デニス選手の主な経歴
テン・デニス・ユーリェヴィチ(Тен Денис Юрьевич)は、カザフスタン共和国の
フィギュアスケート競技において、史上初めてのメダルをもたらしたアルマトイ市
出身のフィギュアスケート選手(男子シングル)であり、2014年ソチオリンピック
では銅メダル、2013年世界選手権では2位、2015年世界選手権では3位、2015年
四大陸選手権では優勝、2017年冬季ユニバーシアードでも優勝を果たす等、数々の
輝かしい実績をスケート界に残した人物である。

【ソチ五輪では銅メダルを獲得】
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家族
中央アジアのカザフスタンは、「民族の十字路」と呼ばれており、朝鮮人や
ドイツ人他、100を超える民族が共存しているが、デニス選手の曽祖父は、
大韓帝国時代の軍人、閔肯鎬であり、日本からの独立運動に尽力し、1908年
2月28日、雉岳山で日本兵の不意の襲撃を受けて逮捕された後、翌日の2月29日、
部下の義兵らが救出作戦を起こし、奪還されることを恐れた日本軍により
射殺された。 その後、その子孫は亡命を余儀なくされ、家族は安重根の助けで、
豆満江を渡ってロシアに逃れた。 スターリンの時代には、その家族は
カザフスタンに強制移住を余儀なくされ、この地に連れて来られた。

デニス選手の先祖 閔肯鎬


フィギュアスケートとの出会い
プロヴァイオリニストである母親の影響で7歳から5年間音楽学校に通い、
ピアノと合唱を学んだが、2002年にはカザフスタン少年合唱団員の一員として、
韓国の釜山で開催された世界合唱大会に出場し、2位となった。

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5歳の時、母親の希望によりスケートを始める。最初は冬場にアルマトイ市内の
屋外リンクで練習を行い、後にショッピングモール内のリンクへと場所を移した。
9歳の時、ロシアのオムスクで行われた大会で優勝した際に、ジャッジのひとりから
旧ソ連地域内の低年齢競技者を対象とした競技会「クリスタルスケート」に招待
された。 この大会でエレーナ・ブイアノワと出会い、彼女が指導する
サマーキャンプに参加するようになり、10歳の時、ブイアノワの勧めで母親と共に
ロシアに移住。 2004年から2010年までの7年間、モスクワでブイアノワと
タチアナ・タラソワから本格的な指導を受けた。 2010~2011年のシーズンから、
コーチをフランク・キャロルに変更し、拠点をロサンゼルスへと移した。

 

フィギュアスケート以外にも、テコンドー、空手、テニス、水泳、器械体操等にも
挑戦した事があり、この他にも、作詞作曲の音楽活動、写真、映画のシナリオ
作成等を本格的に行う等、非常に多彩な才能を持っていた。

デニス選手殺害事件
2018年7月19日、デニス選手は、アルマトイ市中心部にあるレストランで友人らと
昼食を楽しんでいた。 食事が終わり、デニス選手が車に戻ろうとしたところ、
デニス選手の車のミラーを盗もうとしていた男2人組と遭遇し、そのまま20m程
犯人を追い掛けたが、その場で脚2ヵ所をナイフで刺され、数十分後に通行人に
発見されたが、既に約3リットル以上もの出血があり、救急車でアルマトイ市内の
病院に運ばれた時点で、既に臨床的な死を向えていたが、同日午後5時30分、
正式に死亡が確認された。


デニス選手が刺殺された場所
この場所は、アルマトイ市中心部にある、お洒落な地域で、周囲には、数軒の
カフェテリアとレストランがある。 すぐ目の前のカフェテリアからは、
この現場が丸見えで、道路には防犯カメラも設置してあるが、誰も気付くことは
なかった。。 その後、この通りを偶然通りかかった女によって、デニス選手は、
財布が盗まれたのだが、その時点でこの女が通報をしていれば、まだ助かった
可能性があった事は否めない。。

