ソ連崩壊直後の93年4月から、ロシア第3の都市、ノボシビルスクに留学する
ことになった。 これは、90年から始まった、札幌とノボシビルスクの姉妹都市
締結を記念して開催された、コム博が切っ掛けではあったが、実際は、全て
自分から持ち掛けた話であるため、大学にも札幌市にも一切関係がない話であった。
 
93年当時のノボシビルスクには、全部で7人程度の日本人しか住んではいなかった。
しかも、そのほぼ全てが札幌からの関係者ばかりであった。 当時、ノボシビルスク
大学には、過去においても、日本人が入学したことがなかったことから、私が
ノボシビスルク大学に正式に入学した日本人第一号となった。
 
93年当時のロシアは、91年の12月末にソ連が崩壊したばかりで、まだ崩壊から
1年程度という状況もあり、混迷を極めていた。 ソ連の崩壊と言うとあまりピンと
来ない人が多いのだが、実際には、国がなくなった訳で、国を司っていた法律も
全てなくなった。 よって、ソ連末期の頃から既に治安が悪化していたのだが、更に
状況が悪化し、世界一治安が悪い国とまで呼ばれるに至った。

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その状況たるや、目を覆うばかりで、車が信号で止まると、ジプシーが列挙して
車に襲い掛かり、部品を丸ごと持って行くだとか、これを同じく、信号待ち
していた人がジプシーに身包みはがれただとか、男でもトイレの中で犯された
だとかはまだましな方で、至るところで犯罪、殺人、自殺等の社会不和が一気に
表面化し始めた。 昼間でもひとりで道を歩くには危険と言われたが、日が暮れて
から外出するのは、正に命懸けであったため、常に何らかの武器を携帯しなければ
犬死も同じ時代であった。
 
それと同時に、ハイパーインフレが始まり、ロシア・ルーブルは、連日米ドルに
対して、20ドルづつ暴落していたため、商店に並んでいた商品の価格は、朝と
夕方とでは大幅に異なっていた。 尚、ノボシビルスク大学にあるのは、学術
研究都市である、アカデム・ゴロドクにあるため、当時のロシアの中では、比較的
治安が良い場所ではあったものの、いかんせん、研究都市であったため、市場や
スーパーというものがなく、週に1度、約1時間ほど掛けて、路線タクシーと
地下鉄を乗り継いで、ノボシビルスク中心部にある市場へと食料の買出しに行か
なければならなかった。 その当時、猫を飼っていたのだが、当時の
ノボシビルスクには、キャットフードなどという贅沢品は一切置いてはおらず、
週に1度、魚を買いにはるばる市場へと通った。
 
尚、93年には、モスクワで反エリツィン派による政治クーデータが起こり、国の
機能が一時麻痺した。 テレビ局も全て機能がストップし、全てのテレビ局が
同じ放送内容ばかりを流した。 恐らく、ロシアの歴史の中でも、この93年
前後が最も厳しい時期で、食料や燃料が不足し、正に地獄の底であった。 この
当時、アエロフロートの国内便は、燃料不足により、数ヶ月間全便結構していた
ため、ノボシビルスクへの移動は、ハバロフスクから丸4日掛けて、シベリア
鉄道で移動した。 当時は、ロシアの学生証を所持していたため、丸4日間電車に
乗っても料金は日本円に換算して、400円であった。

当時飛んでいなかったハバロフスク→ノボシビルスクの飛行機のチケットは、
180ドルであった。

ソ連崩壊とは何だったのか? その①
ソ連崩壊とは何だったのか? その②
ソ連崩壊とは何だったのか? その④
ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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