1993年当時、カザフスタンの首都であった、アルマ・アタ(現在の首都は
アスタナ)は、『緑の街』の別名を持っている通り、緑豊かな中央アジアの
大都市で、旧ソ連邦の中では、かなり南に位置しているため、果物や野菜も
豊富だった。 当時のノボシビルスクは、ロシア第3の都市とは言うものの、
外国から最も遠い位置にあるため、ロシア国内でも物資が最も足りていない
場所であった。

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カザフスタンにあって、ロシアにはないものを挙げるとすると、馬乳酒の
クムイスと餃子のお化けのような食べ物マンティを思い浮かべることが出来る。
クムイスは、若干すっぱく、少々癖のある味で、かなり苦手な味がしたため
それ以来、一切飲んではいない。

マンティは、時々、カザフ人の友人宅でご馳走になっていたので、結構馴染みが
あった。 旧ソ連の中では南国の部類に入るのだが、実際の緯度は札幌と同じ
程度であるため、冬はかなり寒い。
 
実は、このアルマ・アタ滞在中に、天山山脈を越えて、中国のウルムチへ行き
たかったのだが、残念ながら、ロシア側の学生ビザが下りなかったため、断念
した。 後日ドイツのベルリンにも行こうとしたのだが、こちらも許可され
なかった。 許可が下りなかった理由は、『学生には必要ないから』という、
非常に理不尽なものであった。

当時のロシアのビザには、写真2枚が必要で、そのうち、一枚は、ロシア入国時に
提出させられ、ビザの中には、滞在都市の記載があったのだが、そこに記載されて
ある都市以外へ行くことは当時は禁止されていた。 よって、このアルマ・
アタへの旅行は、ロシアの出入国と滞在都市以外へ行ったという、2重のリスクを
犯しての旅であった。

但し、電車に乗る際に、たまたま駅で出会ったカザフ人の友人の知り合いが
一緒の電車に乗ることになったため、万事事なきを得たが、周囲が全員カザフ語で
喋っていたため、全く気付かなかったのだが、実際には、車掌に何度もお金を
要求されたとその知り合いから教えて貰った。

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ビザが下りなかったため、ウルムチに行くのは諦めたが、せめて、キルギスの
首都であるビシケク(ソ連時代はフルンゼという名前だった)にだけは行きた
かったのだが、時間的にこちらも無理だった。 その後、キルギスの担当をして
いたため、毎日キルギスには電話をしていたが、今でもキルギスには行った
ことがない。

尚、アルマ・アタからは、天山山脈がハッキリと肉眼でも見えており、その山脈を
越えると、そこは中国の新疆ウイグル自治区となっている。 カザフスタンの北の
端には、世界最大の核実験場であったセミパラチンスクが、また、この新疆ウイグル
自治区も中国の核実験場として有名な場所となっている。

ソ連崩壊とは何だったのか? その①
ソ連崩壊とは何だったのか? その②

ソ連崩壊とは何だったのか? その③
ソ連崩壊とは何だったのか? その④
ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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