アルマトイでは、この事件を誰も語ろうとはしておらず、余りにも不審な点が
多過ぎるため、計画的に誰かがデニス選手を殺害しようとしていたとの噂もある。

赤いリボンの様な物は、デニス選手の死後に設置された物
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意外と人通りが多い。。
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最後に食事をしていた場所。。
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恐らく、この場所にレクサスを停めて、犯人と遭遇した。。
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ベイセイトフ通りとクルマンガジー通りが交差する交差点付近で殺害された


死亡に至った経緯
過去の歴史に「もしも」はないが、もしも、以下の不幸な事実が何重にも
重ならなければ、デニス選手は死なずに済んだはず。。

① もしも、ソチオリンピックで銅メダルを取っていなければ
② もしも、ナザルバエフ元大統領が高級車をプレゼントしていなければ
③ もしも、この場所まで車で行かなければ(自宅から現場までは徒歩で30分)
④ もしも、後10分早く、あるいは、遅くこのレストランを出ていれば
⑤ 例え、犯人に遭遇したとしても、後を追わなければ
⑥ もしも、友人が車まで見送りに来てくれていたならば
⑦ もしも、誰かが、すぐ隣のカフェテリア、あるいは、レストランから見ていれば
⑧ もしも、過去に同様な事件を起こした犯人がアスタナで保釈されなければ
⑨もしも、その犯人がアルマトイに来なければ
⑩もしも、その犯人が別の場所を刺していたならば
⑪もしも、通行人がもっと早く見つけていたならば
⑫もしも、この場所に来ていなければ

アルマトイでは、誰も何も語ろうとはしていないため、事実は分からないが、
どうも、デニス選手が朝鮮人である事が原因ではないかと言う説もある。 よって、
もしも、デニス選手が朝鮮系のカザフ人でなければ、助かった可能性もあった
のである。 現地で調査を行ったところ、朝鮮系だから、通行人に見殺しに
されたとの意見もあった。

デニス選手が埋葬された場所
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ネット上では、デニス選手が埋葬された場所に関して、全く公開されておらず、
様々な情報が飛び交っているものの、正確な埋葬場所は、元ドゥルジバ村で、
現在は、ドスティック小地区と改名されたヌルマガンベトフ通りにある墓地の
片隅に埋葬されています。 デニス選手のすぐ隣には、彼の祖母と祖父も共に
眠っており、そのすぐそばには、彼の家族のお墓もあります。 尚、アルマトイの
墓地には、名前がないため、この場所を探すのは、非常に困難なため、現地を
良く知るタクシーの運転手にこの場所まで連れて行って貰うしかありません。
アルマトイ市内を走っている地下鉄終点駅のモスクワ駅からは約5キロ、歩くと
約1時間の場所にこの墓地はあります。

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デニス選手を小さい頃から知っているという墓守の方が彼のお墓付近に居ますが、
彼の話に寄れば、デニス選手が死亡した際に、このお墓の道路もかなり修復された
そうです。 その点でも、デニス選手は、死亡した後にも、社会貢献したのだと
思いました。 お恵みを求められたため、数十円程度を渡してお墓の掃除を
お願いしますと言って来ました。

このピンが指している場所の左上の緑地が埋葬された墓地



デニス選手が住んでいた場所
殺害事件以降、彼の家族は、別の場所に引越し、元々住んでいた場所には、
デニス・テン基金」が置かれました。 また、彼が住んでいたマンションには、
メモリアル・ボードが設置され、今後、殺害現場には、彼を称える記念碑が
設置される計画です。

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ナザルバエフ大通り46番にあるメモリアル・ボード。 アルマトイ市の
最も繁華街にあります。 尚、ナザルバエフ大通りは、半年前に改名された
ばかりであるため、デニス選手が生きていた時は、フルマノフ通りと言う
名前でした。

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ナザルバエフ大通り46(ロシア語 Проспект Нурсултана Назарбаева


デニス選手の死亡が確認された場所
ベイセイトフ通りとクルマンガジー通りが交差する交差点付近で通行人に
発見されたデニス選手は、約1時間後に、現場から約2キロ離れた病院に運ばれ
ましたが、その時点で、既に臨床的な死を向かえており、中央市立病院にて
午後5時30分に正式に死亡が確認されました。。

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【追悼 デニス・テン選手】
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