【ナポレオン戦争】
1790年初め、市民革命によりフランス国王が処刑されると、ヨーロッパ諸国は
自国でも暴動が起こるのを恐れ、フランス革命軍に攻撃を仕掛けた。 これに対し、
フランス軍はライン川を越え、ドイツの諸国を占領、反君主制感情を煽ろうとした。
1799年になると、フランスではナポレオン・ボナパルトが政権を取り、ドイツに
侵入し、プロイセンとオーストリアの軍隊を破った。 また1806年には
ナポレオンがドイツの征服地をライン同盟んび編成し、これを切っ掛けに
神聖ローマ帝国は崩壊した。

しかし、プロイセン、オーストリア、ロシアの軍隊は1813年、ライプツィヒで
フランスを破り、2年後、プロイセンとイギリスがワーテルローの戦いで
ナポレオンに勝利した。 勝者は新たに国境を引き直すためウィーン会議に
集まり、プロイセンは北ヨーロッパに領地を拡大、一方、ハプスブルグ家は
南ドイツの支配地を失った。 またこの会議では、ドイツ内35の君主国と4つの
自治都市から成る新しいドイツ連邦に編成し直すことが決められた。

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【ドイツ連邦】
ドイツ連邦には連邦議会があったが、これにはほとんど権威がなかった。
それぞれの君主国は独自の法律を施行し、独自の貨幣を鋳造、独自の軍備を備え、
独自の税金を徴収していたからである。 しかし、1834年には、多くの君主国で
関税同盟が発足した。 プロイセンの指導の下、この自由市場はドイツの産業を
刺激し、統一ドイツのあるべき姿を示した。

1840年代の凶作は、食糧不足や経済問題を引き起こし、多くのドイツ人は真に
民主的な政府を求め始めた。 1848年には、フランスで起きた革命が
オーストリアとドイツに波及、プロイセン、バイエルンなどの君主制の指導者達は、
フランクフルトに集まり、国民会議を設立することで合意した。

この会議では、世襲の皇帝の下にドイツが統一されることが決められ、プロイセン王
フリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇帝に指名された。 しかし、会議に強く
反対するフリードリヒ・ヴェルヘルム4世が皇位を拒否したので、国民会議は
次第に支持を失って行き、1849年に解散した。

【統一】
1862年、フリードリヒ・ヴェルヘルム4世の後継者ヴェルヘルム1世は、オットー・
フォン・ビスマルクを首相に任命した。 そこで、プロイセンの指導の下にドイツを
統一しようと考えていたビスマルクはその後、デンマーク、オーストリアとの戦争で
プロイセンを勝利に導き、ドイツ連邦に代る北ドイツ連邦を組織した。

同じころ、ホーエンツェルン家の1人がスペイン国王に内定した。
ホーエンツェルン家によるヨーロッパ支配のみならず、プロイセンの軍事力
増大を恐れたフランスは、これに猛反対、この対立を上手く利用したビスマルクは
1870年、普仏戦争(プロイセン・フランス)を引き起こした。 1871年、
フランスの首都パリの開城によって戦争が終わると、プロイセンはフランス
政府に多額の賠償金を要求し、ライン川西岸のアルザス・ロレーヌを割譲させた。

その間に、ビスマルクは南ドイツの諸邦をプロイセンの支配下に置き、ヴィルヘルム
1世はカイザー(皇帝)として、統一ドイツの指導権を欲しいままにした。 また、
新しい憲法では、2院制が規定され、連邦参議員と帝国議会が創設された。

19世紀後半、ドイツは急速に発展した。 人口が増加し、活気ある鉱山や工場が
経済を一変、アフリカかアジアに植民地を建設し、イギリスやフランスに拮抗する
国となっていた。 ビスマルクは25の邦国と帝国直轄の代表から成る連邦参議院に
厳しい監視を続け、プロイセン専制の反対勢力排斥に務めた。 また、労働者の
権利を守るSPD(社会民主党)の活動も制限されたが、急速な工業化は労働運動を
促進し、社会党への支持は高まった。

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