18世紀末、ブルガリア民族主義が復活して来た。 新しく学校が建てられ、
そこでは教師たちがブルガリア語を使って国の古い民謡や抒情詩を通じて
歴史を教えるようになった。 歴史に関する著作がいくつも発表され、
ブルガリア人の民族意識が高まった。

マケドニア生まれのパイシー神父は『スラブ・ブルガリア史』を著して、
トルコ支配に対する民族意識を目覚めさせた。 この頃、ロシア帝国は領土を
南のバルカン半島へ広げようとしていた。 ロシア人は、黒海地域の港と
貿易を支配して、ロシアの広大な平野をエーゲ海や地中海と結ぼうと考えていた。
ロシア皇帝は、ギリシャ正教を信じるロシア人の指導者として、トルコに圧力を
掛け、ブルガリア人の宗教と政治上の自由を広げるように迫った。

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トルコは、広大な領土を支配するのに疲れて弱体化し、支配下にあったギリシャや
ルーマニアが次々と反乱を起こした。 独立運動の闘士ゲオルギ・ラコフスキーは、
セルビアとルーマニアでゲリラ組織を訓練し、バルカン山脈を横断して反乱の
火の手を上げた。 ヴァシル・レフスキーは、ブルガリアの農村地帯に入って
革命家たちの地下組織をつくり上げた。

反乱は最初は失敗を続け、ラコフスキーは、1867年に死に、レフスキーは捕ら
われて1873年に処刑された。 3年後、反乱は残酷に鎮圧された。 1877年、
ロシア皇帝は、ブルガリア人の要請に応じてトルコに宣戦し、ロシア軍はバルカン
半島に侵入した。 ブルガリアとロシアの両軍は、トルコ軍と激突して、勝利を
重ねた。

1878年、トルコはサン・ステファノ条約に調印した。 この条約によって、
トルコはバルカン半島の領土を全て奪われ、ブルガリアは、トラキアと
マケドニアを領域に加えることになった。 しかし、ヨーロッパの多くの国々は、
オスマン・トルコ帝国の没落は、ロシアのバルカン支配に通じると考えた。

3ヵ月後、ベルリン会議が開かれて、ヨーロッパ列強は、ブルガリアに強制して、
トラキアとマケドニアをトルコに返還させた。 ブルガリアは北部だけ独立を
認められたが、東部は東ルメリアという名称で、トルコ支配下の半独立国と
なった。

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