モスクワから飛行機で約2時間半のロシアの飛び地、カリーニングラードの
主な観光地と見所。
主な観光地と見所。
旧ソ連圏によくある『○○の母』の像。 カリーニングラードでは
『ロシアの母像』という名前。 1974年に設置されたこの像の場所には、
かつてはスターリンの石像があった。 2007年には、カリーニングラード州の
文化遺産に指定された。
『ロシアの母像』という名前。 1974年に設置されたこの像の場所には、
かつてはスターリンの石像があった。 2007年には、カリーニングラード州の
文化遺産に指定された。
ドイツ時代のケーニヒスベルグ城があった場所に建てられており、その代わりの
街のシンボルとして計画されたが、建設中に地盤が緩く、傾き、ヒビが入り、
使用出来なくなった廃墟。
街のシンボルとして計画されたが、建設中に地盤が緩く、傾き、ヒビが入り、
使用出来なくなった廃墟。
レンガ造りのゴシック様式の大聖堂。 1333年から1380年の間に建築。
1944年8月の第二次世界大戦中イギリス空軍の二夜に渡る空襲で街は
大きく破壊され、大聖堂もこれによって大きく破壊された。 空襲を
まぬがれるために100人ほどが聖堂に避難したが多数の死者が出てしまった。
1944年8月の第二次世界大戦中イギリス空軍の二夜に渡る空襲で街は
大きく破壊され、大聖堂もこれによって大きく破壊された。 空襲を
まぬがれるために100人ほどが聖堂に避難したが多数の死者が出てしまった。
第二次世界大戦で残った数少ない建物のひとつであり、大戦後にドイツの
敗北と共に、ドイツ領からソ連領へと移ったカリーニングラードには、
ドイツ風の建物が多いとされているが、実際は、戦時中にかなり破壊され、
ドイツ風(ゴシック様式)の建物は実は少ない。 川沿いに残された、
この一体だけが、唯一、ドイツ風の建物が残っている観光スポット。
敗北と共に、ドイツ領からソ連領へと移ったカリーニングラードには、
ドイツ風の建物が多いとされているが、実際は、戦時中にかなり破壊され、
ドイツ風(ゴシック様式)の建物は実は少ない。 川沿いに残された、
この一体だけが、唯一、ドイツ風の建物が残っている観光スポット。
【プレゴリャ川付近】
プレゴリャ(独語名プレーゲル)川沿いにある、ドイツ風の建物。 かつては、
この川の流域には、バルト語派のプルーセン人が住んでおり、ドイツ語の
川の名であるプレーゲルは、プロシア語で深い場所を意味する『preigillis』から
来ている。 ドイツ人の東方殖民と、北方十字軍による異教徒の征服が進むと、
次第にプルーセン人はドイツ人に同化されていった。
この川の流域には、バルト語派のプルーセン人が住んでおり、ドイツ語の
川の名であるプレーゲルは、プロシア語で深い場所を意味する『preigillis』から
来ている。 ドイツ人の東方殖民と、北方十字軍による異教徒の征服が進むと、
次第にプルーセン人はドイツ人に同化されていった。
プレーゲル川河口付近に作られた港湾都市ケーニヒスベルクは、流域の
プロイセン地方の物資を集散し、バルト海を経由して各地へ輸出する港として
中世以来繁栄した。 後には、プロイセン公国が建国されプロイセン王国へと
拡大したが、第二次世界大戦後、ドイツ領だった東プロイセンは、ポーランドと
ソ連に分割され消滅し、ケーニヒスベルクもカリーニングラードと改称された。
プロイセン地方の物資を集散し、バルト海を経由して各地へ輸出する港として
中世以来繁栄した。 後には、プロイセン公国が建国されプロイセン王国へと
拡大したが、第二次世界大戦後、ドイツ領だった東プロイセンは、ポーランドと
ソ連に分割され消滅し、ケーニヒスベルクもカリーニングラードと改称された。
【雑 記】
前々から、iPhoneの調子が悪かったため、カリーニングラードで、iPhoneの
バッテリーを交換。 15分ほどであっという間に終わった。 特に、外人とも
思われなかったため、パスポートや、身分証明書の提示も必要なかったw
交換料金は、中国製のバッテリーが1,400ルーブル、正規品が2,400ルーブル
だったので、日本の約3分の1以下であった。
バッテリーを交換。 15分ほどであっという間に終わった。 特に、外人とも
思われなかったため、パスポートや、身分証明書の提示も必要なかったw
交換料金は、中国製のバッテリーが1,400ルーブル、正規品が2,400ルーブル
だったので、日本の約3分の1以下であった。
【カリーニングラード・フラブロヴォ空港】