

    Ik zie hem. 私は彼が見えます。
    Ik geef hem een boek. 私は彼に本をあげます。 
    Ik luister naar haar. 私は彼女の話を聞いています。
    Ze geven ons een boek. 彼らは私達に本をくれます。
    Ze luisteren naar ons. 彼らは私達の話を聞いています。

    対格(目的格)の3人称単数代名詞 het と hem

    オランダ語では、単数の『もの』を人称代名詞で指し示す時、それが、de 名詞なのか、
    het 名詞であるかの区別をする必要性がある。 主格の3人称単数代名詞で、
    hij と het を使い分けたように、目的格では、het と hem を使い分ける。 単数の
    『もの』が de 名詞(通性)である場合には、hem を、het 名詞(中性)である場合には、
    het を用いる。

    de auto → Hij verkoopt hem. 彼はそれを売ります。
    het huis → Hij verkoopt het. 彼はそれを売ります。

    目的格3人称複数形代名詞 ze と hen(hun)

    目的語の3人称複数形代名詞としては、ze と hen(hun) がある。 複数の『もの』
    に対しては、両性、中性名詞共、常に ze を用いる。

    de auto's → Hij verkoopt ze. 彼はそれらを売ります。
    de huizen → Hij verkoopt ze. 彼はそれらを売ります。

    また、『もの』同様に、『人』に対しても、ze を用います。

    Daar zie ik Kees en Jan. あそこに Kees と Jan が見えます。
    Daar zie ik ze. あそこに彼らが見えます。

    尚、hen(hun)は、『人』を表す場合にのみ用いられる。 hen(hun)は、強調する場合、
    あるいは、前置詞の目的語の場合に用いられる。 hen と hun の間には、意味的な
    違いはないが、どちらかというと、前置詞の目的語としては、hen を用いる場合が
    多い。

    Ik geef de kinderen een cadeautje. 私は子供達にプレゼントをあげます。
    Ik geef hen(hun) een cadeautje. 彼らに、私はプレゼントをあげます。
    Ik geef het cadeautje aan hen. 私は、そのプレゼントを彼らにあげます。
    Ik geef ze een cadeautje. 私は彼らにプレゼントをあげます。

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    北米大陸に最初の人類がアジアから渡来したのは、今から1万3千年以上も
    前のことである。 以降、数回に渡り、複数の集団が大陸に渡来し、融合や消滅を
    繰り返しながら、各方面へと拡散して行った。

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    カナダの先住民とは、通常、ヨーロッパ人が到来する以前から保持して来た人々を指す。
    現在、その先住民たちは、ヨーロッパ系の移植者達が創り出したカナダという国家の中で、
    人口のみならず、政治経済的にも少数派となっている。

    カナダでは、1982年に制定された憲法によって、先住民は、インディアン、メイティ、
    イヌイットであると規定されている。 インディアンは、複数の先住民族の総称であり、
    現在では、ファースト・ネイションズと呼ばれて、615のネーションにそれぞれ分かれている。

    メティスとは、かつて毛皮交易に関わった人々の子孫で、独自の文化を形成し、保持して
    いる人々である。 彼らの殆どは、アルバータ州やマニトバ州の指定保留地や都市に
    住んでいる。 イヌイットは、カナダ極北地域を主な居住地とするイヌイット語を母語とする
    人々である。

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    2006年のカナダ国勢調査によれば、カナダ先住民の総数は、およそ117万人となっており、
    カナダの総人口の約4%弱しかいない。 その内訳は、ファースト・ネーションズが、約69万
    8,000人(約60%)、メイティが約39万人(約33%)、イヌイットが約5万人となっている。
    イヌイット以外の先住民達の大半は、出身地を離れ、都市部等で生活をしている。

    ヨーロッパ人との接触が始まった15世紀頃の北米大陸の先住民社会には、7つの文化
    領域が存在していた。 そのうち、極北、亜極北、北西海岸、東部森林という5つの文化
    領域が、現在のカナダに相当する地域に存在していた。

    カナダの先住民達は、ヨーロッパ人との接触を通して、大きく変貌して行った。 16世紀頃
    から、カナダ東部において、ビーバーの毛皮交易が始まり、先住民達を巻き込みながら、
    西部へと斬進した。 18世紀から、19世紀初頭にカナダ北西部で行われたラッコの
    毛皮交易には、多数の北西海岸先住民が参加した。 一方、16世紀以降、ヨーロッパ
    出身の多数の入植者が東部海岸から西部へと農耕地や放牧地を求めてやって来た。

