15世紀と16世紀にヨーロッパ各地で生じた経済活動の変化には、社会と宗教の
変化も重なっていた。 それまで何百年に渡って、スイスはじめ他の国々は、
ローマカトリックの忠実な教徒だった。

だが、僧侶の中には、金持ちになって悪いことをし、互いに権力を張り合う
ものが出て来る。 それに対して、他の宗教の指導者達が抗議し、協会の
運営について改革を求めた。 その要求が、宗教改革の始まりとなったのである。

スイス同盟内で宗教の改革を最も熱心に進めたのは、チューリヒ出身の
ツウィングリというカトリックの僧侶である。 ツウィングリは、ドイツと
フランスの改革者と共に、カトリック教会の贅沢な儀式を止め、聖書を信仰の
もとにするより簡素な宗教、つまり、プロテスタントの信仰を目指した。

ツウィングリが唱えたプロテスタントの哲学は、間もなく他のドイツ語圏の
スイス都市に伝わる。 だが、特に農村のカトリック教徒の多くは、この改革は、
自分達の信仰を攻撃するものであると考え、ツウィングリとその運動を恐れた。
スイスは、カトリック教徒とプロテスタントに二分され、両者は戦いによって、
その対立を解決しようとした。

1531年、カトリック派の農村州ウーリ、シュウィーツ、ウンターワルデン、
グラールス、ツーク、アペンツェルが結束して軍隊つくり、チューリヒの
カッペルでツウィングリの一派と戦った。 ツウィングリは戦死するが、
後の和平協定により、スイス人に信仰の自由が認められた。

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ツウィングリの死後、もう一人のプロテスタントの改革者であるフランス人の
カルバンが、自分自身の信仰の教えを更に広めるために、ジュネーヴに移った。
カルバンは、教会と政治は密接な繋がりを持つべきだと考えた。 やがて
ジュネーヴの有力者達は、カルバンにその考えを実践する機会を与えた。

宗教改革に熱心である上に行政の能力もあったカルバンは、ジュネーヴの政治と
宗教を組織し直した。 これによって、市の政策を決定する権利は教会から
独立した市参事会に与えられ、市参事会は、改革された教会の教えに従って市を
統治することになる。

法律の制定にも教会の意見が反映されたので、カードゲームやバックガモン
(すごろくに似たゲーム)、飲酒など、カルバンが罪深いと考えた行為が禁止
された。 カルバンはまた、宗教の学院を創設し、これが後のジュネーヴ大学に
なった。

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