河井継之助は、越後長岡藩の家老であり、郡奉行の職に就いてから数々の
藩政改革を行い、若くして重職に抜擢された。 戊辰戦争において、長岡藩を
率いて新政府軍に徹底抗戦したことで知られる継之助ですが、本来目指して
いたのは『武装中立』であった。 当時、日本に3門しかなかった最新鋭の
ガトリング砲を2門購入し、戊辰戦争に投入した。 丸腰だけではどうにも
ならないため、武装での中立を目指したのである。

諸藩が新政府・旧幕府に分かれて争うなか、他力に頼らず、冒されず、己の力で
生きて行くことを志向した継之助。 しかし、その先進的な考えは理解されず、
開戦へと突き進み、戦いのなかで落命して行くこととなります。



彼が目指したのは「庶民を豊かにすることで藩の財政を立て直す」という、
現代の日本人が聞いても羨ましい立派なものでした。

実際に、
代官の収賄禁止
100石以上の藩士の禄は減らし100石以下のものは増やす
水が腐ったような土地の免税
川の通船税取立て廃止
などを敢行。

そしてわずか1年で藩の余剰金9万9,000両を残すのです。



戊辰戦争での継之助は、講和派で、会津をかばい、最後まで戦争を避けようと
していた。 しかし、交渉は決裂し、長岡藩は奥州列藩同盟側として開戦を
決意する。 継之助は、長岡城の攻防で指揮官として采配を振るい、落城し、
敵に奪われた城を一度は奪還した。 だが、その時に膝に傷を受け、指揮を
取れなくなった。 体制を立て直すため、長岡軍は会津若松へと敗走するのだが、
彼は濃毒症を発症したと考えられ、只見に到着した時には、既に重体であった。

先に会津へ落ち延びていた藩主が派遣した幕府の医師の治療も受けたものの、
当時の技術では、銃創に対する適切な処置が出来ず、直接的な死因は、
破傷風だったと言われている。 42歳だった。

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長岡の陥落は7月29日。 川井継之助が只見に入ったのは8月5日。 逃れて
来たのは兵士ばかりではなかった。 町を焼かれた庶民も只見に押し寄せた。
8月1日から10日間ほどに、延べ1万5,000人の兵士や避難民が只見に滞在した。

避難民は土砂降りの中、八十里越を越えて来た。 只見をはじめ、伊南川
流域の村々に分宿し、60人ほどに班分けされ、徐々に会津若松に送り出されて
行った。 主に只見川沿いのルートをたどったらしい。

戊辰の当時、会津若松へ向かう兵士や避難民たちは、濁流渦巻く只見川を
恐れながら旅をしたことであろう。 この時の豪雨は、もうひとつの悲劇を
生んでいる。

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