1500年代の初め、ヨーロッパの探検家たちははアジアの豊かな香料マーケットへの
近道を探していた。 ポルトガルで生まれで、スペインの旗の下に航海を
続けていた探検家、フェルディナンド・マゼランが東南アジアの水域に達した。
一行は現在のマレーシアとインドネシアまで来た。

【マゼラン上陸記念碑】
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1521年、第2回の遠征でマゼラン隊は、レイテ島の南の小さな島、ホモンホンに
達した。 近くのリマサワやセブに旅をし、マゼランは島民たちと友好的に
交流した。 地元民はヨーロッパ人を歓迎し、キリスト教を受け入れることに
同意した。

しかし、マゼランの会った人々が全て友好的だった訳ではない。 マクタン島の
支配者のラプラプはヨーロッパの様式を受け入れたり、ヨーロッパ人に支配される
ことを拒んだ。 マゼランはラプラプたちを征服しようとしたが、ラプラプの兵は
ヨーロッパ簡単に破ってしまった。 1521年4月27日、マゼランは戦闘で殺され、
生存者はフィリピンを離れ、西へ向かって世界周航の旅を続けた。

【ラプラプの像】
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この敗北にも関わらず、スペイン人は太平洋の探検を続けた。 1545年2月には、
ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスがミンダナオ島に上陸し、後援者フィリップ王子
(後の国王フィリップ2世)の名前をとって、島々をフィリピナスと名付けた。
ビリャロボスは島々に永久的な居留地をつくることでスペインの権利強化を望んだ
のである。

食糧不足や地元民の敵意などから、彼の計画は失敗した。 それにも関わらず、
スペイン人は最初の居留地をセブ島のサン・ミゲル(後のセブ市)に設立した。
1565年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピが更に発展させ、兵士400人と数人の
宣教師が住み着いた。

【マゼランクロス】
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【初期のスペイン支配】
住民たちは、ヨーロッパ人の支配に強い怒りを抱いたが、レガスピと軍隊は、
次第に島民たちをスペインの勢力下に置いて行った。 その後もスペインからは
兵士や宣教師たちが、相次いでやって来た。

宣教師の勧めで、島民たちの多くがキリスト教徒となった。 その中でイスラム
教徒は、兵士たちには最も征服するのが難しく、宣教師たちには改宗させるのが
難しいグループだった。 中でもミンダナオ島のイスラム教徒たちは、最後まで
スペインに屈しなかった。

1571年、レガスピと軍隊はマニラを占領した。 ルソン島のイスラム勢力は
少人数ながらスペインと戦ったが、結局敗れた。 ルソン島の山岳民族である
イゴロット族もスペインの勢力拡大に抵抗し、ヨーロッパ人を悩ませ続けた。

抵抗する島民の大半を抑えると、植民者たちは地域一帯を自分たちの主権拡大に
役立てた。 マニラを南アフリカから太平洋を通って銀を運ぶ船舶のための
重要な港にした。 中国の商人は、そこで磁器や絹、織物をスペイン人の
持っている金と交換した。 これら初期の植民者は、とうもろこしを紹介し、
米作地帯で灌漑システムを改善した以外には、フィリピン経済の発展に大した
ことをしなかった。

【セントニーニョ教会】

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【スペインによる占領】
スペインはフィリピンの支配にあたって、住民たちが用いていた機構を拡大する
ことにした。 政府の基本の単位は村、もしくは、バランガイで、村には住民たちの
非公式の集まりで選ばれたダトゥー(支配者)が居た。

ローマ・カトリックの僧侶たちは、宣教師として、また、植民地の行政の代表として
バランガイに住んだ。 住み着くことで、彼らはダトゥーの選出に強い影響力を
与えることが出来た。

このようなスペイン人宣教師によるフィリピンの間接支配が、成功しなかった地域も
ある。 ルソン島北部の支配者、ディエゴ・シランは1762年、スペインに反逆し、
ビガンに自らの政府をつくった。 南の島々のイスラム教徒たちは、スペインの
軍の前進基地を襲い、独立を達成した。

18世紀後半、スペインは多くの反乱グループに対し、再び武力を使った。
ヨーロッパ人はまた農業改革を進めた。 行政官は農民たちに、マニアアサ
(ロープを作る)や、茶、タバコなど輸出作物の栽培を進めた。 植民地政府は、
タバコの専売権を確立し、それは当局者たちに巨額の富をもたらした。

1800年代の初め、スペインはイギリスやアメリカ合衆国、フランス、その他の
国々の商人たちとの貿易のため、フィリピンを開いた。 サトウキビ、マニラアサ、
タバコが主な輸出品となって、フィリピンの経済発展に役立った。

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