ネオナチ
例年1月1日に首都キエフで行われている「たいまつ後進」は、ウクライナ民族主義
運動のリーダーであり、その生涯をウクライナの独立に捧げたステパン・バンデラ
(1909年1月1日~1959年10月15日)の生誕を記念して行われている夜間行事で
あるが、この集会自体がナチスを彷彿とさせるとして、ロシアやチェコ等の周辺
諸国からも度々指摘がなされいる。

ウクライナ西部のガリツィア地方に基盤を持つ政党「スヴァボダ」は、バンデラの
思想と運動形態を継承しており、「バンデラ主義者」と呼ばれる人々が主張する
ウクライナ民族至上主義、反ユダヤ主義は、国際基準でネオナチに分類されている。
バンデラ主義者が、ナチスが頻繁に行った「たいまつ行進」を好んで行うのも、
自らが「ネオナチ」であることを誇示するためと言われている。

ウクライナ民族至上主義を掲げるバンデラ主義者


ステパン・バンデラ
1991年のソビエト連邦崩壊以前、バンデラは、ソビエト政権からは「ファシスト」
「ソ連最悪の敵」として扱われ、ソビエト時代のウクライナの歴史教育でも
このように教えられていた。 1991年12月にソ連が崩壊し、ウクライナは独立を
果たしたが、現代のウクライナにおけるバンデラの評価、ウクライナ民族主義者
(ネオナチ)の評価、ウクライナ蜂起軍の評価は、否定的なものと肯定的なものが
入り混じった混沌とした状況となっている。

バンデラは一時期、ナチス・ドイツと提携し、ウクライナの独立を図ったことが
あるが、バンデラが指揮する軍団が、ドイツ軍の指揮下に入ってソ連軍と戦い、
戦争初期にはウクライナを支配下に置いた。 もっとも、ナチスは、「約束を守る
とは約束していない」と合意を反故にした。 このため、ウクライナ独立の
約束をナチスは守らず、その後、ウクライナ人はドイツの鉱山や工場で働かされ、
「東方の労働者」と呼ばれた。 バンデラはナチスによって逮捕され、強制収容所に
送られたが、戦争末期にアメリカによって釈放された。 第二次世界大戦後、
バンデラとその支持者は西ドイツに拠点を置き、ウクライナにおける反ソ武装闘争を
指導したが、バンデラは1959年10月15日、ミュンヘンの自宅周辺でKGB(ソ連国家
保安委員会=秘密警察)の刺客によって暗殺された。

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ウクライナはボリシェビキが造った人工国家
ウクライナは、ウクライナ人の意思には関係なく、ロシア革命時に重要な役割を
果たしたボリシェヴィキによって造られた人工国家であるが、第二次世界大戦の
結果、欧州の国境は大きく様変わりし、ポーランド、スロバキア、ルーマニア等、
様々な地域が統合された結果生じた国家である。 そもそも、ウクライナは、西部、
中部、南東部と大きく文化的にも分かれており、東部ではロシア語が圧倒的に
優勢であるものの、西部ではウクライナ語が普及している。 経済的に見ても、
東部では主に工業、西部では主に農業が盛んとなっている。

現在のキエフ政権は、中部と西部が中心となっており、特に、元々ポーランド領で
あった西部(ガリツィア)がウクライナの唯一のイデオロギーとされている。
住民らの基本的な物の考え方も親欧的とされている中部&西部、並びに、親露的な
東部とでは全く折り合わず、1つの国家とされながらも、実際は全くの別国家で
ある。

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ソ連崩壊後
ソ連崩壊時、バルト3国では、およそ200万人が参加して手をつなぎ、3共和国を
結んで約600km以上の人間の鎖を形成し、国際社会にバルト3国の独立を大いに
アピールしたが、逆に、ウクライナでは、特に目立った独立運動は起こらず、
当時、ロシア大統領であったエリツィン氏が、「ロシアは、スラブ3国である
ウクライナ、ベラルーシと共に、ソ連から独立する」と宣言するに至り、最終的に
ソ連は崩壊した。 正に、ウクライナの独立は、ロシアの「みち連れ」的な
漁夫の利での独立であった。 よって、その後のウクライナの教育は、ロシアとの
「違い」を見出すことに主眼が置かれ、常にウクライナ人としての
アイデンティティーを見出すことが重要視されたが、元々、ソ連時代のロシアと
ウクライナの境界線は、同じロシア語で喋っている国家同士ということもあり、
日本で言うところの「県境」程度の境界線であったため、線引きが非常に曖昧で
あった。

その後、2004年11月の総選挙により「オレンジ革命」が起こり、ヴィクトル・
ユーシェンコ大統領、ユリア・ティモシェンコ首相らを中心とする反露路線への
改革が行われたものの、2010年には再度親露派のヤヌコヴィッチ大統領が当選し、
ロシア寄りへと方向転換した。 その後、2014年にはウクライナ騒乱が起こり、
親露派のヴィクトル・ヤヌコヴィチ大統領が失脚し、代わって反露派のペトロ・
ポロシェンコ大統領が就任したが、ポロシェンコ政権は、ソ連・ロシアの「遺物」を
除去する政策を数多く打ち出した。

これに伴い、バンデラやウクライナ民族主義者組織、ウクライナ蜂起軍についても
「ウクライナ独立のために戦っていた英雄たち」として讃えられるようになり、
ウクライナの法律でも同様に定められた。 2016年、ウクライナの首都である
キエフの「モスクワ通り」は、キエフ市議会の決議により、バンデラを顕彰して
「ステパン・バンデラ通り」へと改名された。

ナチスの旗を掲げる過激な民族主義者ら
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民族主義的な教育とロシア語の禁止
現在、ウクライナの学校では、バンデラを民族の英雄として崇拝するよう教育を
受けており、ロシア語の使用も度々禁止されているため、公式の場では、基本的に
ウクライナ語で喋らなければならない。 ソ連崩壊後のウクライナ南東部は、
西部とは異なり、独自のアイデンティティやイデオロギーを持ち合わせてなかった
ため、キエフ政府に南東部の代表が居た時代ですら、政治に関する文献全てが、
ウクライナ民族主義者に任されていた。 このため、教育自体が、全土で統一された
民族主義的な内容へと書き換えられ、ウクライナの学校では、極右的な視点で
書かれたウクライナ史が教えられている。

ウクライナのメディアは、「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥によって、完全に
掌握されているため、テレビでも連日、過激な民族主義的なプロパガンダが繰り返し
流されている。 元々は親露的であった南東部でさえも、人工的にウクライナ化
された若者が多くなって来ており、かつての寛容的なウクライナは失われつつある。

現在のウクライナは、ソ連時代のウクライナとは全くの別国家であると言える。

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