    ヨーロッパ人らの入植により、先住民達は、先祖伝来の土地を奪われたり、立ち退きを
    余儀なくされた。 更に、天然痘や、はしか等の伝染病が伝わり、人口が激減し、
    19世紀後半には、カナダ国家の中に政治経済的に取り込まれた。

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    北米において、イギリスがフランスに勝利し、1763年にパリ条約が締結されると、
    フランス植民地は、極一部を除き、イギリス領となり、イギリス王国宣言が発布された。
    この宣言により、北米における先住民政策が明らかになった。

    1867年にドミニオン・オブ・カナダが形成されると、多数の移民がカナダ西部へと移住を
    開始したので、カナダ政府は、1871年から1921年に掛けて、ここの先住民グループと
    11の条約を締結し、土地を入手して行った。 また、1876年には、先住民政策の指針と
    なるインディアン法を制定した。 土地に関する条約を締結したインディアンは、公認
    インディアンとなり、それ以外の先住民は、非公認インディアンと分類された。

    カナダにおいて、先住民の状況が変化し始めたのは、第二次世界大戦に兵士として
    参加した先住民の貢献を評価し、市民権を与える等の方策が採られた時期であった。
    しかし、主流社会による同化政策や先住民に対する差別が続いたため、権利の拡大や
    獲得を目指す先住民運動が1960年代から盛んになった。

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    カナダにおける先住民政策の流れが大きく変わったのは、1973年のカナダ最高裁判所
    によるニスガ裁判であった。 この判決によって、条約を締結していない先住民の権原が
    消滅していない事が確認された。 先住民の権原とは、先住民が持つ諸権利が発生
    する根拠となる理由や原因の事である。 このため、カナダ政府は、1974年に先住民
    権益審議局を創設し、先住民の土地の所有権や生業権、言語権等について、先住民と
    政治的な話し合いを開始した。 現在でも尚、ブリティッシュ・コロンビア州の先住民達
    とは、政治的な交渉が続いている。

    先住民の諸権利は、1982年に憲法によって、守られることが明記された。 更に、カナダ
    政府は、1995年に先住民の政治的な自治を容認する政策を打ち出した。 このように
    カナダでは、先住権や先住民の自治権が徐々に承認され、実現されつつある。

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    日本では、財務省によって国立大学の学費の大幅な値上げ案が提案され、
    財政制度等審議会において、既にその案の実施が可決されているのだが、世界では、
    大学の学費が無料の国がむしろ多く、先進国の中で、大学の学費が有料、かつ、
    高額なのは、英語圏と日本のみとなっている。

    >>日本の学費は世界一高い?

    高福祉国家としても有名な北欧諸国では、国民の大学の学費は全て無料となっており、
    その中でも、スウェーデン、デンマークは、2012年からEU圏以外の留学生は有料と
    なったが、フィンランド、ノルウェーでは、未だに外国人でも学費が全て無料となっている。



    フィンランド、ノルウェーでは、これプラス、大学生であれば誰でも返済不要の奨学金
    として、毎月550ユーロ(約7万2千円)が政府から支給されている。 スウェーデンでも
    CSNという同様のシステムが存在しており、大学生としてフルタイムで勉強していれば、
    奨学金として、給付型約1万円(704SEK)、返済型約2万5千円(1772SEK)を毎週
    貰うことが出来る。 これを一ヶ月に換算すると、返済不要の給付型4万円、返済型
    約10万円を合わせた、合計14万円程貰う事が可能。 これは、所得に関係なく、
    希望者全てに支給される。

    >>【ドイツ】外国人でも学費が無料の国

    北欧諸国の大学では、英語での授業も充実しており、近年では、学費の高いアメリカや
    イギリスからも学生達がわざわざやって来る程。 アメリカやイギリスの場合、
    日本同様、学費が非常に高額な事でも有名だが、日本以外の国では、これを補うという
    意味で、返還不要の給付型奨学金が用意されているため、世界で最も劣悪な大学
    環境は、日本という事となる。 日本でも、奨学金は用意されているものの、その
    殆どが返還型であり、かつ、その利率がかなり高く設定されているため、日本の大学生は、
    大学卒業と同時に、ローン返済地獄が始まる。 よって、例え、奨学金を貰っていたと
    しても、学生生活中にはアルバイト生活に明け暮れ、学業がおろそかになる事が多い。

    >>『奨学金』という名の学生ローン地獄

    近年、問題となっている、奨学金の返済問題や、ブラックアルバイトは、このような
    学生の弱みに完全に付け込んでおり、商売第一主義者らによる、国家破綻の道でしか
    ないという事を認識している日本の大学生は、どれぐらい居るだろうか?

