残る14世紀の発展は、カスティーヤ王国との戦いが何度かあって、中断の憂き目に
あった。 やがて、ガリシア、アラゴン、ナバラという新しい王国が、現在の
スペインの中に形成されたが、カスティーヤ王国は、ずば抜けて大きく、強力な
権力もあった。

1383年、アルフォンソ王朝最後の王、フェルディナンド1世が死ぬと、夫人が後を
継いだ。 夫人は、カスティーヤ王国のもとに嫁いでいる自分の娘に子供が出来る
まで統治を続ける意向だった。 しかし、人望のある南部の地主で、アビス騎士団の
団長でもあるジョアンに反対され、ジョアンは強力な軍を使ってフェルディナンド
女王を追放してしまった。

これに呼応して、カスティーヤ王国も王位を狙ってポルトガルに軍隊を差し
向けたが、結局1385年、ジョアンがコルテスでポルトガルの王に選出された。

ポルトガルにとって、主要な貿易相手国であるイギリスは、このアビス王家を支援、
1386年、両国間の永久同盟を内容とするウィンザー条約が実現した。 この
条約は、その後1387年に、ジョアン王がイギリスのフィリッパ妃と結婚する
ことによって、一層堅固なものとなった。

20160714

【航海王子エンリケ】

ジョアンとフィリッパとの間には5人の息子が出来、長男ヂュアルテが王位を継承、
弟たちのうち、次男はアビス騎士団長を継いだ。 3男は広くアジア、アフリカへ
航海に出掛け、4男はムーア人の牢の中で死んだ。

このうち、最も有名なのが、航海に出掛けたエンリケ。 科学と探検を大いに
奨励し、航海王子として名声を高めた。

若い時、エンリケは1415年のセウタ攻略でその猛勇ぶりを見せ、ムーア人の要塞で
北アフリカの貿易中心地でもあったセウタを占領した。 その後引退して、
ポルトガル南西のサグレスに引っ込んだ。 エンリケは経験、知識に富んだ航海士や
地図の専門家、数学者などを王室に連れて来て、航海学の向上を図った。
エンリケはまた、自分の収入を増やすためにも海洋を利用しようと考えたのである。

エンリケの兄のポルトガル国王は、セウタ攻略での功績を称えてアルガルベ地方
からの収入を彼に与えた。 これらの資金を基にして、エンリケ王子は航海学校を
運営した。 また、兄弟の中には、エンリケ王子以外にも広く航海に出て行った
者もいて、それがまたエンリケ自身にとっての励みにもなった。

ポルトガルの船乗りたちはリスボンやサグレスから出掛け、まず1419年に
マディラ、1427年にアゾレス諸島にそれぞれ上陸した。 また、船乗りたちは、
アフリカ大陸のガンビア川とセネガル川を探検、こうした航海によって、
ポルトガル人は世界地理への知識を広め、金や塩を手に入れ、そしてアフリカの
人たちを労働力として確保するようになって行った。

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