鎖国時代の日本、ペリー来航の100年以上も前にロシアの船が日本に来ていた
ことは意外に知られていない。

宮城県石巻市網地島にあるベーリングの像

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元文の黒船(げんぶん の くろふね)
元文の黒船とは、日本の江戸時代中頃の元文4年(1739年)夏、牡鹿半島、房総半島、
および、伊豆下田などに、ロシア帝国の探検船が来航した事件である。 アメリカ
合衆国の黒船(米国東インド艦隊ペリー提督)による、嘉永期の黒船来航に114年
先立つ、いわゆる「鎖国」期における、江戸幕府とロシア帝国との歴史上初めての
接触であった。

元文4年6月18日、仙台藩領の本吉郡気仙沼で異国船の目撃情報があった。 更に
4日後の23日に牡鹿半島沖の仙台湾に浮かぶ網地島にも2隻の異国船が出現した。
これらの船は、マルティン・シュパンベルクが率いるロシア帝国の第2次北太平洋
大探検隊であり、ベーリング海峡の語源となったヴィトゥス・ベーリング
アリューシャン列島を探検している間、4隻の船を日本へと遣わし、ヨーロッパ
大陸からベーリング海峡、千島列島を経て日本との通商ルートを開拓するために
来航したものであった。
 
まず初めに、2隻の異国船が現れたのは、牡鹿半島の南に浮かぶ網地(あじ)島の
南東部、長渡(ふたわたし)浜で、仙台藩の公式文書には、「牡鹿郡長渡のうち、
根組浜という所の沖に唐船(異国船)が2隻現れた」と記されている。 長渡を
去ったロシア船は、今度は亘理荒浜沖に姿を見せたが、この時は3隻であった。
網地島の白浜海水浴場には、これを記念してベーリングの銅像が建立されているが、
残念ながら、ベーリング本人は網地島には来ていない。

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翌々日の25日には、仙台藩領から遠く離れた幕府直轄領の安房国長狭郡天津村
(現千葉県鴨川市)にも異国船が現れたが、これは上記の3隻とは別行動をとって
いた船であった。 ロシア船員はそれぞれ上陸し、住民との間で銀貨と野菜や魚、
タバコなどを交換した。 同月28日には伊豆国賀茂郡下田でも異国船が目撃された。
これら上陸地の中で、ロシア人による日本初上陸の地となったのは、鴨川であった。

当時、ロシアと日本の間には国境という概念がなく、霧を挟んで互いに姿が
見えないという漠然とした区切りしかなかった。 その霧の向こうから
突如ロシアが来訪し、こうして日ロの歴史が始まった。

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鎖国時代の日ロ交流
元文の黒船騒動で初めての接触を果たした日ロ両国であったが、千島列島では
アイヌ人居住地にロシアの商人・海軍がじわじわとその勢力を拡大しつつあった。
1753年、日本語学校の日本人教授を大幅に増員し、イルクーツクへと移転したが、
これらの動きは蝦夷地(北海道)でアイヌと関係を持っていた松前藩の警戒を招いた。

しかし、蝦夷地収益の独占を図る松前藩は、道外や和人地からの蝦夷地への訪問を
制限しており、日本人にとって蝦夷・ロシアに関する知識は極めて限られたものと
なった。 このような中、仙台藩の藩医工藤平助がロシア研究書である
赤蝦夷風説考」を著述(赤蝦夷はロシア人のこと)したが、時の政治改革を主導して
いた田沼意次もこれに関心を抱き、蝦夷地調査や新道開削などを開始したが、
間もなく田沼が失脚したため、尻すぼみとなった。

1793年のエカテリーナ2世の時代には、日本人漂流者でロシアで保護されていた
大黒屋光太夫ら3名の送還と通商開始交渉のため、アダム・ラクスマンの使節が
根室に来航したが、田沼の後政権を握った松平定信らは、漂流民の受け取りのみで
通商は頑なに拒否して長崎回航を指示したため、ラクスマンはそのままオホーツクへ
帰港した。

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その後も1804年にニコライ・レザノフが同様に漂流者津太夫ら4名の送還のため
長崎へ来航したのち、通称を拒否された報復で樺太と択捉島を襲撃する事件
(文化露寇)、1811年にはゴローニン事件が起きるなど、正式な国交がないまま両国は
緊張を続けた。

1853年の米国による嘉永の黒船来航と同時期にエフィム・プチャーチン率いる
ロシア使節が日本へ来航し、同年、樺太へのロシアの侵入が始まるが、交渉の末、
1855年日露和親条約が締結され、ようやく日ロ間の国交が成立する。 1858年の
日露修好通商条約、1875年の樺太・千島交換条約により、両国関係はようやく安定
することとなった。

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