世界の2大超大国であったソビエト社会主義共和国連邦(CCCP)は、1991年12月
25日に崩壊した。 1991年の夏にモスクワで軍事クーデーターが起こり、当時
ソ連大統領であったゴルバチョフ氏が軟禁され、それを助け出した元ロシア大統領の
エリツィン氏への権力の移行が鮮明となった。 この時点では、まだソ連は崩壊
などしないだろうと思われていたものの、その後、バルト3国で始まった独立運動に
より、バルト3国はソ連からの独立を勝ち取った。

そこから遅れて、今度は、エリツィン氏が率いるロシアが独立を主張し始め、同じ
スラブ民族の国である、ウクライナとベロロシア(独立後にベラルーシへと改名)
を誘い、スラブ3国はソ連から独立すると明言し、その後、その他のソ連加盟国が
次々と独立を宣言したため、ソ連は崩壊した。

ソ連消滅s

そもそも、ソ連とはどういう国だったのか? ソ連は、世界で初めて、社会主義
革命によって誕生した社会主義の国であった。 社会主義とは、一言で分かり
やすく言うと、国民全員が国家公務員ということ。 貧富の差もなく、福祉が
充実し、理論上は楽園だったが、スターリンの時代から、恐怖支配が横行し、
個人の自由を許さない全体主義へと変貌した。 極端な例では、ドイツ語の辞書を
所持していただけで、スパイ容疑を掛けられて、シベリアへ追放された例もある。
 
社会主義では、資本主義とは異なり、国が一括して生産管理を行うため、物不足が
頻繁に起きた。 私がソ連時代のモスクワに留学をしていたのは、89年~90年に
掛けてだったため、正にソ連時代の末期であった。 当時は、深刻な物不足であった
ため、お金だけでは物資を購入することが出来ず、お金の他にクーポン券が必要
だった。

外国人の場合、当時は外貨ショップがあったため、多少値段が高くとも、そこである
程度の品物は購入出来たが、当時、一般市民が外貨を所持することは、不法投棄と
みなされ、逮捕の対象となった。 売春はソ連には存在しないことになっていた
ため、それを取り締まる法律がなく、野放しであった。
 
ソ連末期の時代は、厳格な言語統制を敷いていたため、ソ連の政治批判はタブーで、
壁にマイクが仕掛けてあるので、ロシア語でソ連の批判はしないようにと常々
言われた。 それを改革したのが、当時の大統領であった、ゴルバチョフ氏だった
のだが、余りにも急激に色々な改革を進めてしまったために、一気に箍が外れ、
歯止めが掛からなくなった。 それまでは、モスクワでも女性が夜に1人で歩いて
いても大丈夫だったのだが、ゴルバチョフ以降は、一気に治安が悪化し、殺人、
犯罪が一気に明るみに出るようになった。

ソ連末期は、至るところで行列が出来、生活物資を確保するのも大変であった。
当時、ようやくスーパーマーケット方式の店が登場したばかりだったが、
それまでは、店員に一々何が欲しいのかを伝え、それを伝票に書いて貰い、更に
それをレジで清算してから、再度その店員のところへ戻って、品物を受け取る
という方式であったため、ロシア語が喋れないことは、ほぼ死を意味した。
店員様が神様の国であったため、店員に気に入られない場合は、当然、物は
売っては貰えなった。 品物が売れようが売れまいが、店員の給与は一切変わら
ないため、閉店時間の30分前には客を店内に入れないようにして、掃除を始め、
定時キッカリには、全員が帰宅するというシステムだった。 これは、今でも
さほど変わってはいない。
 
店が繁盛しようがしまいが、一切何も変わらないため、むしろ、客が来ると面倒な
仕事が増えるという理由から、食堂などでは、わざと髪の毛を入れたり、ハエを
入れたり、ゴキブリを入れたり、挙句の果てには、国から配給された筈の肉を勝手に
持ち帰ってしまうために、勝手にネズミの肉を客に出したりと、労働生産性が一切
報われない社会の悪い面ばかりが目立つようになった。 市民の間では、外の食堂や
レストランでは絶対に食事をしないようにという噂が広まり、外食をしているのは、
外国人だけという時期もあった。

ソ連崩壊とは何だったのか? その②
ソ連崩壊とは何だったのか? その③
ソ連崩壊とは何だったのか? その④
ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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