17世紀のヌーベルフランスの大問題は、入植者が集まらないことだった。 その地は
何度もイギリス軍やイロコイ族に襲撃されていたため、ヨーロッパ人が移民する
意欲を失っていたのである。 例えば、ケベック市の住民は、建設後20年経っても
100人足らずだった。

1627年にフランス政府は、『ヌーベルフランス会社』(百人会)をつくり、
新世界との交易を続けさせた。 設立許可書によると、同社はヌーベルフランスの
人口を毎年300人づつ増やすことが義務付けられていた。 ヌーベルフランスの南に
当たる領土(現在はアメリカ合衆国の一部)を占領していたイギリスとオランダの
入植者の数に比べれば、フランスが目標とする数はわずかなものだった。

1627年に、ヨーロッパでイギリス・フランス間の争いが始まると、イギリス軍は
北アメリカのフランス領を攻撃し、29年にはケベックを占領した。 32年に
結ばれた条約により、ケベックはフランスに返されたが、ヌーベルフランスの
情勢は相変わらず不安定だった。

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カナダ東部のフランス領は、元々ヘンリー・ハドソンが探検した土地だったため、
イギリスはその地域の領有権を主張した。 その上、フランス軍とイロコイ族の
間には衝突が繰り返されていた。 イロコイ族は毛皮交易を南部に移し、
オランダ人を相手に毛皮を火器などと交換することを望んだ。 イロコイ族は、
1651年には毛皮交易のインディアン側の主導権を握った。

1663年、フランス国王ルイ14世は、ヌーベルフランスに軍隊を派遣し、
イロコイ族の制圧と植民地経営の強化を図った。 イロコイ族の中には、争いに
嫌気が差し、やむなく平和条約を結ぶ者もあった。 ヌーベルフランスの人口は、
1679年にはほぼ1万人に達した。

フランスの毛皮交易の中心になっていたのは、『森を走る人』と呼ばれる若い
開拓者たちだった。 彼らは、危険を冒して未開の地に踏み入り、インディアンと
取引した。 この大胆な交易商人たちは、フランス政府の交易免許証を持って
いなかったが、インディアンの言葉と習慣に通じていたため、容易く毛皮を手に
入れることが出来たのである。

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