17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、
ウィーンの東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲したので、
ハプスブルグ家の皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、オーストリア、
ドイツ、ポーランドの連合軍は、ウィーン周辺からトルコ軍を駆逐した。
これ以後、オーストリアは、ハンガリーなど東南ヨーロッパのトルコ領を
次々と手中に収めた。

オーストリア系ハプスブルグ家の繁栄にひきかえ、スペイン系ハプスブルグ家は、
まさに血統が絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫をスペインの
王位にすえようとしたため、オーストリアとフランスの間に戦争が始まった。
スペイン継承戦争と呼ばれるこの戦争は、1713年に終わったが、その結果、
オーストリアは、ネーデルランドなどを勝ち取った。

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フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を消耗させた。
その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と経済的弱体化が著し
かった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、カールは、それをうまく
支配出来ず、各州の議会は、しばしばカールの意思に反抗し、ハンガリーと
ベーメンの自治を求める動きは、彼の権威を損ねた。

カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機にさらされた。
カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘マリア・テレジアをハプスブルグ家の
後継ぎと宣言した。 1740年にカールが死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き
継いだ。 その直後、ドイツ北部のプロイセン王国のフリードリヒ2世は、
ベーメンの富裕な属州シュレージエンの割譲を要求して、オーストリアに攻め
込んだ。 フランス、スペインなどの諸国がプロイセンに味方し、オーストリア
継承戦争が始まった。

当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアは
やむなくフリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアはその後、
シュレージエンの回復をはかって七年戦争を起こしたが、この戦争も1763年に
フリードリヒの勝利に終わった。

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七年戦争終結後、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を
向けた。 発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが彼女の
政策だった。 マリア・テレジアはまた、法律制度を改革し、カトリック教会の
資産を摂取した。 1774年彼女は非宗教的な学校制度を発足させて、オーストリア
市民の全てが教育を受けられるようにした。

1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を数多く閉鎖し、信仰と
表現の自由を広く認めることを宣言した。 彼は更に、オーストリアの諸産業の
近代化に努め、諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、
農民達を領主への義務の多くから解放した。

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