    20151125151003

    日本は、OCED加盟国中、学費に対する公的支出が最も低い国としても知られており、
    『学問軽視』のこの政策は、学生が国の将来を担う『国の宝』という意識が欠落して
    いるところから来ているため、学問をも『金儲けの場』として、国民を利用しているからに
    他ならない。

    尚、北欧諸国では、政府が税金を投入して『フォルケホイスコーレ』と呼ばれる『国民学校』
    のようなものが運営されており、国民が学費面でも安心して自由に学べる環境が整え
    られている。 ドイツでは、同様に、『フォルクスホーフシューレ』が政府によって運営
    されている。

    EleverKagge

    これらの学校では、その学校にも寄るが、生活費込みで、月約10万円程の費用のみで、
    授業料、食費、住居費、光熱費、全て込みで学ぶ事が出来る。 特に、デンマークと
    ノルウェーでは、英語での授業が非常に充実しているため、デンマーク語やノルウェー語が
    例え出来なくても、英語で授業が受けられる体制が整っているため、やみくもに英語圏に
    高額の授業料を支払ってまで留学をするのであれば、むしろ、学費が無料な北欧諸国への
    留学をお勧めします。 尚、ドイツ語圏やフランス語圏でも大学は、無料となっているが、
    北欧諸国程、英語での授業が少ないため、ドイツ語やフランス語が出来ない学生には、
    余りお勧め出来ない。

    デンマーク、ドイツ、フランスには、『ワーキングホリデー』の制度もあるため、この制度を
    利用して、月10万円程度の授業料+生活費で何もかも済ませられる現地の
    フォルケホイスコーレ』で学ぶという選択肢を検討してみる価値は十分にあると思う。

    >>【悲報】 財務省が「国立大学の授業料」の値上げを提案!

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    日本でも大人気のチェブラーシカ(Чебурашка)は、ロシアの児童文学家、
    エドワルド・ウスペンスキーによるシリーズものの絵本『ワニのゲーナ』に登場する
    キャラクターで、たぬきのようでもあり、パンダのようでもあるが、実は、正体不明の
    生き物。

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    果物屋のおじさんが、アフリカから送られてきたオレンジが入った箱を開けてみた
    ところ、小さなカワイイ生き物がその中で眠っていました。 何度起こしても、寝ぼけて
    すぐに倒れてしまうことから『チェブラーシカ(ロシア語で「ばったり倒れ屋さん」)」と
    名付けられました。 困り果てたおじさんは、この生き物を引き取って貰うため、
    動物園へと連れて行きますが、動物図鑑にも全く載っていないこの正体不明な
    生き物は、動物園でも引き取ってはもらえず、電話ボックスの中で、孤独に生きて
    行くこととなりました。

    その動物園の中で『ワニ』として働いているアフリカワニのゲーナは、友達がいないため、
    毎日寂しい想いをしていました。 そこで、ゲーナは街中に貼り紙を貼って、友達を
    募集することにしました。 この貼り紙が切っ掛けで出会ったチェブラーシカとゲーナは、
    同じように友達のいない寂しい想いをしているみんなが集まるための『友達の家』を
    作ることにしました。



    本来、このシリーズの主人公は、チェブラーシカの友人であるワニの『ゲーナ』で
    あったが、その人気から、『チェブラーシカ』が実質的な主人公となっている。966年に
    絵本作品として登場し、1969年からは、ロマン・カチャーノフ監督により、人形アニメで
    映画化され、日本にも紹介された。 2009年には、日本でもテレビアニメ化され、
    2010年には、約6年近い歳月を掛けた完全新作の人形アニメ映画が完成し、日本で
    公開された。

