17世紀の末、ヌーベルフランスの商人たちは、領土の南側にあるイギリス
植民地の商人たちと、毛皮交易の主導権をめぐって争っていた。 ハドソン湾
周辺の土地の領有権についても、イギリスとフランスの両勢力が対立していた。

1670年、イングランド王チャールズ2世により、ハドソン湾会社が設立された。
同社は、当時の情勢に不満を持つフランスの毛皮商人の助けを得て、ハドソン湾
沿岸の数地点に出先機関を設け、要塞を築いた。 ここで銃、ナイフ、調理道具と
毛皮が交換された。

多くの販路を持つハドソン湾会社は、インディアンや植民地の取引先に気に入られて
勢力を広げ、フランスにとっては交易の重要な収入源を断たれる脅威となった。
そのため、フランスが同社の出先機関を攻撃すると、イギリスも仕返しをした。
この争いは、数十年続き、この地域でのイギリス・フランス間の緊張は高まった。

1702年から1713年に掛けて、ヨーロッパでも両国間の運命を左右することに
なった。 この間、新世界では、イギリス・フランス両軍が戦った。
アン女王戦争と呼ばれるこの戦いは、1713年にユトレヒト条約が結ばれて
終結した。 同条約により、フランスは、ハドソン湾岸とアカディア
(後にノバスコシアと改名)、ニューファウンドランドを正式にイギリス領で
あると認めた。

FrenchandIndianWar

【フランスの最後の敗北】

こうしてイギリスがフランスの領土を獲得すると、そこへイギリスの交易商人や
開拓者たちが移住し始めた。 そのため、イギリス・フランス間の緊張は更に
高まり、1753年に北アメリカ大陸で両国の武力衝突が起きて、1756年には、
ヨーロッパにまで戦いが広がった。

この戦争でイギリス側では、植民地の民兵、および、イギリスと同盟を結んでいた
インディアン部族が戦い、フランス側にもインディアンの部族が付いた。 数の
上で優勢なイギリスは、北アメリカ大陸からフランス人を追い出すことを狙った。


イギリス軍は1759年にケベックを、1760年には、モントリオールを攻め取った。
1763年のパリ条約で、現在のカナダにおけるフランス領は全てイギリスに譲渡
された。

既にアカディアを統治していたイギリスは戦争の間、アカディア人を北アメリカの
各地へ強制的に移住された。 フランス人の子孫であるアカディア人が反イギリス
活動に出るのを防ぐためである。 その結果、多くのアカディア人は、アメリカ
合衆国に定住した。 戦争が終わるのを待って故郷に帰ったアカディア人も居たが、
自分たちの住居や農場や既に他の人々に奪われていた。

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