中華民国から中華人民共和国へと外交関係を切り替える国が増える中、
1980年代は台湾にとって不安定な10年になった。 台湾の指導者の地位に
ついては、1978年から蒋介石の息子、蒋経国が就いていた。 彼は、大陸を
取り戻すよりも、経済発展に力を入れることを選んだ。

1985年には、アメリカの大統領レーガンが、民主化を推進するよう台湾に
働きかけ、これを切っ掛けに台湾では、政治の自由化と民主化が、徐々に
進んで行くこととなった。 1986年には、民主進歩党(民進党)が合法的に
成立、いくつかの野党の活動も合法化された。 民進党は、台湾を独立国家に
することを主張している。

1987年には、38年間に渡って敷かれて来た戒厳令が解除された。 戒厳令は、
戦争などの非常事態の際、軍に特別な権限を与えて厳重に警戒するための
命令である。 歴史上、最も長い戒厳令が解かれて、台湾でもようやく平常時の
社会建設を目指すこととなった。

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1988年はじめに蒋経国が死ぬと、当時、副総統だった李登輝が後継者となった。
台湾人初の中華民国政府の代表の誕生であった。 李登輝は、台湾の人々の
民主化を求める声を受けて、憲法を5回に渡って改定するなど、政治を改革し、
民主化を大きく進めた。 代表的な改革のひとつは、政府の代表である総統と
副総統を直接選挙で選ぶようにしたことである。

そして、1996年3月、その第一回の総統直接選挙が行われた。 これに対して、
中華人民共和国は、台湾を重視する李登輝の政治を非難してミサイルで威嚇する
などしたが、李登輝はかえって多くの人々の支持を受け、初の選挙民が選らんだ
総統として当選した。

一方、李登輝への支持は、李登輝率いる国民党への支持とはならなかった。
汚職や金権政治などの古い体質に、非難が集まったからである。 そして、
2000年3月、第二回の総統直接選挙が行われた。

李登輝は、以前から引退を表明しており、国民党からは、副総統の連戦が出馬した。
野党第一党の民進党からは、まだ49歳の若さの陳水扁が出た。 そしてもうひとり、
大陸出身で元国民党の宋楚揄が有力候補だった。 結果は、陳水扁が宋楚揄に
わずかの差で当選した。 国民党の連戦は惨敗。 50年余り続いた台湾での
国民党政権に終止符が打たれた。

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しかし、国民党は、立法院(国会)では何とか多数派の議席を維持していた。
また、宋楚揄は新政党親民党を作って、新総裁に対抗することになった。
少数政権党を率いる陳水扁は、困難な政権運営を迫られたのである。 更に、
経済が振るわず、陳政権に批判的な中国との緊張し関係も加わった。

だが、民主と台湾重視という政治の流れは変わることはなかった。 2001年12月の
立法院議員選挙では、民進党は議席を大きく伸ばして最多政党となり、国民党は
党2党、次いで親民党となった。

民進党の議席は、過半数までは届かなかったが、選挙の2ヵ月半前に結成された
民進党寄りの台湾団結連盟との連立など、政権は安定への兆しが見えた。
台湾海峡は、日本への重要な輸出入ルートであり、台湾の安定は、日本にも大いに
関係している。

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