    チェブラーシカの版権は、現在、日本の企業が所持しているが、既にソ連時代から
    ロシア国内では、無許可の商品が数多く出回っていた。

    ソ連崩壊直後の1992年、映画の権利は、アメリカの配給会社 Jove へと渡った。
    日本の配給元であった、チェブラーシカ・ジャパンは、版権をこのアメリカの会社から
    得たが、原作者のエドワルド・ウスペンスキー氏は、ロシアの様々な商品における
    チェブラーシカに対する著作権が自分に属すると主張。 版権入手の際、原作者の
    ウスペンスキー氏を介していなかったチェブラーシカ・ジャパンに対しても著作権侵害で
    あるとの訴訟を起こす事となる。

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    一方、2004年にチェブラーシカがオリンピックのロシア選手団のマスコットに決定した時
    には、それがウスペンスキー氏の許可しか得ていないものであったため、アニメーションの
    キャラクターの作者であるレオニート・シュヴァルツマンを中心とする人々によって異論が
    唱えられた。 1965年のウスペンスキー氏の本にあったチェブラーシカの挿絵は、現在の
    ものとはまったく異なるものであり、現在のキャラクターは、シュヴァルツマンが創作した
    ものである。

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    また1990年代にウスペンスキー氏は『チェブラーシカ』«Чебурашка»の名前の商標権も
    獲得したが、これはロシアの有名菓子メーカーとの論争に発展した。 2006年に新たに
    版権を獲得したチェブラーシカ・プロジェクトは、交渉の末、旧ソ連地域以外での版権
    問題がすべてクリアになったとしている。

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    東北電力女川原発30キロ圏にある5つの自治体と女川原発を直接むすぶ直通回線の
    設置が決定された。 設置されるのは、登米、東松島、涌谷、美里、南三陸の各自治体。
    光ファイバー回線を用いて、通話とファクスが出来る。 既に女川原発が立地する女川町と
    石巻市、宮城県には専用回線があるという。

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    5市町は、2015年4月に東北電と原子力安全協定を結んだ。 一方、女川原発1号機で
    同年9月、外部電源が失われ、非常用発電機が作動した問題では女川町と石巻市、
    県と比べ、5市町への連絡は約2週間も遅れた。



    女川原発周辺は、地震頻発地域だが、宮城県内のニュースでは、原発が緊急停止した
    事を頻繁に知らせるものの、それ以外の県外には、全く情報が伝わっていない。 女川
    原発の外部電源が消失して、非常用発電機が作動したのは、東日本大震災以降、
    1度や2度の話ではないため、周辺市町からは、改善を訴える声が上がっていた。



    出典:河北新報 2016年1月28日

    東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)と、半径30キロ圏に位置する登米市
    など5市町を直接結ぶ専用回線が設置されることが27日、分かった。 本年度内に
    実施される見通し。 5市町側から迅速な情報伝達を求める声が上がっていたこと
    などを踏まえ、通報連絡体制の改善を図るとみられる。

    他の4市町は東松島、涌谷、美里、南三陸。 関係者によると、光ファイバーの回線で
    通話とファクスができる。既に女川原発が立地する女川町と石巻市、県には専用
    回線があるという。

    東松島市では27日、原子力防災をテーマにした研修会があり、市職員や市議ら
    約40人が出席した。 東北電の担当者が東日本大震災当時の女川原発の状況や
    安全対策などを説明。通報連絡体制をめぐり「皆さんの関心のあるような情報は
    積極的に出すよう努めていきたい」と理解を求めた。

    5市町は昨年4月、東北電と原子力安全協定を結んだ。 一方、女川原発1号機で
    同年9月、外部電源が失われ非常用発電機が作動した問題では女川町と石巻市、
    県と比べ、5市町への連絡は約2週間遅れた。

    東北電は法令や安全協定に定めがないことを理由に挙げたが、地元からは
    「立地自治体と同じ情報がほしい」「東北電が情報を隠せば何もできない」などと
    改善を訴える声が相次いでいた。
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    マトリョーシカ(ロシア語: Матрёшка)は、入れ子式のロシアの民芸品。
    人形の胸部を2分割すると、その中から、多重式の入れ子人形が次々と現れ、
    様々な表情を楽しむことが出来るため、日本でも近々人気が高まっている。

