宗教や権力の対立に明け暮れて、ボヘミアの国力が衰弱していた時期、中央
ヨーロッパは外国からの侵略の脅威にさらされていた。 オスマン・トルコが、
1500年代はじめに小アジア(現在のトルコ)からヨーロッパに侵入して来た。

ハンガリーとボヘミア王国を兼ねたラヨシュは、1526年にトルコ戦で死んだ。
領主、聖職者、商工業者で構成されたボヘミア議会は、トルコからの侵略に備えて、
ラヨシュと婚姻関係にある強力なハプスブルグ家のフェルディナンドをボヘミア
国王として承認した。 これが、ハプスブルグのボヘミア王国支配の始まりである。

その頃、宗教上の対立がドイツのウィッテンベルグで始まっていた。 マルティン・
ルターがローマ・カトリック教会の腐敗に抗議し、教会は、彼を追放した。
ボヘミアのチェコ人、ドイツ人もルターの改革に賛成したが、カトリックに忠実な
フェルディナンドは宗教改革に反対し、1547年にチェコ人のプロテスタント反乱を
鎮圧した。 ハプスブルグのボヘミア王国支配は、20世紀まで続いた。

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【ハプスブルグの政治と三十年戦争】
神聖ローマ帝国を継承するハプスブルグ家は、帝国の首都オーストリアのウィーン
からボヘミア王国を支配した。 ボヘミア領は、豊かな土地と天然資源を持って
いたので、ハプスブルグ領地の中で、最も価値の高い地方と見なされていた。
ボヘミア領に居るドイツ系のカトリック教徒は、ハプスブルグに忠実であったが、
領主、聖職者、都市の商工業者で構成されたボヘミア議会は、ハプスブルグ統治に
反対した。

ハプスブルグ家は、プロテスタントに信仰の自由を認めたが、カトリックと
プロテスタントの対立はおさまらなかった。 カトリックの戒律を厳しく守る
フェルディナンド2世が、1617年にハプスブルグ王家を継いだ。
フェルディナンドは、プロテスタントを領地から一掃しようと決心した。

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1618年、それに講義してチェコ人貴族の一段が、フェルディナンド2世の3人の国王
参議官をプラハ城の窓から突き落とした。 参議官たちは、命拾いしたが、
チェコ人の反乱が始まった。 議会は、国内からプロテスタントの国王を選び、
ハプスブルグに対抗する援軍をプロテスタント諸国に要請した。

しかし、1620年11月、ハプスブルグ軍は、ビラー・ホラ(白い山の意味)の決戦で
チェコ軍を破った。 決戦の後、ほとんどのチェコ人反乱貴族は、ボヘミアから
追放された。 ビラー・ホラの決戦の後、ヨーロッパのカトリックと
プロテスタントの国々の間で三十年戦争が始まった。 ハプスブルグ軍に対抗して、
ドイツ、デンマーク、スウェーデンからプロテスタント軍がボヘミアに侵入した。
相次ぐ戦争で飢餓が襲い、ボヘミアの都市、街、農村は根こそぎ破壊された。
フェルディナンドは、チェコ人のプロテスタントを国外へ追放し、ボヘミア
議会の立法権、法の執行権を剥奪した。

1648年、ウェストファリアの平和条約で戦争は終わった。 条約により、ボヘミア
王国領ボヘミアとモラビアは、ハプスブルグ支配下に留まった。 追放された
チェコ人貴族の領地は、領地の農民ごと没収されて、新領主となったドイツ人
カトリック教徒の手に渡った。 ハプスブルグはチェコ語での教育や出版を禁止し、
ドイツ語が政治、教育の公用語となった。

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