バルカン諸国を含む、東地中海沿岸領域の大部分を征服したオスマン・トルコは、
ブルガリア経済を支配した。 肥沃な渓谷には、トルコの農民たちが定住し、
ブルガリア人の大部分は、山岳地帯に避難した。 トルコのスルタン(皇帝)は
残った住民やボヤールに重い税金を課した。

トルコ人は、イスラム教徒なので、キリスト教の教会を次々に回教寺院に改造した。
トルコ人の直接支配に入ったブルガリア人の一部は、イスラム教に改宗した。
改宗者は、税金を免除され、一部の人々は、トルコの政権内で、重要な地位に
就いた。 しかし、改宗しない人々は虐待され、その多くが処刑された。

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1453年オスマン・トルコはコンスタンティノープルを占拠し、ビザンチン帝国は
崩壊した。 トルコ統治下の州の太守は、ベイと呼ばれたが、ベイの中のベイと
呼ばれる総支配者がソフィアに本部を置き、各州の太守に命令を発して、金や
食物や兵士を帝国に貢納させた。 ブルガリアの農民からは、更に多くの土地が
奪われ、トルコ軍隊への参加が強制された。

反乱が何度も起こったが、全て失敗した。 多くの人々は、トルコの支配を逃れる
ために、ギリシャ正教の修道院に逃げ込み、何世紀にも渡って、ブルガリアの
言語と文化は、ギリシャ正教の修道院の中にだけ生き残った。

15世紀から16世紀に掛けて都市は衰退し、農地は荒廃した。 捨てられた農地を
トルコの農民たちが手に入れて、収穫物をトルコ政府に売り渡した。

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17世紀になると、トルコ政府は、ブルガリアの統治をやりやすくするために、
ギリシャ人とブルガリア人を融合させようとした。 ギリシャ正教の教会は、
ブルガリアの教育制度の管理を許され、一時的には、学校や教会では、ブルガリア語
に代って、ギリシャ語が用いられた。 しかし、18世紀になって、ブルガリア文化が
復活すると、この政策は破綻した。

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