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    ロシア人女性の名前である、『マトリョーナ』の愛称系が『マトリョーシカ』となって
    いる。 基本的なデザインは、スカーフを巻いた農村の女性がモチーフとなって
    おり、近年では、形にとらわれない様々な奇抜なデザインのマトリョーシカが
    続々と登場している。

    日本では、現在『こけし』が静かなブームとなっているが、その『こけし』と
    『マトリョーシカ』を組み合わせた、『コケーシカ』や、『マトコケシ』なる珍商品も
    出現している。

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    マトリョーシカは、1900年のパリ万国博覧会で銅メダルを受賞したのを機会に、
    ロシア帝国各地で様々なマトリョーシカが作られるようになり、ロシアの民芸品、
    みやげ物として定着したものだが、そのルーツとなるものには、いくつかの説が
    挙げられており、定かではない。 但し、その全てが日本にまつわるものである
    ため、日本がルーツであることは間違いないようだ。

    ①1890年代半ば、モスクワ郊外に住むS. I. マーモントフ夫人と画家S. V.
    マリューチンとザゴルスクのろくろ師V. ズビョズドチキンによって、モスクワの工房
    『子供の教育』で制作されたという説。

    ②19世紀末、箱根にあった正教会の避暑館にやって来たロシア人修道士が、本国への
    土産に持ち帰った箱根細工の入れ子人形(こけし・だるま・七福神)がマトリョーシカの
    元となったと言われている説。

    ③日露戦争で、愛媛県松山捕虜収容所のロシア兵が愛媛県の郷土玩具の一つ、
    姫だるまをまねて作ったという説。

    しかし、日露戦争は1904年から1905年の出来事であるため、③の説は1900年に
    パリ万博でマトリョーシカが銅メダルを獲得している事実と明らかに矛盾するため、
    この説は信憑性が薄い。

    この他にも、国営工場があったニジニ・ノヴゴロド州のセミョーノフ市を発祥地とする
    説もある。

    マトリョーシカの第一号が飾られているセルギエフ・ポサード(旧・ザゴルスク)の
    博物館には『日本から教わった』という縁起が記されており、その隣には、
    マトリョーシカのモデルとなったとされている箱根七福神の入れ子人形が展示
    されている。

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    ドイツの企業では、『休暇の最低日数に関する法律』に基づき、社員に最低24日
    (フルタイムで週6日就業の場合)の有給休暇を与えなくてはならないが、実際には、
    大半の企業が約30日の有給休暇を与えている。 ドイツの管理職は、部下に
    有給休暇を完全に消化させることを義務付けられているため、社員は上司が組合
    から批判されないようにするためにも、休暇を全て取らなくてはならない。 しかも、
    休暇中に病気になった場合は、そのことを直ちに上司と人事部に連絡すれば、
    病気だった日数が休暇ではなく『病欠』と認定され、その分の休暇日数が戻って来る
    仕組みとなっている。

    有給の取得には、上司の許可が必要だが、3~4週間の連続した休暇を取ることも、
    ドイツ では全く珍しいことではない。 年末になると、人事部から通知を送り、有給を
    消化するよう促す会社もある。 ドイツの法律では、企業は有給を翌年に繰り越す
    ことを認めなくても良いことになっているため、年次有給の消化は、ドイツ人に
    とっては、かなりの一大関心事とも言える。 

    ドイツでは、この最低24日間の年次有給休暇を労働者の当然の権利として全て
    消化しながらも、企業や社会が日本よりも、よりスムーズに回っている。 ドイツで
    仕事をする際には、如何にして短時間で最大限の成果を上げられるのかに重点が
    置かれており、無駄な作業に関しては、徹底的に省くことが理想とされている。
    このため、仕事上で必要なミーティングなどは、極力短時間で終わらせて、仕事
    よりもプライベートを大切にするライフスタイルが定着している。

    そのためには、『何のための仕事なのか?』という目的意識を社員ひとりひとりが
    常に持って働いていることとなるのだが、逆に、何か仕事を依頼する際には、その
    相手に仕事の必然性を納得させない限り、なかなか着手してくれないことが多い。
    よって、相手に依頼する仕事の優先順位が、極力上位に来るように、常にプッシュ
    し続ける必要性がある。
     
