植民地の経済は成長を続けたが、大半のフィリピン人は恩恵を受けなかった。
宣教師やスペイン当局者、それと少数の金持ちフィリピン人が土地の大半を
所有し、商業を支配した。 フィリピン人の大半は小作農で、高い地代を
払わされた。

フィリピン人の不満は深まり、いくつかの反乱が起きた。 ルソン島の
イロカノ族は、1807年、政府がワイン製造工場の支配を手にすると、反乱を
起こした。 1841年には多くのフィリピン人が、スペインの圧政に抗して
ルソン島で武装蜂起した。 アポロナリオ・デ・ラ・クルツの戦いに加わった。

19世紀を通じて、多数のフィリピン人グループが、経済改革や政治的自由を
求めて、スペインの指導者に圧力を掛けた。 だが、教育もなく、植民地行政に
直接その声を反映出来る手立てがなかったため、その努力は、ほとんど実らな
かった。

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【ホセ・リサール】
マニラおよびヨーロッパの大学で勉強したフィリピン人の小さなグループに、
ホセ・リサールがいた。 1800年代の終わりまでに、フィリピン独立のための
最も有名な指導者になった。 1891年、医者であり作家でもあったリサールは、
フィリピン連盟をつくった。 組織は、大農園での強制労働のようなスペインの
権力乱用を止めさせようとした。 連盟の目標は、自治国家をつくることに
あった。

リサールが組織の活動を始めると間もなく、スペイン当局はリサールを
ミンダナオ島に追放した。 リサールはフィリピン人の抵抗の象徴になると、
スペインは彼を処刑した。 リサールの指導を欠いて、フィリピン連盟も解散
した。

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