ハプスブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民達は、
領主から強制される過酷な租税と労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ
帝国を構成するドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。
各地に分散したハプスブルグ家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、
トルコからの脅威に絶えずさらされていた。

この頃、ドイツ北部やスイスでは、ルターなどの主張する宗教改革の運動が盛んで、
プロテスタントと呼ばれる新しい宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の
多くは、この運動を教会の領地の財産を我が物とし、教皇の権力から独立する
絶好の機会と考えた。

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こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応終結した。
この和議で、ドイツの諸君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが
認められた。 フェルディナント1世も、オーストリア領内にカトリック教会の
権威を維持することが出来た。

神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール5世は、この和議に不満で、翌年
退位して、スペイン領内の修道院に隠遁した。 ハプスブルグ家の大領土は
これ以後、オーストリア系とスペイン系の2つに分かれることになる。

アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントと
カトリックの対立関係は、尚も続いた。 農民や都市住民、そして、多くの
貴族達は、プロテスタントの教会や大学を支持した。 だが、チロルのような
いくつかの州では、カトリック教会に好意を寄せた。 ハプスブルグ家の人々も、
宗教改革運動を自分達の権威の脅威と考えて、カトリック系の指導者達との
連帯を強めた。

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16世紀末、当時のハプスブルグ家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を
率いてオーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、
フェルディナントは、ベーメン王となった。 しかし、1619年に
フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に選出されると、ベーメンの
プロテスタント達は、別の領内の君主を自分達の王に選んだ。
フェルディナントは、1620年にベーメンの反乱軍を打ち破った。

これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い戦乱が続いた。
ハプスブルグ家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来る
プロテスタント教徒軍と戦った。 戦争末期には、スウェーデン軍が勝利を
おさめ、フェルディナント3世は、紛争から手を引くことになった。
1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの君主達が領邦内の宗教を
選択する権利を再確認した。

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