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    ドイツでも、当然ながら、仕事のプロジェクトには、それぞれの目標があるのだが、
    それをより敏速に達成するために、チームリーダーが自ら率先して、誰が、何を、
    どうするのかを決め、チームの一人ひとりがその役割を果たしながら、全員が
    目標に向かって合理的に作業をする。 また、各人の仕事や責任範囲が明確に
    なっているため、それぞれの責任において、敏速に行動出来るのも、ドイツの
    特徴と言えるかも知れない。

    部下が上司を信頼している点も、組織が非常に上手く回っている要因の一つでは
    ないかと思われるが、ドイツでは、年齢や勤務年数よりも、実力が重要視されるため、
    実力のない人間がリーダーになることは、まずない。

    日本企業では、チームリーダーは、年功序列で決めることが大前提となっているため、
    実力が伴わないリーダーが、そのチームを率いてしまうと、プロジェクトが機能しなく
    なることが実は多い。

    日本では、ドイツのように作業の効率性は重視されてはおらず、人事評価の際には、
    成果などではなく、むしろ、長時間労働などの根性論で評価されているケースが
    圧倒的となっているため、実力が伴わない上司に限って、率先して残業ばかりを無理
    強いしていることが多くなっている。 あくまでも、目標を敏速に達成するために働く
    ドイツ人と日本人との決定的な違いは、この点だと言えるであろう。

    また、ドイツでは、例え、信頼しているリーダーであってたとしも、自分と意見が異なる
    場合には、明確に意見を表明することが重要だとされており、その際、立場や年齢は
    関係なく、常に、フラットな人間関係が構築されている。 質問をすることも良いことと
    されており、例え頻繁に質問をしたとしても、丁寧に答えてくれる場合が多い

    この対等な人間関係は、クライアントや顧客であったとしても、同様となっており、
    クライアントがメーカー側に、『こういうの出来る?』と相談するような形となっている。
    日本の場合は、クライアントはお金を支払って頂ける神様であり、意見を述べたり、
    逆らうのはとんでもない話しなのだが、むしろ、これが、ブラック企業を増長させる
    原因の一端となっていることは否めない事実。
     
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    日本は、元々、縦割り社会であるため、常日頃から、年齢や立場といった上下関係を
    強く意識しながら生活をしているが、その上下関係には、能力や実力等は一切関係が
    ないため、自分がトップに立つ日まで、じっと耐え抜くしかない。 その反動なのか、
    能力のない人間が上に立った際には、無意味にふんぞり返ることが多くなっており、
    日本社会に新たな歪みが作られる要因となっている。

    ドイツでは、子供の頃から、家庭でも学校でも自分の意見を表明するように育てられ
    ているが、日本では、自分の意見を持つことすら許されてはおらず、ましてや、それを
    人前で公言するとなると、非国民扱いされても文句は言えないという、暗黙のルールが
    存在している。

    日本とドイツ、共に戦後は焼け野原から出発した筈だが、物事の表面のどうでも良い
    部分しか見ていない日本人には、合理的なドイツ人をもっと見習って、休暇を楽しむ
    心の余裕を持って欲しいところ。

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    ウクライナの首都キエフの独立広場(ユーロ・マイダン)で起きた、市民らによる
    抗議デモに端を発したウクライナでの内戦は、あたかも、キエフ市民自らが
    ロシア寄りのヤヌコビッチ政権を嫌って起こした『市民革命』であると日本や欧米の
    メディアは、こぞって報道がなされたが、実際は、アメリカにカネで操られた極一部の
    市民が起こしたニセの革命であり、その後のウクライナの状況は惨憺たるものと
    なっている。



    キエフからのヤヌコビッチ元大統領の追放を受け、米国務省の高官らは即座に、
    ロシアの侵攻によって、ウクライナはかつてないほど結束を固めたとの見方を示した。
    ホワイトハウス、駐ロ米大使、共和党国際研究所等も次々に同様の見解を発表した。
    米国では、政治問題を取り扱っている記者達も、皆一様に同様の見解を示したが、
    極々一部の現実主義者達だけが、ウクライナ内部の深い闇の亀裂について指摘し
    続け、従来からの同国の情勢に大きな変化はないだろうと主張した。

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    ウクライナの政治家達は、新たな『親欧米勢力』の下に一致団結し、これまでの党派や
    イデオロギーの違いを超えて、出来る限り早い段階でヨーロッパの一員となることを
    強く望んでいると報じられ、米議員らは、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が
    ウクライナ国民に決定的な敗北を喫し、ウクライナの慢性的な政治的内紛の時代は
    過ぎ去ったと確信した。

