『仙台市若林区荒浜で200~300人の遺体が見つかる』。 大震災が発生した
2011年3月11日の夜、衝撃的なニュースが全国を駆けめぐった。 百万都市・
仙台の海岸沿いに広がる約900世帯の地区では、多くの住民が犠牲になった。
だが当初伝えられた遺体の数は、混乱の中で錯綜した情報の一つだった。

その時 何が『遺体200~300人』(仙台・荒浜)
出典:河北新報 2011年5月22日

『大津波警報が出ている。 早く逃げろ』 県道塩釜亘理線の東側に開けた
住宅地。 荒浜新1、2丁目の約300世帯でつくる荒浜新町町内会の大橋公雄
会長(67)は地震直後、住民に近くの荒浜小に避難するよう自転車で呼び
掛けて回った。 住民の反応は鈍かったという。

荒浜は高さ6.2メートルの防潮堤で守られている。 高さ2.5メートルの
離岸堤も備える。 1978年の宮城県沖地震や、昨年2月末のチリ大地震津波
でも、被害はなかった。

『荒浜に津波は来ない』。 体験からそう信じる住民が少なくなかった。
荒浜小に避難した住民の中にも、しばらくして自宅に戻る人が現れた。

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午後3時55分。 濁流が猛烈な勢いで町をのみ込んだ。 4階建ての校舎には
約320人の児童、地元住民が避難。 津波の威力はすさまじく、校庭などに
残っていた人々は流されたという。

荒浜南部の福祉施設で働いていた遠藤雅人さん(32)は地震後、利用者、
職員計約70人と施設屋上などに避難した。

『バリバリという音を立てて防潮林の松の木がなぎ倒され、今度はその大木が
住宅街を根こそぎ破壊した』 犠牲者を出したのは、住宅街だけではない。
県道塩釜亘理線より西の水田地帯では『車を乗り捨てて逃げる人が濁流に
のまれた。 大勢の人が必死で走っていたが、津波の速さは尋常ではなかった』
と遠藤さん。

複数の生存者によると、大勢の住民が津波の到達直前まで、水田地帯の農道に
車を止めて沖を眺めていたという。 水田付近で事務所の片付けをしていた
会社員男性(32)は『住宅街から逃げた住民が車内でラジオを聞いたり、
立ち話したりしていた。 そのうち津波が押し寄せ、一瞬で辺り一面が水に
沈んだ』と話す。

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なぜ、住民はより内陸へと逃げなかったのか。 荒浜に先祖代々住む大学
源七郎さん(69)が説明する。 『住宅街の西を通る県道塩釜亘理線まで
逃げれば大丈夫と思ってきた住民がほとんどだった。 地区の避難訓練でも、
県道を渡ることに力点が置かれてきた』

仙台市が町内会に配布していた『津波避難マップ』。 津波が県道に到達する
とは想定されておらず、荒浜の住宅街の中でも県道に近い西部は『津波警戒区域』
に設定されていなかった。 だが、実際に津波はさらに内陸側の東部道路周辺
まで達した。

『荒浜新1、2丁目で200~300の遺体との情報』。 これは3月11日夜にあった
緊急通報の一つだ。 大震災発生の直後で、消防、警察にはそれぞれ何千件
もの通報が殺到。 関係機関による事実確認は混乱の中、難航を極めていたが、
その衝撃的な内容は報道関係者の意識を引き付けた。

情報は一部メディアで『海岸に200人以上の遺体』などと変遷しながら、事実
として数日間、発信され続けた。 仙台市の死者・行方不明者は21日現在869人。
荒浜地区での犠牲者は約180人に上るという。 遺体の大半は、県道塩釜亘理線
沿いの荒浜新1、2丁目や海岸ではなく、荒浜西部の南長沼周辺や東部を流れる
貞山堀で見つかった。

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