硫黄島は、太平洋上の小笠原諸島に浮かぶ島で、東京から南方におよそ1,200 kmに
位置する太平洋戦争(大東亜戦争)における最大の激戦地。

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かつては1,000人以上の島民が暮らしており、10以上の集落があり、硫黄の
採掘の他、漁業、綿の栽培、サトウキビ栽培、コカやデリス、レモングラス等の
栽培で発展した。

島内には、学校はもちろん、村役場や派出所、診療所、測候所それに郵便局もあり、
1907年(明治40年)には、それまで(明治28年~明治40年)内地からの定期船は年1回
だったものが年6回入港するようになり、4~5日間停泊するその船が島にやって
来ると人々は皆、海岸に集まり、その様子はお祭りのようだったとも言われている。

戦後、米国より施政権返還後は、海上自衛隊管理の硫黄島航空基地が設置され、
島内全域がその基地の敷地とされているため、原則として基地に勤務する自衛隊員
以外は島に立ち入ることが禁止されている。

【硫黄島の戦略的価値】
アメリカは、1944年にサイパン島を占領し、2,400キロ離れたその島からB29
爆撃機を飛ばして、日本の都市への爆撃をするようになる。 しかし、爆撃を
している最中に日本軍の攻撃を受けることも少なくなく、傷ついた機体で再び
2,400キロ飛行して基地に戻ることが難しいことも多かった。 結果として
数多くの機体が海に墜落し、搭乗員ごと失われた。
 
また、サイパンから往復5,000キロ近くもの距離を飛べる戦闘機も当時は存在せず、
爆撃機を守るために、戦闘機を同伴させることは出来なかった。 そのため、
爆撃機は、攻撃を受けて損害をなるべく出さないために高高度からの爆撃をする
ことが多く、正確な爆撃は難しかった。

また、高高度を飛行するとB29のエンジンでは燃料消費が激しくなるため、大量の
燃料を積み込む必要があった。 機体の積載量の問題から大量の燃料を積み込むと、
搭載する爆弾の量を減らさざるを得ない状況を招き、攻撃能力の低下を招いた。
そのような事情から、より日本本土に近い位置に飛行場を確保し、爆撃の効率を
上げたかった。 そうして選ばれたのが硫黄島だった。 

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1944年6月、大本営からある一人の将軍が派遣されて来た。 その将軍の名は、
栗林忠道(くりばやし ただみち)陸軍中将。 アメリカとカナダに駐在経験が
あり、アメリカ人の気質を知り尽くしていた数少ない陸軍将校の一人であった。

この硫黄島を死守するために島に着任した帝国陸軍小笠原兵団長の栗林忠道中将は、
地下陣地に立て籠もって地上のアメリカ軍を迎え撃つ作戦を立て、真夏の酷暑の
時期より全将兵あげての地下要塞づくりが始まった。 交代時間で間断なく24時間の
突貫工事が進められ、島の中央元山台地を主陣地、南端の摺鉢山を副陣地とする
全長18キロに及ぶ地下壕を建設して待ち受けた。

この要塞は地下15~20mの深さに造り、敵の海空からの砲爆撃に耐えうるものとし、
主要な坑道は高さ1m70、最大幅1m20程だった。 小さな日本兵が、やっと一人
通れるほどである。 また、主要路には、30mごとに地上への出入り口が造られた。



まともな飲料水もない太平洋の孤島に急遽送りこまれた22,000人の兵士は、余り
経験のない年配者と少年兵だった。 1945年2月から約1か月に及んだ硫黄島の
戦いは、旧日本兵約2万1,000人、米兵約7,000人が死亡したとされ、太平洋戦争に
おいて、その後の戦況を決定付けた戦闘となっている。

1945年(昭和20年)2月19日午前9時、アメリカ軍は海兵三個師団6万1,000、
艦船800隻の大兵力を繰り出して大挙硫黄島へ押し寄せた。 当初、大本営は
硫黄島の価値を重視し、それゆえに2万の兵力を投入したはずだった。 それが、
まさに米軍上陸近しという時期になって、一転『価値なし』と切り捨てられた
のである。

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戦後、硫黄島の戦いによる日本人戦没者の遺骨を収容、本土へ帰還させる課題が
未だ残されているが、本土へ帰還した遺骨は現時点で約8千柱で、1万3千柱余りの
遺骨は未だ硫黄島内地下に埋もれ残されたままである。

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