エンリケ探検チームが編成しつつある頃、ヨーロッパとアジアの貿易を
牛耳っているのは、アラブ人やイタリア人だった。 アラブ人がアジアの
品物を集め、それをイタリア人がヨーロッパへ転売する専売権を持っていた。
エンリケは、そうした独裁体制を打破出来ると見て、ポルトガルからアフリカ
大陸を回って遠くインド、アジアに足を伸ばせば良いと考えた。

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1460年、エンリケは死んだが、ポルトガル人の航海熱はさめず、1488年、
バルトロミュ・ディオスがアフリカ大陸の最南端、喜望峰を回ってインド洋に
出た。 その10年後、ディアスの仲間であったバスコ・ダ・ガマがインド大陸に
到達、その航海費用の60倍にも値する船荷を積んでポルトガルに戻った。
その後は、アラブ人やイタリア人が仲介せずに、アジアの宝石類や貴重な
香料が直接手に入るようになった。

16世紀になると、ポルトガルはヨーロッパの中の主要な貿易国となり、海軍力も
つけたが、隣国のスペインもヨーロッパの人たちが新世界と呼ぶ西半球へ征服の
航海に乗り出した。 そこで、利害の衝突を避けるため、ローマ法王アレキサンダー
6世は、新領土を2つのローマ・カトリック国間で分割する協定を作った。

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1500年、強風でペドロ・アルバレス・カブラルの乗った船が航海を外れ、
カブラルは南米のブラジルに上陸、法王の作った協定に従って、ブラジルは
ポルトガルの領土と認められ、残りの南米大陸はスペインのものとなった。

アジアでは探検家、アルフォンソ・デ・アルブケルケがポルトガルの権益を広げ、
1510年にインド西岸の貿易拠点、ゴアを占領、そこをアジアにおける、
ポルトガルの通商、および、宣教の本拠地にした。 更に1511年、
アルブケルケは、マレー半島の主要貿易港、マラッカも占領してしまった。
貿易協定によって、アジアの品物はポルトガルに売られ、そこからヨーロッパ
各地に転売されて行った。

貿易のお陰で、ポルトガルの諸王は、懐が豊かになり、アジアからの貴重な香料、
絹、アフリカからは金やコショウ、それに労働力としての人間が運ばれて来た。

アフリカ大陸の西および南岸いったいには、ポルトガルの植民地が出来、
アフリカからの労働力は、ブラジルまで運ばれ、砂糖きびやコーヒーの栽培を
はじめたポルトガル人入植者たちはに使われた。 ポルトガルは、本国には
ワイン、オリーブ油、コルク、魚ぐらいしか売るものがなく、収入の大半は
海外の植民地から吸い上げていたのである。

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