ヤン・フス の出現以来、プロテスタント信仰はスロバキア貴族の間に広まった。
17世紀始めに、ハンガリーやスロバキアのプロテスタントは、強固なカトリックで
あるハプスブルグの支配に対抗した。

1618年、ボヘミアの首都プラハでハプスブルグに対する反乱が起こり、
ヨーロッパのカトリック諸国とプロテスタント諸国の争いである三十年戦争
(1618~1640年)が始まった。

戦争中、トランシルバニアの支配者で、プロテスタントのガボール・ベトレンは、
スロバキアのハプスブルグ家に反抗した。 1620年、ベトレンは、ハンガリー
議会によって王国に選ばれたが、翌年、その称号を捨て、ハプスブルグと
和解した。 ハプスブルグ支配下で、大勢のハンガリー貴族は改宗して、
カトリックに戻った。

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三十年戦争の終わりに結ばれたウェストファリア条約で、ハンガリー議会は
権力を排除され、ハプスブルグはスロバキア支配を回復した。 17世紀の
終わり、ハプスブルグ軍は、ハプスブルグ帝国の首都ウィーンでトルコ軍を
破った。 この勝利は、ハンガリーをトルコの支配から解放したが、同時に
スロバキアでのハプスブルグ支配を強めた。 オーストリアの言語である
ドイツ語スロバキアの教育、行政の公用語となり、スロバキア語は死語も
同然となった。

同時に、ハプスブルグは、領地内の全てのプロテスタント宗派を禁止した。
1703年に、ハンガリー人とスロバキア人は、ハプスブルグ支配に激しく抵抗し、
反乱を起こした。 反乱は鎮圧されたが、ハプスブルグはブラチスラバで、
ハンガリー議会を開くことを許可した。 1711年にハプスブルグは、トルコに
征服されて失っていたハンガリー王国の国境線を回復した。

だが、相変わらず、スロバキア人の大部分は貧困にあえぎ、ハプスブルグからの
宗教的迫害を受けていた。 政治的権利は何もないのに、スロバキア人は
税金を徴収され、兵役に就き、地主のために働くことを要求された。 こうした
抑圧はやがて、スロバキア人がハプスブルグ領内で、自治を要求する動きに
繋がった。

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