エストニアとラトビアは、中世を通じて、数世紀に渡ってドイツ騎士団やその他の
勢力の支配下にあった。 それに対してリトアニアは、14世紀の半ばリトアニア
大公の下に大公国を形成し、その公国は、バルト海からモスクワ、そして、一時は、
黒海沿岸にまで広がっていた。

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1386年に行われた大公の孫ヨガイラとポーランド女王ヘドヴィクの結婚は、大きな
影響をもたらした。 大公家と共にリトアニア国民もカトリック教徒となり、この時
成立したリトアニアとポーランドの連合は、その後400年以上も続いた。 数世紀に
渡り、リトアニア地方は、ポーランドの一州となり、そのして、1795年に第三次
ポーランド分割の後、ロシアの支配を受けることとなった。

第一次世界大戦中、リトアニアは、ドイツ軍に占領されたが、1918年に共和国
として独立した。 その後、ベラルーシとリトアニアの地域に社会主義ソビエト
共和国が成立したが、ピルスドスキ率いるポーランド軍が、赤軍をリトアニアの
首都であるビリニュスとその周辺から駆逐した。 この歴史的な街は、その後、
数々の戦いが繰り返されつつも、1939年までポーランドの支配下に留まった。

1939年の独ソ不可侵条約における秘密議定書に基づいて、ソ連軍は、リトアニアに
駐屯し、リトアニア政府の組織を手助けした。 そして、1940年、リトアニアは
連邦構成共和国となった。

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【大衆の力で勝ち取ったソ連からの解放】
 ペレストロイカ政策時代、民族自立への歩みを進めるにあたって、この国は、
非常に好条件に恵まれていた。 それには、多数民族の割合が高いことも
大きく起因している。 1988年10月、リトアニアの人民戦線『サユジス』
(ペレストロイカを支持する運動)が創設された。 彼らは当初、ソ連からの
分離独立を目指していた訳ではなかった。 むしろ、その目標は、リトアニア
文化とロシア文化を対等なものとして取り扱い、2ヶ国語の使用を認めることと、
経済的な自立を促進することであった。

サユジスは、それによって多くの国民の支持を得た。 1987年8月23日に起きた、
ヒトラー・スターリン協定に抗議するデモは、非常に小さな一群によって行われた
のであったが、それがその後1年程の期間を経るうちに、20万人から30万人もの
人々が参加する大衆デモへと成長して行った。 独立への気運はますます高まり、
1990年3月リトアニアは独立宣言を行った。

リトアニアの連邦離脱宣言に対し、ゴルバチョフは、初め戸惑いを見せていたが、
その後、資源輸出の停止という対抗処置を取った。 1990年7月、モスクワ政府との
交渉の間、リトアニアは独立宣言を一旦引き下げ、それによって経済制裁は停止
された。 モスクワにおけるクーデターの失敗後の1991年9月6日、ソビエト国家
評議会によって、リトアニアの独立は遂に承認された。

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