    日本でも、米国とほぼ同じ報道がなされたが、実際のウクライナ政治は、新興財閥
    オリガルヒらによる更なる政治腐敗が進み、クリミアはおろか、東部のドンバス地域
    では、ウクライナ軍の空爆が連日繰り返され、6,400を超える死者を出した。 この
    地域からの避難者だけでも、130万人以上とも言われている。 ロシア国内に居住
    しているウクライナ人は、350万人とも言われており、モスクワでは、急激に増えた
    ウクライナ人によって、職が奪われたりもしたのだが、そのような不都合は事実は、
    西側では一切報道されず、非常に米国寄りに偏った情報しか提供されなかった。



    更に、ウクライナ議会では、大統領支持者と首相支持者らの殴り合いが起きた。
    『連立』という名の下に集まりながら、議会内では激しいつかみ合い、罵り合いと
    なった。 支持率の急落を理由に、地方選挙の延期を要求しているアルセニー・
    ヤツェニュク首相と、極僅差だが、首相よりは高い支持率を維持しているペトロ・
    ポロシェンコ大統領の『連立』は既に、完全に崩壊し掛けている。 ポロシェンコ
    大統領と同盟関係にある、アルセン・アバコフ内相とグルジア前大統領で、
    現ウクライナ・オデッサ州知事のミヘイル・サーカシビリも先ごろ、この議会内での
    醜い争いに加わった。 幸いな事に、この争いの場では、殴り合いは起きず、
    アバコフ内相が、サーカシビリ知事の顔面に向けて、水の入ったグラスを投げ付けた
    だけで終わった。 ポロシェンコ派のこの二人の対立は、現在のウクライナの混沌
    たる状況を浮き彫りにしていると言える。 

    現在、ウクライナの指導者達は、内輪もめはもう止めると宣言したが、そのような
    口約束には、何の効力もない。 我が身可愛さの『我田引水』が上手く行かなければ、
    国民などは二の次で、約束など全く守らないであろう。

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    これまで、ウクライナでは、このような大規模なデモや内戦のようなものは起きた事が
    なかったが、汚職を監視するNGO『トランスペアレンシー・インターナショナル』も、
    同国を『ロシアを含む欧州で汚職が最も深刻な国』とし、世界汚職ランキングでは、
    152位に位置付けている。 家具メーカー『イケア』が、10年以上の歳月を掛けても、
    同国に進出出来ないのは、政府高官に賄賂を贈らないからだという話は非常に有名。

    結局、ウクライナは、国際通貨基金(IMF)や、ロシアからの融資に頼り切りになり、
    肝心の汚職対策も進まなかった。 いつまでも自立しない体制が、大規模なデモや
    米国の介入を招いたと言える。 更に、ウクライでは、ザカルパチア州等でも独立
    運動が盛んになって来ており、政治ばかりか、国内情勢も予断を許さない状況と
    なっている。

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    尚、ウクライナは、2015年12月31日に期限が切れた特恵期間中に、ロシアが保有
    する国債とその利子総額30億7,500万ドルを支払わなかったため、ロシア財務省から
    審理手続きの通達が行われ、同国債に関して、デフォルト状態にあるが、今のところ、
    IMFからの具体的な動きは見られていない。

    この事から考えても、IMFは、完全に米国寄りである事が分かるのだが、独立広場
    での内戦が大々的になったのは、ロシアでソチオリンピックが開催されていた期間中で
    あるため、『平和の祭典』に対して、自称『世界の警察』を公認して憚らない米国が
    この事に対して、一切異を唱えなかったのは、自らが先導してウクライナで内戦を
    引き起こしたからに過ぎない。

    日本の某新聞社は、独立広場での市民戦争が始まった当初、『日給30ドル程度で、
    キエフ市民は米国に操られている』と報じたのだが、その後一切そのような不都合な
    事実は出て来なくなった。 日本のニュースは、翻訳を含めて、その殆どが、米国
    経由で入って来るため、米国寄りのニュースが多々見受けられる。 そのような安易な
    記事に騙されないようにするためには、米国以外の世界情勢にも日々目を凝らして、
    自らの頭で考え、行動する習慣を身に付けたいところ。

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