西暦800年頃から、スウェーデン人ヴァイキングの艦隊は、東方のカレリア地方へ
遠征する時、途中のフィンランド本土にもやって来た。 862年にヴァイキングは、
後のロシア領ノヴゴロドとキエフの両市を交易の拠点にした。

この商業を通じてカレリア人は、遥か南の、今のトルコにあったビザンチン帝国と
往来した。 カレリア社会は、ビザンチン文化の影響を受けた。 例えば、数世紀に
キリスト教がフィンランドに伝えられた時、カレリア人は、ビザンチン帝国と同じ
正教派を採用した。

西方では、12世紀までに王国を築いたスウェーデンの商人達が、スカンジナビア
文化の影響をスオマライセット人とハマライセット人の慣習に与えて行った。
この時期のフィンランドは、統一を欠き、主な3つのグループが互いに戦って
いたため、スウェーデンの結束した力に対抗する事が出来なかった。

swedishlands

【スウェーデンの支配】

1155年にスウェーデンのエーリック国王は、多神教だったフィンランド人にローマ
カトリックの進行を押し付けた。 また、フィンランド人によるスウェーデン沿岸の
侵攻を止めさせようとした。 この2つの目的を達成するため、エーリック国王は、
フィンランド南西部を征服した。 また、トゥルク(スウェーデン語ではオーボー)
に伝道教区を設立し、イギリス出身のスウェーデンのウプサラ司教へンリーを
責任者とした。

13世紀には、スウェーデン人貴族のビルイェル・ヤールは、サルパウスセルカ丘陵の
戦略地点に、ハメーンリンナ城を築いた。 ここは東西の交易路の中心地だった。
スウェーデン人が東部フィンランドに支配を広げて行くと、当時既にノヴゴロド
(現ロシア)を統治し、カレリア地方の領土権を主張するロシア人の反撃にあった。
ロシア人は、フィンランドで正教の勢力を広めようとしていた。

1323年、スウェーデンとロシアは、フィンランドを東西に分割するパハキナサーリ
(現ロシア領ペトロクレポスト)条約に調印した。 スウェーデンは、カレリア
地方の東部をロシアに割譲したが、両国の戦争は1351年まで続いた。 この年、
両国は、スウェーデンにその後2世紀間のフィンランド支配を許す新条約を結んだ。

平和な時代が来ると、多くのスウェーデン人は、フィンランドの西と南の海岸地帯に
移住し、自国の法律、行政の制度をフィンランドに導入した。 トゥルクが
フィンランドの中心地になり、スウェーデン語が特に農民、地方官吏、富裕層の
間で話されるようになった。

1300年代には、スウェーデン国王は、世襲制から議会による選出に変わっていた。
1362年にスウェーデンはフィンランドに、議会に代表を送る権利を与えた。 この
恩典は、スウェーデン政府がフィンランドを、海外領土ではなく、国内の一地方と
考えていたことを意味した。

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