1988年、ワレサは、グダニスクで、更に抗議行動を組織した。 経済問題の
急激な悪化に直面した政府は『連帯』を合法化し、共産党の一党支配を終わら
せることを約束した。 1989年6月、非共産党員の候補者たち、その多くは、
『連帯』のメンバーが選挙に当選して、国会議員となった。 続いて国会は、
ヤルゼルスキを大統領に選出し、タデウシ・マゾヴィエツキを党首に選んだ。
マゾヴィエツキは『連帯』の指導者だったが、共産党と、それ以外のいくつかの
政党を含む連立内閣を組織した。

1990年1月、ポーランド共産党の指導者たちは、共産党の名称を改めて、ポーランド
共和国社会民党と名乗った。 共産党の財産の大部分は、新しい政権に移譲され、
政府は物価と賃金を自由化すると共に、マスコミに対する全ての規制を廃止した。
政府はまた、国営企業を民間の投資家に売却し始めた。 これは、企業の民営化と
呼ばれた。 ヨーロッパの中部かと東部の諸国が、次々と共産主義から離れて行く
過程で、民主化されたばかりのポーランドの企業は、西ヨーロッパでの事業を
開始した。

1990年秋、ワレサが大統領選への出馬を表明すると、ヤルゼルスキは、大統領を
辞任した。 選挙はワレサ、マゾヴィエツキ、ティミニスキの三つ巴の争いと
なった。 ティミニスキは、ポーランド生まれのカナダの実業家である。 1990年
12月、ワレサがこの選挙に勝利をおさめると、マゾヴィエツキは首相を辞任した。
ポーランド農民党の指導者ヴァルデマル・パヴラクが、1993年首相に就任した。

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1990年代初期を通じて、中央統制経済から、自由市場システムへの移行に伴う、
深刻な問題がいくつか表れた。 生産量の減少、物価の上昇、失業などである。
しかし、政府の施策は、外国の投資を誘導したり、国営資産を売却したりする
点で成功をおさめている。

西ヨーロッパ諸国との活発的な貿易によって、経済システムの移行は促進され、
食料と衣類の欠乏は終わりを告げた。 民主的な政府と、経済の改善の
もたらした利益のお陰で、ポーランドの人たちは現在では、生活の一層の向上を
期待出来るようになった。

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